愛は鏡の中   作:鈴近

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シャルル=アンリ・サンソン

 彼を哀れだと思う。悲しいと思う。可哀想で――可愛いと、思う。倒錯した感情に辟易することもあるが、それが正直な感想だった。

 

「まったく、貴方はまたこんな怪我をして。物資のことを心配するならもっと自分を大切にと……」

「はい……ごめんなさい……」

 

 人類最後のマスターだなんて仰々しい肩書を得てしまった、十五過ぎの子供はうなだれた。腕を出せと言ったサンソンの言葉に粛々と従い、添木と布で覆われたそれを晒した。サンソンがてきぱきと彼から固定用の布などを外せば、ぐっしょり濡れた細い腕が眼前に差し出される。本来まっすぐ伸びているはずのそれは不自然にねじ曲がり、白い骨が露出していた。噛みしめた奥歯がぎしりと鳴る。それはみすみす自らのマスターに傷を負わせたシールダーやキャスターへの怒りでもあったし、痛みを感じていないような彼の態度に対する苦々しさでもあった。というか、こんな大怪我をしたらショック死してもおかしくない。腕がちぎれかかっているのだから。

 

「よくここまで歩いてこられましたね」

「え? だって足は無事だし」

「そういう問題ではありません。……応急処置は大変上手にできています。よくできました。今は感覚、ありますか?」

「んー……押されているのはわかる。触覚は働いているみたいだね。クーのルーンもよくわからないなあ……もっと講義増やしてもらおうかな。原初のルーンまではいかないけどないよりまし程度に仕上げたいんだよね」

「自分の心配をしない口はこの口ですか」

「ごめんなさいごめんなさい」

 

 ぎゅっと頬をつねると、痛くないと言った口で彼は「痛い」と目を潤ませる。そんなこと思ってもいないくせに。サンソンは眉を寄せ、嘆息した。

 痛くないはずがないだろうに、魔術によって痛覚を遮断したと言う彼はけろりとしている。いや、いくらかの申し訳なさをその顔にたたえているのだが、それは自分がけがをしたことへの悲しみ、痛みの忌避ではなく、サンソンに手間をかけさせ、カルデア内で限られた医療品を消費すること。どれだけ最短ルートを取ろうが腕が治るまでに時間がかかり、その間自分が役目を果たせないこと。マシュやクー・フーリンに罪悪感を持たせてしまったこと。それらに対する申し訳なさ、だ。サンソンは再び嘆息した。

 本人は腕一本で済んでるんだから全然問題ないとでも言いたげである。目は口よりも雄弁。

サンソンはぐにぐにとこめかみを揉んだ。血圧が上がるようで不愉快だった。人体の構造をしているとはいえ、自分は今魔力で構成されていて、心臓が血液ポンプをしているという仕組みは形骸化している。それなのに怒れば頭に血が上るような錯覚があるし、逆に恐れを感じたら指先などの末端がひやりと冷える。これでは生きているようだ。自分は確かに死んだというのに。それもこれも、目の前にいるマスターがサンソンの感情をガンガン揺り動かすからいけないのだ。がむしゃらに自分にできることを探して、道を突っ走っていく彼は見ていて危なっかしく、痛々しい。

 苛立たしげにサンソンは事前にダ・ヴィンチから手渡された小瓶を取り出した。通常ならマスターの骨折は折れた骨を繋ぎ直すためにボルトを埋めるとか、肉をくっつけるために縫うなどの処置が必要であるし、治療期間とリハビリが必要である。しかし戦時下の現在そんな余裕などない。そこで取り出したのがこの霊薬である。さすがは魔術協会、アトラス院、国連のバックアップがあるだけあって、カルデアでの医療には科学と魔術が導入されていた。治癒魔術のスクロールを使うという意見もあったが、あれは緊急時のレイシフト先でこそ使うべきである。

 瓶を傾けてみると、ぬらりと中身が光った。淡く発光する紫の液体はわずかにとろみがあり、これを人体に突っ込んで大丈夫なのかと疑う気持ちもある。そもそもサンソンは魔術を信頼しきれていないのだ。自分がそういう存在になっていて、生前聞いたら鼻で笑うような戦闘をこなし、どっしゅどっしゅとワイバーンの首を落とし続けても。きゅぽんと蓋を外し、注射器の中に詰めていく。中身が満たされるのを待って、彼の折れた骨を元の位置に直した。違和感がするのか少年がうなる。

