息を切らせて地面に崩れ落ちた若者の身体から、織姫は淡々と手を伸ばして上着のポケットを探った。
抵抗する様子はもうなかった。
放心したように天を仰いだまま、虚ろな目を開いているだけだ。
その手から滑り出てきたのは、赤い切手のような小さな物体だった。
光の乏しい路地裏では判別が難しい。
だが、それを街灯の明かりの下に持ち出した瞬間、幹也は息を呑んだ。
赤──いや、ただの赤ではない。
血のような濃さを湛えた赤地の切手状の紙に、さらに四隅だけが別種の染料で色濃く縁取られている。
その異様な赤は、幹也の記憶を不快に刺激した。
「……これ」
手に取った瞬間、肌にじわりとした嫌悪が走る。
冷たい汗が背筋を伝って落ちていくようだった。
──見たことがある。
秋巳大輔、何かと事件の資料を見せてきて意見を聞いてくる少々グレーな刑事の従兄。
彼が幹也に見せてきた、連続殺人の現場から回収されたという品のひとつ。
それと、まったく同じ。
幹也は震える手でその薬物を取り上げ、慎重に封のある小袋へと仕舞った。
「……同じだ。これ、大輔兄さんが言ってたやつと」
自分の声が、どこか遠くのもののように聞こえた。
胸の奥がざわめいている。
織姫も、何も言わず頷いた。
彼女の表情は変わらないが、その手はほんの少し強く拳を握りしめていた。
夜の街は冷たかった。
だが、心の中で走る焦燥は、それ以上に熱を帯びていた。
幹也は背後を一度振り返った。
今さっきまで、そこにいた若者の姿は、すでにどこかへと消えていた。
逃げたのか、それとも……。
それ以上の追跡は、今は不要だった。
幹也は織姫に目を向けると、静かに頷いた。
「戻ろう。とりあえず、家に。大輔兄さんにも、これを見せないと」
「……はい」
織姫の声もまた、静かだった。
ふたりは路地を後にし、冷たい夜風の中を歩き出した。
街のざわめきが遠ざかっていく中、幹也は思う。
白純先輩が、こんなものに関わっていたなんて──。
信じたくなかった。
だが、その赤い切手は、現実としてそこにある。
連続殺人と違法薬物の接点。
過去と現在が、今まさに繋がろうとしていた。
その中心にいるのが、白純里緒。
……どうして、こんなことに。
問いの答えはまだ遠い。
だが、確かに一歩近づいた。
幹也は無言のまま、織姫と共に夜の街を歩き続けた。
◇◇◇◇◇
幹也と織姫が夜の路地から戻ってきたとき、自宅の玄関前には見慣れた制服姿の少女が立っていた。
その姿を認めた瞬間、幹也の表情がわずかに驚きに揺れ、織姫は一歩先に出て声をかけた。
「……藤乃?」
「織姫さん……!」
礼園女学院の制服に身を包んだ浅上藤乃は、夜風に少し震えながら、それでもどこか安心したように頬を緩めた。
制服の襟元にかけられたカーディガンが、夜の寒さを物語っている。
「どうして……ここに?」
織姫が静かに問いかけると、藤乃はわずかに視線を落とし、手にしていた鞄を抱き直した。
「おふたりが……白純という方のことを調べてるって、霧絵さんから聞いて。それを聞いてたら、なんだか……じっとしていられなくなって」
声は少し震えていた。
だが、そこには確かな意思があった。
「織姫さんがどこかへ行ってしまうような気がして、怖かったんです。……先輩の家に来れば、戻ってくるって、そう思って」
藤乃は目を伏せながらも、最後の一言だけはしっかりと視線を合わせてきた。
その言葉に織姫は少し困ったように微笑んだ。
そして、どこか申し訳なさそうに口を開いた。
「……こんな夜更けに、ひとりで出歩くのは、あまり良くないよ。礼園の門限もあるでしょう?」
織姫の声には優しさと戒めが入り混じっていた。
すると、横にいた幹也が苦笑しながら助け舟を出す。
「まぁまぁ……待つ側の気持ちは、僕にも分かるよ」
彼の脳裏に過るのは、式が眠り続けていたあの日々。
ただ目覚めることを信じて待ち続けるしかなかった日々のことだった。
「でも……それとは別として、夜に女の子ひとりでこんな場所にいるのは危ない。気をつけないとダメだよ、藤乃ちゃん」
叱るのではなく、心からの心配として、幹也は言った。
藤乃は頷いた。
