比較対象として置いておくか、必要ないという感想が多ければ前のは削除しようと思います。
七月の終わり。夏の熱気が夜にも冷めず、都会の喧騒の中で蒸し返すような暑さが肌を焦がす。
私はその夜、橙子が設計監修を務めた新築ホテルの落成式に参加していた。
式典といっても、格式張ったものではない。洒落た装花に囲まれたロビーで、立食形式のレセプション。
招待客には地元の政財界、建築関係者、文化人も交じっているが、橙子に招かれた私たち、つまり事務所の人間は、どちらかといえば"内々"の客だ。
橙子が作り上げたのは、建築物としての「人形」だった。機能と美、構造と思想を兼ね備えた、彼女らしい完成度の高い「作品」だ。
鉄骨とガラスが幾何学的に折り重なり、昼には陽光を、夜には都市の光を鏡のように受ける──まさに"冠位"の冠たる技術の象徴。
そんな場に、橙子の他に橙子の内弟子である私の他に呼ばれていたのが──幹也、式、そして藤乃である。
伽藍の堂の従業員でパーティーの調整にも携わった彼が招かれたのは当然として、式もまた、幹也が出ると聞いての同行だろう。
藤乃は私が居るから付いてきたという枠。
私自身、立食パーティーの喧騒に疲れ、静かな空気を求めていた。
そして、その時だった。
「──どこへ行くの?」
私の視界の端で、式が音もなく立ち上がる。グラスを手に談笑する人々の間を縫うように、ひときわ静かな気配を放ちながら、彼女は会場の出口へと歩みを進めていた。
「どこだっていいだろ」
問いかけに返ってきたのは、こちらを見ようともしない不機嫌な声。それは彼女の常套句でもあった。
幹也が飲み物を取りに行った直後の出来事だった。
私はため息をひとつ、浅くついた。
式がこの会に参加しているのは、社交や興味からではない。幹也が出席すると聞いたから、それだけが理由だろう。式という存在は──常に特異で、他者との摩擦も交わりも極力避けようとする。それでいて、とても不器用だ。
ただ。
その不器用さが、どうしようもなく"人間"らしくて、美しいとも私は思っていた。
「藤乃。悪いけど、コクトー先輩に、少し外の空気を吸ってくるって伝えてもらえるかしら?」
「あ、はい。わかりました。……あの、織姫さんも、式さんのこと……?」
私が手にしていたグラスを藤乃に預けると、彼女は少しだけ首を傾げた。不思議そうに、けれど何かを察しているような瞳。
「ええ、気になるもの。あの子は、夜の空気の匂いを纏っているのが似合う娘だから」
私の言葉に、藤乃は小さく目を丸くしたが、すぐに口元で笑った。なるほど、というように。
それに応えるように私も笑みを返す。
──けれど、私の目的は夜風ではない。
彼女そのものを、追いかけたいと思ったのだ。
式の背中を追って、私は会場の外へ出る。
ホテルの照明が届かない場所、ガーデンへと続く裏手の通路。
夜の闇に包まれるような空間の中、式の背はすでに遠く、小さな灯りの下で一瞬浮かんでは消える。
「おい。なんでついてくる」
足音に気づいた式が、立ち止まりもせずに言った。
「貴女と同じよ。夜風を浴びに来たの」
「ハン。別にオレは夜風を浴びに行くんじゃない。ただ、暇だから外に行くだけだ」
「なら、あまり変わらないじゃない」
会話は会話にならず、だけれども会話のように続いていく。
私は式と一緒に並びながら歩いた。
ホテルの外縁に作られた人工のガーデンは、まだ草木の香りが建材と混じり合い、どこか新しい空気が満ちている。
式は相変わらず無口だったが、私の歩調と呼吸のペースに合わせているようでもあった。
──そして、あの子の隣を歩いていると、時間が少しだけ遅く流れるような気がする。
私たちは何も話さず、ただ歩いた。
星のない都会の夜空の下。虫の音すら遠く、ホテルの周囲に静けさが広がる。
