もうひとつのソラ   作:ライヒ

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その三 「月に霧。」

 

 

 

 

『――――君はどうして月を見る?

 向日葵は太陽に焦がれた少女のなれの果てと言われていますが、古今東西、月下に咲く花はあれど月に焦がれた花は僕は知らない。

 ――――ん? ああ、僕のことは別にいい。それよりも、

 

 君が地面に寝てまで見る月の美しさ、僕にも教えてくれませんか?』

 

 

 

 

 

その三 「月に霧。」

 

 

 

 

 

「……、」

 

 ぱかり、と目があく。

 

「…………ゆめ?」

 

 ぼんやりとした感覚で、桃凪が呟いた言葉はそれだけだった。

 ここは現実だろうか。

 くるまっている布団の暖かさは本物で、深夜のしっとりと沈んだ空気も肌で感じ取ることが出来る。今夜は満月らしく、カーテンを閉めた窓から差し込んでくる月明かりは、神々しいまでに明るかった。

 砂糖水を流し込まれたような、うす暗い部屋の中。

 意識ははっきりとあるはずなのに、どうも目の前の光景を現実だと認識できない。まるで胡蝶之夢、夢の中で蝶だったのか、それとも人である今が夢なのか。その境界はあやふやで、本当は全て夢の中にあるのではないだろうか。そうっとベッドから足を下ろしてみると、カーペットのもふもふとした感触が指の間を通り抜ける。両足で立ってみる、ぐらつくことなく立てた。

 ここまでリアルなら、やっぱりこの世界は現実なのだろうか、やはり、確信が持てない。

 

「……」

 

 机に置いてあるペンダントを身につけて、ふらりとそのまま桃凪は部屋の外に出た。

 そして部屋の外に出てから気づく、何で自分は外に出てしまったんだっけ? 家の中は静まり返っていて、ツナも母もイーピンもランボも、たぶんリボーンも寝ている。自分の呼吸の音だけが暗い廊下に響いていた。そんな中。なんで。

 

  ――――……。

 

「え?」

 

 囁くような声音。

 今、誰かに呼ばれたような気がする。誰にだろうか、誰も起きていないのに。そもそも何処からその声が聞こえてきたのか、誰もいないはずの廊下で、一人で立ちすくみ桃凪は途方に暮れた。

 ぎゅっと胸元にあるペンダントを握りしめる。少し、声が遠くなったような気がする。

 

「……行ってみようかな」

 

 そして我ながら、何故そういう結論に至ったのかよくわからないのだけれど。

 声のする方へ行ってみよう、そう思った。

 もしかしたらこれは、桃凪の意志ではないのかもしれない。夢の中の続きのように、桃凪であって桃凪ではない、桃凪とは全く違う誰かがいるのかも。

 それでもいいや、と桃凪は思っているが。

 

 

 

 

 

(…………ふわふわしてる)

 

 夜道を歩いているだけなのに、どこか浮遊したような感覚だった。今だったら夜空の雲が全部羊になって、レモンキャンディみたいなお月様が笑い出しても驚かずに受け入れられる気がする。むしろ、夜眠る時は羊じゃなくて雲を数えたりするんだろうか、とかよくわからない想像が広がってしまうくらい。

 パジャマ一枚だから寒いかと思ってたけど、不思議と寒さも感じなかった。やっぱり、まだ自分は夢の続きを見てるんじゃないだろうか。

 ぺたぺた。ぺたぺた。

 

「……あれ?」

 

 足音を怪訝に思って下を見ると、なんと裸足で外を歩いていたではないか。靴を履くのを忘れたのだろうか、そもそも、玄関に行ったという記憶がない。これも夢特有の現象な気がする。気がついたら外に出ていて、気がついたら道を歩いていた。

 そして、気がついたら公園についていたのだ。

 

「……うん、取りたてて何も変哲がない感じのいつもの公園だよね」

 

