普通ではないふじのんと普通ではないお友達   作:星乃 望夢

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殺人考察(後)Ⅱ

 

 朝の光が、薄いカーテン越しにぼんやりと射し込んでいた。

 

 流石にコンクリートで固められて窓も無い部屋は気が滅入るから少し手を加えて窓を付けた。

 

 そのお陰で時間間隔は得られる。

 

 僕は、ぬるくなった空気の中で、静かに目を覚ました。

 

 しばらく天井を見つめたまま、昨夜の記憶を反芻する。

 

 肌に残る感触、音の余韻、そして匂いの記憶。

 

 白純の唸るような息遣いと、式の放った怒気のような気配が、まだ内側に焼きついて離れない。

 

「……現実だったんだ」

 

 ベッドから身体を起こすと、足元には折り畳まれた羽織と帯が綺麗に置かれていた。

 

 丁寧に畳まれたそれを見て、幹也先輩の几帳面さに微笑が浮かぶ。

 

 折り畳まれた羽織りの袖に腕を通し、ブーツを履くと、僕はふと鏡を見た。

 

 まだ、顔色は悪くない。

 

 頭の後ろで髪をひとつに束ねながら、ふと首筋を指先でなぞる。

 

 ……あの時、式が来なければ。

 

「…行こう」

 

 独り言のように呟いて、僕はドアを開けた。

 

 事務所へ出ると、湯を沸かす音と誰かの話し声が聞こえた。

 

 伽藍の堂の台所からは、紅茶の香りが漂っている。

 

 アッサム──少し渋みのある香りが、鼻腔をくすぐった。

 

 食卓のある広間に足を踏み入れると、橙子さんが煙草を手に椅子に座っていた。

 

 すでに幹也先輩の姿もある。

 

「おはようございます」

 

 声をかけると、二人がこちらを振り返った。

 

「お、やっと起きたか。目付きは悪くないな」

 

 橙子さんが煙をくゆらせながら言った。

 

「紅茶、冷めちゃう前に。ほら、座って」

 

 幹也先輩の声はいつも通り穏やかだった。

 

 その声に促されるまま、僕は席についた。

 

「ありがとうございます。……すみません、待たせちゃって」

 

「いいよ。疲れてたんでしょ?」

 

 用意されていたトーストと卵の皿に手を伸ばす前に、僕は少しだけ躊躇って、それでも、話さなければならないことを口にした。

 

「……昨日、僕、殺人鬼と戦いました」

 

 その言葉に、二人の動きが止まった。

 

「やっぱり、式と……?」

 

 幹也先輩の声に、僕は小さく頷いた。

 

「ええ。でも、今の式は、関わるべきじゃない場所にいる。式は、彼女のやり方で殺人鬼を追っています。探そうとすれば危ないですよ」

 

「それでも構わない。知りたいんだ、彼女のことを。姿が見えないなら、せめて、何を思って動いてるのかだけでも」

 

 幹也先輩の真っ直ぐな視線に、僕は目を逸らさず応えた。

 

「……殺人鬼の名前は、白純里緒」

 

 その瞬間、部屋の空気が張りつめた。

 

「……白純、って……確か、幹也くんが調べた小川マンションの名簿に載ってたような…?」

 

 扉が開き、現れたのは霧絵だった。

 

 寝癖のついた髪を手櫛で押さえながら、マグカップを片手に持っている。

 

「おはよう、霧絵さん。……って、ちょっと待ってよ、織姫。今、白純って言った?」

 

「うん。白純里緒が、連続殺人犯だった」

 

「大丈夫、だったのよね?」

 

 霧絵の手が震えている。

 

 マグカップの中で紅茶が揺れた。

 

「僕は大丈夫。でも──」

 

 僕は彼女の名前を呼んで、その視線を受け止めた。

 

「見たんだよ。人間じゃない。あれは、本能で殺す“獣”だった」

 

「そんな……、なんで白純先輩が…」

 

 幹也が白純の名を口にし、いったいどうしてだと驚愕する様を見て、橙子さんはゆっくりと煙草を灰皿に押し付けた。

 

