でもなんだろうな。誰かこのふじのん止めてやってくんないかな?
其処は暗く、底は
果てのない
そこには音も光もない。ただ静寂があるだけ。
いや、なにも「ない」から、静寂だとか、闇だとか思ってしまうだけで、形容する事さえ意味がない。
根源の渦――或いは「 」と表現すれば良いのか。
死を知覚して、死を視ようとしたから、死に近づいたのか。
「 」ではすべてが意味をなさない。
なら、意味を持ってしまっている自分は異物でしかない。個という存在で抗うには「 」は余りにも強大すぎる。
当たり前だ。世界の始まり、そして終わり。理そのものに抗う事など、一個人の人間に出来るはずもないのだから。
だから自分も、「 」では無意味なものとして意味をなくしていく。
それは死と同義だ。存在の消失。無意味なものとしての定義。
死が、すべてを包み込んでいく。
とても穏やかで、満ち足りていく。
すべてに身を任せて、融けてしまいそうだ。
何処までが自分で、何処からが自分なのかわからない。自己の境界が曖昧になっていく。
心地良さが全身を包み込んでいく。此処は死の終焉であり、生の始発点。心地良さを感じるのは当たり前なのかもしれない。
でも、本当に、それで良いのか……?
「 」に融けようとしていた自己が急激に個としての形を取り戻す。
そうだ、自分にはやるべき事が、果たすべき事がまだ残っている。
だから、帰らないと。きっと、待っているから。
死から生への反転。死へと向かっていた自らを生へと転向させる。
生へと向けられた意識は、魂に紐づけされている肉体へと還っていく。
◇◇◇◇◇
織姫さんが病院で眠り続けていても、わたしは橙子さんの事務所で生活をしていた。
学校へはとても行ける状態でもなかった。落ち着いてしまうと、今度は何故という疑問が湧いてくる。
何故織姫さんが傷つけられなければならないのかと。
ただ夜道を歩いていたから? どうして織姫さんは夜に出歩いていたのだろうか。
考えてもわからない。考えてしまうと、とてもイラついた。それが怒りだとわたしは知っている。でもそれだけじゃない。織姫さんを傷つけた相手に対する怒りは、憎しみというものだった。
この感情をぶつけてしまえるのなら良かった。でもそれは、きっとわたしは、その時加減なんて出来なくて、織姫さんを傷つけた相手を殺してしまうだろう。
その時は、織姫さんも死ななければならない。それが約束であるから。わたしがこの能力を制御出来ずに人を殺してしまったとき、織姫さんは責任を取って、わたしを殺して自分も死ぬと。
本当に織姫さんはひどい人です。これでは、わたしは織姫さんの為に復讐することも出来ない。
まるでこうなることがわかっていたかのような手際の良さ。
わたしには、織姫さんを殺せない。だから、わたしは我慢するしかない。
毎日毎日、織姫さんのお見舞いに行った。でも、織姫さんは眠ったままで。
毎日、朝から夕方まで、わたしは織姫さんの病室で、織姫さんの目覚めを待っていた。
「本当に、それで良いの…?」
「霧絵さん……」
織姫さんの目覚めを待っているのは、わたしだけではなかった。
「今のあなた、私よりも死人の顔になってるわ」
死人……。そうだろう。だって、浅上藤乃は境織姫に殺され、生かされている人間なのだから。
織姫さんが死んだように眠り続けてしまっているのなら、浅上藤乃にとって今の生活は死んでいるのも同然なのだから。
「起きた時にそれを知ったら、彼は悲しむでしょうね」
「あなたに、何がわかるんですか……」
浅上藤乃にとって境織姫という人間は他人ではない。自らを構成する1つなのだ。それが欠けてしまっているのなら、正常ではいられない。
こうして毎日朝から夕方まで、織姫さんがそこに居るのだと見ていなければ、自分さえ保てない。
「わからないわ。私はあなたではないもの。でも、このままじゃダメよ。あなたまで死に魅入られたら、彼が帰って来れなくなってしまうから」
「死に、魅入られる……」