 別に異世界が広がってるわけでもなかったし、へんな生き物がいるというわけでもなかった。そのまま中央まで歩いて行き、首を上にまげて夜空を眺めてみた。

 氷で出来ているような、白く輝く月が中央に位置していて、その明るさで他の星や何やらがかすかにしか見てとれない。満点の星空も好きな身としては、ちょっと残念だった。どうせなら、きれいな満月とキラキラした星、一緒に見れればいいのに。

 でも、もしそんなことになったら夜が明るすぎて眠れなくなってしまうかもしれない。それに、どっちもきれいな日ときれいじゃない日が出来てしまって、夜空を見ることが楽しくなくなってしまうかも。

 じゃあ、このままが一番いいのか。

 芝生の地面にごろりと横たわる。そうすれば視界は空で埋め尽くされて、いつも見ている景色は隅っこにちょっとあるだけだ。

 でも、少し不思議なことが出来た。

 

(なんかデジャヴ……?)

 

 ごく最近、こんな風に芝生に寝っ転がって夜空を眺めたような気がする。どこでだっただろうか。深夜に一人で出かけた事なんて今まで一度もなかった。なら、一体何処で夜空を見たというのだろうか。

 

「……どこで見たっけな、これ」

 

 思い出せない。

 とろとろとしてはっきりしない意識をそのまま溶かしてしまおうか、と瞼を閉じる。分からないことが山ほどあるが、こういう時にいくら考えても明確な答えが出ないということは、これまでの経験上分かっていた。

 思い出せないのなら、忘れてしまえばいい。そうすれば、いつか分かったときに思い出すはずだ。

 だから、今日もそうしようと思っていたのだが。

 

「夢じゃないですか?」

 

 閉じた瞼の表側、月のある場所から声が降ってきた。

 

「誰ですかー?」

「名前を聞きたいのなら、自分から名乗るものですよ」

「それもそうか……、沢田桃凪姫だよ」

「六道骸」

 

 声の主が何故ここにいるのかとか、さっきまで人の気配なんて何もなかったのにとか、そういうことを全部置き去りにして桃凪が最初に聞いたのは、相手の名前だった。

 しかし妙に冷静に正論を言われてしまって納得してしまった。そのノリで思わず名乗ると、相手も話してくれた。骸、とはまた縁起の悪そうな名前である。

 

「夢と現実の境界はあやふやですが、はっきりしたものですから。越える時にぼやけてしまうけれどね」

「あー……、確かに、夢の中かもしれない」

 

 夢の中じゃなければ、芝生に寝っ転がって夜空を眺めるような真似そうそう出来るはずもない。そしてごく最近と感じていた理由は、ついさっきまで自分がその夢を見ていたからだ。

 確か、桃凪の見た夢の中の月は、もうちょっと大きかった気がする。今の場所にある月がみかんとするのなら、夢の中の月はグレープフルーツはあった。…………そんなに変わらないだろうか。

 だめだ、ぼんやりする。瞼が上がらない。

 

「眠いんですか?」

「眠いような、眠くないような。微妙な感じ」

 

 地面に振動を感じる。声の主……骸が、桃凪のすぐそばに腰をおろしたのだろう。どういう人なのかは目を閉じているから分からないが、声の感じからするにまだ少年だろう。ツナと同じくらいかもしれない。

 夢のような現実のような場所で、公園の芝生に寝転がり夜空を見上げながら、あった事もない少年と会話する。とてつもなく、奇妙だ。奇妙過ぎて、瞼を開くことが出来なくなるほどに。

 

「私、ぼんやりしてるってよく言われるんだけど、今日はいつにもましてぼんやりしちゃってるような気がする」

「そうなんですか?」

「そうだよ。いつの間にここに来たのか分かんないし、何で来ようと思ったのか分からないし」

「……は?」

 

 桃凪は事実を言っただけだ、なのに、それをさも予想外だったかのように骸が声を上げた。今まで聞こえていた声とは全く違う、年相応のあどけなさが混じった声。そんな声も出せるのか、とほぼ初対面の少年に対してそう思う。

 

「どーしたの?」

「いや……まさか、無自覚だったとは……」

「むー?」

 

 無自覚、とは何のことだろうか。少なくとも桃凪の思いつく限りではそんな風に言われることに心当たりはない。まぁ、自覚がないから無自覚という単語があるので、今さらかもしれないが……。

 

「夢の続きは現実で」

「?」

「……と言ったのを覚えていますか?」

 

 ……そもそも、骸と話したのはこれが初めてなのだから、話すも何も……。

 

 ――――君が地面に寝てまで見る月の美しさ、僕にも教えてくれませんか?