「起源覚醒者。恐らく、荒耶宗蓮が何かしら仕掛けたものだろうな」

 

「起源覚醒者…? それってなんなんですか?」

 

「その人間、あるいは物の本質。“はじまり”にして“終着点”。通常、人はそれを生涯意識せずに生きる。その存在の起源であるから無意識で性質に引っ張られるがね。でも無理やり覚醒させられると、理性を持った人間じゃいられなくなる」

 

 幹也の疑問に答えながら言葉を切り、橙子は一服して言葉を続けた。

 

「白純里緒は、おそらく“喰らう”っていう起源だったんだろうな。欲求に抗えず、何もかもを取り込んで、自分のものにしたがる」

 

 そして、橙子さんは僕を見た。

 

「ちなみに、織姫。お前の起源は“創造”だ」

 

「……え?」

 

 驚きに声が出なかった。

 

「未来を造る、因果を創る。そういう力を、本質として宿してるんだ。式とは正反対だが……だからこそ、お前は生きている。お前はまだ“壊れてない”」

 

 僕は、自分の手を見た。

 

 “創る者”──それが、僕の本質ならば。

 

「……壊れないままで、いられるだろうか」

 

 小さな呟きに、誰も答えなかった。

 

 曇天の空が、わずかにその厚みを薄め、光がほんの一筋、射し込んでいた。

 

 沈黙の中、微かな湯気を立てる紅茶の香りだけが部屋に残っていた。

 

 誰もが思考に沈み込んだ時間の中で、幹也がふいに視線を上げた。

 

「……橙子さん。白純先輩は、もう……助けることは出来ないんですか?」

 

 その問いは、まっすぐで、どこまでも人間らしいものだった。

 

 失われたものを拾い上げようとするような、どこまでも光に向かう想いだった。

 

 橙子は、その言葉に、ふっと目を細めた。

 

 深く吸い込んだ煙をしばらく口元に含み、やがて細く吐き出す。

 

「……起源覚醒はね。そう簡単に巻き戻せるような“治療”じゃないんだよ、黒桐」

 

 その声音は、やや低く、いつもよりわずかに真剣さを帯びていた。

 

「まずね、あれは“強制”じゃない。術者と対象、両者の“合意”がなければ、起源覚醒は成立しない。自分の深淵を覗く行為に、他者の介入は許されない。それが起源というものの厄介なところさ」

 

 幹也は言葉を飲み込んだまま、橙子の言葉に耳を傾け続けた。

 

「そもそもこれは、荒耶宗蓮の開いた“果て”の技術だ。彼が辿ったのは魂の輪郭、存在の構造。根源へと至るために、魂の“道”を見定めた者だ。白純がその影響下にあったとすれば──」

 

 橙子さんは、そこまで言って口を噤んだ。

 

 いや、正確には、それ以上語る価値もないとばかりに、肩を竦めて煙草を灰皿に押し付けた。

 

「……あいつが、まだ人の形を保ってるだけで奇跡だよ。連続殺人の頃から“あの状態”が続いてるっていうなら、もう3年、感情や理性のない本能の檻に閉じ込められているってことだ」

 

 その言葉に、幹也は顔を伏せた。

 

 言葉にならない無念さを抱えながら、手の中のカップを強く握り締める。

 

「じゃあ、魔術師のやったことなら……魔術師の手で、どうにか……」

 

 幹也の声は、なおも諦めきれないものだった。

 

 それは、式の傍にいた彼だからこその言葉だった。

 

 “壊れてしまった人間”に、それでも寄り添おうとした、彼の本質だった。

 

 橙子はゆっくりと首を振った。

 

「魔術師ってのはね、壊れた人間を“治す”ことには向いてない。むしろ、壊し方を知っているからこそ、元に戻せないと分かるのさ」

 

「……でも」

 

「残念だけど、黒桐。あいつに戻る道はない。魂が“起源”に喰い潰された時点で、元の白純里緒という個は……ほとんど残っていない。今残っているものは、“幻”か、せいぜい“残滓”だ」

 

 橙子の声には、断言の重みがあった。

 

 すでにそれは、多くの喪失を見てきた者の実感だった。

 