どこか子供のようにしゅんとしながらも、叱られたことが嬉しそうな、そんな複雑な表情だった。
「とにかく、家に入って。あったかいお茶でも出すから」
そう言って扉を開けた幹也は、織姫と藤乃を中に招き入れる。
リビングのソファに腰を下ろした三人。幹也は上着を脱ぎながら、固定電話のダイヤルを打ち込み、秋巳の番号を呼び出す。
「……出ろよ、大輔兄さん……っと。あ、もしもし? 僕だけど。ちょっと見せたいものがあるんだ。今から来れない?」
電話口の向こうで、秋巳の眠そうな声が応じる。
そのまま会話を済ませた幹也が受話器を置いた頃には、織姫と藤乃がソファの片隅で肩を寄せ合うように座っていた。
藤乃の手が、織姫の手を優しく握っていた。
織姫もそれを拒むことなく、穏やかな表情で藤乃に寄り添っている。
その姿に、幹也の胸が少しだけ締め付けられた。
──ああ、似てるな。
式と自分。
心に壁を抱えながら、それでも繋がろうとするふたり。
その危うさを知っているからこそ、守りたくなる。
触れられそうで、触れられない。
だが、それでも隣にいる。
──僕たちも、きっと、こんな風に見えるんだろうか。
幹也は言葉にしないまま、少し遠くを見るような眼差しで二人を見ていた。
扉の向こうでは、まだ夜が冷たい息を吐いていた。
だが、室内には確かに、温かな光が灯っていた。
◇◇◇◇◇
ソファの隅にちょこんと座った藤乃は、自分の膝の上でそっと手を重ねていた。
気付けば、織姫の隣に居るだけで少しだけ心臓が痛い。
それは焦がれるような安心と、ほどけそうな不安が、同時に胸の中を満たしているからだった。
藤乃はちらりと隣を見た。
織姫は落ち着いた表情で、どこか遠い場所を見ていた。
照明の柔らかな光がその横顔を照らし、長い睫毛の影が頬に落ちている。
こんなに静かな空間に一緒に居られるのは嬉しい。
でも、それと同じくらい、胸が苦しかった。
「……ねえ、織姫さん」
ようやく声を出した藤乃に、織姫はゆっくりと視線を向ける。
「……どうかした? 藤乃」
名前を呼ばれ、心が跳ねた。
それなのに、言葉がうまく続かない。
それでも、話さなければと藤乃は唇を噛み、言葉を選んだ。
「私、今日……ちょっとだけ、怖かったんです」
「……そりゃ、夜道にひとりで来ればね」
織姫はそう言って小さく笑う。
その優しさが、また藤乃の胸を締めつけた。
「でも、織姫さんがどこかに行ってしまいそうで……怖かったんです。なんとなく……また、ひとりで全部背負って、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がして」
その言葉に、織姫の目がふっと細くなる。
どこかで聞いたような、懐かしいやりとりだった。
「僕は、そんなに脆くないさ。行くなら、ちゃんと戻ってくる」
「……それでも、待つのはとても恐いことです」
ぽつりと零した言葉は、自分でも思わず出てしまったものだった。
けれど、織姫はそれに対して怒りもせず、ただ黙って聞いてくれた。
それが、余計に苦しかった。
織姫の手の甲に、そっと自分の手を重ねる。
彼の手は少し冷たくて、でも確かに温もりがあった。
戦ったばかりの人間とは思えないほど、穏やかな手だった。
「……藤乃」
名前を呼ばれ、思わず顔を上げると、織姫は真っ直ぐに藤乃を見ていた。
「僕は、藤乃が居てくれることに、とても救われてるんだ。だから、君が君で居てくれることが……僕には一番、嬉しくて、愛おしくて、それでいて切なくなる」
その言葉が、藤乃の心に深く沈んだ。
嬉しくて、悲しくて、涙が出そうになった。
「……織姫さんは、ずるいです」
「うん。そうかもね」
ふと笑った織姫の顔は、どこか疲れていたけれど、やっぱり優しかった。
藤乃はそっと身を寄せた。
織姫は驚いた様子もなく、それを受け入れる。
心臓の音が、ひとつ、ふたつ、近づく音がする。
その距離が、どれだけ離れていても。
今だけは、すぐ隣に居られる──それだけでよかった。
少しだけ、目を閉じる。
願わくば、この時間が、もう少しだけ続きますように──。
◇◇◇◇◇
