【本編完結】もしも、幸平創真が可愛い女の子だったら 作:ルピーの指輪
スタジエール開始
「……えっ? わ、わたくしの名前が今……」
「「ワアアアアアッッ!」」
「やりやがった! あの編入生! まさか優勝するなんて!」
「すげぇ! すげぇもん見たな!」
「幸平だ! 幸平創愛が1年生の頂点に立ったぞ!」
「わたくしが……、ゆ、優勝?」
割れんばかりの歓声の中、わたくしは自分が“秋の選抜”で優勝したことをようやく認識しました。
もちろん、そのつもりで挑みましたが黒木場さんと葉山さんの一皿の完成度を拝見していましたので、現在のこの状況が信じられないのです。
「優勝、おめでとう。まぁ、あなたは私のライバルなんだからこれくらいは――」
「え、えりなさん……!」
気が付いたとき、わたくしは彼女を力いっぱい抱きしめていました。
約束が果たせて感極まったからなのか、何故なのか分かりませんが、彼女のことが愛おしくてたまらないのです。
「――っ!? そ、ソアラ……、だから、みんなが見てるのにこんなこと……」
「ごめんなさい。足に力が入りませんの。もう少しだけこのままでいさせてくださいまし……」
「し、仕方ないわね。今日は約束も守ってくれたし……、特別よ……」
上擦った声でえりなさんはわたくしの抱擁を受け入れると仰ってくれました。
彼女の温かな体温を感じて、これ以上ないほどの幸福感を感じております。このままずっとこうしていたいくらいです――。
「えりなさん。少しは近付けましたでしょうか?」
「――えっ? そ、そうね。こんな気持ちにさせられたのは初めてよ。私も止まっていられない。あなたに追いつかれるのは何か嫌だし……」
わたくしがえりなさんに近付けたかどうか尋ねますと、彼女は追いつかれたくないと口にされます。
正直申しまして、意外な答えでした。
「うふふっ……、えりなさんも普通の料理人なんですね」
「ど、どういう意味よ!」
「負けず嫌いということですわ。ここに居られる皆さんに共通していることです」
誰かと切磋琢磨して自らを高めることが料理人としての幸福だと父が以前、言っておりました。
わたくしがこの学園に入ったとき、勝負というものがあまり好きでなかったのですが、こうして競い合って力を高めることも大切だということを知りました。
そして、皆さんがどこまでも負けず嫌いだということも……。
「さてと……」
「普通に歩けるようになってるじゃない」
わたくしがえりなさんから離れると、彼女はわたくしがスタスタと歩いていることを指摘します。
「あ、はい。えりなさんの感触が気持ち良かったので、少し甘えておりました」
「――っ!? この子はいつもいつも……。で、何をするつもりなの?」
「それは、もちろん。今回の品はえりなさんの分も用意しているので、食べてもらおうと思いまして……」
「あなた、前にも言ったけど私の味見っていうのは――。まぁいいわ。選抜で優勝したんだし。食べてあげる」
わたくしが今回の品を作ったのはえりなさんに定食屋の良さを知ってもらうためです。
彼女が召し上がると仰ってくれましたので、わたくしは早速えりなさんに料理を提供しようと動きました。
「俺にも食わせろ! 幸平〜!」
「ひぃっ!? く、黒木場さん!?」
「こら、リョウくん! 怖い顔しない!」
すると、その様子を見ていた黒木場さんが大声でわたくしの品を召し上がりたいと口にされました。
これはまた、意外な方が――と思いましたが、確か黒木場さんは恵さんの品も食べ比べをされていましたので、こういうことがお好きなのでしょう。
「い、一応、たくさん作りましたので召し上がってください。あ、アリスさんもいかがですか?」
「あら、そう。じゃあ、食べてあげる〜。リョウくんを負け犬にしたお料理を」
「うるせぇ!」
「俺ももらって良いか?」
アリスさんにも勧めてみると、彼女の答えとともに葉山さんもわたくしの品を召し上がりたいと仰ります。
黒木場さんも葉山さんもすでに次の勝負を見越しているのかもしれません。
「葉山さん……。もちろんです。香りについて理解が深められたのは汐見先生と葉山さんのおかげですから」
「ちっ、見事に敵に塩を送ってしまったってことかよ。いい勉強になった。一で十を学ぶ奴も居るってことをな。もうお前にだけは何も教えない」
「まぁまぁ、そう仰らず葉山さんの品も食べさせてくださいな。黒木場さんも」
わたくしが葉山さんと黒木場さんに、彼らの料理を食べさせて欲しいとお願いしますと、2人とも快諾してくれました。
実は審査中からずっと食べたかったのです――。
「そういえば、優勝は幸平さんだったけど、2位ってどっちだったのかしら?」
「元々、決勝戦が三つ巴っていう前例がないから、順位はつけないのよ。敢えて言うなら、2人とも準優勝ね」
「ふぇ〜。葉山さんと黒木場さんって準決勝も決着がつかなかったんでしたよね。それはなんとも……。はむっ……、やはりどちらの品も美味しいですわ」
