普通ではないふじのんと普通ではないお友達   作:星乃 望夢

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殺人考察(後)Ⅶ

 

 その場に、風が吹いた気がした。

 

 月を背に、刀を収めた織姫は一歩、また一歩と白純に背を向けて歩き出す。

 

 膝をついて泣く少年を見下ろすこともなく、その存在を責めることもなく。

 

 ただ──終わった、という確信を得たのだろう。

 

 そしてその次の瞬間、静かに、まるで崩れる様に織姫の身体が傾いだ。

 

「あ──っ」

 

 声が出るよりも早く、式の腕がその身体を受け止めていた。

 

 血の色に染まった着物は、乾いてきているというのに、まだ温かい。

 

 瞼を閉じた織姫の顔には、苦悶も、怒りも、悲しみもなかった。

 

 ただ、使命を終えた者の静けさがあった。

 

「……やっぱり、限界だったんだな」

 

 そう呟いたのは式だった。

 

 低く、どこか押し殺すような声。

 

 しかしその表情には、驚きも焦りもない。

 

 覚悟していた。

 

 誰よりも、彼が無理をしていたことを。

 

「……織姫……」

 

 幹也は、思考だけが先に立つようにその名を呟いた。

 

 まだ身体は言うことをきかない。

 

 解毒されたとはいえ、感覚は鈍く、重い。

 

 けれど、目の前で崩れ落ちたその姿が、現実であることを否応なく突きつけてくる。

 

「僕……っ、僕は……何もできなかった」

 

 喉が詰まる。胸が焼ける。

 

 悔しさか、悲しさか、それとも無力さか。

 

 わからない。

 

 でも、ひとつだけ確かなことがある。

 

 自分は、織姫が庇ってくれた存在だったということ。

 

 守られて、護られて、それでもまた守られたということ。

 

「式……」

 

 幹也は、縋るように式の名を呼んだ。

 

 式は織姫を腕に抱えたまま、その顔を見ないまま答えた。

 

「言わなくてもわかってる。……言いたいことも山ほどある」

 

 それは、きっと自分も同じだ。

 

 幹也はそう思った。だが、口にはしない。

 

 言葉にしてしまえば、涙が出そうだったから。

 

「でも──今だけは、言わなくていい」

 

 式の声は、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

 織姫の意識はまだ戻らない。

 

 けれど、その呼吸はわずかに上下していて──。

 

 生きている。その事実が、ただひとつの救いだった。

 

「……こいつ、ああ見えて馬鹿なんだよ」

 

 式が、ふっと苦笑を浮かべた。

 

「全部自分で背負って、全部自分で終わらせようとする。まったく、似すぎてて腹立つくらいだ」

 

 幹也は言葉を返せないまま、ただ微かに頷いた。

 

 織姫のことも、式のことも、そして白純のことも──。

 

 きっとこの夜は、後になってからようやく意味を理解できるのだろう。

 

 今はまだ、ただこうして生きて、静けさの中に立ち尽くすしかない。

 

「……ありがとな、幹也」

 

 唐突に、式がそう言った。

 

 幹也は目を瞬かせた。

 

「お前が“殺すな”って叫ばなきゃ──私は白純を殺していたかもしれない」

 

 その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

 

 織姫の重みを腕に感じながら、式はもう一度だけ視線を落とした。

 

「でも、まだ──壊れていないんだ。どっちも」

 

 それが、彼女の結論だった。

 

 だからこそ、今だけはこの静寂を壊さぬように。

 

 そして、織姫がまた目を覚ました時に、何かが変わっていることを信じて──。

 

 静かな夜が、廃倉庫に降りていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ──静寂だった。

 

 風の音も、心臓の音も、あらゆる痛みもここにはなかった。

 

 まるで水面の底に沈んでいくような、あるいは逆に、空の果てまで昇っていくような。

 

 けれど、確かにここは“意識”だった。

 