チャイムの音が鳴ったとき、幹也はすぐに立ち上がり、ドアへ向かった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、落ち着いたスーツ姿にどこか探るような眼差しを宿した男──幹也の従兄であり、警視庁の捜査官でもある、秋巳大輔だった。
「よう、悪いな。遅くなった」
「ううん、大輔兄さん、来てくれて助かったよ」
幹也の表情は安堵に和らぐ。
重苦しい空気が続いていた部屋に、ようやく外との接点が戻ってきた気がした。
秋巳は室内を一瞥し、視線を織姫と藤乃に向けると、一歩踏み込む前に短く頷いた。
「なるほど。君が境織姫か。蒼崎橙子さんから話は聞いてる。幹也の職場の……同僚だってな?」
「はい。織姫と申します。……表向きには、幹也先輩のサポートという形です」
織姫は立ち上がり、静かに礼を取る。
その態度には丁寧さがありながら、どこか刃のような緊張感が滲んでいた。
秋巳は一瞬だけ目を細めたが、それ以上の詮索はせず、うなずく。
「助かる。幹也は時々、深入りしすぎるからな。抑え役が必要だろう」
「……はい。僕も、そのつもりで同行しています」
織姫の言葉に、秋巳はわずかに笑った。
「それから、君が浅上藤乃か」
「はい」
藤乃も織姫の隣に立ち上がり、僅かに頭を下げた。
「以前……彼女と一件、事件を共にしたことがある」
秋巳が織姫に説明するように口にしたが、その視線は藤乃に向けられていた。
「覚えています。あの時は……秋巳さんのおかげで、誰にも気づかれずに済みました」
「いや。あれは君自身がギリギリのところで踏みとどまった結果だ」
藤乃の中に一瞬、安堵とも照れともつかない色が差した。
「今は先輩の“助手”です」
「ああ。だからこそ……情報共有はちゃんとやっておきたい」
秋巳は懐から透明なジップ袋を取り出した。中には幹也と織姫が回収した赤い切手状の薬物と酷似したものが数枚入っていた。
「これが、先日の連続殺人事件の現場で被害者の所持品から発見されたものだ。今回幹也たちが拾った“赤い切手”と、化学的性質は一致してるはずだ」
幹也と織姫が同時に息を飲む。
「……やっぱり、つながってるんだな」
幹也が低く呟いた。
「白純先輩が……この薬を使ってる、あるいは流してる?」
幹也の問いに、秋巳は首を横に振る。
「流してるんじゃない。“元締め”だ」
「……!」
「信じがたいかもしれないが、白純里緒はここ数年、裏の若者の間で広まってるこの違法薬物の供給ルートを握ってる。名前はほとんど表に出ないが、現場の中毒者の証言や動きの分析から、事実上“あの男”が起点だと見て間違いない」
「先輩にまだ、人としての心が残っているのなら、僕は先輩を、人として救ってやりたい」
「その気持ちは尊重する。だが、先に警告しておく。これ以上深入りするのなら、お前も“喰われる”覚悟を持っておけ。白純里緒は……理性が通じる相手じゃない」
「……だからこそ、助けたかった」
幹也の言葉に、織姫がそっと目を伏せた。
静かな部屋に、アッサムティーの残り香だけが漂っていた。
テーブルに置かれた透明な袋の中、赤い切手状の薬物が仄かに光を反射していた。
幹也はそれを見つめながら、唇を噛む。
これが、人を殺すものだとわかっていながら、その手触りを確かめたくなるような不穏な誘惑を纏っていた。
「この薬物の流通経路から、白純先輩の足取りを追えるってこと?」
幹也の問いに、秋巳は頷いた。
「正確には、“売られていた場所”の分布を分析した。……幹也、お前が以前勤めてた高校の近く、三ノ輪の裏通りでもこの薬物の使用者が複数捕まってる」
「三ノ輪……」
織姫が小さく反応する。藤乃も、心当たりがあるのか目を伏せた。
「ここ数ヶ月で特に急増した地域が三つある。ひとつは三ノ輪、もうひとつは観布子の商店街周辺、そして最後が……城南区の河岸工業地帯だ」
「三ノ輪と観布子、城南区……」
「この三箇所、実は全部、白純が“数ヶ月以上滞在していた”という目撃証言がある」
「つまり……」
「つまり、奴は“自分の足跡”に合わせて、この薬物を広めている。あるいは、そこに撒いた。獣の縄張りのように」
