第二十六話「決然」
私はあなたの手を引いて、雨が降りしきる街並みを歩いていた。
いつもは陽気な太陽と、鳥の声が聞こえるこの街も、こうやって雨に覆われればなりを潜め、静かな静寂と雨の音だけが聞こえている。
私はその中で、服も、髪も、顔も、全身をずぶ濡れに濡らしながらあなたと歩いている。
あなたは泣いている。
ごめんなさい、ごめんなさい、と呟きながら、その瞳からぽろぽろ涙をこぼしている。
私は、そんなあなたの手を引く以外できなくて、なんと言えばいいのか、喉で言葉がぐるぐる渦巻いていた。
行き先なんてわからなかった。ただ、ここにとどまっちゃいけないっていう焦燥感だけで。
私は振り向いて、あなたを見る。
「ステラ……」
名前を呼んで、それから。
どうしていいか、わからない。
私が付いているから大丈夫? 私の知り合いのところに逃げましょう?
そんなことを言えばいいのだろうか。それはただの気休めだ。
なら――――。
「…………もういいよ、リータ」
「……えっ」
そういえば。私が何かを話しかける前に、あなたが私の言葉をさえぎって、そんなことを言ったんだったか。
「もう、これ以上あたしと一緒にいさせられない。これ以上……巻き込めない」
「で、でも……」
「無理だよ!」
そういったあなたの声はかすれていて、つないだ手は震えていて、本当は一人が怖いのだと雄弁に語っていた。でもその言葉は、私のことを拒絶している。
行かないで、ここにいちゃだめ、助けて、放っておいて。
相反する二つの気持ちが別々に流れ込んできて、それがあなたの健気さを示していた。
「だって……だってリータは」
夜空を溶かしたような黒髪は雨で頬に張り付き、星の散らばる瞳は涙で潤んでいて。
あなたは、
「リータは…………マフィアが嫌いじゃない。なら、あたしと一緒にいちゃいけないよ」
そういって、私を優しく否定した。
第二十六話 「risoluto」
「なんで? どうして……隼人が入院しているのがここなのよ!!」
不機嫌を余すことなく放出したまま、そして右手には毒素を放出する見舞品(手作り)を手に持って、ビアンキはしかめつらのままそう言った。
ここ、というのは並盛中学の保健室のことで、そして保健室には女好きで有名のシャマルがいるのだ。シャマルはビアンキを見るとすぐにナンパしてくるので、リボーン一筋のビアンキとしてはうるさくて仕方がない。そのうえこいつはこれでも腕の立つ殺し屋でもあるので、なかなか殺しにくいところも二乗でビアンキを苛立たせていた。
そんなシャマルはといえば、
「なんだよ病院が危険だって言って連れてきたのはリボーンだぜー? 男は診ねーけどベッド貸してんの。いいじゃんビアンキちゃんおじさんと遊ぼうぜ?」
「うるさい離れろ!!」
いつも通りの飄々とした口調のまま、いつも通りにビアンキに粉をかけて、これまたいつも通りに撃退されていた。
「隼人の面倒は私が見るわ! あなたたちは出てって!!」
そう、ビアンキは言うのだが。とうの獄寺はビアンキを見ると腹痛でぶっ倒れてしまうので、治るもんも治らんというのがここにいるツナ、山本、シャマルの男たち三人の共通見解だった。
そしてツナは、
「…………獄寺君」
ベッドの上で昏々と眠り続ける獄寺を見て。
「悪い山本、オレちょっと外行ってくる……」
「ん? おう」
一応断りの言葉を入れてそっと保健室を後にしたツナは、保健室の扉から一歩離れると。
「…………あ~もうオレ馬鹿だ!! なんであの時行ったかなー!! 行かなきゃよかったのに!」
そういって頭を抱えてうずくまった。
自分があの時ビビって動けなかったから、そんな自分を守るために獄寺は自分をかばって、あんな大けがを負ったのだ。
ダメツナである自分があんな場所に行ったって何ができるわけでもなかったのに、なぜ行ってしまったのだろうか。寸前で山本が助けに来てくれなければ、さらに言えば相手がやる気をなくして帰ってくれなければ、五体満足でいられたかも怪しい。
自己嫌悪と後悔で思わず絶叫しているツナ、その視界にふと影が差した。
「……?」
「ツナ君、悩んでいるの?」
「え、あ! リータさん……」
顔を上げたツナの目の前には、学校の中だと浮いてしょうがない日傘にワンピース姿のリータがいた。
「そういうところ、昔のディーノにそっくりね」
「ディーノさんに、ですか?」
「ええ、……ピンチになると逃げ腰になるけど、仲間の心配は頭から抜けないところ」
そういってくすくすと笑うリータを見て、なんだか恥ずかしくなるツナ。だったけれど、
「仲良く歓談してる場合じゃねーぞ」
そういう声が降ってきた。上から。
「え? …………えっ!?」
なぜ上からなのだろうか、そう思ったツナが上を見上げると。真っ白い繭のようなものに包まれたリボーンがいた。いや、なんだあの繭?
