「お前がウチに女を連れ込むとは思わなかったぞ、織姫」
嫌味に聞こえる様に橙子さんはあのあと気を失った藤乃を伽藍の堂に連れ込んだ僕に言った。
緊急事態でそんな事を言われてもどうしようもなく、藤乃を橙子さんに預けるしかなかった。
あの時、突然硝子が割れる時――僕は「視た」。
緑と赤の線が、彼女が見上げた窓に向かったところを。そしてその線が窓に触れた瞬間、窓ガラスが割れた。
だがおかしい。藤乃の能力は無痛症によって封じ込められているはずだ。
背中を強打したわけでもない。痛覚が戻るような事象は、僕が知る限りでは藤乃には起こっていないはずだ。
なのに彼女の魔眼の
「どうでした、彼女は…?」
「どうってことはない。魔術的な処置が施された形跡はない。ま、身体の中が少し病んでいるみたいだがね」
藤乃の様子を看終わった橙子さんに結果を訊く。魔術的な処置がないのなら、荒耶宗蓮と接触があったわけじゃない。
それを聞いて一先ずほっとした。ただ、別の問題も出てきてしまったが。
一先ず彼女の無痛症が治ったわけではないらしい。なら、彼女の魔眼が表に出てきたのはどうしてなのか。
「それで? 彼女がお前の懸想してる相手か」
なにやらニヤニヤとしている橙子さん。そんな面白いものでもないだろうに。
だって、僕が藤乃の事を好きなのは事実なのだから。
「そうですよ。僕は彼女の運命を変えたい……なのにこんなことになるなんて」
「その口振りからすると、今回の事は「運命」にはないことだったわけか」
僕は肯定の意を込めて頷く。僕が知る程度では、原作では藤乃が不良を殺すまで魔眼が覚醒したなんていう描写は一切ない。
そして、藤乃が伽藍の堂に訪れることも。
「彼女の能力が覚醒するのは、もっと先の事のはずなんです…」
「……彼女の能力についての発動条件を満たしたとかはないのか?」
橙子さんの言葉に首を振る。無痛症が治ってないのなら、魔眼が発現する理由がない。
「彼女は能力を封じる為に、身体の感覚を閉じる事でそれに対処していました。能力を封じる為に彼女は無痛症なんて異常になるしかなかった」
「……お前が関わったことで、彼女の何かが変わった。そこら辺の心当たりは?」
「……藤乃は普通ではない自分を隠すために、周囲には無痛症であることを隠していました。隠して、隠し通して。それが本人と、彼女に処置をした父親以外に知られるのは2年後の事です。本来なら」
僕は話せる範囲で藤乃の事について話すことにした。魔術や異能に関して自分よりも詳しく知識もある橙子さんの知恵を借りるのなら、多くの判断材料が必要だと思ったからだ。
「彼女と出逢ったのは3年前。最初はただ一方的に識っているだけでした。でも藤乃の事を放っておけなくなって。友達になるとき僕は彼女に言ったんです。作り物じゃない藤乃と友達になりたいって。……どうしたんですか?」
橙子さんの質問に答えていると、急に橙子さんは笑い始めた。なにかおかしな事を言っただろうか?