秋巳の声には、捜査官としての冷静さと、個人的な憤りが同居していた。
「この赤い切手は、通常のLSDより遥かに強い幻覚作用を持ってる。使用者は理性を失って暴力的になる傾向がある。そして……まれに、妙な例がある」
「妙な?」
「……まるで思考が完全に原始的になり、人間の社会性が消える。殴る、喰らう、壊す。それしかできなくなる。そうなった人間は……もう、戻れない」
藤乃が苦しげに息を飲む。
「人を壊す薬ってこと、なんですね」
「そうだ。そして、白純は……“人を壊すこと”を広めてる」
織姫は静かに、しかし確かに頷いた。
「……白純は、式に構って欲しかったんだと思う」
その言葉に、三人が同時に織姫を見る。
「壊すことでしか繋がれないから、彼は人を壊す。式は……“人の死”と繋がってしまってるから。白純は、その文脈に自分を置こうとしてる。……僕には、そう見える」
「それじゃ……!」
幹也は立ち上がった。
「やっぱり止めなきゃいけない。誰かの死を“呼ぶ”ために、こんな薬をばら撒いてるなら──」
「……だが、場所を特定しなければならない」
秋巳が鋭く言う。
「この三地点から割り出すなら、恐らく今、白純がいるのはその中間点。三ノ輪、観布子、城南……三つを結んだ三角形の中心あたりに、奴は拠点を持ってるはずだ」
「……その近くに、廃墟とか、工場跡とかありませんか?」
織姫が即座に尋ねる。
「ある。“山王坂コンテナヤード”って廃棄施設がある。五年前に事故があって放置されたままだ。今も警備はなく、誰でも出入りできる」
「──そこか」
幹也は立ち上がり、拳を握りしめる。
「そこに行けば……白純先輩に、会える」
秋巳はその姿を見て、短く息を吐いた。
「いいか。行くなら命を張る覚悟をしろ。お前にとっての“先輩”でも、向こうにとってお前がどういう存在かなんて、今は分からない。……だが」
少しだけ、表情を緩める。
「“白純先輩”って呼ぶ奴がまだいるなら、もしかしたらギリギリ残ってるかもな。“人”の意識が」
幹也は頷いた。
その背に、織姫が静かに歩み寄る。
「……行こう。式がいるその先に、きっと答えがある」
「うん」
幹也の視線の先、夜の帳が、じわりと彼の道を照らしていた。
秋巳が地図と資料をまとめて幹也に渡し終えると、次に響いたのは紅茶のカップを置く小さな音と、織姫の柔らかな声だった。
「……藤乃。君は、ここに残ってほしい」
まるで、湯気のように穏やかで、けれども逃れられない強度を持ったその声に、藤乃はまばたきをした。
「……なんで、ですか?」
反射的に出た言葉だった。
自分の声が、かすかに震えていたのに気づき、唇を噛みしめる。
「織姫さん、私はあなたの目になるって、言いました。あなただって、それを受け入れてくれた。なのに、どうして今さら──」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
織姫の瞳がまっすぐに自分を見ていた。
今まで見たことがない、決然とした光を宿して。
「藤乃……君の目はとても強くて、優しい。でも、今回ばかりは……ただ目がいい、というだけでは届かない相手なんだ。白純里緒は、“異常”だ。人の理の範疇にいない。僕と、式と──幹也先輩としか、たぶん触れられない場所にいる」
静かに、けれども明確に断絶を描くように、織姫は言葉を紡いだ。
「僕は……君を、大切に思ってる。だから、君がその異常の中に巻き込まれるのは、望まない」
まるで、胸の中に突き立つ氷の刃のようだった。
今まで何があっても、決して“否定”しなかった織姫が──藤乃の意思を、真正面から退けた。
目が眩む。
織姫の言っていることは、理屈では理解できる。
でも、心が追いつかない。
藤乃は、唇を何度か動かした。
でも言葉にならなかった。
拒まれたのではない、守られたのだと分かっていた。
それでも、その“優しさ”は、こんなにも痛かった。
視界が揺らいだ。
「藤乃」
織姫が、そっと歩み寄る。
藤乃の身体をそっと抱き締めた。
「僕は藤乃を信じてる。だから……ここで、僕の背中を見ていて。式と幹也先輩と、白純の物語に、君を巻き込むわけにはいかない。どうか、お願いだ」
