その場に、風が吹いた気がした。
月を背に、刀を収めた織姫は一歩、また一歩と白純に背を向けて歩き出す。
膝をついて泣く少年を見下ろすこともなく、その存在を責めることもなく。
ただ──終わった、という確信を得たのだろう。
そしてその次の瞬間、静かに、まるで崩れる様に織姫の身体が傾いだ。
「あ──っ」
声が出るよりも早く、式の腕がその身体を受け止めていた。
血の色に染まった着物は、乾いてきているというのに、まだ温かい。
瞼を閉じた織姫の顔には、苦悶も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ、使命を終えた者の静けさがあった。
「……やっぱり、限界だったんだな」
そう呟いたのは式だった。
低く、どこか押し殺すような声。
しかしその表情には、驚きも焦りもない。
覚悟していた。
誰よりも、彼が無理をしていたことを。
「……織姫……」
幹也は、思考だけが先に立つようにその名を呟いた。
まだ身体は言うことをきかない。
解毒されたとはいえ、感覚は鈍く、重い。
けれど、目の前で崩れ落ちたその姿が、現実であることを否応なく突きつけてくる。
「僕……っ、僕は……何もできなかった」
喉が詰まる。胸が焼ける。
悔しさか、悲しさか、それとも無力さか。
わからない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
自分は、織姫が庇ってくれた存在だったということ。
守られて、護られて、それでもまた守られたということ。
「式……」
幹也は、縋るように式の名を呼んだ。
式は織姫を腕に抱えたまま、その顔を見ないまま答えた。
「言わなくてもわかってる。……言いたいことも山ほどある」
それは、きっと自分も同じだ。
幹也はそう思った。だが、口にはしない。
言葉にしてしまえば、涙が出そうだったから。
「でも──今だけは、言わなくていい」
式の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。
織姫の意識はまだ戻らない。
けれど、その呼吸はわずかに上下していて──。
生きている。その事実が、ただひとつの救いだった。
「……こいつ、ああ見えて馬鹿なんだよ」
式が、ふっと苦笑を浮かべた。
「全部自分で背負って、全部自分で終わらせようとする。まったく、似すぎてて腹立つくらいだ」
幹也は言葉を返せないまま、ただ微かに頷いた。
織姫のことも、式のことも、そして白純のことも──。
きっとこの夜は、後になってからようやく意味を理解できるのだろう。
今はまだ、ただこうして生きて、静けさの中に立ち尽くすしかない。
「……ありがとな、幹也」
唐突に、式がそう言った。
幹也は目を瞬かせた。
「お前が“殺すな”って叫ばなきゃ──私は白純を殺していたかもしれない」
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
織姫の重みを腕に感じながら、式はもう一度だけ視線を落とした。
「でも、まだ──壊れていないんだ。どっちも」
それが、彼女の結論だった。
だからこそ、今だけはこの静寂を壊さぬように。
そして、織姫がまた目を覚ました時に、何かが変わっていることを信じて──。
静かな夜が、廃倉庫に降りていた。
◇◇◇◇◇
──静寂だった。
風の音も、心臓の音も、あらゆる痛みもここにはなかった。
まるで水面の底に沈んでいくような、あるいは逆に、空の果てまで昇っていくような。
けれど、確かにここは“意識”だった。
──境織姫の、世界との狭間にある場所。
「……来たのね」
先にそこにいたのは、「私」だった。
無表情のまま、こちらを見つめている。
感情の起伏がほとんど存在しない、理性と殺意の均衡点。
“裏の私”──織姫が未来を変えるための決戦存在として生み出した、“式”の在り方を模した自我。
「やっと、終わったんだ」
その声の後ろに、もう一人いた。
「……お前、なに泣いてるんだよ」
笑っているようで、泣いているような。
どこか皮肉で、どこか優しい。
“殻のオレ”──織姫が何者かになれなかった過去の「核」。
完璧であろうと願われ、生まれた人工人格。
破棄され、忘れられ、それでもなお“創造”によって再演された、自らを「オレ」と呼ぶ存在。
「泣いてなんか、ない」
「嘘つけ。……でも、いいさ。もうオレの役目は終わった。十分過ぎるほど、頑張ったよ」
「オレが居なかったら、僕は途中で折れてたかもしれない」