「ククク…。織姫、お前気付いてないのか?」
「なにをですか?」
「お前は運命を変えたいと言ったが、とっくの昔にもう変えているんだよ。本来ならば異常である己を否定して生きる筈だった彼女を、お前は肯定してしまった。異常である彼女を肯定すれば、異常である能力が顔を出すのは当然だろう」
「僕が藤乃の友達になったから、彼女の能力が表に出てきてしまったという事ですか?」
「正確には、異常である彼女を認知してその異常である彼女を受け入れてしまったという事実が、だろうな。もしお前が彼女の異常を知らずに、普通に友好を結んでいたとしたら、或いは今回の事は起きなかった、かもしれない。可能性の話だがな」
僕が彼女と友達になったから。本当の藤乃と友達で居続けてしまったから。本当なら蓋をされる筈だった物が中途半端になってしまった。橙子さんは項垂れる僕にそう続けた。
「遅かれ早かれの話さ。むしろすべてを知っているお前が立会人で良かったんじゃないか? 自己の肯定を他者に依存している人間は、その肯定者を失ったとき破滅してしまう。それが普通の人間なら良いが、そうでないなら、文字通り破滅を振り撒くぞ」
「そんな…。藤乃はそんな娘じゃ……」
ない。とも言い切れない自分がいる。それは運命の中で殺人ではなく殺戮者になってしまい欠けた彼女の事を識っているからなのか。
「しかし、成る程な。彼女の能力は魔眼の類か。お前が魔眼殺しの作り方について傾倒していたのもその為か」
僕は橙子さんに魔術を習う傍らで、橙子さんの持つ技術も習っていた。その中でも早急に必要だったのが「魔眼殺し」だった。橙子さんが僕の行動から藤乃の能力が魔眼であることに辿り着くのは簡単な事だ。
「歪曲の魔眼……。彼女の能力はその視力と引き換えに千里眼も獲得する強い物です」
それこそ型月関連の異能の中でも最高峰と言われる程度には、藤乃の魔眼は極めて強いものだったはずだ。
「能力を封じ込めてしまったことで、却って怪物を育ててしまったわけか。なら、今回の事は不幸中の幸いというわけだ。そこまで強くなる能力ならば、そうなる前に向き合い方程度は教えてやれる」
「ありがとうございます。橙子さん」
煙草に火を点けた橙子さんに、僕は感謝を込めて頭を下げた。でも橙子さんはそんな僕に追い払う様に手を振った。
「こっちも色々と打算があっての事だ。師として助言程度はしてやれるが、どうするのかはお前が決めることだ」
魔眼について橙子さんの助けが得られるのは心強い。今はどうしても専門的な知識は橙子さん頼りだ。
どうするもこうするも、僕は藤乃に対して責任を取ることは既に覚悟している。藤乃が許してくれるのなら、藤乃の運命を背負っていくつもりだから。
藤乃と友達になって、藤乃と一緒に過ごして、藤乃の為に運命を変えたいと思って行動しはじめてからずっと……。
◇◇◇◇◇
「…ここは……」
剥き出しのコンクリートの天井。薄暗闇を照らすのはランプの炎。そのランプの置かれている机に肘を着いて眠っている織姫さんが居た。
「っ…!?」
思い出すのは織姫さんの叫び声と、ガラスが飛び散る音。そして、嫌われていた過去。
普通ではない浅上藤乃の、忘却していた忌まわしい過去。
普通ではなくても普通に過ごそうとしても、普通には過ごせない異常。
手を触れずに、物を曲げてしまう事が出来た。
幸せを壊すのは、神様でもなく、浅上藤乃本人だった。
早くここから出ていかないと。また、なにかを壊してしまう前に。
横になっていたのはソファーだった。部屋の出口を見つけて歩き出す。ドアノブに手を掛けた。回しても、開かない。
「そんな、どうして……?」
早く、早くここから出なければならないのに。鍵が掛かっている? 部屋の外側から鍵が掛かっているのか。内側のドアノブには鍵がついていない。
「出られないよ」
「っ…!?」
それは、いつも耳にしている声。でも今は、出来るのなら聞きたくはなかった声。
「ここは僕の工房だから。僕の許可なくドアは開かないんだ」
「なら、開けてください。わたし、もう帰らないと……」
帰ったところで。こんな異常を抱えてしまっているわたしには、もう、帰る場所なんてないかもしれない。
でも、そう言うしかない。織姫さんのもとから離れるには。
「今日はもう泊まらせて行くって連絡はしておいたから大丈夫だよ。それに、もう電車だって動いてないし」
窓がない。時計もないから時間がわからない。でも織姫さんの言葉を信じるのなら、もう時間は深夜を回っている事になる。
なんて迂闊。ショックで気を失ってしまう暇なんてなかった。そんな暇があるのなら、あの時脇目も振らずに走り去ってしまうべきだった。
