普通ではないふじのんと普通ではないお友達   作:星乃 望夢

34 / 37
殺人考察(後)Ⅵ

 

 式は、何も言わなかった。

 

 言葉は必要なかったし、むしろ、この場には相応しくなかった。

 

 喉の奥に張り付いたような不快な空気と、血と薬物と汗と、そして何より“壊れかけた”ものたちの匂い。

 

 吐き気を催すほどに濁ったその空間で、式はただ、見ていた。

 

 白純の視線の中に、狂気と興奮があったのはすぐに分かった。

 

 ただの殺人者ではない。

 

 あれは──人を壊すことでしか、自分という枠を保てない奴だ。

 

 破壊を渇望し、破壊に救われ、破壊の中にだけ生きている、空虚な人形。

 

「くだらない」

 

 改めて小さく、式の中で声がした。

 

 けれどそれは、口には出さない。

 

 いや──出す必要がなかった。

 

 織姫が、立ち上がったからだ。

 

 見れば、織姫はまだ胸の中心を穿たれたまま、血を滴らせながら、立っていた。

 

 式と同じ顔を持ちながら、だがしかし、式にはできないことを、織姫はやってのけた。

 

 自分だったら──どうしただろう。

 

 心臓を貫かれたまま立ち上がれるか?

 

 あんなふうに、誰かのために、自分が盾になることを“選ぶ”なんて。

 

 たぶん、無理だ。

 

 私は──そんな器じゃない。

 

「……けどな」

 

 視界の端で織姫の治癒魔術の光が明滅していた。

 

 理に抗い、命に抗い、意志だけで立つ“私の姿をした他人”。

 

 でもそれは──紛れもなく、本物だった。

 

 たとえ魂の在り処が違っても。

 

 生まれや記憶が違っていても。

 

 抗う為に自己に私を投影しようとも。

 

 そこに“自分”を持って立つことができるなら、それはもう──模造品なんかじゃない。

 

 式は、白純の狂気の羅列を聞きながら、どこか冷静にその場を見つめていた。

 

 幹也が囚われ、織姫が傷つけられた。

 

 許せるか許せないかといえば、──後者に決まっている。

 

 でもそれ以上に。

 

 あの“偽物”と呼ばれた少年が、立ち上がって“本物”を証明しようとする、その姿。

 

 それが何より、式の中の何かを強く揺さぶっていた。

 

 ──あいつ、まだ壊れてない。

 

 それが嬉しいわけじゃない、救われたわけでもない。

 

 ただ、そこに立っているという事実だけが、式の中の“殺意”と“存在理由”を、ほんの一瞬だけ押しとどめた。

 

 殺せば楽になれる。

 

 でも、殺さずに終わる未来も──あっていいと思った。

 

 式は、ただ静かに一歩、織姫の隣へと歩み寄った。

 

 その眼差しは、かつて誰にも向けなかった穏やかさと、戦いへの準備を含んだ鋭さを宿していた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 視界に、二人の「式」が並び立った。

 

 ──いいや、違う。

 

 あれは式じゃない。

 

 片方は、似ているだけの“贋作”だ。

 

 そう、白純は何度もそう断じてきた。

 

 片方は本物の“死”を背負って生きている。

 

 もう片方は、模しているだけ。

 

 似せて、なぞって、足りないものを埋めるように振る舞っている。

 

 だから偽物で、だから脆いと。

 

 けれど。

 

「──なんだよ、それ」

 

 胸の奥が、妙な圧迫感を訴えていた。

 

 似ているはずなのに、そこに立つ二人は、あまりにも違っていた。

 

 にもかかわらず、確かに、どこかで“並び立っている”という不快な現実。

 

 白純の目は、無意識のうちにその均衡を見極めようとする。

 

 織姫、あの贋作。

 

 ボロボロだ。

 

 胸を貫かれ、血を流してなお立ち上がった。

 

 回復魔術で身体をつなぎ止め、痛みをごまかしながらなお、足を止めない。

 

 人間の真似事をしていたはずの人形が、自我を持ち始めたような──。

 

 ……それは、かつての自分が見捨てた何かを、目の前で取り戻されるような気分だった。

 

「あれで、まだ……立つのかよ」

 

 吐き気がした。

 

 美しいものを見せられたときの、拒絶に近い感情。

 

 自分の中の醜さが浮き彫りになるようで、胸の内側がざらついた。

 

 式が隣に並ぶ。

 

 今の自分にとって、唯一と呼べる“同類”──そう信じていたはずなのに。

 

 その式が、何の疑念もなく織姫の隣に立った。

 

 式にとっても、織姫は「ただ似ているだけ」の存在じゃないのか?

