──痛みはあった。
けれど、それはどこか、他人事のようでもあった。
胸を貫かれた瞬間、世界の音が遠ざかった。
白純の手刀が突き刺さる感触、熱い液体が身体から噴き出す感覚──それらは確かに現実のもののはずなのに、織姫にとってはまるで水の底で聴く鐘の音のようだった。
血の匂いがする。自分の血だ。
けれど、その血すら、自分のものではないような錯覚。
(……この感覚、久し振りだなぁ)
静かだった。
驚くほど、心は落ち着いていた。
死を受け入れているわけじゃない。
ただ、今の自分が“それを否定できないほど”に追い詰められているということを、淡々と理解しているだけだった。
視界が霞んでいく。
音が、ひどく遠い。
世界はまだあるのに、自分だけがそこから脱落していく感覚。
──でも、まだ。
死ねない。
ここで倒れてしまえば、幹也が危ない。
幹也はきっと、自分を責めるだろう。自分の無力を悔やむだろう。
──そんな未来を、織姫は見たくなかった。
たとえこの命が終わるとしても、それだけはさせてはいけない。
(……まだだ)
誰かの顔が浮かぶ。
橙子の背。
困った様な巴の顔。
霧絵の眼差し。
藤乃の微笑。
そして、式の背中。
言葉少なに並び立ってきた、あの夜の記憶。
もっと奥の方に──岸波白野がいる。
──藤丸立香がいる。
彼らの名は、織姫の魂の深奥に刻まれていた。
それは原作知識というような浅いものではなく、根源接続者として刻まれてしまった、いわば「人類の記憶そのもの」だった。
全てを受け入れ、踏み越えてきた人間。
“世界を救った”だなんて大層な肩書きじゃなく、ただ一歩を、確かに踏み出してきた普通の人間たち。
どれだけ絶望の淵でも、何度でも立ち上がり、抗い続けてきた存在。
その記録が、精神の底で織姫を呼び起こす。
──僕は彼らじゃない。
でも、彼らのように、なりたいと願った。
織姫は「誰か」ではない。
白野にも、立香にもなれない。
式にもなれない。
誰の真似事でもなく、自分は自分でしかない。
けれど、それでも願うことはできる。
たとえ、ここで命を落とすとしても。
せめてこの場に意味を。
誰かの明日が続くように。
未来が、壊されないように。
(……“創ろう”、未来を)
この手がもう動かなくても。
この足が立てなくても。
この声が途切れても。
“創造”の起源が、まだこの身体に宿っているのなら。
──たとえ“創る”ことしかできない存在でも。
守るために創ることだって、できるはずだ。
心の奥で、もう一人の“誰か”が目を覚ましかけていた。
「自分の願い」を押し殺し、ただ完璧であれと創り出された“殻の織姫”。
今はもう、いないはずの彼が、どこかで目を細めている。
(……違う。今度は、僕の意志で)
僕が、“僕のまま”未来を創る。
そしてそれは、きっと岸波白野や、藤丸立香が歩んだ道の端にも、繋がっている。
だから、まだ――。
まだだ、
まだだまだだ、
まだだまだだまだだ、
まだだまだだまだだまだだ、
まだだまだだまだだまだだまだだ、
まだだまだだまだだまだだまだだまだだ、
まだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだ、
まだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだまだだ、
そう──
◇◇◇◇◇
重い鉄扉が、鈍い音を立てて開いた。
両儀式が倉庫の内部へと一歩を踏み入れた瞬間、世界は音を潜めたようだった。
空気が違う。
明らかに違う。
肌に張り付くような重さ。
乾いた血の臭いと、焦げた草の匂い。
そしてその底にこびりつくように漂う、甘ったるい煙の気配。
煙草とは違う。
もっと泥臭くて、もっと不自然な匂い。