「だろ? だから、最後くらい、ちゃんと見届けた」
殻の“オレ”が、そっと手を挙げる。
そこには血も、傷もなかった。ただ透明な光に満ちていた。
「“俺”としてお前が歩けるなら、それでいい。ようやく、お前が本当になれるなら──」
「違うわ」
不意に、“私”が言った。
その瞳が、初めてわずかに揺れていた。
「“私は”あなたの中にいたわけじゃない。“あなた”が私を真似てた。それだけ」
「……」
「でもそれは、もう必要ない。もう、あなたは誰の模倣でもない」
“私”は歩み寄り、“オレ”の隣に並んだ。
「ここで私は消える。模造された式の思考も、戦闘特化の冷静も、全部置いていく」
「オレも消えるさ。俺はもう、過去に縛られる必要のない存在だ。お前が『創造』の起源であるなら、俺はもう、生まれたままでいい」
「……ありがとう」
“俺”は、ただそれだけ言った。
感情が、身体の奥で震えていた。
それが悲しみなのか、安堵なのか、あるいは恐怖なのかはわからない。
けれど、涙が頬を伝った。
「……俺として、お前がこれからの世界に立てることが、オレにとっての救いだ」
「私たちは、ずっと“君”だった。だけど、もう“俺”なんでしょ?」
その言葉に、“俺”は静かに頷いた。
「うん。俺は、俺として……生きる」
「行けよ。お前には、まだ……見せたい未来があるんだろ?」
「幹也に、式に、藤乃に、霧絵に、巴に、橙子に、鮮花に──みんなに、まだ伝えられてないことがあるでしょ?」
最後に二人が、“俺”の背を押した。
柔らかな光が、意識の海を満たしていく。
「ありがとう」
言葉とともに、二つの姿は光へと還っていった。
もう、“私”でも“オレ”でもない。
俺は、“俺”だ。
誰の代わりでも、誰の真似でもない。
世界に抗い、壊されかけて、守られて、それでもまだ立ち上がる。
俺は、世界の果てに立って、それでも未来を創る者。
──根源接続者、「境織姫」。
この名の意味を、これから俺は証明する。
沈んでいた意識が、光に包まれて浮上していく。
目を覚ます時が来た。
◇◇◇◇◇
夜明け前の空はまだ藍色の帳に包まれ、星々も微かに息づいていた。
静まり返った廃倉庫の中で、戦いの余韻だけが濃密に残っている。
織姫は、意識を手放したまま式に抱かれていた。
血塗れの着物は既に乾き始めているが、その胸の奥でかすかに灯る命の火は、まだ完全に戻ってきていない。
幹也もまた、クスリの影響が抜けきらず、うわ言のように何かを呟いては、虚ろな目で天井を見上げている。
織姫の応急処置と解毒を誤らなかったからこその生存だったが、それでも完全に回復するには時間が必要だった。
「……ったく、しょうがねぇな」
式は肩を竦めるようにして、溜め息をついた。
ポケットから携帯を取り出し、短い発信音のあと、静かな声で言う。
「──橙子。迎えに来い」
『……ああ? なんだ、朝っぱらから。お前から連絡なんて珍しい』
「こっち、二人まとめて意識がない」
『……救急車を呼びなさい。そんなの、警察沙汰にならなきゃ……』
「無理だ」
式はきっぱりと遮った。
『理由くらい言ってもらおうかしら?』
短い沈黙。
だが、その間に式は倉庫内を見渡す。
床に広がる血の跡、拷問の痕跡と薬物の残滓。
それらすべてが、今回の件が「ただの事件」ではないことを物語っている。
式は、言葉を選ぶように、しかし確実に橙子へと告げた。
「……あいつ、織姫が、完全に“繋がった”みたいだ」
『……“どこ”に?』
「根源」
電話口の向こうで、しばらく無音が続いた。
ようやく小さく、耳元で空気が震えるような音が漏れる。天を仰ぎ、そして諦めたような長い溜め息。
『……はぁあ……やってくれたわねぇ、あの子』
式は、苦笑するでもなく、ただ黙っていた。
橙子の声は、しばらくして戻ってきた。
どこか投げやりで、それでいて覚悟を決めた音だった。
『わかった。記録にも報告にも残せない。救急搬送も魔術協会にも報告はしない。あの子は──“私の弟子”ってことで手を打つわ』
「助かる」
『ええ。……ただし、後でこっぴどく文句を言わせてもらうから、そのつもりで』
通信が切れた後、式は一度だけ織姫を見下ろした。
その顔に浮かぶ表情は、どこか穏やかだった。
──あいつは、もう偽物じゃない。
自分で選んで、自分で壊して、自分で立った。
それを見届けた者として、式の中に確かに一つの決着があった。
◇◇◇◇◇
白純里緒は、表向きには「行方不明者」として処理された。
だが裏では、魔術協会が動いた。彼の“異常な”覚醒──殺意と起源が交差した異能者の存在は、協会の管理下に置かれることになった。