 

「筋肉に直接打ちます。力を抜いて」

「はい。……あー、すごく刺さってる。めちゃくちゃ刺さってる」

 

 あー……と虚無に過ぎる彼のうめき声を聞き流す。疲れているんだろうなと向精神薬の処方を検討した。特に新しく召喚したサーヴァントが増えるたび、彼は怒涛の人生レコードを夢に投射されて寝不足に陥っているようだし、夢も見ずに活動時間を迎えられるような睡眠導入剤は出すべきだろう。ロマニへの打診を考えつつ、注射器を押した。全部注入し終わったのを見届けてから、肉と骨が外気に触れないよう包帯を巻きつける。双方無言。包帯のこすれるしゅるしゅるという音だけが部屋に響く。

 サンソンはたいして遠くもない過去に思いを馳せた。初めて彼と出会った日を覚えている。忘れることなどできない。あの日からすでに、彼の核にはひびが入っていて、今も現在進行形でぱきぱきと崩れ続けている。サンソンにできるのは延命だけで、根本的な治療ではない。歯がゆい。また奥歯が軋む。

 聞こえたのか、彼がサンソンの目をじっと覗き込んだ。静かに、サンソンはそれを見つめ返す。誰かがマスターの目は海のようだと言っていた。なるほどとサンソンも頷いたものだ。彼の目は、深海に潜む孤独と似ている。表層に出てきたら生きていけないような、儚いもの。彼には間違いなくそういう性質がある。だから、こんな浅いところに来るべきではなかったのだ。サーヴァントなど、関わり合いにならない方がずっと幸せだろう。魔術はまったくもってまともではない。発展した現代医学にわずかだが触れ、この知識や道具があれば、生前救えなかった患者もあるいはと歯ぎしりしたサンソンである。過去の方が優れているという考えそのものは、到底受け入れることができない。

 出会いを否定するわけではないけれど、こんな世界なら出会わない方がよほど幸せに人生を送れただろうに。憐憫の情は泉のように涸れることを知らぬ。

 シャルル=アンリ・サンソンは初めてこのマスターを見たとき、呆然としたのだ。手に握った斬首剣が床に跳ねなかったのは、ひとえに武器を手放すことを理性が咎めただけに過ぎない。

 

「助けてください助けてくださいお願いします助けて助けてくださいお願いです俺にできることはなんでもします助けてください助けてください助けてください助けてください……どうか……お願いですお願いですお願いですお願いですお願いします……助けてください……」

 

 彼は、召喚サークルの前で、額を床にこすりつけ、延々と懇願していた。異様な光景だ。ぞっとした。とんでもないところに呼ばれてしまったのでは、と思ったのはマスターらしき人物を観察してからである。

 見れば幼い子供。未発達な手は二次性徴もまだのような小ささ、肩幅は頼りない。英霊へ求めているだろう助けは声変わりを迎えているかも怪しい。幼いを通り越して、弱いという印象を受ける。ただ、吐き出される言葉と思いはぐらぐらとサンソンを揺さぶった。

 サンソンが名乗りを上げてようやく、子供は顔を上げた。

 

「ああ――――来てくれて、ありがとう」

 

 くしゃりと。今にも泣きそうな顔をして、絞り出すように、彼は言った。その言葉に嘘の一つもないことが、余計サンソンの顔を固くする。

 あまりにも悲痛。あまりにも悲愴。

 なんて、哀れな。……主はなぜ斯様な子供に試練を与えるのだ?