死んだように眠っている織姫さん。いつ目覚めるかもわからなくて、或いはこのまま目覚めることもないのかもしれない。日に日に増すその不安が、わたしを死に誘う。
織姫さんと居られない世界なんて生きている意味なんてない。わたしを殺して自分も死ぬと言ってくれた織姫さんなら、わたしと一緒に死んでくれるだろう。
方法は簡単だ。眼鏡を外して、織姫さんを壊して、わたしも壊れれば良い。
そんな誘惑を、霧絵さんは見抜いているというのか。
「私も、どうして生きているのかって、毎日思ってた。今日、眠ってしまえば、明日目覚められるのか毎日不安だった。最も死に近かったから解るの。今のあなたは死に魅入られている。でも、生きていれば、いつか幸せはやって来るかもしれない。生きていても辛いことばかりで、終わらせる事の方が簡単だけれど、それでも生きていたいと思った。だって、生きていたから、彼やあなたと逢えたんだもの」
「霧絵さん……」
どれ程辛いことがあったのか、わたしにはわからない。
高校生の頃に入院して、病気に身体をボロボロにされて、家族まで失って、辛くて堪らないはずなのに。
強い人だと、わたしは思った。
「もしあなたが、彼を連れていくというのなら、私が立ち塞がる。だって私は、まだ生きていたいから。私を生への執着に駆り立てた彼に責任を取って貰うつもりだから。こんな寂しい場所じゃない。温かくて、お日様の当たる、青い空と、緑色が一面に広がる何処かで、彼に私を看取って貰うの」
霧絵さんの語るそれは、自らの終わりの夢。いつ終わるともわからない自分の命を見据えているからこそ、その終わりを夢として語れるのだ。
「わたしだって、生きていたいです。織姫さんと一緒に。わたしの命は、織姫さんがくれたものだから」
織姫さんが藤乃を見つけてくれたから、愛してくれたから、藤乃は普通に生きられる命を貰うことが出来たから。
「なら、死ぬのはダメよ。あなたは生きていかないとならない。彼もそれを望んでいるだろうし、私も、お友達を亡くしたくはないわ。あなたは、私の夢みたいなものだから」
「わたしが、霧絵さんの?」
そう言った霧絵さんは、先程とはまた違う顔を浮かべていた。どこか羨ましそうに、悔しそうに、それでいてそこには悲しさは何処にもない晴れやかさすらあった。
「普通に学校に通って、普通に友達を作って、普通に恋をして、そんな普通に生きていく私の夢。……もう、私にはそれは叶えられない夢。でも、あなたはまだ叶えられる夢」
「わたしは……」
わたしだって、普通じゃない。普通に生きている様に見せていただけだ。
でも今は、普通に生きられる。生きることの出来る生を貰ったから。
「だから生きて欲しいの。彼だって、きっとそう言うわ。私も、そう思っているから」
眠ったままの織姫さん。病院から出れない霧絵さん。
それはズルい。卑怯だ。ひどい人たちだ。
普通に過ごせない自分達に代わって、普通に過ごして欲しい。そう言ってくるのだから。
でも、それも、悪くはない様に思える。
生きてさえいれば、いつかは織姫さんも目覚めてくれるかもしれない。明日か、明後日か、それとも来年か、もっと先か。
わからないけれど、目覚めた織姫さんを悲しませない様に、わたしは生きる義務があったのだ。織姫さんから普通に生きられる人生を貰った藤乃には。
織姫さんの眠っている時間を、わたしが代わりに生きて行く。こんな簡単な事を考えられない程、わたしは参ってしまっていたのだろう。霧絵さんの言う通り、死に魅入られてしまっていたのだろう。
でも、もう大丈夫。
そうだ。どうしてもっと早く気づかなかったのだろうか。
わたしの、藤乃の命は、織姫さんの中にも息づいている。藤乃の血を分けた織姫さん。なら、藤乃は織姫さんになったのと同じこと、藤乃が生きていれば織姫さんも生きている事になる。だから、藤乃が生きることにも意味はある。
命を分けた藤乃と、生をくれた織姫さん。
やっぱりわたしは、わたしたちは、互いになくてはならない存在だった。