「なんだそりゃー!?」
「これはレオンだぞ、さっきやっと静まって繭になったんだ」
そもそもカメレオンは繭を作るのかとか、いろいろ聞きたいことはあるのだけれども、まず一番最初に言いたいことは。
「今までどこに行ってたんだよ! オレ達大変だったのにー!」
「ディーノと連絡を取ってた。イタリアで起きた集団脱獄事件についてな」
「え?」
曰く、リボーンによると。
2週間ほど前、凶悪なマフィアばかりを収監している監獄で脱獄事件が起きたらしい。脱獄犯は看守とほかの囚人を皆殺しにし、そのうえ日本へと高跳びしたとのことだ。
リーダーはムクロと呼ばれる少年で、部下は二人。
そして隣町の黒曜中学にて3人の帰国子女が現れ、あっという間に学校を手中に収めたのが10日前のことで、リーダーは六道骸と呼ばれる少年……とのこと。
そこまで聞いて、ツナの口元がひくりとひきつる。
「あ、あのさ……そのムクロって、まさか同じ人? そっ、そそそそそんな危ない人が並盛中狙ってんの?」
ツナは否定してほしかったのだが、リボーンの返事は首を縦に振るという最も簡潔な肯定の言葉だった。
「ま、マジかよ……そんなヤバい人たちに狙われて、オレいったいどうなっちゃうんだ……!?」
「どうなるって、どうにかなる前に撃退するしかねーだろ」
「で、できるわけないだろ!?」
思わずツナの口から飛び出た言葉は嘘偽りのない本心で。
けれどもそんなツナの意思など川を流れる葉っぱのように軽いものだと言わんばかりに、リボーンはある手紙を一枚、取り出した。
「できなくてもやらなきゃなんねーんだ。9代目から手紙が送られてきたからな」
「手紙!?」
――――親愛なるボンゴレ10代目。
君の成長は君の家庭教師から聞いているよ。
さて、君も、君の隣にいるであろう君を支えてくれる彼女も、歴代のボスたちにように次のステップを踏み出す時がやってきたようだ。
ボンゴレ最高責任者として君達に指令を言い渡す。
「12時間以内に六道骸および他の脱獄囚を捕獲し、捕らえられた人質を救出せよ。幸運を祈る――――9代目。…………つーわけだから、逃げたくても逃げらんねーぞ」
「なっ……なんだそれーーーーーー!!!?」
あまり見たことのない紙質、おそらく羊皮紙か何かにインクで書かれた文字が流れる手紙。見た目だけは古風で、年季が入ってるように見えるそれは、ツナにとってはとんでもない事実を突きつける脅迫状のようなものだった。
「ふっ、ふざけんな! なんでオレがそんなこと……!」
「ちなみに、成功した暁にはトマト一年分を送るらしいぞ」
「いらねーよ!? というか一年分!? 家に入りきらないしそもそも腐る!」
「トマトケチャップにしてもだいぶ余るわね……」
「そういう問題じゃないですリータさん!!」
一通りツッコミ終えたツナはぜえぜえと肩で息をしている。
「だ、だって……ぜぇ……マフィアとか、10代目とか、そんなのオレ……はぁ……全然関係ねーし……そっちが勝手に言ってることなのに、そんなんで襲われるとか……!」
「ちなみに、断った場合は裏切りとみなしてぶっころ……」
「あー! 聞ーきーたーくーなーいー!!」
続いてリボーンから言われた認識したくない一言を、耳を塞いで拒絶する。その時、
「ツナ! さっきからうるさいわよ!! 隼人がゆっくり寝れなかったらどうしてくれるの!」
「ひぃっ!? すんません!!」
ものすごい勢いで開けられた保健室の扉から叩き付けられたビアンキの怒声に思わずツナは竦み上がり、そそくさと保健室の前を後にした。その後ろから、リボーンの声が聞こえてきたのだが。
「おいツナ……」
「うるさいオレは関係ないだろ!!」