微かに聞こえるのは、パーティー会場から漏れてくる音楽と、人のざわめきだけだった。
ふと、式が足を止める。
そこは、ホテルの敷地を囲う柵の外。
少し離れた歩道に続く通路の先で、誰かの影が目に入った。
少年だった。
年の頃は、十四、五といったところか。
「おい。そっちは危ないぜ?」
彼は私たちの存在に気づいていたのかいなかったのか、一瞬立ち止まったように見えたが、すぐに向きを変えて歩き去っていく。
その背中を、式がじっと見つめている。
「……知り合い?」
「いや」
即答だった。
──だが、式の視線は、まるで相手の輪郭を焼き付けるように、去っていく少年の姿を追い続けていた。
私も、直感的に何かがおかしいと感じた。
あの少年には「違和感」がある。世界の流れから浮いている。まるで、時間軸そのものがわずかにズレているような──そんな不穏な気配。
そして、私たちの頭上。
爆発音が、空気を裂いた。
乾いた爆音。空に火花が咲いた。
私も式も、瞬時に反応する。
──ホテルの上層階。
そこから上がったのは、明らかに制御された爆発だ。
祝賀の演出として仕込まれたものではない、破壊のための閃光。
私たちの眼差しが自然と屋上を仰いだその瞬間、式の視線が鋭くなった。
「今の──」
「──ああ」
式が歩を進める。
もう、ただの夜風では済まされない。
私は背筋を伸ばしながら、再び彼女の背中を追った。
少年の違和感、爆発、式の警戒。
何かが、動き始めていた。
◇◇◇◇◇
8月2日──。
午前十時、事務所応接室。
外は朝から気温がうなぎ登りで、アスファルトの路面が陽炎を立ち上らせている。
事務所の応接室も例外ではなく、クーラーの冷気は隅まで届かず、空気の底がじんわりと湿っていた。
そんな熱気の中、いつもの定位置の手摺に腰を預けていた式が、苛立ちを押し殺したような低い声で言った。
「……爆弾魔に付き纏われてる。ここ2日で三回だ」
その口調はあくまで冷静だったが、瞳の奥には、研ぎ澄まされた刃物のような警戒と苛立ちが見え隠れしていた。
式が口を開いたのは、その事実だけではない。
続けて彼女は、一つひとつの事件を順に語っていった。
最初は一昨日の昼、駅前の横断歩道での出来事。
信号待ちの群れの中、式が何気なく立っていた時のこと。
通りに停めてあったトラックの荷台が突如として爆発した。
爆薬ではなく、強烈な閃光を放つ閃光弾だった。
閃光が目を焼き、鼓膜に衝撃が走り、周囲の通行人は一斉に悲鳴を上げて地面に伏せたという。
だが式は、まるでその瞬間を知っていたかのように、目を閉じ、顔を背け、無傷のままその場に立っていた。
二度目は翌日の午後、散歩中に訪れた河川敷の芝生で。
遠目に不自然に盛り上がった地面を見つけた式は、無意識のうちにそこへ近づいた。
足を踏み出したその瞬間、何かが土中で点火した音がして、式は即座に身を引いた。
直後、地雷が爆発。
彼女が引き返す僅かな時間差だけで、命を守るに至った。
三度目は昨日、夕刻のこと。
仕事の帰り道、裏路地を通り掛かった際、建物の気配に違和感を覚え階段を登った背後、目の前で目覚まし時計に繋げられた爆弾が爆発。
爆発音が響いたそれは、精密に仕掛けられた時限爆弾だった。
式は、いずれの事件でも傷一つ負っていない。
だが。
「三回とも、オレは怪我一つしてない。だからって、無傷でいるのが快適ってわけじゃない」
式は静かに言いながら、唇の端を歪めた。
その笑みは、冷たく、どこか哀しげでもあった。
傍から見れば、式はまるで鉄の女だ。
どんな凶刃にも怯まず、どんな惨事にも眉一つ動かさない──。
だが、実際にはそうではない。
常に誰かの殺意を背に感じながら歩く日々。
それは確実に、彼女の神経を削っていた。
僕は、その話を初めて聞く顔をして、静かに相槌を打ちながらも、内心では記憶の底を掘り返していた。