鼻腔が拒絶を訴える。
だが、それ以上に──視界が、すぐに意味を拒んだ。
一面の赤だった。
血、それも尋常ではない量。
鉄と油と泥が混じりあったような異臭が、空間を満たしている。
床は既に、コンクリートというよりも、赤黒い沼地になっていた。
その中に、倒れている人物がいた。
境織姫──。
血に染まり、胸元には見るも無惨な穴が空いていた。
彼のものだった。
式は目を細める。
その姿が、まるで自身の影を見ているかのようだった。
無防備に倒れた織姫の身体。
細い肩、少女のような容貌。
だが式は知っている。
その内側に、どれほど硬質で、どれほど繊細な魂が宿っていたか。
幹也を守るために、彼は戦っていたのだ。
だというのに──この結末。
脇には、男がいた。
白純里緒。
血に濡れた指を、一本一本舐めながら、舌の動きすら艶めかしく、恍惚とした表情を浮かべていた。
まるで、至福の瞬間を楽しむように。
式の視線が、すっと白純を捉える。
彼の足元──そこに、もう一人。
幹也がいた。
鉄骨の柱に後ろ手で縛られ、口には布が咬まされていた。
意識はある。
だが、うつむいたまま目は虚ろ。
足元には、注射器がいくつも転がっている。
そこには針が付いており、赤い液体が微かに残っていた。
──薬を盛られた。
それを式は、一目で理解した。
そして気づく。
幹也の目は、見えていない。
意識はある。
だが、それはまるで夢を見ているような瞳だった。
現実の痛みから、距離を取ってしまった者の目。
その事実に、式の心臓が凍りつく。
「……遅かったな、式。見たかい? 壊れたんだよ、君が守りたかった“普通”ってやつがさ」
白純の声は柔らかだった。
優しさすら帯びている。
だがその裏には、冷たい悪意と、愉悦が張り付いていた。
式は、何も言わなかった。
何も言えなかった。
その場の現実が、何より雄弁だったからだ。
血の匂い、煙の匂い、薬の残滓、幹也の虚ろな目。
そして、織姫の倒れ伏す姿。
何もかもが──間に合わなかった。
式がここに辿り着くには、致命的に遅かった。
それを認識するのに、言葉など不要だった。
◇◇◇◇◇
倉庫内に、腐った空気が沈殿する。
鉄骨の柱に後ろ手を縛られた幹也は意識を朦朧とさせながら、ゆるやかに揺れていた。
だがそれは、もはや白純の興味ではなかった。
彼の視線はただ、黙したままそこに立つ少女――式へと注がれていた。
いや、少女ではない。
少女の皮を被った、終わりの気配。
無音の殺意。
「……やっと来たんだね」
白純はゆっくりと、指先で髪をかきあげた。
指にはまだ、乾ききらぬ赤黒い血がこびりついている。
その匂いを鼻孔に吸い込み、ふぅ、と陶然とした吐息を漏らす。
「すごいよ、ほんとに……あれは君の“代用品”なの? “創造された”だけの、コピーのくせに、僕の心を鷲掴みにしてくれた」
式は無言のまま、白純を見つめている。
だが、その沈黙が恐怖ではなく、圧力であることを白純は理解していた。
むしろ、それがたまらなかった。
「君の匂いをまとった偽物を、僕は一度壊してみたかったんだ」
白純はゆっくりと舌を舐めるように、己の指先を一本ずつ舐めあげていく。
そこに染み込んだ血を、味わうように、愛でるように。
「胸を貫いたときの、あの熱──生々しい温もりが、まだここに残ってる。ねえ、君にも分かる?」
彼は指を唇に押し当て、頬を赤らめた。
「彼女の心臓の鼓動が、指先に伝わってきたんだ。その一瞬だけ、僕は君と繋がってた。錯覚でも、それでいい。だってあれは、君の“模造品”だったんだろ?」
ぴくりと、式の指が微かに動く。
それを見て、白純の頬が嬉しさで歪んだ。
「……そして、幹也くん」
視線を、幹也へ。
