8月の夏は過ぎ、健康な身体となった霧絵に振り回されながらも何事もなく9月もあっという間に過ぎ去った。
8月が過ぎるまで霧絵に対して張っていた気も抜くことが出来た。一先ず巫条ビルでの転落死が1件も起きなかったのだから、霧絵の運命も変わり、好転していくことを祈るばかりだ。
その間も式との特訓は続けていて、今ではナイフを持った式の動きまでもものにしようと必死だった。
式からすればナイフ捌きは自己流の即興も良いことらしいが、それでも構わなかった。両儀式を模倣する贋作者の自分には必要な事だった。
そのお陰か、集中的に鍛えられた身体の筋肉は本物を真似て入られる程にはなった。
「最近の織姫さんは、難しい顔をすることが多くなりましたね」
「そう、かな…」
いつか似たような事を言った藤乃。指摘されてそんなわかりやすい顔を浮かべていただろうかと思ってしまう。
「織姫さんの事ですから、ちょっとの違いくらいわかるんですよ?」
そう真っ直ぐ言われるとくすぐったさを感じる。想いを向けている相手に理解されるということはとても心地が良いものだからだ。
「織姫さんの悩み、藤乃では解決できませんか?」
「それは…」
藤乃に言われて思い浮かぶ悩みと言うのは勿論荒耶宗蓮の事だ。
魔眼があるとはいえ、それ以外は普通の女の子の藤乃を荒耶と対峙させるだなんてとんでもない事だった。
自らの工房に入り込む闖入者を生かして帰すわけがないだろう。
そもそも藤乃を守りたいのであるからこそ、荒事には巻き込むことだけはしたくなかった。
「…心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」
良心の痛みを感じながらも藤乃には悩みを口にする事は出来なかった。
すると藤乃に手を握られた。指を絡め合う恋人繋ぎで。
「織姫さんは藤乃の命を背負うと言ってくれました。藤乃では織姫さんの命を背負う事は出来ませんか?」
そう、意思の強さを感じられる語気を含んだ言葉を紡ぐ藤乃。それこそ一言悩みを打ち明ければ彼女は解決の為に何処までも共に歩んでくれるだろうと確信出来る。
しかしそれでは本末転倒なのだ。
大切で、守りたいから、遠ざける。それが正しいと判断しながら申し訳なさで心が荒みそうになる。
それは自分がまだ弱い事を自覚させられる。
自信があれば藤乃を関わらせても守り通せば良いだけなのだから。
「そう言われると僕の負けだ。でも今回の事は命懸けだ。だから藤乃には自分の身を最低限守れる様になって貰わないとならない」
「はい。望むところです」
こうなったらやれることをやって荒耶に挑む事としよう。それに歪曲の魔眼を持つ藤乃にも最低限自衛の手段を持っていても無駄にはならない筈だ。
◇◇◇◇◇
「氷枕出来たから先に橙子さんのところに持っていくわね」
「うん。お願い霧絵」
買ってきた水枕と氷で作った氷枕を持ってパタパタと出ていく霧絵を見送りながら焦げ目を作らないようにグツグツと音を立てる土鍋を監視する。
橙子さんが風邪をひいた。
10月も末ある日のこと。
いつもならば起きてくる時間になっても事務所に顔を出さない橙子さんを不思議に思って部屋を訪ねてみると、顔を真っ赤にしてベッドで魘されている橙子さんを見つけたのだった。
本人は当初呪いか黒魔術の類いを疑ったらしいが、症状を聞いてみても風邪としか思い浮かばなかった。
魔術師でも風邪をひくのかとかそんな事を思い浮かべながら医者へ掛かることを薦めたのだが、封印指定されている自分がおいそれと医者に診て貰って弱っていることが万が一にも執行者に知られたら面倒だという事で、自力で治す事となった。
とはいえ風邪をひいたことも無いらしい橙子さんは魘されるだけしか出来ない役立たず病人なので、治療に必要なものを自分が一通り揃えた次第だった。前世は季節の変わり目の度に風邪をひいていた経験が生きた。それに比べたら今世は風邪をひかない健康な身体に産んでくれた両親に感謝である。
小皿にお玉でお粥を掬って味をみる。うむ、適度な塩梅の塩加減だ。
作ったのはなんの変哲もない普通の塩粥だ。
