村の花畑は、昼下がりの光を受けて静かに揺れていた。
淡い黄色、深い青、赤に近い紫。
風が吹くたび、色とりどりの花が一斉に身を揺らし、甘い香りが空気に溶けていく。
「……きれいだな」
隣を歩く エミリア が、小さくうなずいた。
「ええ。本当に」
二人は並んで、花畑の中を進む。
言葉は少ないが、不思議と沈黙は重くなかった。
ここには戦場も、怒号もない。
剣を抜く理由も、身構える必要もない。
ただ、陽光と風と、花の香りだけがある。
「……こんな場所、久しぶりだ」
彼は足元の花を踏まないよう、慎重に歩きながら言った。
「向こうにいた頃も、こっちに来てからも……
落ち着く暇がなかった」
魔獣。
王都の騒ぎ。
血の匂いと、切迫した判断の連続。
「屋敷の仕事をしている時と……」
一拍、言葉を選ぶ。
「君と一緒にいる時だけだな。
“平和だ”って感じるのは」
エミリアは何も言わず、花畑の奥へと視線を向けた。
午後の光を受けた横顔が、少しだけ赤く見えた気がしたが、
彼は気づかないふりをした。
屋敷へ戻ると、空気が変わっていた。
中庭に停められた竜車。
王都仕様の紋章と、過剰なほど整えられた装飾。
「……来客か」
執事が一礼する。
「王都より、使者の方がお見えです」
屋敷の廊下は、どこか張り詰めていた。
花畑の空気が、遠い。
「エミリア様も、ご同席を」
「使者……?」
「王選に関する件かと」
彼は短く息を吐いた。
「……わかった」
余計なことはしない。
だが、何もしないわけでもない。
中庭に出て、周囲を一瞥する。
視線を上げることはない。
ただ、音と人の配置、風の流れを確認する。
(王都の人間は、“見る目”が多い)
ここは村と違う。
力を見せる場所ではない。
応接間。
紅茶の香りが、緊張を薄く覆っていた。
「どうぞ」
差し出されたカップを受け取り、自分も口をつける。
「……結構なお味ですな」
使者の目が、彼を測るように動いた。
「この茶をもって、何をお求めで?」
「特には」
彼は淡々と答える。
「穏便に済めば、それでいい」
使者は一瞬だけ沈黙し、やがて小さく笑った。
その時、軽やかな足音が響く。
「ただいま、ビル爺」
猫耳の少女が現れ、場の空気がわずかに緩んだ。
「……なるほど」
少女は彼を一度だけ見て、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。
「行こ。王都で会おう」
それだけ言って、去っていった。
王都へ向かう話が出たのは、その直後だった。
「遊びじゃないの」
エミリアは、はっきりとした声で言う。
「わかってる」
「護衛として同行する」
それ以上でも、それ以下でもない。
「王都は……怖い場所だから」
「だからこそだ」
彼はそう答えた。
「剣を抜く場所じゃない。
抜いた瞬間に、負けになる」
エミリアは一瞬、驚いたような顔をしたあと、小さくうなずいた。
王都。
人の波、声、視線。
すべてが、村とは違う密度で押し寄せてくる。
彼は自然な動作で、エミリアの手を取った。
「……?」
「護衛しやすい」
「そういう理由?」
「合理的だろ」
文句は言われなかった。
城の前。
騎士たちの視線が集まる。
「こちらはエミリア様」
形式的な挨拶。
形式的な笑顔。
名を問われることはない。
問われても、答えるつもりはなかった。
エミリアが城内へ入るのを見届け、彼は外で待つ。
「……長くなりそうだな」
その時、視界の端で不自然な動きがあった。
人混みの中。
小さな影。
乱暴な手。
「……またか」
介入は一瞬だった。
声を荒げることも、目立つ動きもない。
気づいた時には、騒ぎは終わっている。
「助かりました」
「気にするな」
それ以上の言葉は交わさない。
夕暮れ。
エミリアが戻ってくる。
「待たせた?」
「いや」
「……色々、あったわ」
「顔を見ればわかる」
彼はそう言って、城を振り返った。
「ここは、花畑じゃない」
「でも……」
「逃げる場所でもない」
エミリアは、ゆっくりとうなずいた。
夜。
宿の窓から、王都の灯りが見える。
(嵐の前だな)
彼はそう判断した。
剣は抜かない。
力も振るわない。
ただ、そばに立つ。
それが今、最も正しい行動だった。