 

 否定されると思っていた。

 

 「違う」と一蹴され、贋作を切り捨ててくれると信じていた。

 

 なのに。

 

 ──あいつ、まだ壊れてないぜ?

 

 思い出してしまった。

 

 さっきの、式の言葉。

 

 その言葉に、心の奥が軋んだ。

 

 まるで、自分こそが壊れていると突きつけられたようで。

 

「ふざけんなよ……おい」

 

 思考が熱を持ち、感情が軋む。

 

 式の存在が自分を否定する。

 

 織姫の存在が自分の逃げを突きつける。

 

 じゃあ、なんだ。

 

 壊れているのは──俺のほうか?

 

 歪んでいるのは、俺のほうか?

 

 狂っているのは──俺ひとりだけか?

 

「……は、ははっ……」

 

 笑いが漏れた。

 

 かすれた、悲鳴のような嗤いだった。

 

 やっぱり、許せなかった。

 

 あの贋作が、真っ当に人間のように立っていることが。

 

 “本物”に並んで、肯定されていることが。

 

 なら──壊すしかない。

 

 どちらが本物かを決める必要なんて、もうない。

 

 あの目障りな贋作も、あの“黙して語らない”本物も。

 

 両方まとめて壊してしまえばいい。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 血の匂いが、まだ鼻腔の奥に残っていた。

 

 胸を貫かれた傷は、治癒魔術で癒したとはいえ、骨を穿たれた痛みは身体に染みついている。

 

 呼吸のたびに肺が痛み、鼓動が一拍遅れて返ってくる。

 

 冷えた体温の中で、彼は自らの意思で立ち続けていた。

 

 ──立たなくては。

 

 意識の底でそう囁く声があった。

 

 胸に空いた穴、それは物理的な傷だけではない。

 

 戦闘技術も思考も通じない敵、白純里緒の圧倒的な“速さ”と“狂気”に、織姫は戦士としても人としても打ち砕かれていた。

 

 彼の読みは、彼の刃は、彼の戦略は、すべて白純の前では紙のように脆かった。

 

 ──怖かった。

 

 そのことを、織姫は誰にも言えずにいた。

 

 だが、それでも。

 

 式が隣に立った今──心の奥底に灯ったものがある。

 

 彼女と、並び立つために自分はここまで来たのだ。

 

 彼女のように、強くありたかった。

 

 同じ顔を持ちながら、自分とは違う、確かな何かを持つ存在。

 

 “死”とともに生き、“殺す”という選択に迷いなく至れる存在。

 

 自分にないものをすべて持つ、唯一無二の「両儀式」。

 

 ──けれど。

 

 彼は今、その式と、並んでいる。

 

 戦いにおいては何も届かず、守ることすらできなかった。

 

 幹也は囚われ、胸を貫かれ、自分の存在は崩れかけていた。

 

 それでも、式は言ってくれた。

 

「まだ壊れてないぜ?」

 

 その言葉は、織姫の中の“自分”を拾い上げた。

 

 偽物でも、模倣でも構わない。

 

 自分が“それ”を望んでここに立ち、誰かを守ろうとしているのなら──。

 

 それが、彼の「真」なのだ。

 

 思い出すのは、幹也の優しさ。

 

 藤乃の手の温もり。

 

 霧絵の静かな微笑。

 

 巴の苦笑い。

 

 戦場を駆けた仲間たち、過ぎ去った時間。

 

 そして──ムーンセルの月光の記録。

 

 岸波白野。

 

 人理を修復する旅路を征く只人。

 

 藤丸立香。

 

 世界の果てに手を伸ばした者たち。

 

 彼らの“信じる”という選択が、ここにある自分を導いた。

 

「……俺は、境織姫だ」

 

 誰にも似ていない。

 

 誰の代わりでもない。

 

 両儀式に似ていたとしても、それは“始まり”であって“終わり”ではない。

 

 だから、立つ。

 

 だから、抗う。

 

 目の前の白純里緒の狂気を、止めるために。

 

 それが、織姫にとっての「真実」であり、「生きている意味」なのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 空気が張り詰めた。

 

 目の前にいる白純里緒の双眸が、確かな殺意をもって二人を射抜く。

 