 

 ……?

 おかしい、骸と話すのは初めてだ。なのに、自分は骸の声を知っている? それどころか、話したことがあるような気がする。なんかこう、やたらと詩的な台詞を言われたことがあるような……。

 でもどこで?

 

「……本当に忘れてしまっていたのか。あそこまで深い領域に潜れるのならあるいは……と思ったが、偶然か……?」

 

 隣で骸が何やらぶつぶつと呟いているが、聞いても桃凪にはそれが何か分からない。ただ、桃凪は何かを忘れていて、それが骸に関係する事だというのだけは分かった。

 

「私、どこかであなたとあった事あるっけ?」

「ああ、あるとも言えるし、ないとも言える。ここではないけれど、会った事はありますよ」

「???」

 

 意味がわからない。この人は謎かけが好きなのだろうか。ここではない、とはどういう意味か。

 でもでも、そんなに深く難しく考えるような事柄じゃないような気もしてきた。適当に、と言われると聞こえが悪いが、骸も骸で明確な返答は期待していないだろう。

 

「僕を呼んだのは君だ」

「……呼んでないよ」

「そうですね、呼んだのは君ではなく、僕かもしれない」

 

 桃凪は骸を呼んだ覚えはない。ないはずなのだが、骸は桃凪に呼ばれたと言い、そしてまた自分が桃凪を呼んだと言った。結局どちらなのか。この人は人を困らせて楽しいのか。

 

「それより」

 

 ぱちり、と骸の一言でスイッチが入れ換わる。場の雰囲気を一掃するような声。

 

「夢の続きを話しましょうか」

「何の話だったっけ?」

 

 覚えていない夢の事について話されても困る。というか、さっきから自分は疑問しか言っていない気がするような。少しくらい、こちらにもわかるような事を質問してほしいものだ。

 

「君が地面に寝てまで見る月の美しさ、僕にも教えてくれませんか?」

「それ、二度目だね」

 

 確か二度目だ。一度目は前の夢の中で、もう一度は今ここで。……すこしづつ、夢の内容を思い出してきたかもしれない。

 まず最初に月。薄く漂う雲の隙間から顔を出し、いつまでたっても動こうとしない虚構の異物。作り物めいてるのにため息が出るほど美しくて、人に創造することなど不可能だと思わざるを得なかった。

 次に湖。湖面に金色の光を写しだし、夜空の合わせ鏡のように凪いでいる。点々と咲く蓮の花が澄みきった湖に浮かんで、極楽とはこのようなものなのだろうかとぼんやりと想像した。

 あまりにも幻想的で、同じくらい現実感がなくて、俗界を離れた究極の一があった場所。それが、桃凪の見ていた夢の光景だった。どう考えても、桃凪の想像力の遥か上を行くような素晴らしい絶景。今考えると、夢にしてはおかしい。夢というのは見ている本人の想像力によって形作られるもののはずだ。だとすれば、桃凪の想像力の上を行くあの光景はありえない。

 

「……あー、つまり臨死体験したということかな?」

「は?」

 

 そうやって至ったとんでもない結論にゆっくりしている暇もなく桃凪はがばっと起き上がった。目を開けたらさっきよりも月の位置が微妙に動いているような気がしなくてもない。桃凪の視界に骸らしき人物は見えなかったので、多分桃凪の後ろにいるのだろう。しかし、そんなことより。

 臨死体験。魂が身体から離れて、別の場所に行くこと。とてつもなくファンタジックでミステリアス、どことなくホラーな雰囲気も漂うと思う。たぶん。

 