もうマフィアになんか関わってられるか。今までだって楽しいことなんて何もなかったのに、命まで狙われるなど冗談じゃない。
走り出したツナの中にあるのは、そんな、人としてごく当たり前の恐怖心だけだった。
「まったく、仕方ねーやつだな。アイツは」
ぱちくりとしたかわいらしい表情を変えることのないまま、リボーンはやれやれと嘆息した。
ツナは人一倍ビビりだが、それと同じくらい友人思いなのだ。だから、この状況に何も思っていないわけがない。相手方のボンゴレ探しのゲリラ作戦は幸か不幸か、ツナの一番重要なところを抉り取っていた。
それでも逃げてしまうのは、自分に自信がない証拠か。
「あの子、誰かに虐げられるのが当たり前って思ってるのね。奪われることになれてるみたい」
リータの評し方はそれなりに物騒だが、言い方を変えればそういうことだ。昔から何をやってもダメダメで、それのせいでダメツナなんてあだ名をつけられ、しかもそれを本人も理解している。
つまるところ、ツナの人生は負けっぱなしの奪われまくり。それで自分に自信を持つなど、ナルシストでもなければ不可能だろう。
「でも、無理だろーが何だろーがやるしかねーんだ。生きてりゃ必ずそういうときがくる。ツナにとっちゃ、それが今だったってだけの話だ」
「厳しいのね、リボーン…………ディーノにもそうだったの?」
「まあな」
リータの問いかけにリボーンはそう答えたが、それは半分嘘だ。
確かにリボーンは逃げないようにディーノの背中をけっ飛ばしたし、脅したりもしたが。
そうする、そうしなきゃならないと最後に決めたのは、リボーンの言葉ではなく、ディーノの意思だ。
ツナもディーノもそうだが、なぜか彼の教え子たちは自分が傷つけられても耐えるのに、仲間を奪われることだけは許せない奴らが集まってくる。
「あいつらは散々マフィアに向いてねーって言われてるが、それは一つの方向からしか見てねーからそう言われるんだ」
「一つの、方向?」
「ああ。……痛いのが怖いってことは、人を簡単に傷つけないってこと。臆病って言うのは、吹っ切れると大胆になるんだ」
平穏を好むということは、守るべきものを知っているということ。
立ち向かうことが怖いのは、失う辛さを理解しているからこそ。
弱いことは罪ではないのだ。弱さを知らなければ強くはなれないし、弱さがあるからこそ、何にも勝る強さを得ることができる。
リボーンは知っている。
強くて弱い、その可能性を秘めているのは、ツナだけではないことも。
リボーンにとっての教え子は、ツナとディーノだけではないことも。
だからこそリボーンは、リータに一つの写真を見せることにした。
帰って来た骸は、なぜかやたらと機嫌がよかった。それはもう、犬が気持ち悪く思ってしまうくらいには。
「うわっ、骸さんスゲーキモイ」
「死にたいですか?」
「すいませんでした」
即座に腰を90度に曲げての綺麗な謝罪。いつもの犬ならば考えられないようなお辞儀の仕方だったのだが、骸にとっては物足りなかったらしく、そこから延髄のあたりに踵を落とされ犬の頭が地面にめり込んだ。
「いっ……たぁ~!! 骸さんひでーびょん!!」
「自業自得ですよ」
ぎゃんぎゃんと喚く犬の前を通り過ぎ、骸はいつもの定位置のソファーに腰掛ける。その動作すらなんだか軽やかだ。
「楽しみですね」
「へ?」
そのまま鼻歌でも歌いだしそうな骸の様子にそう見えずとも若干怯えていた犬を尻目に、骸は至極楽しそうにそう告げた。いつもの事だが、この人は基本的に言葉が足りない。
身の内の楽しさを告げるように、トントンと組まれた指先がリズムをとっていた。その微かな音だけが、骸と犬、二人だけの室内に響いている。
「ねえ犬?」
「はい? なんれすかー?」
「もしも、僕が二人いたらどうします?」
は?