──そんな出来事、前世には存在していなかった。
少なくとも、僕が知る『空の境界』という物語には、そんなエピソードはない。
この“爆弾魔”は、物語の外から割り込んできた。
それだけは確かなのだ。
「ここ数年、似たような爆発事故が頻発している。私の手掛けた“ホテルの件”のようにね」
橙子さんが、足を組み替えながら話に加わった。
つい先日のホテル落成式で起きた爆破未遂事件──あれもまた、今回の一連の事件と共通点が多かった。
犯人は、建物の構造的な要素を突くようにして爆破装置を仕掛けていた。
誰かに恨みがあっての犯行というよりは、完全に“動線”を読んだ上での設置だった。
人の流れ、滞在時間、動作パターン。
まるで、“未来を視ていた”かのような犯行。
「犯人は、犯行声明を出してるのに、未だ捕まらない。現場には痕跡も残っていない。それはつまり、“先回りされてる”ってことだ。こちらがどう動いても読まれてる。……未来視、あるいは予知能力を持っているのかもしれない」
橙子さんの言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
「それ、マジで言ってるのか? 魔術の話じゃなくて?」
式が僅かに眉を寄せる。
彼女にとって、未来視という能力は“異能”というよりも“因果の干渉”だ。
魔術的な現象は、決して他人事ではない。
「マジもクソも、魔術だよ。人智を超えた力を持った連中の中には、“あり得る未来”を読むことに長けたやつがいる。お前たちも、他人事じゃないんだ」
その言葉に、橙子さんの視線が、僕と式に向く。
「……というのもね、織姫。お前も、襲われてるだろ。昨日」
指摘は、鋭い。
内臓を握られるような鋭さだった。
「……っ、ええ」
返答に、一拍遅れた。
橙子さんの言葉が、核心を突いていたからだ。
「爆発……まではいきませんでしたが、昨日の夕方、駅構内でバッグをすられました。中身は──換えのシャツと資料と、あと……式の似顔絵が一枚増えてました」
自嘲気味に笑ったつもりだった。
だが、誰も笑ってはくれなかった。
「それ、爆弾だった可能性もあるな。内容の有無じゃない。お前が“持ってる”というその状況が、相手にとっての“スイッチ”だったかもしれない」
「……でも、爆発しませんでしたよ?」
問いかけに、橙子さんは即座に応じる。
「“爆発しない未来”を選んだからだろう。予知能力者ってのは、未来を“見る”だけじゃない。見た未来を踏まえて、何をするかを選ぶんだ。お前が今ここにいることを、犯人は“選んだ”んだ」
……予知、未来を視る目、そして、その未来を選び取る者。
そんな存在が、式を、僕を──誰かを殺すために、今観布子市に居る。
「……鬱陶しいったらないぜ、まったく。どうせ狙うならお前の方にしておけばいいってのに」
式が吐き捨てるように言って、僕の方を睨んだ。
「え、え? なんで僕!?」
突然向けられた視線に、声が裏返る。
口に含んでいたコーヒーを噴き出さなかった自分を、誰か褒めて欲しかった。
「いや……なんでもない」
それだけ言って、式は目を逸らした。
だが、わかっていた。
彼女は、僕のような繊細な存在が、無差別に殺意に晒されることを好まない。
それだけのことだ。
だけど──それが、どれほど彼女の心をすり減らしているかを、僕は知っていた。
「織姫。お前、観布子の母って名前、知ってるか?」
唐突に、橙子さんが口にした名詞。
「観布子の……母? いいえ、初めて聞きます」
「観布子の母はな、辻占の能力者だ。悲劇を“避ける”ための“ルート”を指し示すことができる。未来視じゃなく、回避の知識に特化した系譜の占術師だ」
「それって……爆弾魔と、関係が?」
