目を覚ました彼は、私の知っている彼ではなくなっていた。
あの人の言っていた通りだった。
父の友人であり、私の担当医でもあったあの人は、彼の担当医でもあった。だからあの人から彼の容態を聞くようになった。
本当は毎日彼の容態を確認して傍に寄り添っていたかった。でも私の身体はそれを許してくれるほど丈夫でもない。自身を蝕むこの病が怨めしい。
生に縋り付くようになってから再び感じるようになった己の病への怨嗟は募るばかりだった。
そんなある時、私は視力を失った代わりにもうひとつの視界を得た。でも結局はこの病院の周りが見えるだけだった。
そんな私に自由に動ける身体をあの人が与えてくれた。それからは毎日彼の病室で、彼の目覚めを待つことも苦にならなくなった。
起きているよりも眠っている時間の方が長くなる。もうひとつの身体を動かすには意識をそっちへと集中するからだ。
そんな生活が続いたある日、あの人から彼が目を覚ましても以前の彼ではなくなっているだろうと教えられた。
彼が遠いところに行ってしまっているから、空の果てへと行ってしまったからだとあの人は言った。
象徴的な言い回しは、その言葉の真意を読み取る事は私には適わなかった。
どうすれば彼が戻ってくるのか訊いてみた。連れ戻せるかはわからない。ただ、彼が居る場所は空の果て、この世の終わりであり始まりの場所。そこへは簡単にはたどり着けないと言われた。
それでも彼を連れ戻せるのならと、私はあの人と契約した。
果てのない空を目指して、私は
そう。私の還る場所は彼のもと。彼の居ない場所に、意味なんてない。彼が居なければ、私は自分の生に執着なんて持てない。
彼のお陰で、私は明日を生きたいと思える様になった。明日の目覚めを願う様になった。残り少ない自らの時間。その時間の中に彼に居て欲しかった。私が生きて居たという記憶を刻んで欲しかった。でも、その彼が居ないのなら……。
この空の果てを、何処までも
彼を見つけるために。
撫でつける死すら私の行く手は阻めない。
死は、私にとって最も身近なものだったから。
だから死に囚われない。飛んでいる私を、死は捕まえる事は出来ない。だって私は浮いているから。
死から浮かれ、そして生からも浮かぶ私は空虚の中でも死にもしなければ生きてもいない。
生きながら死んでいる。死にながら生きている。
半死半生という言葉には当て嵌まらない、生と死の両方から私は浮いているから。
虚無──だから私はこの死が渦巻く空虚な場所でも存在出来ている。はじめからなにもないのだから失いもしない。それでも私は私として存在しているのは、今の私が虚無だから。
自分をからっぽにするなんて簡単な事だ。彼に出逢うまで、私は中身のないからっぽだったのだから。からっぽに、なってしまったのだから。
それを思えば、自分を
果てのない
◇◇◇◇◇
「幹也、今日はもう帰れ」
「え?」
式が突然、そんなことを言い出した。
「どうしたんだよ急に」
「別に。もう遅いだろ」
確かにもうそれなりに良い時間にはなってきている。けれども、それを言うなら式だって帰らないと道理が通らない。式の言葉には明らかに自分の事は含まれていなかった。
それに。目撃情報からも、織姫が出没するとしたら、今これからの夜が更ける時間帯に他ならない。
藤乃ちゃんと織姫を見つけると約束した手前、帰れと言われて素直に帰るつもりはなかった。
「まだもう少し探してみるよ」
「お前なぁ。一応親切で言ってやってるんだぜ?」
式の目が僕を睨み付けてくる。聞き分けの無い子供を叱りつけるかの様に。
「それに。帰るなら、式も一緒だ。でないと帰ってやらない」
そう言ったのは、やっぱり僕自身あの時の事をまだ引き摺っているんだろう。
3年前の連続殺人。
式は誰も殺してなんかいない。今でもそう信じている。だから、今だって信じてる。でも、だからこそ、信じられる確信を持ちたいが為に式を縛ろうとする僕は、やっぱり心の何処かでは式の事を疑う最低なヤツなのかもしれない。
「お前は…。はぁ、どうなっても知らないからな」
呆れたと言わんばかりに溜め息を吐いて、式はまた歩き出した。
滅多に見られない式の気づかいをふいにしたから機嫌を悪くさせてしまっただろうか。
「ふっ…はは」
「なんだよ。急に笑い出して」
「いや、なんでもないよ」
「それ。なにかありますってヤツの返しだからな」
どうして急に笑いが込み上げてきたのか。それは考えるまでもなかった。式が居てくれるという事にどうしようもない幸福感が込み上げてきたからだった。