 ──来る。

 

 織姫の思考がその兆しを捉えた刹那、白純が地を蹴った。

 

 鉄骨の支柱を利用して低く跳躍し、軌道をわざと乱したような不規則な動きで接近してくる。

 

 視線は式へと向いているが、その殺気は二人同時を視野に収めていた。

 

「……ッ!」

 

 床に転がっていたナイフが、視界の端にあった。

 

 織姫はそれを一瞬で認識し、体を低く捻って脚を振るった。

 

 鋭く蹴り上げられた黒いナイフが弧を描いて宙に舞い、その柄を織姫の右手が確実に掴む。

 

 その一連の動作が終わるより早く、白純の接近は完成していた。

 

「やっぱり、似てる……いや、やっぱり違う……でも、それでもッ!!」

 

 笑いながらも白純の眼差しは獣のそれだった。

 

 織姫へと伸びた右手の手刀。

 

 その軌道を読んだ式は、迷いなくナイフを横一文字に振るった。

 

 シュッという風切り音。

 

 白純の腕がわずかに裂け、細い血飛沫が宙に舞った。

 

 式は言葉を発しなかった。

 

 ただ、一歩、さらに一歩、地を踏みしめ、再び白純の間合いへと歩を進める。

 

 織姫はそれを見ていた。

 

 その無言の背中に、式の意思を読み取った。

 

 ──「私がやる。お前は、彼を守れ」と。

 

 織姫は頷きもせず、静かに踵を返した。

 

 その一瞬でも、背中に殺気を感じた。

 

 白純は一瞬、織姫を追おうとした。

 

 だがその動きを式の踏み込みが塞ぐ。

 

 まるで護るように、道を切り取って。

 

 ──……任せる。

 

 胸の奥に静かに湧いた信頼を抱え、織姫は幹也の元へと走った。

 

 鉄骨の柱に縛られたまま、意識はあるのかないのか、微かに目を開ける彼の足元には、確かに転がる注射器があった。

 

 腐臭混じりの麻の香りがあたりに満ちている。

 

「……ごめんなさい、今は手段を選べない」

 

 織姫は膝をついた。

 

 片手で幹也の頬を支え、もう一方の手で自らの口元を拭った。

 

 創造の起源。

 

 その力を指先に込めて、自らの唾液腺に治癒と抗毒の概念を構築する。

 

「大丈夫……俺が、元に戻すから」

 

 低く、優しく。

 

 それでも凛とした声。

 

「だから“普通”に還ってきて、コクトー先輩」

 

 唇が重なった。

 

 注がれる唾液は、魔術ではなく、「創造」そのもの。

 

 人間の内側にあってはならぬ力を、織姫はこの瞬間、ただ幹也のために使っていた。

 

 戦いの音が背後で響いている。

 

 鋼の鳴る音と、誰かが踏み込む足音。

 

 殺意の跳ねる気配。

 

 白純と式が拮抗し、火花を散らしている。

 

 織姫は幹也を抱きしめたまま、その音を聞いた。

 

 それでも、自分のやるべきことは一つしかなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 意識が、浮上する。

 

 焦点の合わない視界に、ぼやけた光が差していた。

 

 鼻腔をくすぐるのは──焦げた草のような、鉄錆のような、奇妙に混じり合った臭気。

 

 そして、柔らかくもひどく震えている、腕の感触。

 

(……ここは……どこだ……?)

 

 思考はまだ断片的だった。

 

 それでも、首筋にかすかに残る痛みと、異様に熱を持った体内の違和感が、自分の身体が何かされていたことを告げている。

 

 そして何よりも、自分を支えているその腕──。

 

「……織姫……?」

 

 かすれた声で呼ぶと、目の前にいた人影がぴくりと動いた。

 

 血に染まった着物。

 

 蒼白な顔に浮かぶ安堵と、痛みに耐えるような緊張の入り混じった微笑。

 

 それが誰であるか、ようやく幹也の中に認識が定着する。

 

 ──境織姫。

 

 だが、彼の記憶にある“丁寧で穏やかだった”彼の姿とは違う。

 

 頬には血がつき、口元にはまだわずかに赤が残る。

 

 呼吸は浅く、何かを必死に隠しているように見えた。

 

「……大丈夫……まだ、全部は抜けてない。でも、間に合った……から」

 

 その言葉を聞いて、幹也はようやく己の状態を理解した。

 

