普通ではないふじのんと普通ではないお友達   作:星乃 望夢

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殺人考察(後)Ⅳ

 

 幹也と織姫は、廃倉庫の奥深くへと踏み込んでいた。

 

 天井から差し込む僅かな光が、空気中に漂う埃と生い茂る大麻の葉を浮かび上がらせる。

 

 地面の鉄板は見えず、葉の絨毯が一面を埋め尽くしていた。

 

 踏み込むたびに、ザラザラと靴底がこすれる音だけが、空虚な倉庫内に広がっていく。

 

 その中央に、立っていた。

 

 白純里緒。

 

 かつての先輩。

 

 幹也にとって、過去と未来の狭間にいた、決して越えることのなかった存在。

 

 今、彼は笑っていた。心底楽しそうに。

 

 全てを投げ捨て、解き放たれた快楽の先に居る者の顔で。

 

「やぁ、コクトー。元気そうじゃないか」

 

 その声音は軽い。ふざけているようですらあるのに、どこかぞっとするほど人間味を欠いていた。

 

「……先輩。どうして……」

 

 幹也の声は震えていない。

 

 だが、言葉の奥にある感情は──怒りでも、哀しみでもなく、ただ信じたくないという拒絶だった。

 

 白純は肩をすくめて、両手を広げてみせる。

 

「どうして、ねぇ。そんなの簡単さ。──楽だからだよ、こうしてる方が」

 

 その一言で、幹也の喉元が冷たくなる。

 

 白純はその場でしゃがみこみ、葉をすくうように両手で抱えた。

 

 瑞々しい葉の音を立てながら、それは指の隙間からこぼれていく。

 

「人間はさ、普通っていう幻想の中で無理やり型に嵌められてる。息が詰まるよね。俺みたいな“異物”には、なおさらさ」

 

「だったら、先輩はその“普通”から逃げたんですか?」

 

 静かに、織姫が問いかけた。

 

 白純の瞳が、そこだけわずかに揺れる。

 

「逃げた? 違うよ。“超えた”んだ」

 

 白純は立ち上がる。そのまま幹也の方へと、葉を踏みしめてゆっくり歩いてくる。

 

「俺はね、もう“普通”なんてつまらない鎖には囚われてない。罪? 倫理? 社会? 全部“お前らの都合”でしかないだろ」

 

「……それでも、僕たちはあなたを探しました。戻ってきてほしくて」

 

 幹也の言葉に、白純の動きが止まる。

 

 その顔が、初めて歪んだ。

 

「──お前に、何がわかる。お前は“選ばれた”側の人間だろ……!」

 

 怒りとも、悔しさともつかぬ感情が滲んだ声だった。

 

 幹也は答えられない。

 

 だがその代わりに、織姫が一歩前に出た。

 

「あなたが逃げた“普通”という幻想は、僕たちが必死に手繰り寄せた希望です。幹也先輩も、僕も……そしてきっと、かつてのあなたも」

 

「黙れッ!」

 

 白純が叫ぶ。

 

 鋭く、低く、荒く。

 

「……普通なんて、つまらない。お前らはそれに縋ってるだけだろ。失わないように、壊れないように。……でもな、全部壊してみたら分かるんだ。何にも意味なんてないって」

 

 彼の手が懐に滑り込む。

 

 幹也がとっさに身を固める──が、それは武器ではなかった。

 

 白純の手には、赤く染められた小さな紙片。

 

 あの、事件の被害者が持っていたのと同じ、クスリだ。

 

「お前にも見せてやるよ、コクトー。こっちの世界の色をさ」

 

 幹也の目が見開かれたその瞬間。

 

「──やめろ!」

 

 叫ぶ声が木霊する。

 

 だが、白純の動きは一瞬早かった。

 

 その手はすでに、幹也の口許に赤い紙を押し当てる寸前だった。

 

 そして白純は、楽しそうに、恐ろしく愉快そうに笑った。

 

「──ああ、最っ高だ。壊してやるよ、“普通”なんて」

 

 その瞬間だった。

 

 閃光。

 

 織姫の手に投影された刀が、疾風のごとく白純へと伸びる。

 

 鋭い軌跡が、空間ごと引き裂くように放たれ、白純の身体を弾き飛ばした。

 