「いや、直接は関係ない。だが、未来を操る者がどういう感性で動くのか、お前自身が体験して知っておくべきだと思う。お前も、もう巻き込まれてる側なんだからな」
心臓が、小さく跳ねた。
未来という不確かなもの。
そこに触れることでしか、爆弾魔の正体には迫れない。
そう、思った。
僕と式──狙われる理由は違うかもしれない。
けれど、この“殺意の未来”に晒されている限り、他人事ではいられない。
観布子の母に会う。
それが、すべての始まりになると、僕は確信していた。
◇◇◇◇◇
8月3日──。
空は高く、陽光は白く焼けるように降り流れていた。
季節が変わったのではないかと思うほどの暑さ。
8月、観布子の街は、アスファルトの照り返しでかすんで見える。
今朝、幹也とは早々に別れ、式と織姫は、この街に居るという「観布子の母」を探して歩いていた。
「どこ行くんだ。こっちだ」
不意に立ち止まった式が、まるで深意もなく道を外れて、輔道の路地へと足を踏み入れた。
ビルとビルのわずかな階間、人ひとりがようやく通れるかどうかの細道。
しかし、式の足取りは確信に満ちている。
織姫は小さく息を吸い、式の背中を追った。
湿気と油の混じった嗃い。
どこか得体の知れない気配のする細道の奥に、占い師はいた。
まるで誰もが「占い師」と即答できるような、典型的な風貌だった。
黒いヴェールで顔を覆い、水晶玉を前にした姿。
年の頃は五十代半ば、恵まった体形はどこか安心感を抱かせるが、織姫はそのヴェールの奥に計り知れない眼の力をを感じとっていた。
式は無言で近づき、女性と二言三言、言葉を交わした。
それはわずか二分にも満たないやりとりだった。
占い師が何を語り、式が何を問ったのか、織姫には聞き取れなかった。
だが、式はそれだけで満足したらしく、軽く項づくと腰を返して立ち去ろうとする。
「これだけでいいの?」
そう声をかけた織姫に、式は背跡ごしに言った。
「未来視ってのは、見た「未来」そのものより、「それをどう捉えてるか」が問題なんだ。──あの婆さんからは、十分それを学んださ」
その声には、どこか限魂さを妄えた冷静さがあった。
占いという曖昧なものに意味を見出すことなど式らしくない……と思っていたが、あの77秒間の中で、式は「未来を見る者」の思考をなにかしら握んだのだろう。
織姫は黙って項いた。
ふと、占い師が織姫に目を向けた。
「そこに居るお兄さん、チョイと占って行かないかい?」
──お兄さん、か。
織姫はほんの一瞬だけ適断し、笑って応じた。
「恋愛運とか将来の夢ですよね。……じゃあ、将来の夢をお願いします」
「成るほど、夢かい。──お兄さん、夢は叶うよ。でもねぇ、チョイと気をつけないとだね……死相が見えてるよ」
場が静かになった。
ヴェールの奥の眼影は、凹みを抱えるものではなかった。
「夢は叶うのに、死相……ですか」
織姫の笑みがひとつ、静かに壊れた。
今、叶えたいと願っている夢──それは、荒耳宗蓮との決着。
その終わりを見届け、終焜へ導くこと。
それが叶うなら、命を懸けるのは当然だった。
命を懸ける覚悟はとっくに出来ていた。
──けれど、それを第三者に言われると、不意にその覚悟が他人事にされてしまったような錯覚に襲われる。
藤乃を悲しませたくない。
その気持ちは、たとえ全てが終わるその日まで、変わらない。
それでも、この未来は誰にも渡せない。だから彼は、あえて問いかけなかった。
「死相を回避する方法って……ありますか?」
その質問を呑み込む。
なぜなら、もし「死なない道」まで教えられてしまったら──聞いてしまえば、逃げ道が出来てしまう。
その瞬間、彼の中で何かがはっきりと固まった。
織姫は、自分の未来に“逃げ道”を作らないことを選んだのだ。
死相が見えるというなら、それでいい。
ただし、それでも自分は進む。
誰かの未来のために、自分の信じるもののために。