骸が、二人? それはつまり、今ここにいる骸が二人いると。全く同じ性格の、全く同じ姿かたちで、全く同じ髪型をした……。
「果物屋が開けるッスね」
「……」
座った時の笑顔のまま、器用に骸の表情が固まる。そのままソファー近くに置いてあった愛用の三叉槍を手に持ち、目にもとまらぬ速さで犬へとぶん投げた。
犬も反応できないスピードで投げられたそれは彼の頬のすぐ横を掠め、硬質な音とともに壁に突き刺さりかすかな震えを残して静止する。
「次は当てます」
そう笑顔のまま、冷たい声で骸が言って、犬は今度こそ震え上がった。怖いのならからかうのやめればいいのに、というのは千種の言だが、犬としてはからかうつもりもなくただ思ったことをついつい口にしてしまうだけなのだが。でもそれがいつも骸のご機嫌を損ねているので確かに少し考えたほうがいいのかもしれない、とも犬は思った。どうせあと10分したら頭からすっかり抜け出てしまう戒めなのだけれども、一応。
「えー……あ、ハイ。そのー……骸さんが二人いたら? れすよね?」
「さっきからそう言っているでしょう」
冷や汗を流しながらも話を元の場所に戻すと、骸のほうもまだ会話を続ける気力があるのか、そのまま乗ってくれる。なので、犬もちょっとまじめに考えてみることにした。
「んー……」
と、言っても。
「でもやっぱ骸さんは一人っすからねー。増える? って言われてもこう、想像つかねーっていうか」
骸の『能力』ならば自分そっくりの分身を作り出すことなど容易いだろうけど、それは骸が作り出した骸の支配の下にある人形と同じ。真の意味で骸が二人増えるわけではないのだ。
誰かの体を乗っ取ったりもできるけれど、複数の人間の体を動かしていても、中にいる骸の精神自体はリンクしているから、それもやっぱりもう一人の六道骸というわけでもない。
骸が複数いる光景は簡単に想像できるのだけど、別々の骸がいる光景はなんだか実感にわかない。
「それにホラ、骸さんやっぱオンリーワンのオレ様だから? 自分が二人いるとか嫌なんじゃないですか?」
「ええまぁ、そうですね」
自分が二人いるなど冗談じゃない、と骸は語る。
同じことを考えるということは考えていることがあちらにもわかってしまうということ、そして自分はたとえ同存在であろうとも必要とあらば利用することも辞さないような性格なのは、自分が一番よくわかっている。
もし自分がもう一人いたら、いつ裏切られるかを気にして気の休まる暇がないだろう、と。
「案外、ドッペルゲンガーの伝承が「会うと死ぬ」なのは、お互いが自分の存在を守るために殺しあうからなのかもしれませんね。知ってます? 人体に有毒な作用を持つ物質の構造は、人体と似通っているという話。自分に近しいものほど、実は自分にとっては有毒なんですよ」
「へー……?」
さっぱりわからない。わからないが、それを伝えるための上手い返しも思いつかないので、とりあえず聞いておく。
「でもですよ? 全く自分と同じ存在を人は本能的に疎いますが、逆に限りなく近い存在に対する反応は様々なんですよ。同族嫌悪が起こることもあれば、自己愛を抱くこともある。異常心理の人間が自分の子供に優しいのは、子供を自分の分身として見るからだとか」
もう考えることを諦めた犬の反応を見ることなく、骸はそのまま言葉をつづける。
「僕だったらどうなるんでしょうね」
検証しようもない疑問を口の端に乗せたまま、そう言って骸はこの話を締めくくった。
言ってることはよくわからない、わからないが。
「でもオレがついてくのは骸さんだけれすよ!」
それがどの骸なのかは犬にはわからないが、骸だからこそ自分は従うのだ。二人いようが三人いようが、たとえ世界の人間が全員骸になったとしてもそう断言できる。
「そうですか」
それに骸は、当たり前だろう? とでも言いたげな様子で返事をする。そして、しばらく一人になりたいから出ていってくれ、と言った。
骸の言葉に犬が素直に従い出ていくと、骸は座っていたソファーに全身を預け、脱力する。
彼はそのまま天井を見上げ、
「…………そろそろ、終わりましたか」
そう言って、静かに笑う。
すごく、楽しそうである。
お前に渡しておきたいものがある、とリボーンから一枚の写真を渡された。
首謀者である、六道骸の写真だ。
けれど、
「…………なによ、これ」
その写真に写る顔から、リータは目が離せない。
これが、六道骸?