 拘束されていた腕は今も背後に回されたまま。

 

 だが、頭の中の靄は晴れていた。

 

 織姫が何かしらの“方法”で自分を救ってくれたのだ。

 

「……ありが……」

 

 言いかけて、ふと耳に飛び込んできた激しい金属音が、幹也の視線を遠くへ向けさせた。

 

 荒れ果てた倉庫の空間、かつての荷台の残骸の上。

 

 ──斬撃、跳躍、血の音。

 

 そこにいたのは、式だった。

 

 蒼い着物に赤い革ジャケットを纏い、白銀の線を描き、舞うように戦う“彼女”がいた。

 

 対峙するのは白純里緒。

 

 左腕を失っているはずの彼はなおも躍動し、式と正面から渡り合っている。

 

 幹也の呼吸が、一瞬で浅くなる。

 

 式の背中が見えた。

 

 織姫と同じように、自分を守ろうとしてくれていたその背が、目の前で殺意に対峙していた。

 

 ──このままでは、きっと式は。

 

「……やめろ……」

 

 幹也の唇が動いた。

 

 誰に向けてでもない。けれど確かに、そこに籠もった願いは一つだった。

 

 「……式……殺すな……!」

 

 叫びだった。自分でも思わずそうなっていた。

 

 だが、それは幹也にとって確信に近かった。

 

 式が白純を殺せば、何かが取り返しのつかないまま終わってしまう。

 

 織姫が、自分が、ここまでの痛みを抱えてきた意味が失われてしまう。

 

 白純を止めたい。

 

 でも、壊してしまってはいけない。

 

 たとえそれが、どれだけ醜くて許せないものであったとしても。

 

 きっと、それを理解できるのは、式も、織姫も、そして──自分も同じだった。

 

 戦いの中で聞こえるはずのない声。

 

 けれどその言葉は、誰よりも強く、式の耳に届いたと、幹也は信じていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ──殺すな。

 

 幹也の声が、倉庫の空気を震わせた。

 

 振るわれかけていた式の手が、わずかに止まる。

 

 鋭く冷徹だったナイフの軌道が、わずかに外れ、白純の頬を掠めて鉄骨に突き刺さる。

 

 振り返ることはなかった。だがその言葉は、式の胸を打った。

 

(──また、か)

 

 式の眉が僅かに動く。

 

 かつて橙子に言われた言葉が脳裏に蘇る。

 

 「お前は二度目は殺せない」と。

 

 殺しという行為が、決して反復されることのない“人間の限界”であるならば──。

 

(アイツは、私を“人間”にしようとしてる)

 

 おかしいな、と式は思った。

 

 殺すことに迷いなどなかったはずなのに。

 

 殺すことが赦されるほど、織姫は血を流していた。

 

 それでも、式の手は止まっていた。

 

 ──「それと、アイツ。まだ壊れてないぜ?」

 

 織姫のあの言葉が、背中を押した。

 

 幹也の叫びが、それを引き留めた。

 

 壊さない、止める。

 

 ならば、この戦いの意味は、死ではなく“終わらせる”ことにある。

 

 式はナイフを抜き取ると、無言のまま、もう一度白純へと視線を向けた。

 

 その目には、冷ややかな怒気ではなく──沈んだ静寂があった。

 

 一方、その言葉を聞いた白純は、まるで別人のように顔を歪めた。

 

 顎が震え、唇が釣り上がる。

 

「……あはっ……はははっ……なるほど。なるほど、そういうことかよ!」

 

 狂気が弾けたような声が倉庫内に響く。

 

「“普通”のくせに……そのくせに、オレたちのことをそんな風に見るのかよ!」

 

 白純の顔に怒りとも歓喜ともつかない感情が走る。

 

 彼にとって“普通”とは、忌むべき呪いであり、全ての否定だった。

 

 だがその“普通”にいる男が、今、二人の異常を引き止めようとしていた。

 

「織姫も、式も、殺しを選ばないってわけだ。綺麗なもんだなあ……でもなァ」

 

 白純は唇を吊り上げ、足元の血溜まりをぐしゃりと踏みしめた。

 

「オレは綺麗事なんて認めない。認めたら──オレが“選んだ”異常の全部が、間違いだったってことになる」

 

 その言葉は、自嘲であり、宣言であり、哀れな決意でもあった。

 

 式の背を見据えながら、白純は嗤った。

 

 血の匂いと、大麻の香りと、溶けた意識の渦の中で。

 