塞ぎ込んでいる暇などなかった。織姫さんが普通に生きられない分、わたしが、藤乃が、変わりに生きて行かなければ、本当に織姫さんは死んでしまう。
織姫さんは藤乃の人生に責任を持つと言った。なら、藤乃も織姫さんの人生に責任を持とう。
「……ありがとうございます、霧絵さん。わたし、間違っていました」
今までの遅れを取り戻す為に暫くは顔を出せないだろう。でも不安はない、藤乃は独りではないのだから。
「ちょっと頑張ってきます。だから、織姫さんをお願いします」
「良いの…? 私が彼を連れて行ってしまうわよ?」
「良いんです。だって、霧絵さんも、わたしのお友達ですから」
もし霧絵さんがその終末を望むのなら、わたしもその中に加えてもらおう。お友達の最後を看取ることが出来ないのも、とても悲しい事だから。
「あなたは強い娘ね。私なんか足元にも及ばない」
「そうでもないです。もしそう見えるのなら、それは織姫さんがくれたものだと思います」
そう。もし織姫さんと出逢えていなければ、今のわたしは、藤乃は此処には居ない。此処に居る藤乃を強いと霧絵さんが言うのなら、それは織姫さんがくれた強さだ。
「そうね。だからやっぱり、彼には責任を取って貰わないとダメね」
霧絵さんは微笑んでいた。わたしも、きっと同じ。
わたしたちは似ているのだ。自分で生きている実感が感じられないから、誰かに自分を見つけて欲しかったのだ。
それを見つけてくれたのが、織姫さんだった。
気を持ち直したわたしは休んでいた分の勉強を頑張った。高校は橙子さんのツテのある礼園女学院へ通うことにした。塞ぎ込んでいる最中に受験が終わってしまっていたからだ。
頑張って、頑張って、頑張りすぎて、体調を崩してしまったときに新しいお友達が出来た。
まさかそのお友達のお兄さんが、先輩だとは思わなかった。
織姫さんと霧絵さんのお見舞いに、そしてわたし自身も能力の扱いを覚える為に、全寮制の礼園では例外的に週一で外出している。
先輩と出会ったのも、ちょうどわたしが橙子さんの事務所に行く時だった。
「先輩……?」
「あ、藤乃ちゃん。こんにちは、奇遇だね」
「こんにちは」
先輩とは、実は病院で再会していた。織姫さんの病室の隣に、先輩のお友達だったシキさんも入院していた。
織姫さんと同じく、ずっと眠ったままで。
そんな奇妙な共通点からか、わたしたちがお友達になるのはそんなに難しいことではなかった。
「どうかしたんですか?」
「うん。ちょっと行きたいところがあって。この辺りのはずなんだけどね」
そういう先輩が手にする地図には間違いなく橙子さんの事務所の場所が書かれている。
「……橙子さんに、ご用が?」
「藤乃ちゃん、ここの人の事を知ってるの?」
「はい。お世話になっている人ですから」
でも橙子さんの事務所は人避けの結界というもので、用事のない人は入れない様になっていると教えられた。
遠目から見ていたけれど、先輩は橙子さんの事務所の前を行ったり来たりしては首を傾げていた。
場所はわかっているのに入れない。それは先輩が橙子さんに用事のない人であると見なされているからなのだろうか。
しかし声を掛けてしまった手前、放っておくことも出来ない。何より先輩には助けて貰った借りがある。
橙子さんに怒られるかもしれないけれど、それを承知で、わたしは先輩を橙子さんの事務所に案内した。
そして先輩は橙子さんに働かせてくれと頼み込んで、橙子さんの事務所で働くことになった。
その為に進学した大学も辞めるのに親と大喧嘩したと、先輩の妹さんにしてわたしの新しいお友達の鮮花から聞いた。
人が良くて優しい人。それでいて真っ直ぐな事にはとことん真っ直ぐなところまで、先輩は織姫さんに似ていた。
先輩を放っておけなかったのも、そんなところに織姫さんを重ねてしまったからだろう。
ちなみに橙子さんからのお咎めはなかった。
織姫さんのお見舞いの行きが先輩と一緒なら、帰りも一緒だった。
橙子さんの事務所に帰ったところで、橙子さんが先輩に話を振った。
