普通ではないふじのんと普通ではないお友達   作:星乃 望夢

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殺人考察(後)Ⅴ

 

 ──痛みはあった。

 

 けれど、それはどこか、他人事のようでもあった。

 

 胸を貫かれた瞬間、世界の音が遠ざかった。

 

 白純の手刀が突き刺さる感触、熱い液体が身体から噴き出す感覚──それらは確かに現実のもののはずなのに、織姫にとってはまるで水の底で聴く鐘の音のようだった。

 

 血の匂いがする。自分の血だ。

 

 けれど、その血すら、自分のものではないような錯覚。

 

(……この感覚、久し振りだなぁ)

 

 静かだった。

 

 驚くほど、心は落ち着いていた。

 

 死を受け入れているわけじゃない。

 

 ただ、今の自分が“それを否定できないほど”に追い詰められているということを、淡々と理解しているだけだった。

 

 視界が霞んでいく。

 

 音が、ひどく遠い。

 

 世界はまだあるのに、自分だけがそこから脱落していく感覚。

 

 ──でも、まだ。

 

 死ねない。

 

 ここで倒れてしまえば、幹也が危ない。

 

 幹也はきっと、自分を責めるだろう。自分の無力を悔やむだろう。

 

 ──そんな未来を、織姫は見たくなかった。

 

 たとえこの命が終わるとしても、それだけはさせてはいけない。

 

(……まだだ)

 

 誰かの顔が浮かぶ。

 

 橙子の背。

 

 困った様な巴の顔。

 

 霧絵の眼差し。

 

 藤乃の微笑。

 

 そして、式の背中。

 

 言葉少なに並び立ってきた、あの夜の記憶。

 

 もっと奥の方に──岸波白野がいる。

 

 ──藤丸立香がいる。

 

 彼らの名は、織姫の魂の深奥に刻まれていた。

 

 それは原作知識というような浅いものではなく、根源接続者として刻まれてしまった、いわば「人類の記憶そのもの」だった。

 

 全てを受け入れ、踏み越えてきた人間。

 

 “世界を救った”だなんて大層な肩書きじゃなく、ただ一歩を、確かに踏み出してきた普通の人間たち。

 

 どれだけ絶望の淵でも、何度でも立ち上がり、抗い続けてきた存在。

 

 その記録が、精神の底で織姫を呼び起こす。

 

 ──僕は彼らじゃない。

 

 でも、彼らのように、なりたいと願った。

 

 織姫は「誰か」ではない。

 

 白野にも、立香にもなれない。

 

 式にもなれない。

 

 誰の真似事でもなく、自分は自分でしかない。

 

 けれど、それでも願うことはできる。

 

 たとえ、ここで命を落とすとしても。

 

 せめてこの場に意味を。

 

 誰かの明日が続くように。

 

 未来が、壊されないように。

 

(……“創ろう”、未来を)

 

 この手がもう動かなくても。

 

 この足が立てなくても。

 

 この声が途切れても。

 

 “創造”の起源が、まだこの身体に宿っているのなら。

 

 ──たとえ“創る”ことしかできない存在でも。

 

 守るために創ることだって、できるはずだ。

 

 心の奥で、もう一人の“誰か”が目を覚ましかけていた。

 

 「自分の願い」を押し殺し、ただ完璧であれと創り出された“殻の織姫”。

 

 今はもう、いないはずの彼が、どこかで目を細めている。

 

(……違う。今度は、僕の意志で)

 

 僕が、“僕のまま”未来を創る。

 

 そしてそれは、きっと岸波白野や、藤丸立香が歩んだ道の端にも、繋がっている。

 

 だから、まだ――。

 

 まだだ、

 

 まだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだまだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだまだだまだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだ、

 

 まだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだ、

 

 そう──()()()ッ!

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 重い鉄扉が、鈍い音を立てて開いた。

 

 両儀式が倉庫の内部へと一歩を踏み入れた瞬間、世界は音を潜めたようだった。

 

 空気が違う。

 

 明らかに違う。

 

 肌に張り付くような重さ。

 

 乾いた血の臭いと、焦げた草の匂い。

 

 そしてその底にこびりつくように漂う、甘ったるい煙の気配。

 

 煙草とは違う。

 

 もっと泥臭くて、もっと不自然な匂い。

 

 鼻腔が拒絶を訴える。

 

 だが、それ以上に──視界が、すぐに意味を拒んだ。

 

 一面の赤だった。

 