「初めての経験かもしれない……すごい」

「はぁ……。ちなみに補足しますけど、そうすればあそこに到ることは出来ますが、よほどの事がない限りはいけませんよ? 死にかけるとか」

「そうなの? でも私別に、死んだりはしてないなぁ」

 

 呆けたような声を上げた骸だったが、桃凪のどこかがおかしい結論に律儀に訂正を入れてくれる。意外と彼は優しいのかもしれない。でも、一つ疑問ができた。

 

「あ、そうだ。ねーねー」

 

 その疑問を解消する前に骸の顔を見たいと思う。今まで会話をしてはいたが一度も顔を見ていなかったのだ。今自分と話しているのは一体どんな人なのだろう、少しくらい気にしたって罰は当たらないはず。そう思ってくるりと振り返った桃凪だったのだが。

 

「……?」

 

 視界が急にぼやけてきて、ごしごしと目を擦る。けれど、ぼんやりした視界は治らず、さらに輪郭がおぼろげになっていった。

 目の前には骸がいる、はずだ。どうも、骸の方を見ようとすると霧のような何かが広がって、骸の姿を見ることが出来ない。判別しようとじっと見つめてみると、少し頭が痛くなってきた。

 

「うーむ……」

「それで、話を戻しましょうか?」

 

 何度かまばたきを繰り返している桃凪の様子など骸は気にした風もなく、あるいは気付いているけど無視しているのか。でも一つだけわかることがある。この目の前にいる人物、顔は見えないけど今絶対笑ってる。

 まぁ見れないということは見せたくないということだ。気にしないことにしよう。

 

「えーと、月を眺める理由、だっけ?」

「ええ、そうです」

「そんなの聞かれても分かんないよ。きれいだと思うから見るんだし、寝転がる方が満喫出来る気がするもん」

 

 なんで寝転んでまで月を見るのか、と骸は問うた。桃凪からしてみれば、月を見る時に寝転がりたくなるのは当たり前のことであって、特に意識してやっている事ではない。

 骸の言い分を聞くに、わざわざ寝転んでまで見るほどの価値を月に対して感じていないようにとれる。月を美しいと思うのはまぁ、個人の感性の違いだろう。だから、月をきれいだなぁと思う桃凪は、特にきれいじゃないと思う人からそんな事を聞かれても上手く答えることは出来ないのだ。

 それでもやはり、「感性の違いだから」で片づけてしまうのは少し寂しい。ほとんど初対面の人ではあるが、自分のいいと思う事を共有できないのはどことなくすっきりしない。相手からしてみれば大きなお世話なのだろうけど。

 しかしここで桃凪がやれることと言えば、ただひたすら月の美しさを目の前の人に語ることくらいだ。もし反対に自分がやられたらと考えてみよう。すごくしつこい、そしてうざい。

 

「ねぇねぇ。あなたは何で、きれいじゃないって思うの?」

 

 なので、相手に自分の事を分かってもらうのではなく、自分が相手の事を理解するように努めることにした。

 ぺたりと地面に座り込んで、ふわふわとした頭で骸からの返答を待つ。

 

「……別に、綺麗じゃないと思ったことはありませんよ。ただ、考えたことがなかっただけです」

「確かに、いつもそこにあるからね。暇じゃないなら、わざわざみて考えたりしないかも」

 

 自分だって、いつもいつも見てきれいだと思ってるわけじゃないし、同じ天体でも他の星々を寝転んで見たりすることはない。今日はたまたま気が向いたからだ。そういうと、骸は少し苦笑した。

 

「空の星を見て哲学する余裕があるのなら、僕だったら地上の泥でも眺めて思索してますよ」

「どちらにしろ考えるんだね。それとも、えーと、暗喩? だっけ? よくわかんないけど」

「さぁ?」

 

 形の無いものを必死に手につかもうとしているような、不毛な滑稽さを感じる。何を言っても相手は流してしまって、自分一人だけ無意味にあがいているような気分にさせられた。