それを大きめのお椀によそって、木製のスプーンを添えて橙子さんの部屋へと向かう。鉄のスプーンはお粥の温度で直ぐ熱くなって食べ辛くなるためのちょっとした気遣いだ。
「橙子さーん、ご飯持ってきましたよー」
「……あぁ…、ごはん……?」
いちいち反応するのすら億劫そうな重症具合だ。
霧絵の介助を受けて身体を起こす橙子さんにはいつもの気の強さは皆無だった。おでこや首筋に冷えピタを貼っている姿はどうにも似合わない。
「どうです? 自分で食べられます?」
「…でなきゃ…、どう食べろと、言うんだ……」
身体を起こしているだけでも辛そうである。こんなヘロヘロで自分で食べられるのか心配になった。
「霧絵、橙子さんにご飯食べさせてあげてくれる?」
「私が?」
「いやほら、男の僕じゃさすがにね」
羞恥心がないというのなら自分が食べさせても問題はなかったけれども、デリカシーのない男でもない。ここは同性で歳も近い霧絵が適任だろう。
「じゃあ、あとお願いね」
「ええ、任せて」
あとは霧絵に任せて橙子さんの部屋を出て事務所に戻ると、式が来ていた。
「おはよう、式」
「ああ。…なんだ、トウコの具合でも悪いのか?」
「まぁね。風邪ひいたみたい。今は霧絵がご飯食べさせてるよ」
「あのトウコでも風邪ひくんだな」
「僕も同じこと思ったよ。コーヒー飲む?」
「ああ」
コーヒーメーカーをセットして無音の空気が流れる。
式は自分から積極的に話題を振るタイプじゃないし、それは自分にも言えることだ。無口が揃えば無が流れるのは自然な事だ。
「そういえば幹也先輩から電話があってさ。式に変わったところはないかだって」
そう話題を切り出すのは今は車の運転免許を合宿で取りに行ってる幹也先輩からの伝言を伝える事だった。
「別に。なにも変わっちゃいないさ。ただ部屋にちょっとした同居人が増えたってくらいだ」
「同居人? 友だちでも上がり込んできたの?」
「友だちじゃない。ただ部屋を貸してやってるだけだ。そいつ人殺しで、母親の腹を滅多刺しにしたんだとさ」
「それって犯罪者じゃない?」
「いや。あいつは──臙条は、犯罪者とは違うな」
式の口から出てきた人殺し、母親を滅多刺しにした、臙条という名前に合点が行く。
つまり矛盾螺旋──運命に抗う最後の障害が動き出したのだ。
◇◇◇◇◇
橙子さんの風邪はタチの悪い事に1週間も猛威を振るった。市販の薬も買ってはいたが、何故か薬に頼らず自力で治すという橙子さんの意思を曲げること叶わず。結局幹也先輩が合宿から帰ってくるまでがっつり寝込んでいた。
ただ1週間も寝込んで諦めがついたのか、自分の作った薬を飲んで回復したらしい。
翌日には1週間寝込んでいたとは思えない軽い足取りで出掛けていった。
来月に控えた美術展の準備で伽藍の堂──幹也先輩と自分、そして事務仕事を手伝ってくれる霧絵は少し忙しかった。他にも式も居るし、今日は鮮花と藤乃も居る。学校が創立記念日でお休みらしい。
鮮花は橙子さんに魔術を学びに、藤乃は藤乃で対荒耶戦を見据えた特訓の為に先程反応速度をサーヴァント並みに調整された人形と軽く一戦してきたところだ。
鮮花が発火の魔術を見せながら魔法使いと魔術師の違いを幹也先輩に説く。が、帰ってきた橙子さんに勝手に私物のペーパーナイフを使ったことを咎められた。
そこから魔術の秘匿性と時計塔の事、さらには魔術師の目指す根源についてまで話は飛んでいく。どういうものかは型月知識で知っているから話半分で聞いていた。
「この1ヶ月費やした結果だけども」
「はい…」
「藤乃は能力が凄い代わりにフィジカルはやっぱりおいそれと普通の女の子から逸脱するものじゃなかった」
臙条巴が式の部屋に入り浸っているという情報を掴んでタイムリミットとした藤乃の特訓の成果は、普通の女の子より運動神経はあるものの、やはり正面切って戦うのは向いていないという事だった。
前衛が居ることを前提とした砲台という意味では千里眼も相まって破格の能力持ちだが、やはり擬似サーヴァントと化した藤乃ならともかく、今の藤乃では手厳しいのも無理はなかった。そもそも1ヶ月特訓しただけでどうにかなる程現実は甘くはない。物語の主人公じゃあるまいし。そう都合良く劇的に短期間で強くなれる筈がない。