「でも、明日はもう学校ですし。明日の準備をしないと」
「学校なんかより大切なお話があるよ、藤乃」
名を呼ばれて、わたしは、織姫さんに振り向いた。何かを決めた時の、真っ直ぐな眼が、わたしを貫いている。
織姫さんが座っていた椅子から立ち上がって、わたしに歩み寄ってくる。
開かないドアを背にして、わたしは後ずさって、それでも直ぐに部屋の隅に追い詰められてしまう。
「いや、……いや、…来ないで……。来ないで、ください……っ」
壁にヒビが入って砕ける。織姫さんが座っていた椅子が、肘を着いていた机が、部屋を灯していたランプが、勝手に砕け散る。
「イヤだ。たとえ藤乃に捻切られても、僕は藤乃から離れない」
捻切られる。そう、わたしは、手を触れずに物を捻れさせてしまう。それに耐えられないものが砕けて、壊れてしまう。
「どうして……わたしは、藤乃は……、このままじゃ、織姫さんを…壊してしまう……!」
物を壊すだけに止まっていても、織姫さんを壊してしまわない保証なんてない。こんなわたしと一緒に居たら、いつか絶対、織姫さんを壊してしまう。だって藤乃は、織姫さんを壊すことを愉しいと知ってしまっているから。本当に壊してしまったとき、きっとそれは、なにものにも変えることの出来ない感情を味わう事が出来るとわかっているから。
そんなのはいやだ。そんなことはしたくない。わたしは、藤乃は、織姫さんの思い出があれば生きていける。
だからもう、織姫さんとの幸せな思い出さえ壊してしまう前に、織姫さんの前からいなくなりたかった。
「藤乃はバカだ。そうしてしまったのは僕の所為なのに、僕に恨み節のひとつも言わないんだから……」
そう言う織姫さんを見て、思い出したのは織姫さんに連れられて保健室に行った日のこと。
あの時の、織姫さんの言葉を思い出した。
普通になる必要なんてない。そんな残酷な言葉。
普通の浅上藤乃になろうとした自分を否定する言葉。
そして、普通ではない藤乃を肯定してくれる言葉。
もし、あの時織姫さんがそんなことを言わなければ、今のわたしは居なかった。
「……ひどい人ですね。織姫さんは」
きっと、普通の浅上藤乃としての日々を過ごしていたはずの自分は、あの日、織姫さんに殺されてしまったのだ。
そして、織姫さんは藤乃とお友達になる事で、普通の浅上藤乃が歩む筈だった人生を壊した代わりに、藤乃の人生を背負ってくれていたのだ。
「うん。だから僕は藤乃にもっとひどい事をする」
そう言って、織姫さんはわたしに眼鏡を掛けてくれた。度は入っていない様子。
「藤乃のその
「力が、暴発しない……」
なら、わたしは何も壊さなくて良いのだろうか。
「そして藤乃のその能力を封じる為に、藤乃は身体の感覚がなかった。でも魔眼殺しがあるのならその必要はなくなる。普通じゃないけど、普通に生きることは、藤乃にだって出来るんだ」
眼鏡を掛けてくれたあと、わたしの腰と背中に腕をまわして、母が子に言い聞かせる様に織姫さんは優しく言葉を紡ぐ。
わたしの身体が治る……。それは、わたしが、藤乃が、生きても良いのだと言うことだ……。
あぁ、本当に織姫さんはとてもひどい人だ。
とてもとても、ひどすぎて、残酷すぎる事を言うから、泣いてしまいそうだ。
本当に、織姫さんは、藤乃にとってなくてはならない人だ。
浅上藤乃という存在と向き合って、愛してくれる人なのだから。
「…わたしは、藤乃は、織姫さんと一緒に、居たいです……」
「うん。僕も、藤乃が一緒に居て良いのなら、ずっと一緒に居たい」
いつだってそう。織姫さんは藤乃が欲しいものをくれる人だった。
「こんな、普通じゃない藤乃でも、一緒に居ても、良いですか…?」
「うん。藤乃に居て欲しいから。ずっと、一緒に」
ぐっと、織姫さんの背中にまわした腕に力を込める。強く、強く、抱き締めて、離さないように。
こんなにも強く想っているのに、何も壊れない。壊さない。壊さなくて良い。
あぁ、本当に泣いてしまいそうだ。
「……泣いてしまっても、良いですか…?」
「うん。だって、泣けるって、生きているから出来ることだから」
そう言って、織姫さんは、藤乃のすべてを包み込むように優しく微笑んでくれた。
いつも通りで、いつもと変わらない。ならそれは織姫さんと藤乃にとっては普通の事で。
だから今回のことも、少し経てばわたしたちにとっては普通になる。普通に、することが出来る。
織姫さんはそうやって、藤乃を普通の側に手を引いてくれる。
だから、やっぱり浅上藤乃には織姫さんが必要不可欠なのだ。
to be continued…