だからやっぱり、織姫もちゃんと探し出して連れて帰らないといけないなと強く思う。
だって自分だけこう幸せな時間を過ごすのは、後輩であり似た者の想い人を持つ彼女に悪い気がするからだ。
◇◇◇◇◇
街灯が僅かに闇を照らす住宅街の路上。その明かりが時折過ぎ去る金髪を照らし出し、暗闇の中で光を反射する赤い瞳を映し出す。
突き出されたナイフを弾く度に火花を散らす。その一瞬の火花が照らす表情は狂喜。
「どうしたんだよ境織姫ぃ~? そんなんじゃ俺は殺れないぜ?」
あからさまな挑発に苛立つ己を噛み殺す。感情に任せた所で向こうの思う壺だ。
理性など有していない己からすれば良く良く自制している方だと織姫は自賛する。
本当ならば今すぐにでもこの煩い駄犬の喉笛を掻っ切り、二度とその口を利けなくしてやりたい衝動が腸を煮え繰りかえらせている。
だが、その情動に身を任せた所で無意味である事を察していた。
境織姫という存在の本能を司る「 」にとって、目の前の獣は相性が最悪に等しい存在だった。
もはや野性と言ってしまって良いほどに人の枠組みから外れてしまっている目の前の獣。
対して織姫は己を人の枠組みに収まらせておかなければならない。己が際限無く人の枠組みから溢れ出てしまった時、人理さえ破壊してしまうケモノに成りかねないからだ。
荒耶宗蓮を殺すために生まれた織姫は、その荒耶宗蓮を殺す時だけ存分に力を振るうことが許される。故に今の織姫は枷を嵌められた状態とも言える。
『両儀式』を投影しているからこそ、手に入れた強さと枷。
両儀式であれば問題なく殺すことが容易かろうと、織姫にとっては意識で捉える事は叶っても身体がついていかない。両儀式を投影していても、境織姫はただの人間だったのだから。
「あの日の夜みたいに、俺の腕を切り落とした時みたいに、お前自身の殺意ってヤツを見せてみろよォ!」
「くっ」
刀とナイフ、間合いの差は此方に分があっても、速さという面では彼方にある。肉を切らせて骨を断つなどという戦法を取った瞬間、喉笛を掻っ切られるのは此方だ。
そこらの幽霊や不良崩れが相手ならば軽くあしらえても、本物が相手となるとスペックの差が露呈する。さらに目の前の獣は己のフィジカルを最大限、或いはそれを超越した領域で発揮し、さらにはそれをなんら苦もなく使いこなしている。人の領分から外れ、己の起源を最も反映させやすい形で身体を駆使するその様は、歪ながらも見事という他ない。
ナイフの一閃は牙の一撃。ナイフの軌道を見切ろうとも、目の前の獣はその手に伸びる人の爪で此方の肌を服の上から裂くという離れ業を披露してくれる。
皮膚を裂いて爪と指に付着した血を味わう様に舐め取る所作に生物的な嫌悪感を抱く。
それもそうだろう。人が人の血を悦んで舐めるなど異常の極みだ。
これが吸血鬼ならばまだ話が通じるだろう。なにしろ彼ら吸血鬼は血を吸う化け物というのが人間の抱く常識だ。
ならば目の前の獣は吸血鬼の類いなのか?
そんな扱いをした日には世の中の吸血鬼に失礼だろう。目の前の獣は間違いなく人間だ。人間であるからこそよりバケモノなのだ。血を好む獣の様な人間などバケモノと呼ぶ他に何と呼ぶか。
だからこそ悍ましいものとして目の前の獣の行動が人としての常識に対する摩擦から嫌悪感を生み出すのだ。
「なんだよその眼はよぉ…。前のお前はそんな自分は普通の側の人間です、貴方は人から外れた異常者ですって涼しい顔をするつれないヤツじゃなかっただろぉ?」
「煩い…」
互いに刃を交差させた向こうにある瞳を射貫く。本能が剥き出しのギラついた赤い瞳が織姫を映し出し、その映し出された織姫の瞳にも獣の姿が写し出されていた。
「窮屈なんだろぉ? 息苦しいんだろぉ? なんで我慢する必要があるんだ? 殺したくて殺したくて仕方がないって顔に書いてあるクセに、何をいったい我慢してるんだよ。昨日だってそうだ。人を斬るのが愉しいくせにどうして殺さないんだよ!!」
「私は…っ、違う!!」
ナイフを弾いて、返す刀で獣を切り伏せようとする。
だが獣は弾かれたナイフには目もくれずに間合いの内側に入って刀の一閃を躱す。
「うっ」
全身の筋肉を無理やり動かして上体を反らせば、そこへ向けて抜き手を放つ獣の爪が胸元の服を切り裂いていく。
それを見送る間も無く、身体を足蹴にされて地面を転がる。
「あーぁ、あーあーあ゛あ゛あ゛、ったく。お前ってヤツはさぁ。折角楽しめる仲間を見つけたと思ったのにコレだ。それともアレか? お前も両儀と同じで、お前を縛りつける元凶を殺らないとダメってことか?」
いま、コイツはなんて言った?
