愛は鏡の中   作:鈴近

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ハンス・クリスチャン・アンデルセン

 ぱちりと閉じていたまぶたが開く。青い目は猫のように闇に浮かび上がっていたが、彼はそれを自覚していない。見えないのだから当然である。鏡があれば話は別だが、もう夜も深い。マリー・ミラは省エネモードになって寝ているだろう。ちらりと鏡がある場所を見やって、少年はうーんと伸びをした。ふわあとあくびが出る。腕を伸ばすと少しだけ皮膚が引きつるようだったが、特に問題は感じない。二日前にちぎれそうになった腕はもうしっかりくっついていた。

 マシュとクー・フーリンには悪いことしちゃったなあと、少年はおとといを思い出しながらまばたきをした。デジタル時計を見たところ、今は二時らしい。早寝したせいか変な時間に起きてしまったようだ。足元を非常灯がぼおっと照らしている。少し考えてから、少年はベッドを降りて、寝巻のまま普段履いている靴ではなく、サンダルをつっかけた。疲れは取れているし、寝直す気分ではない。ならば散歩でもして時間を潰すのがいいだろう。そういう考えだった。

 オレンジの非常灯が低いところを照らすのを見ながら、ふらふらと彼はカルデアの中をさまよった。誰も起きていない。当然か、と少年は思い直す。体内時計を正常に保つためにも、夜勤ローテを組んでいる職員以外は寝ているはずだ。ロマニも寝ていたらいいなあと思う。現状所長代理を務める彼が誰よりもカルデア内のことをすることができて、彼自身もやらなければならないと思っているようだが、人間は休まないとパフォーマンスが落ちる。英霊のダ・ヴィンチちゃんのように八面六臂の大活躍をガンガンできる方がおかしいのだ。比較対象にしてはいけない。

 管制室に行けば誰かいるだろうが、仕事の邪魔をするのは本意ではないし、なにより人に会いたいわけでもなかった。ふらふらと、かどわかされるように、特に目的もなく少年は歩く。窓には全部ブラインドがかかっていて、外の景色は見えない。まだ外は燃えているだろうか。燃えているのだろうな。立ち止まって、彼は窓の外を想像した。一面の赤、煙の黒、青さが失われた空。明確にカルデアの外を見たことはないのだが、あるとしても冬木と同じ光景か、一面の暗闇だろう。暗闇の方がいい、と再び歩き出しながら少年は思った。炎の光が強すぎて星の一つも見えないのは嫌だ。滅ぼされたのは人類だけなのだし、宇宙と惑星はしっかり現存していると思うのだが、実際どうなのだろう。星図は彼が願えば少しだけ先の、不安定な未来や、これまであった過去を教えてくれる。星はいつも歌っているのだ。人間がいなくなったところで、それは変わりようがない。地球が死んだって他の星まで滅びるわけではないのだから。

 

(根源とか英霊の座って、宇宙の外にあるんだっけ。スケールでかい。やっぱり魔術師は頭がやばい)

 

 魔術師としてのプライドがあるなら口が裂けても言わないだろうことを考えながら、歩く、歩く。ふと、彼は顔を上げた。どこまで来たかと思ったが、書庫の前らしい。蛍光灯の白い光が漏れている。誰かいるのだろうか? ぱちぱちと瞬きをして、彼は中に入った。

 

「先生? まだ原稿してるのかい?」

「……なんだお前か。ちょうどいい、茶かコーヒーを淹れてくれ」

「はいはい」

 

 本棚の林をくぐり抜けて開けたスペースまで行くと、本をたけのこのように積み上げた子供がいた。白衣を纏った青い髪の彼は、ヘッドホンを外しながら面倒そうに少年を見る。少年は肩を竦め、ポットとカップに手を伸ばした。「子供は寝る時間のはずだが?」と、嫌味たっぷりに、外見に見合わぬバリトンボイスで毒を飛ばしてくる。くつくつと少年は笑った。

 

「草木も眠る丑三つ時に活字に浸かってる人に言われたくないなあ」

「仕事がなければ俺とて眠る。仕事がなければ。俺の夜更かしを嘆くなら、俺に仕事を要求するお前が悪い」

「それもそうだね。はいコーヒー。ミルクと砂糖はいらないんだろ?」

「餓鬼扱いするな」

 

 差し出したコーヒーカップはすぐにひったくられ、小さなアンデルセンがブラックコーヒーをぐいっと煽る。いい飲みっぷりだ。酒でも飲んでいるようだが。なんだか面白くなってまた笑った。すると、青くて丸い目がこちらをじっとり見つめてくるではないか。視線はどこか刺々しい。敵意などはないのだが、なんというか……見透かされるような? 少年は首をかしげた。チッと小さな口からガラの悪い舌打ちが飛ぶ。

 

「……おい、いつまでその振る舞いを続ける気だ」

「その振る舞いって?」

「下手な嘘はいい。化粧が取れているぞ、道化め」

「えっ……道化はひどくない……?」

 