 「なら──止めてみろよ。“殺さずに”ってやつをさ」

 

 それは挑発ではなかった。

 

 自分でも止まれないと知っている人間の、最後の足掻きだった。

 

 殺してくれと、心の奥底で願っているくせに。

 

 誰かに否定して欲しくて、壊して欲しくて、でも──それを認めたくなくて。

 

 白純里緒は、ナイフを構え直した式へと、真っすぐに飛びかかっていった。

 

 その刹那。

 

 式の足が、地を蹴った。

 

 “殺さない”という選択肢の中で、彼女は刃を振るう。

 

 誰よりも鋭く、誰よりも真っ直ぐに──壊さず、終わらせるために。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 「──その願い、叶えてあげる」

 

 それは静謐なる祈りのようで、同時に、絶対の宣告でもあった。

 

 目の前に立つ織姫は、すでに“さっきまでの織姫”ではなかった。

 

 幹也が見上げたその姿は、着物を血で汚しながらも、月光を背に浮かび上がる一人の“姫”の幻影。

 

 いや──まるでこの現実を塗り替える、幻想そのものだった。

 

 光ではなく、構造そのものを編み直す。

 

 織姫の周囲の空間が、言葉ではない“定義”によって書き換えられていく。

 

 風が止み、空気が沈黙し、時間さえも命令に従うように緩やかに淀む。

 

 それは固有結界ではなかった。

 

 自我の世界の具現ではなく、“起源”と“根源”が重なり生まれる、「世界そのものの再定義」。

 

 空想具現化──。

 

 ただの想像でしかなかった理想が、因果と物理に逆らい、絶対に等しい力として現実に刻まれる。

 

 織姫は静かに地を踏み、白純へと歩を進めていた。

 

 その軌跡のすべてが「この世界ではそうあるべき」と命じられ、世界はそれに従っていた。

 

 式は、まるで知らない何かを見ているような感覚に囚われていた。

 

 あれは“あいつ”──あの織姫ではない、けれど、確かに“あいつの芯”に宿っていたものだ。

 

(……人間、か?)

 

 力の本質は確かに“異常”だった。

 

 だが、そこにある心は“優しさ”だった。

 

 どんなに異質な力を纏っていても、そこに“お前を殺さない”という意志がある限り──。

 

(……やっぱり、こいつは“私とは違う”)

 

 それは羨望でもあり、微かな嫉妬でもあり、同時に深い理解でもあった。

 

 白純は──身をすくませていた。

 

 そう、彼自身も気づかぬうちに、織姫から漂う“気配”に、心が揺さぶられていた。

 

 血の匂いも、大麻の熱も、全てが遠ざかる。

 

「なん……だ、これ……」

 

 声が震えていた。

 

 織姫が“何かをしている”のではない。

 

 ただ、そこに「そうあってはいけない」ものが立っている──その事実が、白純の精神を鈍化させる。

 

 殺意が萎える。

 

 否、そもそも“殺す”という欲求そのものが、世界から“消えていく”。

 

(まるで──“終わり”を許さない世界だ)

 

 白純の中の異常が、冷えていく。

 

 まるで体温を奪われたように、己の衝動が“保留”にされていく。

 

 怒りも、快楽も、破壊欲も、全てが“未来の彼”に封じられていく。

 

「クソ、やめろ……やめろ……! オレの中から、オレを奪うなッ!」

 

 白純は叫ぶ。

 

 だが、織姫の世界の中では、どれほどの叫びも“壊す”ことはできなかった。

 

 幹也は──ただ、見上げていた。

 

 血に濡れ、傷付き、命を削りながら、それでも誰かを救おうとする織姫の姿を。

 

 彼女はもう、彼の知る“彼”ではなかった。

 

 けれど、きっと最初から──“そういう人”だったのだ。

 

(僕なんかより、ずっと……)

 

 痛みも、迷いも、全部を背負って、それでも人を壊すことなく救おうとする。

 

(どうして、そこまでして……)

 

 問いが胸に宿る。

 

 けれどその答えは、きっともう言葉では説明できないものだった。

 

 ただ一つだけ確かに言えるのは、幹也の目には“美しい”と映ったこと。

 

 どれだけ異常で、異質で、異端であろうと──。

 

 それでも境織姫は、人を殺さないことを選んだ。

 

 たった一人の叫びを叶えるために。

 

 それが、彼女の“真”だった。

 