六道骸だとでも、言うつもりなのか。
彼は、そんな名ではなかったはずだ。
「どういう、ことなの……!」
ぎゅう、と。強く、力を込めて写真を握りしめる。握力の強さに比例して、薄っぺらい紙に皺が出来ていった。
どれだけ見ようとも、確認しようとも、その写真が変わることはない。変わってほしいけれども、絶対に。
「どうする?」
すぐ足もとにいたリボーンがリータにそう聞く。その「どうする?」には、様々な意味が込められていることに、リータは気づいていた。
これからどうするのか、自分の立ち位置を、『彼』と会ってしまった時の対応を。
その問いかけに、リータは。
「…………わからないわ」
いや、わかっている。自分は何もしてはいけないということは。
けれどもそれは頭でわかっているだけで、実際『彼』と会ったときは、感情のままに飛び出してしまうかもしれない。それを含めての、これからどうするか、自分がどうしてしまうか「わからない」だった。
リボーンはそんなリータの言葉を聞いて、ただ帽子を深くかぶりなおした。
「……なるほどな、わかった。……一つ言っておくが」
一息。
「もしも、お前がぶっ飛んであいつに向かっていくっつーんなら、そん時はオレが相手になるぞ」
「…………」
それはつまり、もしもリータがこの戦いに手出しをしたのなら。
この目の前にいる世界最強のヒットマンが、敵になるということか。
写真を握りしめたままリータは少しだけ俯いて、すぐに顔を上げる。
「……ええ、そうして頂戴」
「いいのか?」
「いいわよ。リボーンが止めてくれるって言うなら、安心できるわ」
その表情は先ほどのものとは違い、きれいな笑みで彩られていた。
けれども、それが無理をして作ったものであることは、リボーンでなくともわかるだろう。
無理もない、とリボーンは思う。
彼女の話は人づてにしか聞いたことがないが、それでも凄惨な話であった。あの出来事が、まだ若く幼かった少女の心にどれほどの傷を残しただろうか。
そんなリボーンの心中を知ることなく、リータはくるりとリボーンに背を向け歩き出す。歩行に合わせてふわふわとワンピースが風に揺れた。
「さて、と。そうと決まったら、ツナ君を迎えに行かないとね。桃凪も一緒に行くの?」
「桃凪はツナが行くっつったら勝手についてくるだろ。ツナも他の奴らがいく気満々なら流されてついてくだろーしな」
ツナを焚き付けるのはリボーンの家庭教師としての仕事でもあるし、ほかのメンバーも声をかければかってに行くと言い出すはずだ。そうすれば桃凪も……。
「…………」
そこまで考えて、リボーンは少し沈黙した。
そういえば、最後に桃凪の姿を見たのはいつだっただろうか。今日ではない。昨日の、夜。その時の桃凪の様子を思い出して、
「……リボーン? 置いてくわよ?」
「……やられたかもしれねーな」
「え?」
それは確証と呼べるものではなかったが、殺し屋として生きてきたリボーンの経験に培われた勘のようなものが、絶対の確信として彼の中に一つの結論を導き出した。
さてこの場合、どうするべきだろうか。
骸から部屋を追い出された犬は、どこへ行くでもなくぶらぶらと黒曜ランドの中を歩き回っていた。
さっき帰って来た千種はそれなりにボロボロだったので、ある程度の治療をして今は安静にしている。となると話し相手がいなくなるので、犬は絶賛暇を持て余していた。
どこをどう歩いたのかはよく覚えていないが、覚えていなくてもこの場所は犬の庭のようなものだ、問題はない。それにその気になれば臭いを感知することも犬には可能。いた時間はわずかだが、それでも強く記憶の中に風景は刻み込まれている。この部屋は骸の制服置き場で、この部屋は千種が一人になりたいときによく活用している場所、そしてこの場所は。
そうやっていた時、かたり、と。自然では絶対にしないような人為的な物音が犬の耳朶を打った。
「んあ?」
大きな動作で、けれどもその奥に警戒を秘め、犬はそちらの方向を見る。
音が聞こえた部屋は確か一度入ってからその後は使ってない。ソファーが一個置いてあるくらいで他に何もなかったはずだ。
骸がこれからボンゴレがこちらに来るかもしれないからと、ここに集まっていた(と言ってもほとんど雲雀とか言うのに倒されたが)黒曜生を帰らせたので、今ここにいるのは犬と千種と骸だけ。骸が呼び寄せた追加メンバーも来るまでにもう少し時間がかかるはずだ。となると、
(呼んでないお客さん、かなー?)