 ガタガタと椅子を引っ張ってきて、「人類最後のマスター」はアンデルセンの向かいに座る。普通に座るのではなく、背もたれを前にして足を広げ、両肘をついているのはたいそう行儀が悪かったが、ここにマスターを咎めるような世話好きのサーヴァントはいない。二人きりである。アンデルセンは面倒そうにタブレットから顔を上げた。ブルーライトカット加工が施された眼鏡が光を反射し、蛍光灯が一瞬青く光る。彼の青すぎる目は心底不思議そうにアンデルセンを見ていた。ついでに言うとあざとく小首をかしげている。

 

「円滑な関係を作ろうと思ってやってたけど……そんなにダメ? 鏡使って強めに自己暗示かけただけだよ?」

 

 アンデルセンは大きく嘆息した。肺が空になるほど息を吐いた。馬鹿にしているのは伝わっているらしい。不満げに、「えー」と唇を尖らせている。この子供は、アンデルセンやサンソンといった、少なからず内側に踏み込ませているサーヴァントを前にすると、ことさら幼くなる。年相応かそれ以下で振る舞えるのが自分たちの前くらいしかないのだろう。哀れな。アンデルセンはレンズの奥の目を細める。そして、彼の行いをこき下ろすための言葉を舌に乗せた。

 

「やりすぎだ。そもそもそんなものを! 強めに! かけるな! お前本来の面白さが薄れる!」

「ちょっとどういう意味」

「……。他人の理想を体現し続けるとどうなると思う?」

「わかりやすく逸らしたね」

「いや聞いたところで無駄だったな、答えなくていい。わざわざ緩慢な自殺をしていたマゾヒストだった。よーく耳をかっぽじって聞くがいい。お前がお前でなくなるのさ。誰でもない誰か。顔のないピクトグラム。アイデンティティの崩壊。無辜の怪物に成り下がる気か。俺のマスターは人間のはずなんだがな? おっと頭に救いようのない馬鹿がつくときた。しかしどれだけ馬鹿だろうと、間違っても人形ではないし、血と肉が詰まった袋でもないだろう。我欲、自我をどこにやった? 今すぐにでも探しに行け。それはそれでネタになる」

 

 心外だ、と言うように、ぱちくりと瞬いたあと彼は目を細めた。

 

「自我ならあるよ。自己主張控えめにしているだけさ。嘘だってついていない」

「そうか」

「そうだよ」

「……ヴァカめ!! それで納得すると思うなよ! おかしなことかだと? おかしい! はっきり言ってやる! もっと主張しろ。自他との境界を削り続けるお前は見るに耐えん。元から少ない人間性がなくなるぞ。アンドロイドにでもなる気か? なにより原稿が進まん! 早急に治せ!」

「マリーとおんなじこと言う」

「百合の王妃はここにはいないだろう。……あの処刑人兼医者に付き合って幻覚を見るようになったか? 哀れな……」

「サンソンがそっちのマリーに心酔してるのは『らしい』ってことしか知らないから面白いリアクションはできないよ。そっちじゃなくて、俺が持ち込んだ礼装。鏡だよ。今度会わせようか」

「なに? ……ああ、『使っていた』やつか。待て、会わせるだと? 自律行動可能なブツか?」

「おおざっぱに言うと白雪姫の鏡」

「なるほど把握した。それはネタになりそうだ、早く見せろ」

「朝になったらね。ところで原稿ってなんの? 人魚姫の続きとは関係なくない……?」

「お前の物語以外になにがある? 珍しく察しが悪いな。ボケたか? ……チッ忌々しい。凡俗汎用型主人公の冒険譚にしようと思っていたがなしだ。全部書き直し。お前のそれは愚者の行進/聖者の葬列だ。まったく、此度のマスターは取り繕うのが達者で困る。もっと我を出せ、我を。言葉とお前に真摯でなければお前のための物語など書けん」

 

 そもそもだ、とアンデルセンは腕を組んでふんぞり返った。浮かぶのはニヒルな笑み。

 

「貴様のような大馬鹿者を書き留めずにどうしろというのだ? いいからネタを出せ。Hurry, hurry, hurry!」

「ドクターの漫画読んだ?」

「なかなか面白かった」

「そりゃいい」

 

 けらりと子供は子供らしく笑った。

 

 

◆◇◆

 

 

 剥き出しのあいつを見破れる英霊はどれだけいるだろう。思い浮かぶのは、虚飾を見抜く目を持つ施しの英雄。自分のような人間観察、あるいは観測する力に特化した作家英霊。

 人間見たいものしか見ない。世界最後のマスターとなった彼は、これからもたくさんの影を重ねられるだろう。分霊の記録を思い起こすほど染みついたかつてのマスターや、彼らが愛したモノ、憧れたモノなどが、好意と共に彼を襲うだろう。そして、彼はそれを受け入れる。馬鹿なことにそれが「いいこと」だと思っているのだから。そうでもなければ他人の理想を体現しようなどとは思うまい。

 

「俺が魔性菩薩をあの異常で凡庸な理性的狂人に重ねたら世も末だな。今が末だが」

 

 作家は深いため息をつき、眼鏡を外して目頭を揉んだ。




これにておしまい。他の首塚菖蒲シリーズを投げるかは未定です。感想や評価を頂けると励みになります。

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