その点式は両儀家で剣術を修めているのだから強さに説得力がちゃんとある。遠野志貴も七夜家での鍛練という下地がある。衛宮士郎はちょっと特殊だから勘定から外そう。
そもそもきっと藤乃は後方タイプで前衛には向かないってだけだろう。
終始藤乃の傍を離れず、攻撃を藤乃任せにするか。
いや、小川マンションでそれは無理だ。空間を圧縮する荒耶の魔術の前では人の壁は無意味だろう。
「ごめんなさい。折角時間を割いてくれたのに役に立てなくて」
「そんなことないよ。藤乃の想いだけでも心強いもん」
ただ結果これで良かったとも安堵している自分が居るのは確かだった。
荒耶と直接的な因縁を持っているわけでもないのに余計な首を突っ込もうとしている自分に藤乃を付き合わせるのは気が引けていたのだから。
そう思っていると藤乃が手を優しく包み込んで胸に掻き抱く。
「必ず、戻ってきてください。また2年も待たせるなんて、藤乃はもう許せませんから」
「わかった。約束するよ」
身を寄せあって額を互いに宛がって目を瞑る。互いの胸に当たる手から心音が響いていく。
「あー、ねぇ、お二人さん? そうおおっぴらにイチャつくの控えてくれませんかね」
鮮花のその声でトリップしていた意識を引き戻される。藤乃の雰囲気に流されて事務所であるのをすっかり忘れてしまっていた。
「どうして? 何か悪いことでもしていたかしら?」
「いや悪くはないけれどもう少し節度を持って欲しいというか」
「織姫さんとちょっと約束をしていただけよ?」
「いやもっと普通に指切りとかで良いじゃない」
「そう? 鮮花もやってみれば良いのよ。そうすればとても良いって解るわ」
「藤乃軽く喧嘩売ってる?ソレ」
まぁ、鮮花の言うことも解る。周りを気にしなかった此方に非があるのは確かだった。あと勢いのある藤乃は無敵だから諦めた方が良い。
◇◇◇◇◇
一悶着起きそうな雰囲気だった藤乃と鮮花も落ち着いた頃、唐突に鮮花が放った言葉で事務所の空気が張り詰めた。
「ねぇ。式って男なんでしょう?」
言葉を向けられた式は不愉快そうな顔を浮かべて口を付けていたコーヒーカップから唇を離した。ただその質問に単純な意味での不愉快さだけではなく何か思い悩んでいるように見えた。
「否定しないっていう事はそうなのね。あなたは間違いなく男なんだわ、式」
「鮮花ッ!」
続く鮮花の言葉に幹也先輩が声を荒げながら椅子から立ち上がるものの、続く言葉を持っていなかったようで椅子に座り直した。居心地は悪そうだ。
「つまらない事にこだわるな、おまえ」
式は物凄い仏頂面を浮かべて鮮花に返した。呆れか怒りを抑える為か、片手は額を押さえていた。
「そう? すごく重要な話よ、コレ」
「重要な話、か。オレが男だろうが女だろうが大差ないだろ。鮮花には何の関わりもない。それとも何か、おまえオレにケンカ売ってんのか?」
「そんなの、初めて会った時から決まっているでしょう」
2人は外見上あくまでもクールだが、一触即発の剣呑な雰囲気になっているのは間違いなかった。
なんでいきなり修羅場になったのか見当もつかない。
まぁ、鮮花からすれば問題なのかもしれない。実の兄に家族愛ではなく異性愛を向けてしまっている鮮花からすれば式は女であれば邪魔でしかない。男であるのならどうだというのかといわれても、それはもう式の中に織は居ないのだから誰にもわからない。
精神面でどちらなのか明確にしたかったらしい鮮花。
不機嫌になった式は事務所から出ていってしまった。
たとえ式が織だったとしても好きだという自分の気持ちには変わりがなかったと思うと口にする幹也先輩の言葉はもう試合前から結果がわかりきっている出来レースだ。
それを同性でも好きだと言葉通りに受け取ってしまった鮮花は分厚い本を幹也先輩に投げ付けて事務所から出ていってしまった。ちなみに橙子さんはずっと笑いっぱなしだった。
「藤乃はさ。僕のことどう思う?」
男なのか女なのかという問答は自分にも軽く掠める話題でもあった。