私を縛りつける元凶?
私が人でいる理由?
それはケモノへと堕ちない為?
違う──。
私が人でいる理由?
それは私が私でいる理由。
荒耶宗蓮を殺すため?
違う──。
境織姫が境織姫として存在する理由などひとつでしかない。
「誰が……」
「なっ!?」
「誰を殺すって…?」
それは一瞬の出来事だった。
目にも止まらぬ一閃。それを成したのは織姫の握る刀──ではなく、獣から弾き落としたナイフだった。
「があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
左腕を斬り飛ばされた獣が苦痛に喘ぐ。
ナイフを手に、切り上げの動作から返す刃で首を落とそうとしたのを本能的に感じてか、獣は跳び跳ねて織姫から距離を置いた。
「はっ、ハハ、ハハハハハハハ、くくく、コイツはなんなんだ? あの時食い損ねたオマエが出てくるのかよ!」
「藤乃は殺させない。彼女は僕のすべてなんだ。日常で、日だまりで、愛する人で。命を懸けてでも守りたい人なんだ。そんな彼女を殺すだって?」
ナイフを構え、織姫は獣と対峙する。
「あの時と同じだなぁ。あの時はあの人に止められたからケチがついちまったっけなぁ。俺を殺せなかったオマエに、今さら俺が殺せるのかよ!」
「殺してやるとも。藤乃を殺そうだなんて宣うお前は殺す。必ず殺す。絶対に殺す!!」
向かってくる獣に対して、織姫は静かにナイフを構えながら呟いた。
「
イメージするのは両儀式──。
準えるのは獣の死因。
生の終焉の因果を直接刻みつける。
「……ちっ」
「は、ハハっ、それでこそだぜ、境ぃ!」
交差した両者に決着は訪れなかった。紙一重で獣は織姫のナイフの軌道を読んで回避に成功していた。強烈な死のイメージを刻みつけようとした意図を野性の勘で読まれたのか。
「……お楽しみはまた今度だな。次に会った時に、またつまんねぇヤツに戻ってたりしないでくれよ?」
そう言い残して獣は退散して行った。瞬く間に気配を読み取れる外に一目散に出て行くその速さはやはり人のものではなかった。
「もう獲物は逃げていったよ」
代わりに現れた気配の持ち主に向かって織姫は声を投げ掛ける。
「オマエ、何と殺ってたんだ?」
「織姫……」
現れたのは両儀式と黒桐幹也だった。
「別に。異常ストーカーのバケモノと少し殺りあっただけさ」
投影魔術で鞘を造り出し、ナイフを鞘に収めて後ろ腰の帯に差す。
「それじゃあ、あとは頼むよ、コクトー先輩。久し振りの外で、ちょっと疲れた……」
「あ、ちょっと…!」
そう言い残して織姫は幹也の胸に倒れ込む。
「織姫…?」
幹也が声を掛けても織姫は小さく寝息を立てるだけだった。
「呑気に気持ち良く寝やがって。あちこち探し回った身にもなれよなまったく」
心地好く眠っている織姫を見て悪態を吐く式。その視線には呆れと、隠しきれない怒気が含まれていた。
「式。悪いけど織姫を頼めるかな。僕はこの現場を警察に通報しなきゃならないから」
「おい。そんな面倒なことする必要ないだろ。というか、これはどう見ても普通の人間の領分じゃないぜ?」
「うん。でも犠牲になった人をあのままには出来ないし、織姫もずぶ濡れのままに出来ないだろ? なら手分けした方が良いじゃないか」
「このお人好しめ…!」
言っても聞かないのは分かっているので、式は悪態を吐きながら織姫を受け取って後悔する。ずぶ濡れの着物から滲み出した水分が自分の服さえも濡らし出したからだ。しかも式1人で運ぶにはずぶ濡れの織姫は重かった。
結局通報するにも織姫を運ぶにも公衆電話を探してからということに落ち着いて、式は織姫を幹也に押し付けた。
to be continued…