 赤い紙片は、幹也の服に届く寸前で宙を舞い、倉庫の奥へ舞い落ちる。

 

 白純は床に転がったが、その顔に浮かんだ笑みは、ますます濃くなっていた。

 

「へぇ……なるほど。お前が“織姫”か」

 

 床の薬草がざわりと鳴る。

 

 対峙する二人の視線がぶつかる。

 

 静寂。

 

 そして、地獄の幕が静かに上がった。

 

 ──白純の身体が、床を弾むように転がった。

 

 乾いた音と共に舞い上がるのは、大麻の葉。

 

 廃倉庫の床を敷き詰めるそれは、白純の着地と共にふわりと浮かび、毒気を孕んだ霧のように空間を撹乱する。

 

 だが白純の姿は、その霧の向こう側でも尚、明瞭だった。

 

「──ちっ」

 

 舌打ちと同時に体勢を立て直し、血を拭いもせず、白純はその目を織姫へと定めた。

 

 敵意でも怒気でもない。

 

 まるで、何か“玩具”を見つけた幼子のような純粋な獣性。

 

「やるじゃねぇか。けどな……そっちは、何人殺った?」

 

 その口元には笑み。

 

 だが、足音がない。

 

 無音の跳躍。

 

 獣が地を駆けるような鋭い踏み込みで、白純は織姫との間合いを一瞬で潰す。

 

 投影──。

 

 織姫の右手には既にナイフが二本生成されていた。

 

 一本は牽制の投擲用。

 

 もう一本は至近距離での応酬に備えた切り札だ。

 

 ──引けば、幹也が殺される。

 

 ならば、下がらない。

 

 それが彼の選択だった。

 

「壊すだけの力に価値はないよ、白純里緒」

 

 冷たい言葉が、だが刃のように響く。

 

 その口調は鋭く、断絶と否定を明確に告げていた。

 

 右手から離れた一閃のナイフが、白純の目の前を横切る。

 

 視界を遮られたその一瞬に、織姫は踏み込み、もう一本の刃を突き出す──。

 

 だが。

 

 白純は、それすら読んでいた。

 

「……そう来るか!」

 

 身体を僅かに捻り、紙一重で刃を避ける。

 

 すぐさま拳を反転させて、逆手で織姫の脇腹を狙うように叩き込む。

 

「思った通りだよ。お前──“読めねぇ”」

 

 その言葉には歓喜すら混ざっていた。

 

 己の感覚に、研ぎ澄まされるような快感。

 

 織姫は咄嗟に身を退きつつも、ナイフの柄で白純の拳を受け止める。

 

 火花が飛び、金属が軋むような音が響く。

 

「マジで人間かよ、お前。──それとも、こっち側の“怪物”か?」

 

「僕は、“人間”で居たいだけだよ」

 

 低く吐き出したその声音に、怯えはない。

 

 だが、確実に体力は削られていく。

 

 白純の攻撃は“理性”に基づいていない。

 

 読み合いが成立しない“本能の暴走”だ。

 

 それでも織姫は引かない。

 

 今この瞬間、自分が倒れれば、次に狙われるのは幹也。

 

 幹也は──ただの人間だ。

 

 だから、守らなければならない。

 

 一方。

 

 その幹也は、ただ目の前の光景を、呆然と見つめていた。

 

(……僕は、なんでここに居るんだ)

 

 問いは、誰にも届かない。

 

 自分の無力さが、これほどまでに痛いと思ったことはなかった。

 

 織姫の身体は、既に何度も裂傷を負い、息も荒い。

 

 それでも、彼は下がらない。

 

 彼の背は、幹也の前に立ち塞がり続けている。

 

(守られてる……)

 

 それが、どれだけの重さか。

 

 織姫の戦い方は、計算ではなく「人間」で在ろうとする意志そのものだった。

 

 見えない手綱を握るように、あらゆる選択肢を頭の中で“創造”し、そこから逆算するという異常なまでの集中。

 

 ──それが、彼の在り方だった。

 

 幹也は唇を噛みしめる。

 

(僕は、“普通”でいたいだけだった。けど今の俺は、ただの傍観者だ)

 