それだけの覚悟を、織姫は胸に秘めていた。
占い師はその沈黙に満足したように、ふっと目を細めた。
「……お兄さんは、ちゃんと“怖がれる”子だねぇ。怖いと感じるってことは、命を諦めてないってことさ。良いことだよ。ちゃんと怖がりな」
──逃げなければ、怖がらずにはいられない。
でも怖がることは、弱さじゃない。
守るべき者を守ることも、自分自身を貫くことも、恐怖忘れずを乗り越えた先にある物だと感じた。
占い師は、それを察したかのように口元だけで笑った。
「死相じゃないんだがね、今日は橋と駐車場に気をつけな。鬼門だからね。ああ、くれぐれも道を急いだりしないように。でないと橋から危ない目に遭うよ」
「……わかりました。ありがとうございます」
織姫は頭を下げて、式のあとを追った。
式の背を追い、路地を出る。
再び光が降り注ぐ大通りへ戻ると、現実が強烈に肌へと迫ってくる。
まるで時間だけが一気に加速したかのように、セミの鳴き声、車の走行音、コンビニから出てきた子供たちの笑い声……すべてが騒がしくて、目眩がした。
「どうだった?」
式が歩きながら問いかけてきた。
背中越しの、ぶっきらぼうな問い。
織姫はしばし言葉を探してから答えた。
「……夢は叶うって。だけど、死相が見えるって」
「ふーん」
返ってきたのは、興味があるのかないのか分からない短い反応だった。
だがその後、式は一瞬だけ歩みを緩めて、織姫に横に並んだ。
──それは、無言の肯定だった。
「……橋と駐車場に気をつけろってさ。鬼門だって」
「駐車場は無視していい。今から向かうのは橋だ」
「つまり、鬼門の方か」
「そうだな。だが避ける気はない」
式の声に、迷いはなかった。
ふたりは無言のまま、再び歩き始める。
ビルの影が短くなっていくのが、昼の頂点に近づいていることを告げていた。
橋へと続く緩やかな坂道の途中で、織姫はふと足を止めた。
「……式」
「なんだ」
「今日が、終わるといいね」
意味を問うように視線を向けてくる式に、織姫は微笑んだ。
「ほら、夢が叶うって言われたから。……だったら、今日で終わるのかもしれないって。いろいろと、区切りが」
式は、少しだけ目を細めて、視線を逸らした。
「終わるといいな。ほんとに」
その返事は、どこか遠くの何かに語りかけるような響きだった。
坂道を上りきると、視界の先に橋が見えた。
灰色の鉄骨と、夏の青空。
橋のたもとには、陽炎がゆらゆらと立ち上っている。
──鬼門。
織姫は足元に意識を落とす。
ふと、首筋にぴりっとした痺れが走った。
何かが……近づいている。
「式、下がって──!」
言い終える前に、爆音が世界を裂いた。
橋の中央に駐車していたトラックが盛大に破裂し、爆音が世界を割った。
鋼鉄の骨組みが悲鳴を上げ、橋の片側が爆炎に包まれる。
瞬間、織姫の視界は白く染まり、鼓膜が悲鳴を上げた。
爆風が身体を吹き飛ばす。
地面と頬を打ち、熱と砂利が皮膚を裂く感触が走る。
橋の下、アスファルトの裂け目に落ちた瓦礫。
焼け焦げた金属片が、煙を上げていた。
「……けほっ、がはっ……!」
喉に焼けた空気が突き刺さる。
息を吸えば、肺が痛む。
目が霞んだ。
──意識が飛びそうになる。
だが、その時。
「織姫!」
鋭い声とともに、すぐ脇を駆け抜ける影。
式だった。
爆煙の中を突き進み、瓦礫を払いながら、織姫の身体を引きずり出した。
「動けるか?」
「……なんと、か……っ!」
身体の節々が痛むが、骨は折れていない。
なんとか自力で立てた。
周囲には煙と警報と、群衆の悲鳴。
橋の一角は崩落し、通行車両は悲鳴のようなクラクションを鳴らし続けている。
爆弾は、間違いなく“狙って”いた。
式も、織姫も、その現場に居合わせたことを──否、居合わせる“未来”を犯人は読んでいた。