 ──境織姫の、世界との狭間にある場所。

 

 「……来たのね」

 

 先にそこにいたのは、「私」だった。

 

 無表情のまま、こちらを見つめている。

 

 感情の起伏がほとんど存在しない、理性と殺意の均衡点。

 

 “裏の私”──織姫が未来を変えるための決戦存在として生み出した、“式”の在り方を模した自我。

 

「やっと、終わったんだ」

 

 その声の後ろに、もう一人いた。

 

「……お前、なに泣いてるんだよ」

 

 笑っているようで、泣いているような。

 

 どこか皮肉で、どこか優しい。

 

 “殻のオレ”──織姫が何者かになれなかった過去の「核」。

 

 完璧であろうと願われ、生まれた人工人格。

 

 破棄され、忘れられ、それでもなお“創造”によって再演された、自らを「オレ」と呼ぶ存在。

 

「泣いてなんか、ない」

 

「嘘つけ。……でも、いいさ。もうオレの役目は終わった。十分過ぎるほど、頑張ったよ」

 

「オレが居なかったら、僕は途中で折れてたかもしれない」

 

「だろ? だから、最後くらい、ちゃんと見届けた」

 

 殻の“オレ”が、そっと手を挙げる。

 

 そこには血も、傷もなかった。ただ透明な光に満ちていた。

 

「“俺”としてお前が歩けるなら、それでいい。ようやく、お前が本当になれるなら──」

 

「違うわ」

 

 不意に、“私”が言った。

 

 その瞳が、初めてわずかに揺れていた。

 

「“私は”あなたの中にいたわけじゃない。“あなた”が私を真似てた。それだけ」

 

「……」

 

「でもそれは、もう必要ない。もう、あなたは誰の模倣でもない」

 

 “私”は歩み寄り、“オレ”の隣に並んだ。

 

「ここで私は消える。模造された式の思考も、戦闘特化の冷静も、全部置いていく」

 

「オレも消えるさ。俺はもう、過去に縛られる必要のない存在だ。お前が『創造』の起源であるなら、俺はもう、生まれたままでいい」

 

「……ありがとう」

 

 “俺”は、ただそれだけ言った。

 

 感情が、身体の奥で震えていた。

 

 それが悲しみなのか、安堵なのか、あるいは恐怖なのかはわからない。

 

 けれど、涙が頬を伝った。

 

「……俺として、お前がこれからの世界に立てることが、オレにとっての救いだ」

 

「私たちは、ずっと“君”だった。だけど、もう“俺”なんでしょ?」

 

 その言葉に、“俺”は静かに頷いた。

 

「うん。俺は、俺として……生きる」

 

「行けよ。お前には、まだ……見せたい未来があるんだろ?」

 

「幹也に、式に、藤乃に、霧絵に、巴に、橙子に、鮮花に──みんなに、まだ伝えられてないことがあるでしょ?」

 

 最後に二人が、“俺”の背を押した。

 

 柔らかな光が、意識の海を満たしていく。

 

「ありがとう」

 

 言葉とともに、二つの姿は光へと還っていった。

 

 もう、“私”でも“オレ”でもない。

 

 俺は、“俺”だ。

 

 誰の代わりでも、誰の真似でもない。

 

 世界に抗い、壊されかけて、守られて、それでもまだ立ち上がる。

 

 俺は、世界の果てに立って、それでも未来を創る者。

 

 ──根源接続者、「境織姫」。

 

 この名の意味を、これから俺は証明する。

 

 沈んでいた意識が、光に包まれて浮上していく。

 

 目を覚ます時が来た。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 夜明け前の空はまだ藍色の帳に包まれ、星々も微かに息づいていた。

 

 静まり返った廃倉庫の中で、戦いの余韻だけが濃密に残っている。

 

 織姫は、意識を手放したまま式に抱かれていた。

 

 血塗れの着物は既に乾き始めているが、その胸の奥でかすかに灯る命の火は、まだ完全に戻ってきていない。

 

