彼のことを頼もしく思う。優しい人だと思う。そして、自分はきっと、彼が好きなのだと、思う。笑顔を思い浮かべるだけでふわりと胸が温かくなるのだから、これは好きという気持ちのはずだ。
出会ったのはついこの間だというのに、彼と出会ってからは、世界が色を変えていく。写真や液晶で見るよりもずっと色鮮やかに、鮮烈にマシュの網膜にその姿を見せてくる。もっともっとと手を伸ばすマシュは初めて這った赤ん坊のように無防備で、なにも知らないのだろう。蝶を追いかけるようにマシュは草原をかける。風をつかもうと手を伸ばす。青空を見たのだから、今度はソラを反射しているという海を見てみたい。海水は塩辛いって本当ですか、と尋ねるとあの人は目を細めて笑った。
「一緒に海を見たいね」
「はい! 次の特異点が海だったらチャンスはあります! 大航海時代は外せませんから」
「もう次の話? マシュは気が早いなあ」
「そ、そうでしょうか……」
「あはは。下手に気負うよりはいいと思うよ、気にしないで。未来の約束があるほどやる気も出るだろう。……そうだ、指切りでもしようか。海遊びをするっていう」
「指切りと言いますと、遊女が客に愛を伝える証拠に小指を切り落として贈る行為でしょうか。なかなかに物理的に痛く物騒な愛だと思います。まさか先輩も指を切られるので……?」
「いやいや、そんなまさか。小指と小指を絡めて約束したことを確認するだけだよ」
「なるほど! 儀式ですね!」
「あー、うん、それでいいや」
するりと手袋越しに、彼と自分の指が絡む。ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった。熱が小指から離れていく。彼はあどけなく、ふふと笑った。とくりとなにかが胸で息づいた。
炎の中でマシュのことを握ってくれた手は、今もときどき繋がれ、彼がマシュのことを引っ張っていってくれる。「ご覧、マシュ、空が青いよ」と微笑む彼の目は穏やかだ。子を見守る親、妹に笑いかける兄、睦言を囁く恋人。万華鏡のようにくるくる、きらきらと彼はマシュの中で姿を変える。決まってマシュは「はい、先輩」と返すけれど、それにどんな色がついているのかは、自分でもよくわからない。
ただ、この人がきっかけとなって、自分のすべてが変わっていくのだろうという、かすかな確信があった。それは優しくマシュの手を引き、温かいものをくれる。「カルガモの親子のようだ」と眼鏡の毒舌作家には言われているが、先輩のあとをついていけるならカルガモでもいいかもしれないなど、彼女はちょっぴり思っている。
彼のような人間らしい人間に出会ったのが初めてだったから、ここまで彼が気になるのかもしれない。少なくともカルデアにはこういう人材がいなかったのだ。二年以上滞在していたカルデアのことは嫌いではない。スタッフたちはぶっ飛んだ天才とも、稀代の奇人とも言えるが、彼らのことを悪く思ったことはなかった。
ただ、標高6000メートルの山脈に作られた地下工房という性質上、自然物をろくに見ることができないのだけ、不満ではあった。外に出たいと思ったことがどれだけあったことか。少年と初めて会ったときだって、マシュは地上の窓ガラス越しに空を見ていたのだ。吹雪に覆われた白い世界は、好きでもなければ嫌いでもなかった。しかし今は違う。「外」をマシュは歩き、駆け、「外」で呼吸をしている。これがどれだけ素晴らしいことか。奇跡のようだ、とマシュは思う。特に、自分は普通の人間とは違って寿命が設定されている。このグランドオーダーに立ち会わなければ、触れることすら叶わなかったものの中に、マシュはいるのだ。
草の香り、肌を撫でるそよ風、大地を踏みしめる感触、燦々と降り注ぐ陽光の温かさ。なにもかもが新鮮で、五感をフルに活用するということを自分は今まで知らなかったのではないかと思うほど。世界はとても美しく、力強いのだと、旅を経て初めて知った。
一つ目の特異点修正を終え、第二の特異点が見つかるまでの間できるのは、かすかに残っているフランスの地に存在するバグの修正くらいである。終息へ向かうフランスには、まだワイバーンやドラゴン、ウェアウルフなどの残党がはびこっている。より早く人理定礎を定着させるためにはエネミーを排除するのが一番手っ取り早い。修行も兼ねて、カルデアのチームは頻繁にフランスへレイシフトしている。変化が劇的なのはマシュだった。彼女は戦闘経験を積めば積むほど、イメージ通りに身体を動かせるようになっていく。勘を取り戻すような、身体を馴染ませるような……。特異点Fでもわかっていたことだが、自分に足りないのはなにより経験なのだと痛感した。そして、味方のサーヴァントも、オルレアンに挑戦したときより霊格を取り戻し、ずっと強くなっている。──慢心していたのかもしれなかった。
『ショーンくん!!』
「マスター!!」
クー・フーリンとドクターの声にはっとして、振り向いた瞬間にはもう遅かった。ぎらりと輝いた斧が彼へ向かって振り下ろされ、肉が切り裂かれる。サーヴァントの視力は明確に事象を捉え、数秒先の未来を容易に予想させた。カバーリングに入る──だめ、間に合わない。強制的にエネミーのヘイトをこちらに向ける──[[rb: まだ >…… ]]自分にはできない。スタートダッシュが一歩速かったキャスターには追い付くことができず、マシュは顔色を絶望に染めた。先輩、と叫ぶことすらできない。
あ、斧が、彼の細腕に食い込んで──腕が、あ……ああ──!?