両儀式の投影に成功してしまった自分は時として女の人格が表に出ることもある。
身体は男で普段も男で居られる。余程の事がなければ女の人格は出てこないとはいえ他人事で済ませる話題にするには少し引っ掛かった。
「変わりませんよ。どちらの織姫さんも織姫さんですから。男性の織姫さんには愛情で、女性の織姫さんには友情で応えるまでですから。先輩もきっとそう言いたかったのかもしれないですね」
鮮花の投げた本の直撃で僅かばかり意識の飛んでいる幹也先輩を見据えて藤乃が言う。まぁ、織が居たのだとしたら友情という絆が結ばれていただろう事は想像に難しくはない。
それから二時間が経過して幹也先輩の退社前の最後のコーヒーを飲んでいた時だった。橙子さんが切り出した。
「ああ、そうだ黒桐。悪いが残業を頼めるか?」
「残業って、別件で仕事でも引き受けたんですか?」
「いや、そっちの仕事じゃない。金にはならないものだ。今朝はそれで出掛けていたんだがね、懇意にしている刑事から面白い話が聞けたんだ。黒桐、
「茅見浜って、あの埋め立て区に出来たマンション地帯ですよね近未来モデル地区とかいう」
「ああ。ここから電車で三十分ほどかな。都心では考えられないほど贅沢に土地を使っている街だ。そこにね、昔建築で関わったマンションがあるんだが、妙な事件が起きたそうなんだ」
昨夜午後十時頃、二十代前半の会社員の女性が通り魔に襲われて刺されてしまった。通り魔はそれで逃げてしまったが、被害者はそうはいかなかった。
腹部を刺された被害者は携帯電話を持っていなかった。
現場は件のマンション地帯。周囲に店などなく、夜の十時なら人通りももうない。
被害者は血を撒き散らしながら最寄りのマンションに入って助けを呼ぼうとした。
だが住人は誰一人気がつかず、午後十一時に被害者は死亡した。
「問題なのはこの先でね。その被害者の助けを呼ぶ声は、隣のマンションに聞こえていたというんだ。悲鳴ではなく、助けを呼ぶ声だぞ。隣のマンションの人間はそれだけの大声だからすぐにそのマンションの人間が駆けつけると思い、無視したんだそうだ」
「そんな──そのマンションの住人は気がつかなかったんですか?」
「ああ、そう証言している。誰一人の例外なくいつも通りの夜だった、と。まぁ、これだけならそうおかしな話ではないんだが、このマンションには以前にもう一つ、おかしな出来事があったらしいんだ。詳しくは聞き出せなかったんだが、とにかく異常事態が二つ続くのは何かおかしい、と、刑事さんに相談されたわけさ」
「ようするに、僕にそこを調べろって言ってるんですね、所長は」
「いや、現地には二人で行こう。黒桐は不動産屋をあたって早いうちに住人達のリストアップと、過去どこに住んでいたかを出来得る限り調べてくれればいい。金にならない仕事だからゆっくりでいいぞ。締め切りは十二月だ」
「わかりました」
いよいよ小川マンションを調べるのにあたって身に緊張感が走る。ここで自分も同行すると切り出せば橙子さんは察するだろうか。
果たして自分が荒耶の工房での戦闘でどれ程通用するかは未知数だ。次の器があるとはいえ、今の橙子さんに死んで欲しくはないのも本心だ。とすればやはり橙子さんが荒耶と事を構えるときに同行するのが定石か。
「ところで黒桐、おまえ本当に式が男でもかまわないのか?」
さっきの話を橙子さんが蒸し返した。残りのコーヒーを飲んでいた幹也先輩は吹き出しかけていた。
「そんなわけないでしょう。そりゃあ式は好きですけど、欲を言うなら女の子は女の子の方が、いいです」
「なんだ、つまらん。それなら問題はないじゃないか」
がっかりだ、と橙子さんは肩をすくめてコーヒーカップに口をつけた。
問題ないと言った橙子さんに幹也先輩は詰め寄った。
式は精神面は間違いなく女性で、陽性である織が居ないのだから男である筈がないこと。
陰陽太極図、相克する螺旋、両儀の家、織の為の式の代償行為。
式に関する様々な事を述べていく。
それを聞き終えた幹也先輩は何か決意を固めたような表情を浮かべていた。外側からわかることは式を放っておけないという雰囲気だけだった。
to be continued…