 幹也もまた、クスリの影響が抜けきらず、うわ言のように何かを呟いては、虚ろな目で天井を見上げている。

 

 織姫の応急処置と解毒を誤らなかったからこその生存だったが、それでも完全に回復するには時間が必要だった。

 

「……ったく、しょうがねぇな」

 

 式は肩を竦めるようにして、溜め息をついた。

 

 ポケットから携帯を取り出し、短い発信音のあと、静かな声で言う。

 

「──橙子。迎えに来い」

 

『……ああ? なんだ、朝っぱらから。お前から連絡なんて珍しい』

 

「こっち、二人まとめて意識がない」

 

『……救急車を呼びなさい。そんなの、警察沙汰にならなきゃ……』

 

「無理だ」

 

 式はきっぱりと遮った。

 

『理由くらい言ってもらおうかしら?』

 

 短い沈黙。

 

 だが、その間に式は倉庫内を見渡す。

 

 床に広がる血の跡、拷問の痕跡と薬物の残滓。

 

 それらすべてが、今回の件が「ただの事件」ではないことを物語っている。

 

 式は、言葉を選ぶように、しかし確実に橙子へと告げた。

 

「……あいつ、織姫が、完全に“繋がった”みたいだ」

 

『……“どこ”に?』

 

「根源」

 

 電話口の向こうで、しばらく無音が続いた。

 

 ようやく小さく、耳元で空気が震えるような音が漏れる。天を仰ぎ、そして諦めたような長い溜め息。

 

『……はぁあ……やってくれたわねぇ、あの子』

 

 式は、苦笑するでもなく、ただ黙っていた。

 

 橙子の声は、しばらくして戻ってきた。

 

 どこか投げやりで、それでいて覚悟を決めた音だった。

 

『わかった。記録にも報告にも残せない。救急搬送も魔術協会にも報告はしない。あの子は──“私の弟子”ってことで手を打つわ』

 

「助かる」

 

『ええ。……ただし、後でこっぴどく文句を言わせてもらうから、そのつもりで』

 

 通信が切れた後、式は一度だけ織姫を見下ろした。

 

 その顔に浮かぶ表情は、どこか穏やかだった。

 

 ──あいつは、もう偽物じゃない。

 

 自分で選んで、自分で壊して、自分で立った。

 

 それを見届けた者として、式の中に確かに一つの決着があった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 白純里緒は、表向きには「行方不明者」として処理された。

 

 だが裏では、魔術協会が動いた。彼の“異常な”覚醒──殺意と起源が交差した異能者の存在は、協会の管理下に置かれることになった。

 

 彼が再び目を覚ますその時、何が残っているのかはわからないが、“白純里緒”はもう表舞台に戻ってくることはない。

 

 一方、境織姫の存在は、記録にも文書にも残されることはなかった。

 

 ただ一枚。

 

 魔術協会に提出された書類には、たった一文が記されている。

 

 ──冠位人形師・蒼崎橙子の弟子として、監督下に置く。

 

 それだけだった。

 

 だが、橙子の決断は重い意味を持っていた。

 

 当初、今回の一件が収束したら観布子市を離れるつもりでいた橙子。

 

 いくつもの人形を渡り歩いてきた彼女にとって、根を張ることなど想定外だった。

 

 だが、世界にとっての最終トリガーとも言える爆弾を──空想具現化を行使する根源接続者を、放っておくことはできなかった。

 

「ほっぽって、誰かに拾われて、世界が滅びたなんて、冗談にもならないわ」

 

 そう呟いて、橙子は新たな拠点を観布子に再構築し始めた。

 

 火消しと隠蔽、記録抹消の段取りを魔術協会と交渉しながら、静かに腰を落ち着ける準備を整える。

 

 数多の人形を通じて世界を見てきた冠位の魔術師が、ついに定住する。

 