織姫の細い指が、自分の手を取った。
体温が、ひどく遠く感じた。
「……っ、ずるいです。そんな顔して言われたら……」
絞るような声で、藤乃は言った。
だが、もう反論はできなかった。
いや、反論する力が、自分の中から消えていた。
織姫はゆっくりと藤乃の身体を離すと、秋巳の方を振り返った。
「秋巳さん、彼女を……お願いします」
「ああ、任せろ。こっちで動きは止めておく。お前たちは、気をつけてな」
頷いた秋巳に、織姫は小さく会釈する。
幹也が玄関先で待っていた。
織姫はジャケットを羽織ると、最後にもう一度だけ藤乃の方を見た。
その表情には、優しさも、寂しさも、そして決意もあった。
ただ、別れを告げることだけはしなかった。
それは、また必ず会うという約束の代わり。
玄関のドアが静かに閉まる音が、藤乃の胸の奥を強く叩いた。
ソファに沈む藤乃の隣で、秋巳が何も言わずにカップを差し出す。
藤乃はそれを受け取ると、小さく一口だけ紅茶を啜った。
熱い。
涙の代わりのように。
心の奥で、彼女は誓っていた。
──必ず、また背中を追う。
追いついてみせる。
けれど今は、見送るしかない。
あの人の背中を。
◇◇◇◇◇
郊外の街灯がまばらに流れていく夜道を、車は静かに滑るように進んでいた。
フロントガラスの外には、東京の街を離れた無機質な道路と、夜霧をまとった看板の影がぽつりぽつりと並んでいる。
幹也は運転席でハンドルを握ったまま、小さく息を吐いた。
その視線は真正面を向いていたが、意識の一部は隣にいる織姫の方へ向けられていた。
「……付き合わせて、ごめんね」
唐突に漏れた言葉に、助手席の織姫が目を向ける。
「構いません。僕は、護衛としてここにいる。それが、コクトー先輩の意志なら」
静かで落ち着いた声音だった。彼の言葉には、自身の選択というより、“決定に従う”という明確な意志の線引きがあった。
織姫は、自ら白純を追っているわけではない。
この追跡劇の主人はあくまでも幹也であり、彼はその護衛──“道を進む者に寄り添う者”という立場を崩さなかった。
「それでも……」
幹也は言いかけて、言葉を切った。
「それでも怖くないのか?」──そんな問いが喉元まで出かけて、飲み込まれた。
いや、違う。そんなことを訊いてどうする。
彼女──彼はもう一度、殺人鬼と刃を交えている。
自分などより、よほど死線を知っている。
なら、いまの自分が問うべきはそこではない。
「白純先輩のところへ行くのは……僕の我儘だ。知りたいって、思ってしまった。どうしてあんなことをしてるのか、どこで歪んでしまったのか。それでも……助けられないかって思ったんだ」
それは一つの懺悔のようだった。
自分の決断で、織姫を連れていくこと。
無関係の藤乃を巻き込むこと。
そして何より──失われた過去の先輩に、まだ希望を抱いている自分自身への。
そんな幹也の言葉を、織姫は受け止めながら、ほんの少しだけ目を細めた。
「助けたいと思えるのは、底なしお人好しのコクトー先輩だから、ですね」
「……かもね」
「じゃあ、僕が居る意味も、少しはあると思います」
織姫の言葉には、どこか寂しげな余韻があった。
それでもその声音は、冷静に整えられたまま。
まるで、戦場に赴く者の呼吸のように。
幹也はアクセルを少し緩めて、赤信号で車を止める。
車内に流れる静寂に、心音がやけに大きく響く気がした。
「大丈夫」──そう言ってやれる立場ではないのを自覚しているからこそ、幹也は小さく言った。
「ありがとう、織姫。君が一緒にいてくれて……助かってる」
「その言葉を返してもらうのは、仕事が終わってからで構いません。無事に戻った時に、改めてください」
織姫の口調に笑みはなかったが、それでもどこか温度を感じる返答だった。
信号が青に変わる。
幹也は再びハンドルを握り直し、車を走らせた。
隣には、何かに命を預けるように静かに座る織姫。
先導するのは、幹也自身の意志。
かつての先輩が殺人鬼と化した理由に向き合うため。
そして、自分が何者であるかを問い続けるため。
その夜、二人を乗せた車は、さらに深い夜の帳の中へと進んでいった。