「でもまぁ──」

 

 そこで彼女は煙草をまた一本、取り出して火を点けた。

 

「心を安らかにしてやるくらいなら、できない相談じゃないよ。……殺してやるって意味じゃない。人の心に戻る時間を、ほんの一瞬でも作ってやる。できるのはそれくらいだ。だが、それでもいいなら、やってやるさ」

 

 その言葉に、幹也の眉が僅かに揺れた。

 

 だが、彼は黙って頷いた。

 

 今や自分たちが見ているのは、人ではない“何か”であり、それでもなお“白純里緒”の名で呼ばれる存在の魂を見届けようとしているのだと──彼は理解していた。

 

「……ありがとうございます、橙子さん」

 

 静かにそう言った幹也の言葉に、橙子は煙草の煙をくゆらせながら、いつもと変わらぬ笑みで応えた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 灰色の雲が低く垂れ込めた、それは幹也の心境を写し取ったかの様な空模様だった。

 

 伽藍の堂の一室、まだ冷え残る床を踏みしめながら、幹也は口を開いた。

 

「白純先輩を、探しに行こうと思う」

 

 その声に、同じ部屋にいた織姫がゆっくりと顔を上げた。

 

 彼の瞳に揺れるのは静かな光。

 

 だが、その奥には微かな懸念の色も含まれていた。

 

「……見つけて、どうするんですか?」

 

「わからない。でも、このまま放っておくわけにはいかない。あの人がどれだけ壊れてても、……僕にとっては“先輩”だったから」

 

 幹也の声に嘘はなかった。

 

 白純里緒という人物が、どこかで変わり果てたとしても、縁がすべて途切れたわけではない。

 

「コクトー先輩」

 

 織姫が静かに名を呼ぶ。

 

 だがその声音には、僅かに凛とした芯があった。

 

「危険です。白純里緒は……もう、人ではないかもしれない」

 

「ああ、それでもいい。見届けなきゃならない。あの人がどうなったのか──僕の目で、確かめたいんだ」

 

 幹也は織姫の目を真っすぐに見返した。

 

 その眼差しに迷いはなかった。

 

「……なら、僕も行きます」

 

「織姫?」

 

「あなた一人で行かせたら、きっと何かを背負い込む。僕は式の代わりにはなれないけど、それでも幹也先輩に何かあったら式に顔向け出来ないし、僕も後味が悪いので……。だから、一緒に行きます」

 

 そう言って、織姫は微笑んだ。

 

 けれど、それはどこか痛みを孕んだ笑みだった。

 

 自分もまた“あの夜”に踏み込んだ者であり、もう引き返せる場所にはいないことを、誰よりも理解していた。

 

 二人は、観布子の街を幹也の運転する車で走り出した。

 

 向かう先は、小川マンション跡地。

 

 白純の痕跡が最後に確認された場所。

 

 廃ビルとなり、解体され始めた建物の影が空を遮る。

 

「なんか、なんだろう。あまり近寄りたくないな」

 

「……あまり、良い気配の残る場所ではありませんからね」

 

「ああ。ここには、もう人の温もりなんて残ってない」

 

 吹き抜ける風が、壁に貼られた注意書きを揺らす。

 

 幹也は立ち止まり、鉄柵の前で手を止めた。

 

「ここに、白純先輩の名前があった」

 

 資料を指差す。

 

 かつて小川マンションの住民を調べた際の調査記録に記されていた、白純という苗字。

 

「……何か残っているとは思えないけど、白純先輩の表の足取りはここまでだ」

 

 織姫は何も言わず、背後を警戒するように周囲を見回していた。

 

「誰かに見られている気配がします」

 

「隠れるつもりはないさ。あの人に、会いに来てるんだから」

 

 沈黙の中、幹也は言った。

 

「もし……白純先輩を、助ける方法があるなら、それを探したい」

 

 その願いは、あまりにも無謀で、しかし誠実な響きを持っていた。

 

 だが織姫は、橙子の言葉を思い出していた。

 

 起源の覚醒には、本人の“望み”が必要だということ。

 

 つまり、白純自身がそうなることを選んだということ。

 

 ならば──。

 

 すでに人の形をした“何か”に成り果てたその存在に、果たして救済の余地などあるのだろうか?