 血、それも尋常ではない量。

 

 鉄と油と泥が混じりあったような異臭が、空間を満たしている。

 

 床は既に、コンクリートというよりも、赤黒い沼地になっていた。

 

 その中に、倒れている人物がいた。

 

 境織姫──。

 

 血に染まり、胸元には見るも無惨な穴が空いていた。

 

 彼のものだった。

 

 式は目を細める。

 

 その姿が、まるで自身の影を見ているかのようだった。

 

 無防備に倒れた織姫の身体。

 

 細い肩、少女のような容貌。

 

 だが式は知っている。

 

 その内側に、どれほど硬質で、どれほど繊細な魂が宿っていたか。

 

 幹也を守るために、彼は戦っていたのだ。

 

 だというのに──この結末。

 

 脇には、男がいた。

 

 白純里緒。

 

 血に濡れた指を、一本一本舐めながら、舌の動きすら艶めかしく、恍惚とした表情を浮かべていた。

 

 まるで、至福の瞬間を楽しむように。

 

 式の視線が、すっと白純を捉える。

 

 彼の足元──そこに、もう一人。

 

 幹也がいた。

 

 鉄骨の柱に後ろ手で縛られ、口には布が咬まされていた。

 

 意識はある。

 

 だが、うつむいたまま目は虚ろ。

 

 足元には、注射器がいくつも転がっている。

 

 そこには針が付いており、赤い液体が微かに残っていた。

 

 ──薬を盛られた。

 

 それを式は、一目で理解した。

 

 そして気づく。

 

 幹也の目は、見えていない。

 

 意識はある。

 

 だが、それはまるで夢を見ているような瞳だった。

 

 現実の痛みから、距離を取ってしまった者の目。

 

 その事実に、式の心臓が凍りつく。

 

「……遅かったな、式。見たかい? 壊れたんだよ、君が守りたかった“普通”ってやつがさ」

 

 白純の声は柔らかだった。

 

 優しさすら帯びている。

 

 だがその裏には、冷たい悪意と、愉悦が張り付いていた。

 

 式は、何も言わなかった。

 

 何も言えなかった。

 

 その場の現実が、何より雄弁だったからだ。

 

 血の匂い、煙の匂い、薬の残滓、幹也の虚ろな目。

 

 そして、織姫の倒れ伏す姿。

 

 何もかもが──間に合わなかった。

 

 式がここに辿り着くには、致命的に遅かった。

 

 それを認識するのに、言葉など不要だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 倉庫内に、腐った空気が沈殿する。

 

 鉄骨の柱に後ろ手を縛られた幹也は意識を朦朧とさせながら、ゆるやかに揺れていた。

 

 だがそれは、もはや白純の興味ではなかった。

 

 彼の視線はただ、黙したままそこに立つ少女――式へと注がれていた。

 

 いや、少女ではない。

 

 少女の皮を被った、終わりの気配。

 

 無音の殺意。

 

「……やっと来たんだね」

 

 白純はゆっくりと、指先で髪をかきあげた。

 

 指にはまだ、乾ききらぬ赤黒い血がこびりついている。

 

 その匂いを鼻孔に吸い込み、ふぅ、と陶然とした吐息を漏らす。

 

「すごいよ、ほんとに……あれは君の“代用品”なの? “創造された”だけの、コピーのくせに、僕の心を鷲掴みにしてくれた」

 

 式は無言のまま、白純を見つめている。

 

 だが、その沈黙が恐怖ではなく、圧力であることを白純は理解していた。

 

 むしろ、それがたまらなかった。

 

「君の匂いをまとった偽物を、僕は一度壊してみたかったんだ」

 

 白純はゆっくりと舌を舐めるように、己の指先を一本ずつ舐めあげていく。

 

 そこに染み込んだ血を、味わうように、愛でるように。

 

「胸を貫いたときの、あの熱──生々しい温もりが、まだここに残ってる。ねえ、君にも分かる?」

 

 彼は指を唇に押し当て、頬を赤らめた。

 

「彼女の心臓の鼓動が、指先に伝わってきたんだ。その一瞬だけ、僕は君と繋がってた。錯覚でも、それでいい。だってあれは、君の“模造品”だったんだろ?」

 

 ぴくりと、式の指が微かに動く。

 

 それを見て、白純の頬が嬉しさで歪んだ。

 

「……そして、幹也くん」

 

 視線を、幹也へ。

 