「君も素晴らしかったよ。薬の匂いに抵抗して、叫んで、泣いて、最後は目を閉じてしまった。なのに、僕の手刀を受けても反応ひとつしなかったのは偉い。よく耐えた」
白純の言葉は、もはや讃美だった。
彼の中では、すでに破壊は愛の形であり、壊すことこそが交わりの証だった。
「式。君は知らないだろうけど──彼の“普通”を壊す瞬間、僕は世界で一番美しいものを見たんだ」
彼は地面に残る血だまりに指を這わせ、それを空へ弾くように指先を鳴らした。
「だから僕は、君がそれを“見逃した”ことが、どうしようもなく誇らしいんだよ。君でも届かない領域を、僕は手に入れたってことだろ?」
その声は、震えていた。
歓喜と、昂ぶりで。
「さあ、式。どうする? 君の代用品も、君の“普通”も、僕が壊してしまった。次は君自身を味わってみたい。君という“現実”を、僕の中で崩したいんだ」
空気が、ぴたりと止まる。
言葉なき殺意が、ついに動くか。
白純の喉がごくりと鳴った。
刹那、何も語らない式の一歩が、床を軋ませた。
◇◇◇◇◇
視界が、赤かった。
天井から吊るされた照明はとうに切れていて、代わりに外の街灯が漏れ込むその微光が、廃倉庫の内部を仄かに照らしている。
埃と血の匂いが交じり、肺を満たす度に焼けるような感覚がした。
式は、無言で立っていた。
かつて誰かが「彼女は感情の起伏が乏しい」と評したことがある。
だがそれは表面だけを見た言葉だ。
内側では常に、冷たい怒りや疼くような焦燥が燃えている。
彼女はそれを“静かに”飼い馴らしているに過ぎない。
──間に合わなかった。
幹也が拘束されている。
その足元には転がった注射器、そして何より、血の池の中に沈んでいる織姫の姿。
式は、声を上げるでもなく、拳を握ることもせず、ただそれを見つめた。
足が、無意識に動いていた。
死んでいない、まだ間に合う。
そう思ったわけではない。
思考より前に、身体が反応していた。
これは、自分の夢の“欠片”を壊されたようなものだったからだ。
白純が、気づいたようにこちらを見た。
その顔には恍惚とした表情。
舌が血に濡れた指先を這い、一本一本味わうように、織姫の名残を舐め取っている。
そして、まるで恋人に語りかけるように言葉を並べる白純。
それが、式の内側で何かを焼いた。
不快感──いや、もっと別の、名前のない感情。
これ以上は言葉にならない。
それでも式は、反射的にナイフを抜くこともせず、ただ、白純へ向けて言葉を落とした。
「……くだらない」
冷たい空気が、廃倉庫に流れる。
その言葉だけで、空間の温度が変わったようにすら思えた。
「代わり? 偽物? ……最初から、そんなのは関係ない」
式の足が、一歩だけ床を鳴らす。
革靴の音が、微かに反響する。
その視線は白純を捉えながらも、そこに意味を見出していない。
「似てたって、同じだったとしても。……あいつには、“あいつの真”があった。それだけで十分だ」
言葉を選んでいるわけではない。
ただ、正直に出てきたままを口にしている。
「模造品? 代用品? ……お前がそれで満足なら、勝手にすればいい」
それはまるで、興味がないとでも言いたげだった。
「でも──お前の手で壊したものの中に、本物はなかった」
幹也に向けた血の誘惑も、織姫に向けた暴力も。
それはどれも、本質には届いていない。
届いた“つもり”になっているだけの、独りよがりの嗜虐に過ぎなかった。
式は、ゆっくりと目を細める。
「……何にも、届いてないくせに」
そして、静かに言葉を落とした。
「くだらない理屈を振りかざして、人を見下して、壊して、それで“満たされた”気になってるだけ」
白純は言葉を返さなかった。
あるいは返せなかったのかもしれない。
そんな沈黙の中、式はゆっくりと背筋を伸ばし、最後の一言を告げた。