 

 織姫は、目の前の青年がそれでも諦めないことを知っていた。

 

 だからこそ、織姫はその願いを否定しなかった。

 

「……だったら、最後まで傍にいます。幹也先輩が“決着”をつけるまで」

 

「ありがとう。頼りにしてるよ、織姫」

 

 冬の冷気が、二人の間を通り抜けていく。

 

 その風の向こう、どこかで“白純”という名の獣が蠢いている。

 

 追う者と、迎え撃つ者。

 

 そして、交わるはずのなかった未来が、静かに軌道を重ね始めていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 観布子の街は、今日も灰色の空を背負っていた。

 

 小川マンションを後にした幹也と織姫は、小川マンション周囲の他のマンション、街の裏通りや繁華街を中心に数日を掛けて聞き込みをした。

 

 だが、返ってくるのは首を横に振るばかりの回答と、何かに怯えるような沈黙だった。

 

「……誰も、知らない、か」

 

 幹也はため息をつき、路地の壁に背を預ける。

 

 肌寒い風がコートの裾を揺らしていた。

 

 織姫はその傍らで、人の往来を見つめながら、穏やかな声で呟いた。

 

「知っていても……言えないのかもしれませんね」

 

 幹也はその言葉に黙って頷いた。

 

 あの夜、自分たちを襲った白純──あれがただの人間でないことは、織姫も目の当たりにしている。

 

 それでも、幹也は信じたかった。

 

 どれほど変わってしまっていても、かつての白純先輩に戻れる可能性を。

 

 けれど、街がその名を恐れ、隠すように語らぬ現実が、その希望をじわじわと削っていく。

 

 街の人間に訊いても行き詰まりなら、二人は方向を転じた。

 

 それは白純の“過去”を辿ることにしたのだ。

 

 卒業後の進路は不明。

 

 大学にも進まず、実家にも帰っていない。

 

 断片的な記録を頼りに、幹也は古い学校資料と街の住民票、公共機関のデータ、使える限りの手段を使って足跡を洗っていく。

 

 そして、ようやく一つの手掛かりに辿り着いた。

 

「“薬”……?」

 

 目の前の紙を見つめ、幹也の声が震える。

 

 織姫は無言でその隣に立ち、淡く濁った視線を情報に落とした。

 

 かつて、白純が籍を置いたとされるマンションの一室。

 

 その名義の下で何度も転居を繰り返していた。

 

 最終的に行き着いた場所は、都市部のとある廃倉庫群近くの小さな借家。

 

 そして、そこに集まる若者たちの間で“誰か”が仕切っているという話が広まっていた。

 

 名前は出ない。

 

 だが、裏社会の若者の間で出回っている新種のドラッグ。その“元締め”が、一人の“男”であるという話。

 

 無感情で、動物のように本能だけで動く“獣”。

 

「……それが、白純先輩?」

 

 幹也は首を振る。

 

 信じられない。そんなはずがない。

 

 高校時代の白純先輩は、柔らかい物腰の、あくまで“人”だった。

 

 多少浮いていたとはいえ、常識も倫理も、理解していたはずだ。

 

「けど……それも、先輩の起源を覚醒させた魔術師のせいか」

 

 唇が苦く歪んだ。

 

 織姫が目を伏せる。

 

「人の起源を無理やりに呼び起こす。その先には、もう人間ではいられなくなる運命しかない」

 

 橙子の言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 そして、薬物を扱うという事実。

 

 そこには、金でも権力でもない、純粋な“破壊”と“汚染”の意志しか感じられなかった。

 

「先輩……一体、何があったんだ」

 

 問いは虚空に消える。

 

 だが、幹也の足は止まらない。

 

 このまま見過ごすことなどできなかった。

 

 自分にとっての“縁”は、もう誰にも壊させたくなかった。

 

「行こう、織姫。白純先輩がいる場所へ」

 

 幹也の目には、決意が宿っていた。

 

 織姫もまた、静かに頷いた。

 