「君も素晴らしかったよ。薬の匂いに抵抗して、叫んで、泣いて、最後は目を閉じてしまった。なのに、僕の手刀を受けても反応ひとつしなかったのは偉い。よく耐えた」

 

 白純の言葉は、もはや讃美だった。

 

 彼の中では、すでに破壊は愛の形であり、壊すことこそが交わりの証だった。

 

「式。君は知らないだろうけど──彼の“普通”を壊す瞬間、僕は世界で一番美しいものを見たんだ」

 

 彼は地面に残る血だまりに指を這わせ、それを空へ弾くように指先を鳴らした。

 

「だから僕は、君がそれを“見逃した”ことが、どうしようもなく誇らしいんだよ。君でも届かない領域を、僕は手に入れたってことだろ?」

 

 その声は、震えていた。

 

 歓喜と、昂ぶりで。

 

「さあ、式。どうする? 君の代用品も、君の“普通”も、僕が壊してしまった。次は君自身を味わってみたい。君という“現実”を、僕の中で崩したいんだ」

 

 空気が、ぴたりと止まる。

 

 言葉なき殺意が、ついに動くか。

 

 白純の喉がごくりと鳴った。

 

 刹那、何も語らない式の一歩が、床を軋ませた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 視界が、赤かった。

 

 天井から吊るされた照明はとうに切れていて、代わりに外の街灯が漏れ込むその微光が、廃倉庫の内部を仄かに照らしている。

 

 埃と血の匂いが交じり、肺を満たす度に焼けるような感覚がした。

 

 式は、無言で立っていた。

 

 かつて誰かが「彼女は感情の起伏が乏しい」と評したことがある。

 

 だがそれは表面だけを見た言葉だ。

 

 内側では常に、冷たい怒りや疼くような焦燥が燃えている。

 

 彼女はそれを“静かに”飼い馴らしているに過ぎない。

 

 ──間に合わなかった。

 

 幹也が拘束されている。

 

 その足元には転がった注射器、そして何より、血の池の中に沈んでいる織姫の姿。

 

 式は、声を上げるでもなく、拳を握ることもせず、ただそれを見つめた。

 

 足が、無意識に動いていた。

 

 死んでいない、まだ間に合う。

 

 そう思ったわけではない。

 

 思考より前に、身体が反応していた。

 

 これは、自分の夢の“欠片”を壊されたようなものだったからだ。

 

 白純が、気づいたようにこちらを見た。

 

 その顔には恍惚とした表情。

 

 舌が血に濡れた指先を這い、一本一本味わうように、織姫の名残を舐め取っている。

 

 そして、まるで恋人に語りかけるように言葉を並べる白純。

 

 それが、式の内側で何かを焼いた。

 

 不快感──いや、もっと別の、名前のない感情。

 

 これ以上は言葉にならない。

 

 それでも式は、反射的にナイフを抜くこともせず、ただ、白純へ向けて言葉を落とした。

 

「……くだらない」

 

 冷たい空気が、廃倉庫に流れる。

 

 その言葉だけで、空間の温度が変わったようにすら思えた。

 

「代わり? 偽物? ……最初から、そんなのは関係ない」

 

 式の足が、一歩だけ床を鳴らす。

 

 革靴の音が、微かに反響する。

 

 その視線は白純を捉えながらも、そこに意味を見出していない。

 

「似てたって、同じだったとしても。……あいつには、“あいつの真”があった。それだけで十分だ」

 

 言葉を選んでいるわけではない。

 

 ただ、正直に出てきたままを口にしている。

 

「模造品? 代用品? ……お前がそれで満足なら、勝手にすればいい」

 

 それはまるで、興味がないとでも言いたげだった。

 

「でも──お前の手で壊したものの中に、本物はなかった」

 

 幹也に向けた血の誘惑も、織姫に向けた暴力も。

 

 それはどれも、本質には届いていない。

 

 届いた“つもり”になっているだけの、独りよがりの嗜虐に過ぎなかった。

 

 式は、ゆっくりと目を細める。

 

「……何にも、届いてないくせに」

 

 そして、静かに言葉を落とした。

 

「くだらない理屈を振りかざして、人を見下して、壊して、それで“満たされた”気になってるだけ」

 

 白純は言葉を返さなかった。

 

 あるいは返せなかったのかもしれない。

 

 そんな沈黙の中、式はゆっくりと背筋を伸ばし、最後の一言を告げた。

 

「それと、アイツ。まだ壊れてないぜ?」

 

 白純の目が、ピクリと揺れる。

 