 織姫が背を向けている。

 

 そこに込められた信頼が、重かった。

 

 白純の拳が、織姫の肩を捉える。

 

 鈍い音と共に、血飛沫が舞う。

 

「──織姫!」

 

 思わず声が出た。その声に、織姫が振り向き──かけずに、逆手のナイフで白純の横顔を切り裂く。

 

 血が飛び、白純の笑みが僅かに歪んだ。

 

「……いいね。やっと、愉快になってきた」

 

 幹也の中で、何かが変わり始める。

 

 ──逃げるな。

 

 自分にそう言い聞かせ、幹也はゆっくりと、前へと踏み出した。

 

 その歩みが、戦いの流れを、ほんのわずかに変える。

 

 その一歩は、小さな一歩だった。

 

 けれど、あの瞬間の幹也にとっては、世界の全てを変えるだけの意味を持っていた。

 

 守られてばかりではいけない。自分はもう高校生でもなければ、ただの傍観者でもない。

 

 だから、ただ一歩を踏み出した。

 

 前へ、織姫の隣に並ぶために。

 

 だが──。

 

 その一歩が織姫の注意をわずかに逸らすには、十分すぎた。

 

「──っ!」

 

 織姫の肩越し、影が忍び寄る。

 

 白く細い白純の手首が、ぬるりと空気を裂いた。

 

 既に動作は完了していた。

 

 手刀は迷いなく振るわれ、極限まで研ぎ澄まされた反射神経が、織姫の防御をわずかに上回った。

 

 織姫が気付くより一瞬早く、白純の身体が踏み込む。

 

 伸びた手刀が、織姫の胸元へと向かって突き立てられる。

 

 それは無駄のない、無慈悲な一撃だった。

 

 指先の角度、肩の捻り、軌道の正確さ。

 

 まるで事務的に紙を突き刺すかのような、冷徹な動作。

 

 鋭く切り裂かれた空気が、次に破ったのは、織姫の柔らかな胸部の皮膚だった。

 

 白純の指先が、胸骨を砕き、肉を裂き、臓器を抉る。

 

「──あ……」

 

 漏れた声は、あまりにも小さく。

 

 だが、その一音に、幹也の心は激しく軋んだ。

 

 織姫の身体が仰け反る。

 

 胸の中央に穿たれた傷口からは、真っ赤な液体が噴き出した。

 

 白純の指が、ゆっくりと──ねっとりと──織姫の体内から引き抜かれていく。

 

 その指先は、赤黒く染まり、まるで獣の牙のように濡れていた。

 

 血の雫が指先から床へと滴り、音もなく暗闇に吸い込まれていった。

 

「……うそ、だろ……」

 

 幹也の喉が震えた。

 

 しかし、声にならない。言葉は喉の奥で凍りつき、何もかもが止まってしまったかのように思えた。

 

 織姫が、音もなく膝をつく。

 

 美しく整えられた髪が揺れ、血に濡れた着物の胸元が、幹也の視界に焼きつく。

 

「し、…き………?」

 

 震える唇が、どうにか名前を呼んだ。

 

 けれどそれも、虚空に溶けていった。

 

 織姫の身体が、崩れ落ちる。

 

 何度も戦場を駆け抜けた足が、今は力なく折れ、床に崩れるように横たわる。

 

 その下には、じわじわと広がる赤い池。

 

 人の命が、こんなにも簡単に流れ出すのかと──愕然とするほどに鮮やかな紅。

 

 幹也は立ち尽くしていた。

 

 心の中では、何百、何千もの悲鳴が上がっていたはずなのに、声はひとつも外に出なかった。

 

 そして──白純が、ゆっくりと彼の前に現れた。

 

「──どうした、“普通”の男」

 

 その声は、嘲りと残酷を含んでいた。

 

 織姫を貫いた手刀を再び構え、幹也へと振り上げる。

 

「動けよ。守るんだろ? “普通”の女の子たちをさ」

 

 手刀が振り下ろされる。

 

 ──けれど幹也は、動けなかった。

 

 足が震え、喉が張り付き、目だけが白純を見ていた。

 

 無力という現実が、全身を覆い尽くしていた。

 

 織姫のようにはなれない。

 