「やられたな……。占い師の言葉、当たってた」
「鬼門って、こういう意味だったんだ」
式は煙の向こうを睨む。
「急ぐぞ。次は駐車場だ。もうひとつの鬼門がある」
「待って、式。今の爆発、ただの“脅し”じゃない。──明らかに殺意があった」
「ああ。これはもう、“試し撃ち”じゃない。次は確実に、殺しにくる」
織姫は頷いた。
膝に力を込め、式と並んで走り出す。
並走しながら織姫は問う。
「でも式、次の鬼門が駐車場って言っても、いったいどこの駐車場に行くの?」
「ヤツはオレたちを観測している。浅上の様に千里眼を持ってなければ、直接何処かでオレたちを視てないとならないんだ。あのビルの上からみたいにな」
式が視線を向ける先、建物の屋上からこちらを見る人影があった。
向こうとこちらの視線が交差したのを感じる。
すると人影は慌てて身を隠すように動いた。
「良く分かったね」
「感覚だ。占いとか霊視とか──そういうものに、オレは感情を持たない。けどな、あの婆さんは“真実”を見ていた。だから、言葉が重かった」
「……つまり?」
「“未来視”ってのはな、未来を当てることじゃない。未来を視たうえで、相手に“選ばせる”ことだ。オレはそれを理解した。だから選ぶ。今ここで、爆弾魔を止めるって未来を」
式の声は静かだった。
だが、それは恐ろしいほどの決意を含んだ声だった。
──そして、彼女は続ける。
「観布子の母の言葉が、予言じゃなく“選択肢”なんだとしたら──あとは、オレたちがどう動くかで決まる。だったら、行くしかないよな?」
「……うん。行こう」
街のざわめきと遠くのサイレンが重なる中、ふたりは駆けて行く。
路地から出て来たパトカーのボンネットをパールクールの様に転がって乗り越えたものの、今は忙しいから無視する。
走っていた路地の先に壊れた双眼鏡が落ちていた。
おそらくこちらに見つかった時に驚いて落としたのだろう。
「この辺でオレらを殺せそうな駐車場に心当たりあるか?」
「走って10分くらいの所にデパートの立体駐車場なら、多分」
「ビンゴだ。そこにヤツがいる」
「でも本当にそんな所。周りに人だって居るかもしれないのに」
「ヤツの狙いは顔を見たオレとお前だ」
その中で、式が囁いた。
「織姫。もしここで、オレが動けなくなったら──お前だけでも逃げろ」
「……嫌だよ」
「は?」
「嫌だって言ってる。死相が出てるって言われたの、僕の方だよ。なら、君が逃げて」
「バカ言え。誰がお前なんか置いていけるか」
「誰が君なんかに置いていかれるもんか」
──互いに睨み合いながらも、どこか笑ってしまった。
そんな中、式が一歩踏み出す。
次の瞬間、爆風。
だが、事前に気づいていた式が織姫を抱えるようにして反転。コンクリート壁の死角に滑り込む。
耳が痛い。頭がくらくらする。
だが、命はある。
式は言った。
「三発。……いや、四発。これまでのパターン通りなら、次で最後だ。奴はいつも、四発目で“外す”」
「わざと?」
「そうだ。ゲーム感覚だよ、あのクソ野郎は。最初の三発は“命中”、最後は“寸前で外す”。──だけど、次は違う」
式の目が鋭く光る。
「次で仕留めにくる」
行くぞと駆け出す式。
織姫はその背を追って駆け出した。
◇◇◇◇◇
午後、陽が傾き始めた頃。
立体駐車場内。
買い物客の停められた車が点在する中、誰かが待っている気配はする。
「ようこそ。ようこそ、“お兄さん”」
声の主は、銀髪の少年──倉密メルカ。
その姿は童顔の面影を色濃く残しつつも、口元には冷たい皮肉が滲む。それすらも演出のうちか。織姫は咄嗟に周囲を見回す。
数箇所の換気ダクトに手を加えた痕跡。パイロンの陰、消火器ボックス──あらゆる死角に“それ”は置かれていた。
「未来が見えるっていうのは、ずいぶんと便利なことね」