そう結論付けた犬の顔が、少し楽しげになる。迷い込んだ子羊か、そうでないかはこの際どうでもいい。いい暇を潰せるきっかけができた。
犬は少しだけ身をかがめ、戦闘態勢をとる。といってもすぐに終わらせてしまうのはつまらない。狩りの練習をする子猫は、獲物をあえて殺さずに逃がしながら追いかけるらしい。
物音と、それに連なる気配を見計らい、息を殺して。
「……よっ!」
そのまま犬は地面を蹴り、部屋の中へと飛び込んだ。一足で部屋の外の廊下から部屋のちょうど中央に到達、相手はいきなり飛び込んできた犬に驚いてるらしく、気配が少しだけ揺れているのがわかった。
動揺がとてもわかりやすく伝わってくる、ということは一般人か。ならば、と犬は着地の勢いを殺すことなく、そのまま壁へと飛び上がった。空中でくるりと回転し、壁に足がつくように態勢を変え足場にする。そして持ち前の瞬発力を最大限に生かして、蹴る足で対象の背後へと飛び込んだ。
相手はかなり小柄だ、少しくらい手加減をしたほうがいいだろう。そもそもここで殺しをするといろいろと面倒なことになるし、最初から軽く叩くだけに済ませておくつもりだった。
「もらいっ! だびょん!」
爪も牙も使わず、軽く掌底を叩き込む。手加減してはいるがそれでも相手を壁まで吹っ飛ばすには十分な威力、速度で放たれたものだったのだが。
「……って、ありゃ?」
相手の背中をとらえた、と思った瞬間。
消えたのだ。
犬の目の前にはただ無人の部屋だけがあって、いたはずの人影はどこにもいなくなっていた。
何故だろう? そう思って犬の動きが少しの間だけ止まる。ほんの少し、だったのだが。
ぺたり、と犬の首筋にあったかいものが添えられた。
(……はぁっ?!)
危険のアラートが脳内に鳴り響くのと、その何かを反射的に払いのけるのはほぼ同時。思考はその後に遅れながらもついてきた。
背後に立たれていた。そのうえ急所に触れられた。ありえない!
先ほどの遊びとは違い、警告してくる本能に従い犬はその場を離脱。まさしく獣の瞬発力を使い、その何かから一気に距離をとる。そうして改めて自分が襲い掛かったものを見たのだが。
「……さっきのガキ!?」
「…………」
なぜか骸がやたらと気に入っていた、ちょっと前にここにやってきたチビだ。
背中に伸びる長い髪の毛は寝ぐせで少しだけ跳ね上がっており、体の比率としては少し大きめの頭は微かに右に傾いでいた。寝起きらしく、瞬きを繰り返す眼はどこか茫洋としている。
どこからどう見ても弱くて非力なただの子供にしか見えない。そんな少女が、犬を出し抜き背後をとり、さらに急所に触れるほどのことができるのか。
「テメーさっきなにした!」
「……」
「だんまり決め込んでんじゃねぇ! なにしたって聞いてんだびょん!!」
ビリビリと体から警戒と殺気を出しながら犬がそう叫ぶと、少女は犬の事をじっと見つめる。まっすぐとこちらを見てくるその眼がなんだか、なんというか。
「……ねえ」
「な、な、なんだよ」
どこか、骸を思い出して。
「何をやっているの? 犬」
お前に呼び捨てにされる義理はない、と思うのだが。なぜだか、気圧される。
まるで目の前に、骸がいるような。
「いきなりだったから驚いて、少し驚かしてしまったんだよ」
大丈夫? と少女が聞いてくるのだが、犬に返事をする余裕はなかった。
ただ、一言だけ絞り出す。
一言だけ、思わず口からこぼれ出ていた。
「…………お前、誰だ」
「私……?」
犬のその問いかけを少女は口の中で転がして、
「私は……」
その後、困り果てたように眉が下がった。
先ほどとはうって変わり、まるで迷子になった幼い子供のような、不安げな表情で。
「私は、桃凪にしかなれないよ」
……今にも泣きそうな笑顔というのは、こういうものなのだろうな、と犬は思った。
走り出したツナがたどり着いたところは、なんてことのない、いつもの我が家だった。
「つ、つい、た……」
膝に手を乗せ、前のめりになり肩で息をしながらも、ツナはどこか安心したような表情を浮かべる。