 二人の背後で、夕暮れが街を赤く染め始めていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 路地は、夜の帳の中に沈んでいた。

 

 街灯もほとんどなく、吐く息さえも黒く沈むような、澱んだ空気が漂っている。

 

 汚れた壁面にゴミ袋が積まれ、腐臭と薬品の刺激臭が混じったような匂いが鼻をついた。

 

 この一帯には、白純里緒が関与しているという違法薬物流通の噂が絶えない。

 

 幹也は、それを確かめるべく、織姫とともにその裏路地を巡っていた。

 

 ──だが、目当ての情報は見つからない。

 

 数時間に渡る聞き込みも、周囲の人間は口を噤むか、何も知らないと繰り返すばかりだった。

 

 焦燥が、心の底にわずかに灯り始めた頃だった。

 

 どこからともなく、足音が響いた。

 

「……織姫、こっちへ」

 

 幹也は織姫の腕を取って壁際に身を寄せた。

 

 狭い路地の奥。

 

 暗がりの向こうから、三人の若者が姿を現した。

 

 目は爛々と濁り、足元はふらついている。

 

 それでも手には、刃物や鉄パイプのような物騒なものが握られていた。

 

 薬の影響だろう。

 

 尋常ではない様子に、幹也の身体が無意識に強張る。

 

「元締めを、嗅ぎまわってたよな?」

 

「ここらじゃ“あの人”に触れるのはご法度なんだよ……何モンだよ、テメェら?」

 

 ぶつぶつと何かを呟きながら、男たちは距離を詰めてきた。

 

「織姫、逃げ──」

 

 そう言いかけた幹也の前に、彼が一歩、静かに進み出る。

 

 その動きには、微塵の迷いもなかった。

 

「……逃げません。僕が、ここを通します」

 

 そう言うと、織姫は背中の帯から一本のナイフを抜いた。

 

 その一瞬、風が止まった。

 

 幹也は、彼の姿に見覚えのある“空気”を感じていた。

 

 ──これは、式だ。

 

 殺意を前にして微動だにせず、寧ろこちらから踏み込む。

 

 その異質さ、異能。

 

 だが確かに生きているという静かな覚悟。

 

 若者の一人が叫びながら、ナイフを振りかざして突っ込んできた。

 

投影開始(トレース・オン)──殺式!」

 

 が──それは一瞬で終わる。

 

 織姫のナイフが、その右肩から腰にかけて斜めに切り付けた。

 

 悲鳴と共に男は崩れ落ちる。

 

「っ、てめぇ……!」

 

 二人目が鉄パイプを振るったが、織姫は回避せず、すれ違いざまにその膝裏を斬った。

 

 乾いた音と共に、男は地面に倒れ込む。

 

 三人目は硬直したまま逃げようと背を向けたが、織姫はナイフを投影し、投げる。

 

 鋭く刺さった刃が足元を止め、男は悲鳴と共に転がった。

 

 血の匂いと冷気が、路地を満たす。

 

 幹也はただ、そこに立ち尽くしていた。

 

 織姫が何者なのか、初めて、ほんとうの意味で知った気がした。

 

 あの穏やかな声、柔らかな瞳の裏に、これほどの“世界”が隠れていたのだと。

 

「大丈夫ですか? コクトー先輩」

 

 その声はいつも通りの静かで丁寧なもので、まるで何事もなかったかのように織姫は振り返っていた。

 

 幹也は何も言えず、ただ頷いた。

 

 ──この子も、同じだ。

 

 両儀式という存在が見ていた世界。

 

 理解しきれず、踏み込めなかった領域。

 

 それを、織姫を通して初めて垣間見た瞬間だった。

 

「ありがとう、織姫」

 

「……いえ。僕の方こそ、先輩を巻き込んでしまってすみません」

 

 彼は言いながら、静かにナイフを納めた。

 

 その仕草のすべてが、あまりに自然だった。

 

 この街の闇に踏み込んだことを、後悔はしていない。

 

 けれど、もう戻れない場所まで来てしまったのかもしれないと、幹也はどこかで感じていた。

 

 

 

 

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