「いや、違うな。これは“未来を決める”力だ。予測なんかじゃない。私が“望む未来”を、自分の手で作ってるだけさ」
彼の右目が赤く光る。未来測定──対象と現場が揃えば、確定する“未来”を彼は見る。
「十分後。──この駐車場で、おまえが“八つ裂き”になる未来が視えてる」
メルカの指が動いた瞬間、織姫の背後で“何か”が起動する音がした。
──時限式起爆装置。
数十秒の猶予を与えた設計。
それは「逃げようとする者」を追い込むための“演出”だった。
「逃げていいよ。逃げてくれたほうが、面白いからさ」
「──なら、ここで死ぬ未来は、もう決まってるっているということ?」
「そう。そしてそれが“私の勝利”だ」
「なるほど。ありがとう、“私を殺す未来を作って”くれて」
──織姫は、目を閉じた。
未来とは、測定されるもの。
だがそれはあくまでも「確定した事実」ではない。“偶然”は手に取れない。
だから──未来に触れられない者こそ、強い。
「私の未来を、決めたのなら」
織姫は一歩、前へと踏み出す。
「──その未来を、私は破壊する」
その瞬間、周囲の死角から爆炎が噴き上がった。
──様に視えたのは倉密メルカだけで、実際には織姫が和服から振袖に姿を変えて日本刀を振るっただけ。
あとは何も起きていない。
「なんだと……!? 未来が……視えない!?」
メルカの右目が、確定されない未来に狂い始める。
織姫の存在そのものが、“未来”を切り伏せて確定を殺して行くのだ。
「ならば、手順を視れば──!」
彼は左目で“未来に至るまでの因果”を辿ろうとした。
だが、そこには一本の、太刀筋があった。
──両儀式。
駐車場に立つその姿は、死の形そのものだった。
「──“未来”なんてものにカタがあるなら。私がそれを断ち切る」
彼女の魔眼が開く。
倉密メルカの“未来の線”が視える。
式は、それを切り裂いた。
「────あっ」
視えない。右目に映っていた“織姫の死”が、跡形もなく消え去っていた。
爆弾の未来も、爆発の未来も、すべてが断ち切られたのだ。
「かっ、があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああああ!!!!」
絶叫と共に崩れ落ち、彼は膝をついた。
右目から流れる鮮血。
その眼球は、概念が斬られていた。
「どうして……私の未来が、変わる……」
「──変わったのではないわ」
織姫が、静かに言った。
「もとから“そんな未来は存在しなかった”だけよ」
駐車場の車に仕掛けられた爆弾は、起爆装置を押しても不発に終わった。
式によってその“起爆の未来”も断たれていた。
炎も血も、ただの確定された未来を殺す演出に終わる。
生きていた。
──その日、“未来”は、誰にも殺されなかった。
爆発──その直前に、未来は殺された。正確には、爆弾魔が右目で視た『式の死』という未来が、彼女の斬撃によって断ち切られたのだ。
「定められた結果の末路か」
思わず呟いたのは、爆弾魔が持っていた起爆装置を手許で遊ぶ式。
何の感情もないような声色だったが、その中にはわずかながら、未来というものへの侮蔑すら感じられた。
遠巻きにその様子を見ていた僕、式の振る舞いに胸の奥で静かに震えを覚えていた。
彼女が断ち切ったのは、単なる『爆弾の危機』ではなく、『予め定まった死』という“概念”だったのだ。
カタチがあるならば殺せる。
そんな無茶苦茶な理屈が、彼女には通用する。
なぜなら彼女の眼は“直死の魔眼”だからだ。
未来が確定した瞬間、それは既に“生きている”情報として存在し、ゆえに“死”の起点を持つ。
爆弾魔──倉密メルカが視た未来。
彼にとって絶対だったはずの“死の映像”は、式にとっては“ただの未来に過ぎない”。
そしてその未来を、彼女は殺した。
「なんで、あの未来が変わったんだ!?」
