序章 彼と鏡
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実家から持ち込んだ、数少ない礼装の前で彼はスペルを紡いだ。
第一特異点を修復し、第二特異点を探す今、マスターである少年にできることは少ない。新しくサーヴァントを召喚するには手が足りている。なにより一気に召喚しすぎても、彼らを使いこなすことはできないだろう。
サーヴァントたちも、今はマスターの育成に力を入れていた。ウェアウルフやゴブリンを倒せる程度の自衛する力を、と勧められた武術の鍛錬に、神代の魔術師という破格の教師を相手に魔術の修行。戦場を走り抜けた騎士たちからは如何に戦いを有利に運ぶか、撤退を決めるタイミングは、自分たちの使いこなし方は──と、戦術絡みのことを延々詰め込まれている。
ロマニを筆頭とするカルデアのスタッフたちと同じように、一秒一分を惜しみながら少年は自身の成長に心血を注いでいた。できる/やらなければならないことは腐るほどある。学習しては実践、分析しては改善。効率を追い求め、自身の最適化を目指し、アップデートを重ねる傍ら、新しく契約したサーヴァントたちと交流を深める。疲れたな、と思うものの、そんなことを言っている場合ではない。身体からあふれる本音は残らず封殺し、ぐるぐると自分の中で攪拌してごまかした。
そのうえで、これが一番いいと判断した行動を、彼は取り続ける。必要なのだ。世界を救うために。義務を果たすために。生き残るために。「また明日」と、無邪気に、未来を信じるために。
『目を 開けて』
優しい声が脳に響く。ぱちりと少年は青い目を覗かせ、続きの節を唱えた。
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丸い鏡の中の彼女は、にっこりと笑って、少年に手を伸ばした。少女は青ざめた肌をしている。髪は墨のように黒く、燃える唇は炎の赤。生きているものとは思えぬ美しさだった。薔薇色の頬は恋をしているように色づき、鏡越しに二人の手は触れ合う。少年も愛しいものにそっと手を伸ばすように、鏡面を撫でた。それはひと時の逢瀬のようだった。とろけた銀の瞳は熱を秘めていて、視線が絡み合い、確かに二人を繋ぐ。透き通ったその細い手が少年に届くことはない。けれど、鏡の中の彼はそっと彼女の目隠しを受ける。真っ赤な唇が声なき声を紡ぐ。
『それはもちろん あなた』
耳を澄ませる少年は一度頷いた。そして、彼女と瓜二つの笑みを浮かべて、笑う。それはトレースしたような動きだった。視線の動かし方、筋肉を引き絞る感覚、すべてを寄せている。彼女の笑みがそのまま彼の顔で再現されているのだ。少女の顔が、そっくりそのまま少年の顔になったような。少年の中に入っているのが少女であるような。第三者がこれを目撃したら、きっと彼/彼女は得体の知れなさに震えただろう。双子だってこんなにも、同じ表情を浮かべまい。本当は同一人物だと言われても信じられるほどである。
二人を隔てているのはたった一枚の鏡だけ。顔立ち、骨格、違うものはたくさんある。けれど彼らの表情は同一だった。同調していた。それが彼にとって必要なことで、彼女が彼の望みを叶えただけにしても、小さなほころびはいつだって現れる。避けようのないことだった。
彼女の口が静かに動く。整った眉はきゅっと寄せられ、眉間には皺ができている。それでも彼女の美しさは少しも損なわれていなかったが。彼女が憂いを抱いているのはわかる。わかるけれども、少年にはどうしようもないことだった。もう決めてしまったことだから。彼女の赤い唇が動く。空気は震えない。振動は鼓膜を揺らさない。念話が頭に響いた。
『このままだと なくなっちゃうわよ マスター』
「うん……わかってる。もう少し。もう少し、ここに余裕ができたら。みんな精いっぱいだから、まだ、よりかかったりはできない。でも大丈夫。きっとすぐだよ、マリー。ドクターたちも解析、すごく頑張ってくれてるし、特異点の解決も進んでるんだから……。俺は大丈夫。信じて」
鏡の中の少女、魔術礼装マリー・ミラは呆れたようにため息をつく。彼の大丈夫はちっとも信用ならない。そう思っているのがわかっているくせに、彼女の心配とは裏腹に、少年は少し困りがちに(けれどにこやかに)笑うだけだった。その笑顔の下に、いくばくかの疲労が潜んでいる。気付かぬマリー・ミラではない。なにせ、彼女は鏡の礼装だ。鏡に閉じ込められた少女の噂話を元に作られた道具。鏡はいつだって覗く者の姿を映す。そして、真実を突きつけるのだ。白雪姫の魔法の鏡のように。こちらを覗く術者の状態がわからぬほど、彼女はなまくらではなかった。
拗ねたようにつんと唇を尖らせると、彼が困ったようにまなじりを下げる。しかし、「またね」と小さく呟いて、彼は鏡面から消えた。机の上に立てかけてあるマリーに布をかけたのだ。夜の帳が落ちるように、マリーの窓も真っ暗に閉じる。これで世界とマリーを繋ぐものはなくなった。あるのは暗闇だけだ。
衣擦れの気配をかすかに感じながら、マリー・ミラは嘆息する。ああ、誰か、この自己犠牲こそが必要だと思っているマスターの頬を張り倒してはくれないだろうか。そうでないと彼の自我はがりがりと削られて、他人との境界がなくなるぎりぎりまで薄くなっていくばかり。やめてくれと何度も叫びたくなった。けれど、これはマスターがすでに決めたことだ。ただの礼装に過ぎないマリー・ミラに口出しをする隙はない。サーヴァントたち、スタッフたちならあるいは……と思う。なのに、彼らをおもんぱかっての行動がこれなのだ。気付くことができる面々がどれだけいるのか、マリー・ミラにはわからない。
(ばかなひと)
心の中で言葉が荒れ狂う。何度も喉をついて出てこようとする。救世主である前に、あなたは人でしょう。死んでも死んでも増え続け、滅びへの道を立ち止まらない、けれど他のものから与えられる滅びを抗う、試練を乗り越えるものたちの一人でしょう。彼は選ばれたものではない。なにかになれたはずなのに、何者にもなれぬまま最後の一人になってしまったひと。かつて彼と同じように人だったマリーは思う。人ならざるものとなった彼女は考える。
「外」の人たちはまだ彼との距離を測りあぐねているらしい。会って間もないのだから仕方ないことだ。彼らはあまりにも互いを知らない。実際、マリー・ミラも彼女のマスターもそう思っている。マスターは知るための努力を惜しんではいないが、それだけでは足りないのも本当だった。全然だめ、向こうからの歩み寄りが足りないのよとマリー・ミラは爪を噛む。だから彼が、気遣いのつもりで馬鹿な真似を始めてしまうのだ。
マリー・ミラ。鏡の中にいる彼女は今日も憂鬱だ。青ざめた喉は細い吐息を漏らし、悩ましげに目を閉じる。思い浮かべるのは赤ん坊の頃から知っているあの子のこと。大事な大事なマスターが、人のふりをするロボットになってしまわないか。彼女はここに来てからずっと気が気でない。そっとマリーは白い手を組み、空(だと認識しているもの)を見上げる。星のない闇では、なににも祈れない。そもそも、ゴーストとなった自分が神に祈るというのはどうにも滑稽だった。