 なんで彼は桃凪の前に現れたのだろうか。いくら夢の中であったとはいえ、桃凪は半分寝ているようなもので、目が覚めたら夢で片づけてしまいそうなほどあやふやだった。実際、彼があの時呼びかけてくれなければ――――そう、あの時桃凪に囁いたのはきっと彼だ。桃凪は夢だと一人納得してそのままベッドに溶けていただろう。

 この邂逅自体が、あるはずの無いことなのだ。なのに、なんで。

 

「興味があったからですよ。先ほども言った通り、僕の知る中であそこまで深い領域に潜れる存在はいなかった。だから、君に会ってみたいと思った」

「……」

「しかし、実際に会ってみれば、君は特殊な訓練も精神統一もしたことの無い一般人だった。つまり、無意識であの領域に足を突っ込んでいたんです」

 

 ああ、やっぱり骸が何を言いたいのか桃凪にはわからない。あの領域とは何だ? 特殊な訓練? 一般人……かどうかは最近ちょっと怪しくなってきてるけれど。

 要領を得ない会話。だが、不思議と苛立ったりしない。相手はこちらに意図を伝える気がないのは丸わかりで、ここまでぐだぐだと言われれば、普通ならばイライラしそうなものだが。

 骸の説明はさっぱり意味がわからないが、夢の中は意味分からないものである。夢なのかは五分五分の確率で謎だが。

 うん、夢だけど夢じゃない夢のような何かだ。そう納得する事にしよう。

 だから、夢の中の桃凪が何か不思議な力を持っていて、骸はそれについて話しているとか、そういう設定なんだろう、きっと。たぶん。……もしこれが夢じゃなくて現実なら、話を聞き流して適当に聞いている桃凪は相手に対して不誠実とかいうレベルじゃないけれど、桃凪に不思議な力はない。ならやっぱり夢だ。

 

「つまり、むくろは私と話がしたかったということでおーけー?」

「大体はそうです」

「そっか。んじゃ、どうでした?」

「ふむ……よくわかりませんね」

「ありゃ」

 

 それはそうだろう、眠気とふわふわが同居している今の桃凪はいつもの五割増しで電波を受信している自信がある。いばって言えることじゃないが。

 そうしているといつもは思わないことや、考えないようにしていることまで考えてしまって、しかもそれをうっかり口に出してしまったりする。だから無意識とは恐ろしいのだ。もしも目の前にいる骸がテレパシーや読心術の使い手なら、桃凪はもれなく顔から火を吹いて顔面大やけどで焼死してしまうだろう。大げさかもしれないが、そうなってしまいそうなくらいには恥ずかしい。ああ、また考えがずれてきている。

 

「分かんないのはどのへん? 私にわかる事なら聞かれたら答えるよ」

「君が知らないことを君に聞いても無駄でしょうね」

 

 ……見抜かれていたらしい。正直言って今の状態で上手く答えることは、骸の言うとおり不可能だろう。未成年飲酒よりもやばい不安定さだ。頭と口が別々になっているような、機械が誤作動を起こしているような危険。

 

「それに」

 

 目の前にいる骸が、笑う……ように見えた。

 それと同時にとても嫌な感じ、いや予感? が。

 

「これから調べますから」

 

 骸の手がこちらに伸びてくる。もやもやと霧に包まれぼやけているからよくわからないけど、高速で迫ってきたわけではないのに、何でか逃げることが出来なかった。すごく嫌な予感と怖い感じがしているのだが、動けない。

 ぺたり、と骸の手が桃凪の頬に触れる。暖かくも冷たくもない曖昧な手のひら。それと同時、桃凪の周りを骸と同じ霧が取り巻いて、繭のように桃凪を包み込んでいく。

 この霧は一体何なのだろう、骸にも見えているのだろうか。

 桃凪の疑問は口に出されず、骸は気づかないまま答えない。が。

 

「…………いっ!?」

 

 ずきん、と頭に釘でも打ちこまれたような痛み。反射で骸の手を払いのけて、頭を押さえた所でバランスを取れずに地面を転がった。こんなにも現実感がない状況なのに、痛みだけは笑い出したくなるほどリアルだった。