 

「サンソン?」

 

 真綿のような声にはっとした。治療は完璧に済んでいる。サンソンは、なぜか彼の手を握って祈るように額に当てていた。マスターが困惑しているのがわかる。詰めていた息をそっと吐き、「失礼しました」と手を離した。

 

「……痛いなら痛いと言いなさい」

「えっ」

「いいから聞く。それは人間として当たり前のことだ。誰も貴方を責めはしない。いや、責めるものがいるなら僕が刑を執行します。これぞ円満解決。霊核そのものは厳重に保管されているのですし、一回や二回死んだところでまったく問題ないでしょう」

「えっ、えっ? ……あるよ!? 問題あるよ!? そっちの方がリソースを消費するのでは!?」

「どこがです? 多少の無駄には目をつぶっていただきましょう。僕の患者を追いつめるものなど万死に値します。ついさっき言いましたよね、もっと自分を大切にしろと。貴方は自分がどれだけ替えの利かない存在か自覚すべきだ。カルデアで召喚された今回だけとはいえ、我々に根本的な消滅はないに等しい」

「まあ本体っていうか霊核はばっちり厳重保管してあるしね」

「ええ。ですが貴方は違う。死ねば終わりです。医者として、貴方のサーヴァントとして、精神肉体共に健康を保ち、貴方の首/命を守ることは当然の義務。おわかりいただけますか?」

 

 嘆息し、左手で口を覆う。軽く顔をそむけると、ますます少年は困ったように眉を下げていた。どう返事をしたものか言いあぐねている顔だ。それを流し目で見やる。そのまま、ぽつりと、飾り気のない声が落ちてきた。

 

「ああ、こう言った方がいいか。『心配だからやめてください』」

「……心にもないことを……」

 

 すっと、その青い目が凍り付くのを見た。ちっと舌打ちをしたくなる。冷めた目で嗤う子供に、今度こそサンソンの顔に青筋が浮いた。このクソガキ。ぐらりと腹は煮え、頭は熱したヤカンのようにシュウシュウ湯気を立てている。思考の中をあらん限りの罵詈雑言が駆け巡る。唸るように、サンソンの口の中でとどまった半端な言葉たちが生まれぬままに死んでいく。この瞬間、目の前の彼はマスターではなく、サンソンの言葉をまっすぐ受け止めてくれない困った患者でしかなかった。ガンッと椅子を蹴倒して立ち上がる。喉がひりひりと焼けるように痛い。どくどくと頭の血管が脈打つのを感じる。

 怒っているのだ。僕は今、怒っているのだ。怒れば怒るほど、悲しみは増幅し、目の前の子供が冷たく凍っていくようだった。

 

「なぜ心にもないと決めつけるのですか……! 僕の気持ちも知らないで!」

「ごめんて」

「最近態度が雑じゃあありませんか。……ですがこう言わなければ貴方は止まってくれないでしょう。困った患者(マスター)だ」

「それに関してはとても申し訳なく思っております。ごめんなさい」

 

 ぺこっと居住まいを正した彼がきっかり45度頭を下げる。サンソンはがりがりとあらわなうなじをひっかいた。全然わかっていない。わかっていても改める気がないなら意味がない。自分の言葉は虚空に溶けるばかりでなにひとつ彼には届いていないのか? 悲しくなる。

 

「僕は、そんな言葉を聞きたいんじゃなくて」

 

 なにを聞きたいというのだろう。わからない。ただ、これじゃない。ぐっと唇を噛んで俯いた。音もなく立ち上がった彼の手が伸びてくる。頭一つ分小さい彼の、最近になってタコや傷ができ始めた――それでもまだきれいな手のひらが、うつむく自分の顔をすくいあげるように、頬を包み込んだ。じわりと体温と一緒に魔力が移ってくる。

 

「足りています。いりません」

「あげたかったから。だめ?」

「………………。貴方という人は、どうしてそうひどく、ずるくあれるのですか」

 

 眩暈を感じた。じくりじくりと胸が、かきむしりたいくらい痛む。「ひどいひとだ」かすれた声が出る。老人のようにしおれた声だった。それにすら疲れを覚え、そのまま目を閉じる。繊細な動きで染みわたる魔力はぬるま湯のようだった。

 本当の意味で彼が内側まで領域を許している存在はこの施設の中にいるのだろうか。大真面目に疑わしく思う。……自分は、彼の一生のうちほんの少ししか側にいられない。普通の聖杯戦争に比べれば長いこと彼の成長を見守れるだろうが、現在進行形で壊れていく子供になにをしてやれるだろう。彼になにを残せるだろう。

 ああ、せめて、哀れな救世主の最期を看取れたら。――――神がこの子を救わないのなら、自分は希望を見せてやりたい。

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