 そして、白純の足元から、透き通るような“結晶”が立ち上がり始める。

 

 それは封印──。

 

 彼の衝動を、存在を、“生かしたまま”静止させる、唯一の方法。

 

 空想具現化で具現された「この世界の中で彼は“止まっているべき”」という定義。

 

 それが今、白純を飲み込もうとしていた。

 

 月を背に、祈るように立つ織姫の姿は、まるで“月の姫”──いや、“この世界を編み直す織姫星”だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 空想具現化の世界。

 

 それは現実に似て非なる、だが、確かに“この現実”を上書きする法則の世界だった。

 

 その内部で白純里緒は、ただ一人、揺らぎ続けていた。

 

 理屈ではなく、衝動としての拒絶。

 

 「普通」を憎み、「異常」を抱き、「破壊」こそが自分の証だった。

 

 ──なのに、それが、鈍い。

 

 燃え滾るはずの怒りが、熱を持たない。

 

 爆発するはずの殺意が、沸き立たない。

 

 代わりに押し寄せてくるのは、過去だった。

 

 破壊した教室の窓。

 

 階段から突き落とした同級生の悲鳴。

 

 火を点けた廃工場の記憶。

 

 ―――人を殺した。

 

 罪を犯した。

 

 それを“楽しい”と笑った。

 

 だが今、その記憶を思い出しても、胸が熱くならない。

 

 怒りがこみ上げない。

 

 衝動が走らない。

 

 代わりに胸を締めつけるのは──

 

 「……罪悪感……?」

 

 震えた唇が、かすかにそう呟いた。

 

 信じたくなかった。認めたくなかった。

 

 それでも、織姫の世界は容赦なく“定義”してくる。

 

 お前の異常性は、すでに切り離されたのだと。

 

 殺意も怒りも、未来の“お前”に託されたのだと。

 

 「ふざけるな、返せ……返せよッ、俺の“異常”をッ!」

 

 絶叫した。

 

 魂の奥から、喉が裂けるほどに吠えた。

 

 が──。

 

 そこに現れたのは、無言で歩む織姫の姿だった。

 

 月を背に、静かに進む、白き着物の人物。

 

 紅の血に染まりながら、なおも崩れず、真っ直ぐに歩みを刻む。

 

 織姫は、無言のまま刀を投影する。

 

 それは強さではなかった。

 

 怒りではなかった。

 

 ──ただ、誰かの願いを叶えるという、信念の一太刀だった。

 

 一閃。

 

 刀身が白純の肉体を裂いたわけではない。

 

 だが、その刃は確かに“異常”そのものを断ち切った。

 

 魂の奥にこびりついていた“呪い”のような感情が、霧のように吹き飛ばされた。

 

 同時に、世界の演算も終わる。

 

 空想具現化の定義が完了し、白純の“存在そのもの”が、「異常な白純」ではなく、「普通である白純」に再編されていく。

 

 そして──残ったのは、ひとりの“普通”の少年だった。

 

 白純里緒は、崩れ落ちた。

 

 膝を突き、両手を床に着く。

 

 呼吸は荒く、身体は震え、目から涙がこぼれていた。

 

「……これが……普通……か……?」

 

 その声は、酷く掠れていた。

 

 もう殺意はなかった。

 

 怒りもない。

 

 大麻の快楽もない。

 

 胸を裂く衝動も、憎しみも、狂気も、何一つ残っていなかった。

 

 ただそこにあったのは──。

 

 「……痛えよ……なんで、こんな……痛えんだよ……」

 

 初めて、彼は“痛み”を痛みとして感じた。

 

 人を傷つけた過去の全てが、ただ「自分は悪かった」と告げてきた。

 

 罪に鈍感でいられた己は、もうどこにもいない。

 

 呆然と天を仰ぎ、月を見上げる。

 

 そこに佇む織姫の姿は、まるで神話に語られる“月の巫女”のようだった。

 

 あまりに、遠い。

 

 あまりに、美しい。

 

 あまりに、残酷なほどに──自分と違っていた。

 

「なんで……お前が、そんな顔で……俺を、救ってんだよ……」

 

 問いかけには、答えはなかった。

 

 ただ織姫は、その目に何の憎しみもなく、彼を“生かす”と決めた瞳で見ていた。

 

 その視線が、何よりも白純を苦しめた。

 

 赦されたわけじゃない。

 

 だが、切り捨てられなかった。

 

 ──それが、いちばん痛い。

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。