 言語が崩壊直前の桃凪は声も出さずにうずくまる。「たたたた……」とか「うううう……」とか言う感じの意味不明の音が出てはいたが、黙っていることすらも辛いから仕方がないだろう。別に痛い思いをした時にずっと黙っていなければならないという法律を自分に定めているわけではない。

 口がきちんとした言葉を話すのにそれなりに時間がかかった。それでも復活した時の第一声は、

 

「いっ、痛い痛い痛い痛い……!」

 

 と言った特に意味の無いものだったが。そんなに言わなくても伝わるというものである。わかっていたが、桃凪は痛みに弱い。

 

「あた、あたまが痛い……」

「そうですか。こうなった事例は初めてですね」

 

 桃凪の意思表示に骸は特に反応を示すことなく、冷静に淡々と状況を分析している。この痛みは突然来たものではなく、骸の口ぶりから察するに彼がやった何らかのことによる影響だと思う。つまり、原因は骸にあるはずだが、彼に罪悪感やこちらを心配する気持ちは皆無のようだ。

 ……この人はもしかしたら悪い人なのだろうか?

 そう怪訝に思って骸を見る桃凪だが、その骸は疑問が解消できて晴れやかな笑みを浮かべているような気がする。

 

「興味深くはありますが心配はいらないようだ。君はその力がゆえに、僕の敵にはなりえない。むしろ……いえ、言わないことにしましょう」

「そ、そういう心配より私の心配をしてほしい……」

 

 心配はいらない、わけがない。いりまくる。そんな軽口が叩けるくらいには桃凪の体調も回復していたが、骸の言った物騒な言葉に反応する気力は根こそぎ引っこ抜かれていた。

 

「……そろそろですね」

「? 門限?」

 

 こんな時間が門限なんて、あって無いようなものじゃないか。でも、ここに来てからどれくらい時間が過ぎたのだろう。結構経ったような気もするし、ほんの少しだけしか過ぎてないような気もする。

 

「門限ではありませんが、帰らなくてはいけませんので」

「そっか。……あ、じゃあひとつだけ」

 

 別れの時間が迫っていることを知って、何か名残惜しくなって。とっさに頭の中でまとめた言葉を口に乗せる。

 

「空をきれいと思いたいんだったらね、転んでもいいやーって思わないとだめだよ。下を気にしながら上を向いても、きれいだなんて思えないと思う」

 

 フラフラと歩いたまま上を見上げて、転んでしまってやっぱりやらなきゃよかったと思うより、転んじゃってもいいやと思った方が何倍も楽しめるというものだ。

 ……自分で言っていて、いい加減だとは思うが。

 

「……クフフ、やはり面白い。ええ、わかりました、気が向いたらね」

「おー、がんばー」

 

 かすかに含み笑いをこぼして、恐らく実現されないであろう約束を骸は言った。桃凪にもそれが嘘だと分かっている。けど、骸が笑っているから、別にいいかと思った。

 

「では、また会いましょう(Arrivederci)

「お、……? ありべで……?」

 

 流暢な言葉で何か言ったのだが、流暢過ぎてあいにく純日本産の桃凪にはわからなかった。祖先にイタリア人がいても生まれも育ちも戸籍も日本人なので、残念ながら多言語の理解は薄い。通訳はこの場にはいないことだし。

 でもたぶん、今の雰囲気を鑑みるに、別れのあいさつとかそんなだろう。

 なので、

 

「またねー」

 

 そうやって桃凪も手を振って別れを告げた。骸は振り返らなかったけれど、少しだけその歩みを止めて、またすぐ歩いて行ったのだった。

 

 

 

 

 

「……ん?」

 

 目が覚める。

 太陽の光が窓の中に差し込んで、ベッドのわきに置いてあるダンシングフラワー……確か父のお土産とかそんなだった気がする、がくねくねとダンスを踊っているいつもの朝。

 いつもの朝のはずなのだが、何かが致命的におかしい気がする。

 ……おかしい? なにが?