メルカの叫びが、闇の中に響いた。
彼の声は、怒りよりも戸惑いに近かった。
未来を“見てきた”彼にとって、それはある種の神託に等しいものだった。
彼が爆弾を設置したのは、自らの未来視の通りに“殺す”ことを確信していたからだ。
しかし、その未来は殺された。
「変わったんじゃない。アイツが言ったろ? もとから未来ってのは無いんだ」
式の声が静かに答える。
夜風が、彼女の青い衣をそよがせていた。
「無いものに手は出せない。未来ってのはあやふやだから無敵なんだ。けどさ、それにカタチがあったら、壊れちまうのは当然だろ」
「偶然には手は出せないけど、必然には手を出せる。さようなら爆弾魔さん。結果をはっきりとカタチにした時点であなたの未来は行き止まりだったのよ」
冷徹とも言える論理。
その言葉が、まるで断罪であるかのように、メルカの耳へ突き刺さった。
その瞬間だった。
──カチッ。
彼の右手が、起爆装置のスイッチを押し込む。
「死ねよ! 死ねよ! なんで! なんで殺せないんだよ!!」
何度も、何度も、狂ったようにスイッチを押し続ける。
だが、式は微動だにしない。
私は──咄嗟に車の陰に身を滑り込ませた。
轟音と共に、爆風が駐車場を駆け抜ける。
コンクリートが砕け、金属がひしゃげる音。
──それでも、死者はいなかった。
式は爆風に背を向けたまま立っていた。
既に手には、メルカが持っていたはずの起爆装置が握られている。
「良いの? ソレ」
私の問いに、式は肩をすくめただけで、無表情に答える。
「未来視は殺した。だから爆弾魔も廃業するだろ。それ以上は知らない」
彼女にとって、終わった話なのだ。
それに──まさか爆弾魔が少年だったなんて、私も思わなかった。
現場に駆けつけた警察や消防の記録には、「爆発から子を庇って軽傷を負った父親」と「右目を負傷した少年」のみが残されている。
彼が倉密メルカだと、誰も知らない。
「……ねえ、式」
「ん?」
「あなたは、あの子を殺せなかった。未来も殺したけど、本人には手を出さなかったのね」
「必要ない。殺す価値もなかった。ただ、それだけだ」
しかし、私は知っている。
彼女の言葉の裏には、確かな慈悲があったことを。
死んで当然の存在──それがこの世界の理だとしても、彼女はそれをただなぞることを“拒む”意志を持っていた。
──私は式に近づき、手にした装置をそっと受け取る。
「ありがとう。あなたがいてくれて、よかった」
「……気持ち悪いこと言うな。コクトーみたいに」
そう言って、式はふいと背を向けた。
彼女の着物が風に揺れる。
──その背中を、私は少しだけ寂しげに見つめた。
爆発音と共に壊れた駐車場の構造の中に、静かに新しい“未来”が芽吹いていた。
確定された死の未来ではなく、無限の選択肢に満ちた“未確定の可能性”が。
メルカ──瓶倉光溜。
彼の右目は、未来を視る力を失った。
けれどその代わりに、彼はようやく“今”を生きるための目を得たのだ。
それが、式という“死を視る者”によって与えられた、皮肉な“生”の在り方だった。
彼の物語は、まだ終わらない。
事件の記録として残されたのは、以下の通りだった。
立体駐車場で起きた爆発事件。
鋼玉による破壊は甚大だったが、死傷者は奇跡的にゼロ。
唯一の負傷者は、家族を庇って軽傷を負った父親と、右目に重傷を負った14歳の少年。
記録に「着物姿の少女」や、「その少女に酷似した少年」の名が載ることはなかった。
幹也の元へ向かおうと歩き出す式。
その後ろ姿を見送りながら、織姫はそっと呟いた。
「未来はあやふやで、だからこそ無敵、か。そして──君がそのまま、“生きた物語”になることを、僕は信じているよ、瓶倉光溜くん」
少年の名を、もう誰も知らない。
けれど、織姫の瞳には確かに彼の未来が、“希望”として映っていた。