 それは一つの、時代の変わり目でもあった。

 

 観布子市に、世界の綻びと火種が集まりつつある。

 

 そしてその中心に、“世界に語られない存在”が眠っていた。

 

 ──境織姫。

 

 彼が再び目を覚ました時、この世界は再び、問いを突き付けられることになるだろう。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 薄暗い天井が見えた。

 

 呼吸はかすかに浅く、喉は乾き、胸にはまだうずくまるような痛みがあった。

 

 だが、確かに意識は繋がっていた。

 

 境織姫は、一週間ぶりに目を覚ました。

 

 淡い午後の光が障子越しに射し込む室内。

 

 病室とは違う和風の一室。

 

 布団に横たわった身体の隣には水差しと、空になった点滴パック。

 

 それがどれだけの時間を経たのかを、静かに物語っていた。

 

「ようやく目を覚ましたか、化け物め」

 

 掛け布団の端から、慣れた皮肉の響きを持つ声が投げかけられる。

 

 視線を向けると、椅子に腰かけて紅茶を啜る蒼崎橙子がいた。

 

 煙草を咥えた姿は、どこか安心感すら覚えるほどいつも通りだ。

 

「……ご迷惑を、おかけしました」

 

 織姫は掠れた声でそう告げた。だが、橙子は肩を竦めるだけだった。

 

「迷惑? 違うな。“大問題”だよ、お前のやったことは」

 

 紅茶のカップを机に置き、橙子は静かに語り出す。

 

「出血多量、ショック死確実の状態を“創造”で無理矢理踏み止まって、空想具現化ときた。根源接続者が実際にやってのけたってだけでも冷や汗ものなのに、その力で“殺意の否定”なんて概念に手を突っ込むとはね」

 

 橙子の声は穏やかだったが、その目は笑っていない。

 

 むしろ、彼女の理性の中で渦巻く焦燥と苛立ちの裏打ちが、言葉の端々に滲んでいた。

 

「封印指定者たちは“存在を記録できない神秘”ほど嫌うものはない。それが“根源接続者が空想具現化を行った”という、冗談みたいな話なら、なおさらさ。お前は今や、下手に噂が立てば“世界を滅ぼすトリガー”としてどこかの誰かが処理対象に選びかねない存在になった。実に素晴らしい」

 

「……わかっています」

 

 織姫は、わずかに目を伏せてそう応じる。だが、それを見て橙子は鼻で笑った。

 

「わかってるならもう少し自制しろ。まったく、記録には一切残さず、関係者の口もすべて封じる始末に、私は奔走する羽目になった」

 

「……申し訳ありません」

 

「謝るくらいなら、死ぬな。そして“本気で人を殺すな”。封印指定と異端調査班の連中が、記録にも残らない出来事に頭を抱える光景なんて、滅多に見られるもんじゃない。ある意味貴重な見世物だったよ」

 

 橙子は煙草をくゆらせながら、ふぅと天井を仰いだ。

 

「おかげで、私も決めざるを得なかった。観布子を離れる気だったが……お前を放り出せば、いずれ誰かが拾って、世界を“再構築”しかねない。そんなものを野放しにして、のうのうと本部に帰れるほど、私は無責任じゃない」

 

 茶化すように言いながらも、その声音には苦渋と、どこかに微かな愛情が混じっていた。

 

「いいかい、境織姫。お前の存在は記録に残らないが、私の責任として残り続ける。今さら逃げも隠れもできないし、第一お前にその意思があるようにも見えない」

 

 織姫はゆっくりと目を閉じ、そして静かに、唇を開いた。

 

「……はい。俺はもう、“逃げない”と決めました。俺は、“俺”として、ここに居ます」

 

 その言葉に、橙子はしばし黙ってから、また肩をすくめた。

 

「まったく……めんどくさい弟子を拾ったものだよ、私は」

 

 だがその声に、呆れたような微笑が混じっていた。

 

 

 

 

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