 

(……昨日どうやって帰ったんだろうか)

 

 そうだ。昨日、彼と別れた後にどうやって自分は帰ったのだろう。帰り道を通った記憶がない、どころか、去っていく背中を見送った後何をしたのかが思い出せなくて――……。

 

 ――――……忘れていいんですよ。

 

 …………?

 そもそも、自分は外にいつ出ていったのだろうか。深夜? ありえない。いつもの自分ならそんな愚は絶対に犯さないはず。ばれてしまったら大目玉だし、危険すぎる。

 だったらあれはなんだったのだろうか。

 いつもだったら絶対にやらないような行動、言動。それが指すこととはつまり。

 

「……つまり夢か」

 

 そうだ、夢だ。確か、夢で芝生に寝っ転がって月を見上げる夢を見ていたのだ。それで、寝っ転がっていた場所が夢の中だとたまたま近所の公園だったから、夢と現実がごっちゃになっていただけだろう。なるほど、納得した。

 しかし、夢の中の登場人物にしては随分とキャラが濃かったなぁ。彼の名前は何だったか。今となってはもう思い出せない。

 

「えーと、すごく縁起悪そうな名前だった気がする」

 

 そういうことは覚えていても、肝心の名前は思い出せなかったが。

 まぁ夢の内容にいつまでも頓着しているわけにはいかない。学生の朝は早いのだ、いつものように準備をしなくては。

 と、そこまで意識を変えて、気付いた。いつも机の端に置いてあるペンダントが、今日は何処にも無い。どこかに落としてしまったのか、それともしまったままなのか。辺り、特に床を中心に探してみたが、何処にも落ちていなかった。

 首をかしげていた所で、こんこんとノックの音が鳴った。

 

「おい桃凪ー。母さんが朝ごはんだってさ」

「あーうん」

「? どうしたんだ?」

 

 恐らく、いつまでたっても降りてこない桃凪をせかすために奈々がツナを桃凪の部屋に派遣したのだろう。でも、桃凪にはそれより気になることがある。

 誰から貰ったか覚えてないほど昔だが、とても小さい頃に貰ってからしつこいほどに下げているペンダント。学校でもいつも制服の下に下げているのだ、ないと落ち着かない。

 

「ねーつな。私のペンダント知らない?」

「は? 何言ってんだ、首にさげてるじゃん」

「え?」

 

 そうして下を見てみれば、確かに自己主張するピンク色の金属の塊が首に。なんだ、こんな所にあったのか。

 ……でも、桃凪は寝る前にペンダントを外したはずだ。寝る前まではきちんと記憶ははっきりしている、確実に外した。それなのに、なんで今首から下げているのだろうか。

 

「早くしろよー」

「あ、うん……」

 

 浮かんだ疑問はツナの声と共に溶け出して消えていった。覚えていないことを無理に思い出そうとすると、必ずこんがらがって思い出せなくなるのだ。こういう時は、いつかふっと思い出すのを待つしかない。

 そう思って、桃凪は部屋から出ていった。

 

 彼女が、日記を書き終わる数日前の出来事である。




不穏なフラグの立った音ー♪

お話を書いていると、中々胸にスッと来るものが書けないなぁ、と思う時があります。そういう時はイメージ的に固い岩山をゴリゴリ削ってやっとこさ前に進んでいるけど、その穴がいびつに曲がりくねってしまったようなもやもやとする気持ちの悪さがあります。
そういう時はいつもなんだかいやだなぁ、書きなおしたいなぁと思いますけど、そうするには曲がりくねった石の洞窟を抜けてもう一回新しく穴を掘らなくてはならないのがしんどくて、何だかんだで止まってしまう。いわゆるスランプですね。
でもそういう時に限って書いたものの方が何度も見直しているので、後から読むと良かったり。むしろノっているときに書いた方が怖いです。何が書いてあるか知れたもんじゃねぇ。
それとこれも問題だと思うのですが、どなたかの小説を読んでいるとその方に文体や雰囲気が似てくるのも作家として致命的な欠点の気がします。ちなみにこのお話は途中から「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を読んでいました。どこからなのかわかるかな?
……書いた話の説明をまったくしてないですね、はい。
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