ガチンと金属が跳ね返る音がした。次の瞬間には、エネミーの頭が炎で吹き飛んでいた。
……? いま、なにが起きた?
マシュは呆然とする。
「おい! 坊主! ──マスター! 無事か!?」
しかし、慌てたキャスターの叫びですぐに意識は現実に引き戻された。今度こそ駆け出して、マスターの元に向かう。
「先輩! 先輩ッ!」
鎧の振動すらうるさい、鬱陶しい。彼への距離が遠い。盾が邪魔だ。捨てたい。──いや、これを捨てたら、また彼が襲われたとき、身体くらいしか壁になれるものがない。それはダメだ。あの人が悲しむ。呼吸が上手くできない。こんな短距離を全力で走ったくらいで乱れるような身体では、もう、ないのに。
クー・フーリンが彼を抱き起こしている。手の中の杖は赤く発光し、周囲をかすかに歪ませていた。彼の気配も武器と同じくらい剣呑だ。腕に抱かれた少年の、腕が、しとどに赤く、濡れて。マシュは恐怖を感じた。カルデアの中だけが彼女の世界だったとき、感じたことのないような、激情が身体中を走る。彼の状態を認めるほどに心が荒れ狂い、慟哭が喉を焼きそうだ。しかし、少年がやや青ざめた顔でぽつりと呟いた。それを聞いて、マシュは一気に冷静になった。さくりと草を踏む。後ろには陥没した地面があった。
『生きてる!? 生きてるね!? うわっ重傷じゃないか! 早く帰ってきて、治療の準備はしておくからっ! レイシフトの準備!!』
「死ぬかと思った。あとドクター落ち着いてくださいよ」
「……オレも腕の一本はイッたかと思ったわ。いてえだろ、ちょっと待ってろ」
すいすいとクー・フーリンの指が少年の胸をなぞる。淡く光る軌跡はすうっと彼の中に染み込み、光が消える頃、ほうと少年は息をついた。
「ありがと。麻酔?」
「そんな感じだ。いや、しかし派手にやられたなこりゃ……あと半分入ってたら切れてたぞ。嬢ちゃんはこっち来んな。骨が見えてる」
「でも……」
側にいられない方がよほど不安だ。マシュはためらった。クー・フーリンがマシュのためを思って言っているのはわかるが、どくどく脈打つ心臓が彼の近くにいたがる。一歩踏み出すとまた草が鳴った。ゆっくり、静かに、彼の目が、こちらを向く。唇が動いた。吐息が少しだけ漏れる。
「マシュ。見ないで」
「……はい」
「あ、でも帰り運んでくれると助かるなあ」
「! わかりました! 先輩の身体に負担にならないよう、丁重にお運びいたします!」
「うん、頼もしい。クーはなんか布と添木ちょうだい。片手でも応急手当くらいは自分でできるようになったから」
「へいへい。しかしあの攻撃をどうやって弾いた? 硬化でもしたか?」
「あ、やっぱりわかる? 目いいね」
「耳だよ耳。身体斬るつもりであんな金属音はしねえよ」
「あー」
「ほれ布に木」
「わーおセクシー。今めっちゃダイナミックに裂いたね? お願いだから帰るまで霊体化しないでね? 止血できないよ」
「わァってるわァってる」
クー・フーリンはひらひらと手を振った。軽口をたたきながら、少年は器用に自分の片腕に処置を施している。よかった、心理的ダメージは少ないようだ。マシュはほっと息を吐いた。「もういいよ」と言われるのを待ってから近づき、膝裏に手を差し込んで彼を抱き上げた。クー・フーリンが二人を見てくつくつ笑っていたが、マシュにはなにが面白いのかわからなかった。
「素材の回収したー?」
「おー、ばっちり」
『こっちも準備できてるよ。ショーンくんの治療はサンソンくんに任せる、本当はボクができればよかったんだけど』
「気にしないでください」
『うん……ごめんね。じゃ、レイシフト開始!』
腕の中にいる彼は、びっくりするくらい軽い。その命の儚さを思い知らされるようで、マシュは彼を抱え上げる腕に力を込めた。……もっと、強くならなければ。彼が害されることがないように。この人は希望なのだ。マシュが今まで知らなかったこと、無意味だと思っていたことに、意味を与えてくれるような──。人類救済より、彼を失うことの方が怖いのかもしれない。マシュは深く呼吸をした。彼からは日光の匂いがした。