心を落ち着けて、気を休めることのできる場所。ツナにとって家はそういうものであるし、その認識に間違いはない。たとえ、もう本当の意味で安全な場所などどこにもないのだとしてもだ。
「ただいま!」
勢いをつけて家へと飛び込んだのだが、不思議なことに家には母もそのほかの同居人の姿もなく、静寂だけが帰って来た。
頭のどこかで、今日はたしか母が買い物に行く日で、ほかのメンバーはいつもそれについて行ってたはずだ、という情報が駆け巡る。だからいないのはそのため、だろう。
けれども今日は、桃凪が家にいるはずだ。
そう思ってツナは靴を脱ぐと一気に階段を駆け上がった。何でもいい、自分を日常へと繋ぎ止めてくれる誰かの声と存在がほしかった。
「桃凪! ただいま!」
そう言って、桃凪の部屋の扉をたたく。
桃凪からの返事はなかった。
「……あれ?」
なんとなく、なんとなくだが。
不安な気持ちが胃の奥からせり上がってきて、ツナの呼吸が走り通しだったのとは別の理由で荒くなる。
その焦燥感に急かされるようにドアノブに手をかける、と。……回る。鍵は、かかっていないようだった。
何故だろう。
あんなにも待ち望んでいたはずなのに、あんなにも帰りたいと、声を聞きたいと願い乞うていたはずなのに。
この扉を開けるのが、ひどく怖い。
「……」
ゆっくりとツナは扉を引く。まるでホラー映画の演出のような軋んだ音を立てて扉は開いていき、ツナの目には桃凪の部屋が映る。
フローリングの床に敷かれたモフモフのカーペット、ツナとおそろいの……少しだけ小奇麗な勉強机、彼女の趣味を反映する著書を詰め込んだカラーボックス、そしてピンク色のベッド。そこまで見渡して、ツナは気づいた。
気づかざるを得なかった。
桃凪が、どこにもいないことに。
「……桃凪?」
主のいない部屋の中、ツナの声に応えるものはどこにもなく。
開け放たれた窓から流れ込む風が、机の上の日記をぱらぱらとめくれ上がらせていた。
「つな……」
黒曜センターの屋上で寝転がって、青空を眺めながら桃凪はつぶやく。
ツナに会いたい。会って、話をしたい。そうしたらきっと、自分は大丈夫な気がするのだ。
ああけど、もしかしたらもう、自分はツナの知ってる自分ではないかもしれない。今日一日でいろんなことが起こりすぎた。桃凪の身にも、いろいろあった。
もう桃凪は、何を指して自分なのかがわからなくなっている。
大切であったはずのものが大切じゃなくなっている。切り捨てたはずのものがなぜか両手に密集していて、ひどく重い。
助けてほしいと思っていた時が、遠い彼方のように感じて。
もう何もかも投げ捨ててしまいたい。
誰かの人生とか、その意味とか。そんなものを考えて決断するのは、疲れた。
自分が嫌だから嫌だ、相手のことなど知らない。世界には自分と自分の好きなものだけがあればいい、そのほかなんて、いらない。
その冷たくて無責任な考えは、確かに今の桃凪自身が持っているもの。そう思うのに、
それでも、
優しかった頃の思い出が、走馬灯のようにしがみついて離れない。
このままでいいの? と囁きかけてくる。
このまま、骸を放っておいて、逃げてしまって。
そうしたらきっと、今よりもっとつらくて悲しい思いをしなくちゃならなくなるのに、本当にそれでいいの? と。
「ごめんね。私たぶん、まだ帰れない」
前に進むことはできないのだけれど、後ろに戻ることもできないので。
結局、立ち止まり続けるしかないのだ。
だから謝罪を。懺悔を。
涙をこぼすこともないまま、桃凪は静かにそう告げた。
スランプに陥りなにも書けなくなってしまったあなた!そんな君でも大丈夫!この執筆法を使えば、スランプなんて何のその、スラスラ続きが書けちゃうんだから!!
さあいますぐお電話を!電話番号は「090……」
みたいな都合のいいものがあるのなら、きっと世界はこんなに厳しくない。
お久しぶりです。すいません。なんかもうあとがきで謝罪ばかりなきもしますけれど、すいません。
最新話をお届けさせていただきます。色々と不穏ですが、複線管理とか初めてなのでもしかしたら矛盾が生じているかもしれませぬ。