「それと、アイツ。まだ壊れてないぜ?」
白純の目が、ピクリと揺れる。
式の視線を追って振り返った先──。
そこには、血の海に沈んでいたはずの織姫が、胸に開いた穴へ手を添えていた。
その掌から淡い光が漏れている。
治癒魔術。
かすかに震えるその指先は、痛みに震えているのか、それとも──。
しかし確かに、彼は生きていた。
根源へ至る織姫の起源「創造」が、なおも自らの命を繋ぎ止めている。
その姿に、式の口許がわずかに吊り上がる。
「な?」
それは、まるで期待を裏切らなかった“彼”に対する、式なりの信頼だった。
◇◇◇◇◇
どぷっ、と肉の内奥から水音が立った。
血に濡れた床の中、なおも微かに湯気を立てる赤の湖に沈んでいた織姫の身体が、静かに──まるで人形に魂が戻るように、動いた。
右手が、じわりと胸元へ這う。
服の裂け目から覗く白い肌は、今や赤黒く染まり、肋骨の辺りはまだ抉られたままだ。
けれどその指先から放たれる、ごくわずかな光の粒──それは、魔術。
その光に照らされながら、傷はゆっくりと癒えていく。
「……っ」
織姫が息を吸った。
その呼吸が、血の海を撥ね、揺らす。
白純は、その瞬間に凍りついたようだった。
次いで訪れるのは──歓喜。
ぞくり、と背筋を這い上がってくる愉悦の波。
「……なァ……嘘だろ、まだ……」
瞳孔が見開かれ、唇が歪む。
「立ち上がるのかよ、お前……!」
その声は歓喜とも呪詛ともつかぬ。
だが確かに、高ぶっていた。
白純は、一歩、また一歩と後ずさる。
まるで“それ”が、思い描いた幻想以上の“現実”として目の前に現れたのを受け止め切れずにいるようだった。
いや、否定しながら、心のどこかで求めていたのだ。
「ははっ……あはは、あははははっ……!」
喉の奥から溢れ出た嗤いは、しだいに狂気の色を帯びていく。
その手が指先に視線を落とす。
織姫の血がまだ僅かに付着していた。
指一本一本を、舌でゆっくりと、噛むように舐め取る。
まるで高級なソースでも味わうかのように丁寧に、唇を濡らしながら、舌を這わせていく。
「……やっぱり違ぇな、式とは。いや、似てる。顔も、体つきも。声もな……けど……」
ぴちゃり、と音を立てて舐めるその声が、不快な湿気を伴って宙を這った。
「てめぇは式じゃねぇ……じゃあ、何だ? 偽物か? 代用品か?」
血に塗れた指先を弄びながら、白純はそう呟く。
その言葉が誰に向けられたものか、明白だった。
白純は、視線を横へ動かした。
そこにいたのは、いつの間にか静かにその場へ辿り着いていた“もう一人の同じ顔”。
両儀式。
白純の双眸が、ぞくりと細められる。
「よォ……“式”。てめぇ、見てたろ? こいつの壊れっぷり、いや、壊れなさっぷり……」
式は沈黙していた。
殺気も怒りも、敵意さえも放っていない。
ただ、虚無の中に、全てを見透かすような視線だけを注いでいた。
白純はその冷たさにすら高揚を覚えながら、さらに舌を滑らせる。
「お前と同じ顔してて、まったく別物だ。けど、根っこの部分がどこか……わかる気がする。てめぇも、昔は“普通”になりたかったクチじゃねぇのか?」
式の瞳がほんのわずかに揺れた。
が、白純は既にその視線を離していた。
再び、真正面に立つ織姫へと。
──血に濡れながら、それでもなお“立つ”という行為をやめない者。
顔は式そのもの、だが、それは“式”ではない。
そして、式と同じほどに、“式ではないこと”を貫こうとする存在。
「──化け物が……!」
白純の顔には、陶酔と恐怖、そして抗い難い執着が渦巻いていた。
それは式に対するものではない。
ただ一人──境 織姫に対しての執着。
両儀式の隣に立つ者としてではなく、唯一無二の“異常”として、白純の狂気の中心に食い込んでいた。