話を聞くところ、二年前に交通事故に遭った先輩のお友達のシキさんはその後昏睡状態に陥り、生きてこそいるものの目覚める見込みはとても低い、と言われたらしい。
それでも一年、二年とお見舞いを続けている内に様子がおかしい事に気づき始めた。
彼女の成長が止まっている様に変わることがない。
生きているのに成長が止まっている。
全く同じことを、わたしは知っている。それは織姫さんに起きている出来事とまるで同じだった。
「成る程。成長しない生物は死んでいるものなんだがね。いや、時間というものは死人にさえ影響を及ぼす。死者も腐敗という時間の影響を受けて土に還る様にな。動くクセに成長しないなんていうのは、それこそ人形か何かだ。いや、人形にしても経年劣化という時間の軛から逃れることは出来ないか」
「でも、本当なんです。彼女はあれから歳を取っている様に見えない。式の様な原因不明の昏睡状態って、他に例はないんですか?」
「あるぞ。お前の隣に居る藤乃の知り合いにな」
「え!?」
橙子さんの言葉に、先輩は驚きながらわたしを見た。
「もしかして、織姫くんも、そうなのかい…?」
「はい。ごめんなさい。こんなこと、普通じゃないですから。黙っていて」
あまりにも普通で、普通を体現する先輩には織姫さんのその異常は話せなかった。話す必要はなかったし、話す切っ掛けもなかったともいう。互いにそんな普通でない事を軽々しく口に出来る様な常識知らずでもなかったのもあるのかもしれない。
「なんだ、織姫とも知り合いだったのか」
「はい。二年前に体育祭で。知り合ったと言うより一言二言会話しただけですが」
二年前。体育祭のあの日を思い出す。確かに少しだけ先輩と織姫さんは会話を交わした。でもそれくらいで、あとは遠目に見た限りだ。
「……この場合、偶然、と言ってしまえるのなら楽なんだがな」
「え?」
「いや、こっちの話だ。取り敢えず話してみろ。どんな人間だったのか知らないと、返答のしようもないだろう?」
きっと橙子さんは、少なくとも織姫さんについては何かを知っている様な素振りだった。
もどかしい。やっぱりわたしは、織姫さんについて知らないことがまだまだ多かった。
先輩が語り始めたシキさんの事。それは二年前にも聞いた事のある話のより深い内容だった。
両儀式という友人の性格と、その特異な人格の在り方。
高校時代のクラスメイト。
入学する前から縁があったその彼女と同じクラスとなって友人となった。あまり友人を作りたがらない彼女と親しくしていたのは先輩だけだった。
そして二年前に起きた通り魔事件以後、彼女に訪れる変化。
二重人格である事を打ち明け、自分を人殺しだと言うようになったこと。
それがどんな意味だったのか先輩にはわかることもなく、彼女は先輩の前で事故に遭った。
すべてを話しきっている感じでもなく、それでも人となりを憶測するには充分だった。
そして先輩のお友達のシキさんは、やっぱり織姫さんと、驚くほどに似通っていた。
「以上が僕と式の顛末です。もう、二年も前の話ですけど」
「――成る程。全く、出来すぎにも程があるな。ところで黒桐、その子の名前はどう書くんだ? 漢字で一文字だろう?」
「数式の「式」ですけど、それが何か?」
「「式」ね。名字は両儀か。織姫のやつ、だとしたらアイツも危ない橋を渡ったな。なんだコレは…」
煙草を灰皿に押しつけると、橙子さんは立ち上がった。どこか怒っている様子で。
「病院は郊外だったな。興味が湧いたから、少しだけ様子を見てくる」
「あ、橙子さん…!」
先輩の声も聞かずに橙子さんは事務所を出ていってしまった。
「どうかしたのかな。なんだか怒っていた様に見えたけど」
「わたしにも、なにがなんだか」
でも橙子さんは何かに気づいた様子だった。きっとそれはわたしには無くて、橙子さんと織姫さんに共通している魔術に関係しているのかもしれない。
そして数日後、織姫さんは目を覚ました……。
to be continued…