 式の視線を追って振り返った先──。

 

 そこには、血の海に沈んでいたはずの織姫が、胸に開いた穴へ手を添えていた。

 

 その掌から淡い光が漏れている。

 

 治癒魔術。

 

 かすかに震えるその指先は、痛みに震えているのか、それとも──。

 

 しかし確かに、彼は生きていた。

 

 根源へ至る織姫の起源「創造」が、なおも自らの命を繋ぎ止めている。

 

 その姿に、式の口許がわずかに吊り上がる。

 

「な?」

 

 それは、まるで期待を裏切らなかった“彼”に対する、式なりの信頼だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 どぷっ、と肉の内奥から水音が立った。 

 

 血に濡れた床の中、なおも微かに湯気を立てる赤の湖に沈んでいた織姫の身体が、静かに──まるで人形に魂が戻るように、動いた。

 

 右手が、じわりと胸元へ這う。

 

 服の裂け目から覗く白い肌は、今や赤黒く染まり、肋骨の辺りはまだ抉られたままだ。

 

 けれどその指先から放たれる、ごくわずかな光の粒──それは、魔術。

 

 その光に照らされながら、傷はゆっくりと癒えていく。 

 

「……っ」

 

 織姫が息を吸った。

 

 その呼吸が、血の海を撥ね、揺らす。

 

 白純は、その瞬間に凍りついたようだった。

 

 次いで訪れるのは──歓喜。

 

 ぞくり、と背筋を這い上がってくる愉悦の波。

 

「……なァ……嘘だろ、まだ……」

 

 瞳孔が見開かれ、唇が歪む。

 

「立ち上がるのかよ、お前……!」

 

 その声は歓喜とも呪詛ともつかぬ。

 

 だが確かに、高ぶっていた。

 

 白純は、一歩、また一歩と後ずさる。

 

 まるで“それ”が、思い描いた幻想以上の“現実”として目の前に現れたのを受け止め切れずにいるようだった。

 

 いや、否定しながら、心のどこかで求めていたのだ。

 

「ははっ……あはは、あははははっ……!」

 

 喉の奥から溢れ出た嗤いは、しだいに狂気の色を帯びていく。

 

 その手が指先に視線を落とす。

 

 織姫の血がまだ僅かに付着していた。

 

 指一本一本を、舌でゆっくりと、噛むように舐め取る。

 

 まるで高級なソースでも味わうかのように丁寧に、唇を濡らしながら、舌を這わせていく。

 

「……やっぱり違ぇな、式とは。いや、似てる。顔も、体つきも。声もな……けど……」

 

 ぴちゃり、と音を立てて舐めるその声が、不快な湿気を伴って宙を這った。

 

「てめぇは式じゃねぇ……じゃあ、何だ? 偽物か? 代用品か?」

 

 血に塗れた指先を弄びながら、白純はそう呟く。

 

 その言葉が誰に向けられたものか、明白だった。

 

 白純は、視線を横へ動かした。

 

 そこにいたのは、いつの間にか静かにその場へ辿り着いていた“もう一人の同じ顔”。

 

 両儀式。

 

 白純の双眸が、ぞくりと細められる。

 

「よォ……“式”。てめぇ、見てたろ? こいつの壊れっぷり、いや、壊れなさっぷり……」

 

 式は沈黙していた。

 

 殺気も怒りも、敵意さえも放っていない。

 

 ただ、虚無の中に、全てを見透かすような視線だけを注いでいた。

 

 白純はその冷たさにすら高揚を覚えながら、さらに舌を滑らせる。

 

「お前と同じ顔してて、まったく別物だ。けど、根っこの部分がどこか……わかる気がする。てめぇも、昔は“普通”になりたかったクチじゃねぇのか?」

 

 式の瞳がほんのわずかに揺れた。

 

 が、白純は既にその視線を離していた。

 

 再び、真正面に立つ織姫へと。

 

 ──血に濡れながら、それでもなお“立つ”という行為をやめない者。

 

 顔は式そのもの、だが、それは“式”ではない。

 

 そして、式と同じほどに、“式ではないこと”を貫こうとする存在。

 

「──化け物が……!」

 

 白純の顔には、陶酔と恐怖、そして抗い難い執着が渦巻いていた。

 

 それは式に対するものではない。

 

 ただ一人──境 織姫に対しての執着。

 

 両儀式の隣に立つ者としてではなく、唯一無二の“異常”として、白純の狂気の中心に食い込んでいた。

 

 

 

 

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