彼が再び目を覚ますその時、何が残っているのかはわからないが、“白純里緒”はもう表舞台に戻ってくることはない。
一方、境織姫の存在は、記録にも文書にも残されることはなかった。
ただ一枚。
魔術協会に提出された書類には、たった一文が記されている。
──冠位人形師・蒼崎橙子の弟子として、監督下に置く。
それだけだった。
だが、橙子の決断は重い意味を持っていた。
当初、今回の一件が収束したら観布子市を離れるつもりでいた橙子。
いくつもの人形を渡り歩いてきた彼女にとって、根を張ることなど想定外だった。
だが、世界にとっての最終トリガーとも言える爆弾を──空想具現化を行使する根源接続者を、放っておくことはできなかった。
「ほっぽって、誰かに拾われて、世界が滅びたなんて、冗談にもならないわ」
そう呟いて、橙子は新たな拠点を観布子に再構築し始めた。
火消しと隠蔽、記録抹消の段取りを魔術協会と交渉しながら、静かに腰を落ち着ける準備を整える。
数多の人形を通じて世界を見てきた冠位の魔術師が、ついに定住する。
それは一つの、時代の変わり目でもあった。
観布子市に、世界の綻びと火種が集まりつつある。
そしてその中心に、“世界に語られない存在”が眠っていた。
──境織姫。
彼が再び目を覚ました時、この世界は再び、問いを突き付けられることになるだろう。
◇◇◇◇◇
薄暗い天井が見えた。
呼吸はかすかに浅く、喉は乾き、胸にはまだうずくまるような痛みがあった。
だが、確かに意識は繋がっていた。
境織姫は、一週間ぶりに目を覚ました。
淡い午後の光が障子越しに射し込む室内。
病室とは違う和風の一室。
布団に横たわった身体の隣には水差しと、空になった点滴パック。
それがどれだけの時間を経たのかを、静かに物語っていた。
「ようやく目を覚ましたか、化け物め」
掛け布団の端から、慣れた皮肉の響きを持つ声が投げかけられる。
視線を向けると、椅子に腰かけて紅茶を啜る蒼崎橙子がいた。
煙草を咥えた姿は、どこか安心感すら覚えるほどいつも通りだ。
「……ご迷惑を、おかけしました」
織姫は掠れた声でそう告げた。だが、橙子は肩を竦めるだけだった。
「迷惑? 違うな。“大問題”だよ、お前のやったことは」
紅茶のカップを机に置き、橙子は静かに語り出す。
「出血多量、ショック死確実の状態を“創造”で無理矢理踏み止まって、空想具現化ときた。根源接続者が実際にやってのけたってだけでも冷や汗ものなのに、その力で“殺意の否定”なんて概念に手を突っ込むとはね」
橙子の声は穏やかだったが、その目は笑っていない。
むしろ、彼女の理性の中で渦巻く焦燥と苛立ちの裏打ちが、言葉の端々に滲んでいた。
「封印指定者たちは“存在を記録できない神秘”ほど嫌うものはない。それが“根源接続者が空想具現化を行った”という、冗談みたいな話なら、なおさらさ。お前は今や、下手に噂が立てば“世界を滅ぼすトリガー”としてどこかの誰かが処理対象に選びかねない存在になった。実に素晴らしい」
「……わかっています」
織姫は、わずかに目を伏せてそう応じる。だが、それを見て橙子は鼻で笑った。
「わかってるならもう少し自制しろ。まったく、記録には一切残さず、関係者の口もすべて封じる始末に、私は奔走する羽目になった」
「……申し訳ありません」
「謝るくらいなら、死ぬな。そして“本気で人を殺すな”。封印指定と異端調査班の連中が、記録にも残らない出来事に頭を抱える光景なんて、滅多に見られるもんじゃない。ある意味貴重な見世物だったよ」
橙子は煙草をくゆらせながら、ふぅと天井を仰いだ。
「おかげで、私も決めざるを得なかった。観布子を離れる気だったが……お前を放り出せば、いずれ誰かが拾って、世界を“再構築”しかねない。そんなものを野放しにして、のうのうと本部に帰れるほど、私は無責任じゃない」
茶化すように言いながらも、その声音には苦渋と、どこかに微かな愛情が混じっていた。
「いいかい、境織姫。お前の存在は記録に残らないが、私の責任として残り続ける。今さら逃げも隠れもできないし、第一お前にその意思があるようにも見えない」
織姫はゆっくりと目を閉じ、そして静かに、唇を開いた。
「……はい。俺はもう、“逃げない”と決めました。俺は、“俺”として、ここに居ます」
その言葉に、橙子はしばし黙ってから、また肩をすくめた。
「まったく……めんどくさい弟子を拾ったものだよ、私は」
だがその声に、呆れたような微笑が混じっていた。