 式のようにもなれない。

 

 それでも、何かを守りたかった。

 

 けれど、ただ一歩を踏み出しただけで──。

 

 彼の傍にいた誰かが、こんなにも簡単に倒れてしまうなら。

 

 自分の存在には、いったい何の意味があるのか。

 

 その刹那──幹也の心は、完全に凍りついていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 幹也が崩れ落ち、静かな呼吸音と共にその場に沈んだ。

 

 白純の手刀が彼の首筋をなぞった直後だった。

 

 幹也は抵抗することも叫ぶこともできず、ただ目を見開いたまま、音もなく意識を絶たれた。

 

 織姫は胸を深々と貫かれ、彼の着物はすでに血潮で濡れ、真紅というよりも黒く染まりつつあった。

 

 床に広がる血はじわじわと輪を描き、薄汚れたコンクリートの上に、やがて静かな池となって滲み広がっていく。

 

 倉庫の空気は死の匂いを含んでいた。

 

 天井の蛍光灯は数本が切れかけていて、明滅する青白い光が、より一層不穏な影を二人の上に投げかける。

 

 その中心で、白純はひとり、血塗れの右手をまじまじと見つめていた。

 

 肩で息をしながら、彼はゆっくりと、指を曲げ、開いた。

 

 掌の隙間にまだ温かい織姫の血が絡みついている。

 

 滑るように垂れるそれを、彼は一滴も逃さぬように、唇へと運んだ。

 

 ぴちゃり。

 

 まずは親指の先を、舌でなぞるように舐める。

 

「……はは、ああ、そうか……これは……」

 

 笑みとも、呻きともつかない吐息を漏らし、白純は目を細めた。

 

 まるで懐かしい思い出を味わうように。

 

 指の腹から爪の裏まで、時間をかけて丁寧に、舌が這う。

 

「──式の……匂いがする」

 

 まるで夢を見る子どものような声音だった。

 

 白純の脳裏には、かつて己が追い求めた“空っぽ”と“欲望”の化身──両儀式の面影が浮かんでいた。

 

 けれどそこに横たわっているのは式ではない。

 

 男でありながら、彼女に似すぎている存在、境織姫。

 

 だが今の白純には、そんな事実すらもどうでもよかった。

 

 ただ血が──その熱が──式と酷似していた。

 

 それだけで、白純の意識は満たされていく。

 

 次に人差し指、続けて中指。

 

 

 一本一本、まるで繊細なスイーツでも味わうように、彼は愛おしげに舐め尽くしていく。

 

 ぴちゃ……ぴちゃ……と、異様な湿った音だけが倉庫に木霊する。

 

「そうだ、もっとだ……式の匂いのする、この“彼”の中に、何が詰まってる……?」

 

 陶酔に酔いしれた表情は、理性をとうに手放していた。

 

 赤黒く濡れた指が次々と舌先を濡らし、彼の唇を彩る様は、もはや儀式のようですらあった。

 

 まるで狂信者。

 

 神の血を啜る聖職者のような──だがその“神”は、今もなお、胸から血を流して倒れている。

 

「違う、違うんだ……式じゃない。だけど、どうして……」

 

 口の中で織姫の血を転がし、彼は泣きそうな声で呟いた。

 

 歓喜と困惑、執着と焦燥。

 

 相反する感情が、白純の内部で蠢いていた。

 

 ふと、彼は幹也の方へ視線を移した。

 

「……お前も、こっち側に来るべきだったのにな」

 

 気絶した幹也の頬に、血のついた指先を這わせる。

 

「“普通”なんて──つまらないって、どうして、わからないんだよ……」

 

 織姫の血を纏った指が、幹也の頬を赤く染める。

 

 まるで祝福するかのように、優しく、丁寧に。

 

 ──何かが狂っていた。

 

 倉庫の奥で、音もなく“何か”が崩れていく音がした。

 

 その場には、もう誰の声もなかった。

 

 ただ、血と狂気と欲望の匂いだけが、空気を濁らせていた。

 

 白純は、指を舐める動きを止めなかった。

 

 その表情は、ひたすらに幸福そうで──だがその背後には、確実に、世界を揺るがす何かが、近づいていた。

 

 

 

 

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