わたくしがお二人の品を食べておりましたら、アリスさんが準優勝者は誰だという話題を出しました。
葉山さんと黒木場さんは準決勝の件もあり、この試合でバチバチと火花を散らしておりましたので、その話題には大きく反応しているみたいです。やはり、引き分けが続くのは嫌なのでしょう。
「決着がつかなかった1番の原因を作った奴が何か言ってるぞ」
「だったら、幸平さんが決めたら良いんじゃない? どっちが美味しかったの? リョウくんの品と葉山くんの品」
「なるほど、優勝者が決めるなら俺も納得できる」
「はむっ……、ふえっ?」
美味しい料理を頂いて満足していますと、アリスさんが悪戯っぽく笑みを浮かべてわたくしに黒木場さんと葉山さんの品の優劣を決めさせるという恐ろしい提案を口にされます。
いやいや、なんでそんなトラブルの原因になるようなことを提案するのですか……。そういうことは堂島シェフとかに聞いて頂ければ良いのです――。
「だからどっちが美味かったかって聞いてんだよ! 準決勝のふざけた審判みたいにわかんねぇとか言うなよ!」
「いや、そのう。それは……」
黒木場さんの剣幕が恐ろしいです。準決勝の時に審判の方がわからないと述べた事を気にされているのでしょう……。
「率直な意見でいい。聞かせてもらおう」
「い、嫌ですわ……! だって、言ったら絶対に黒木場さんが怒りますもの! あっ……!」
「はっきり、言ってんじゃねぇか! こらぁっ!」
葉山さんの一言にわたくしはつい口を滑らせてしまいます。
黒木場さんは目を血走らせてツッコミを入れておりました。黙っているつもりでしたのに、迂闊でしたわ……。
「ご、ごめんなさい。で、でもほんの少しだけですよ。本当にちょこっとだけですわ」
「じゃあ、黒木場が3位ってことで。良かったな。はっきり物が言える奴が審査員で」
「この野郎! 急に饒舌になりやがって! 絶対に次は二人まとめてぶっ倒す!」
葉山さんが少しだけ嬉しそうに微笑み、黒木場さんは次は必ず勝つと宣言されました。
彼はストイックな努力家ですから、次に試合をする機会があれば必ず今よりもパワーアップされているでしょう。
「だから、言いたくなかったですの。内緒にするつもりでしたのに……」
「割とはっきり言ってたわよね……」
「幸平さんはバカじゃないけど、天然だから……」
こうして“秋の選抜”は終わります。極星寮に戻ると皆さんがわたくしの優勝を祝ってくださいました。
ちなみに、わたくしの品のえりなさんの評価は「美味しいけどまだまだ甘い部分が多い」みたいです。彼女と肩を並べるには道は遠いですね……。
この日から極星寮ににくみさんや美代子さんの他に、アリスさんたちや葉山さんが遊びに来るようになりました。
えりなさんは未だに来たことはないですが、アリスさんと一緒に遊びに行く頻度は増えました。
ですが、のんびりとした生活は長く続かないみたいです――。
◇ ◇ ◇
「スタジエールですか?」
「おうよ! お前ら1年はこっから先に、学園から放り出されるってわけだ。実地研修プログラムってヤツだな」
丼物研究会に遊びに訪れたわたくしに小西先輩は“スタジエール”という言葉を教えてくれました。
どうやら、学園の外での研修みたいですが、どんなことをするのでしょうか?
「へぇ、何か小西先輩が初めて先輩らしいセリフを言ったな」
「んだと、肉魅!」
「肉魅っていうな!」
「まぁまぁ、水戸さんも小西先輩も落ち着いてください」
恵さんが言い争いになりそうなにくみさんと小西先輩を止めに入ります。彼女は郷土料理研究会がお休みの日はよくわたくしと共にこちらに顔を出します。
これだけの頻度でお邪魔しているので、生活が落ち着いてきたら、わたくしもさすがに丼物研究会に入らなくてはなりませんね……。
「で、そのスタジエールってのは何だい?」
「高等部1年生が外部の様々な現場に派遣されるカリキュラムだ。その行先は高級料理店から食品メーカー、公的機関と多種多様。まぁ、実戦の空気を学ぶ授業ってとこだ」
美代子さんの質問に小西先輩がスタジエールについての詳しい説明をしてくれました。
どうやら現場での仕事の体験学習みたいなことをさせられるみたいですね。
「楽勝っすね。そこいらのプロでも俺よりできるやつがそういるとは思えねーし」
「リョウくんの言うとおり。もう少し刺激的なお話かと思ったわ」
「そういや、潤もそんなこと言ってたっけな」
「ぐっ……、俺の丼研がドンドン部外者の溜まり場になってるんだが……。しかし、幸平は選抜の優勝者……、無碍に扱えん。こいつらも選抜の本戦進出者たちだし……」
当然のような感じで黒木場さん、アリスさん、葉山さんが居ることに小西先輩は首を傾げていました。
しかし、彼は丼物研究会がそれだけ愛されているとプラスに取って基本的には部外者の方も歓迎する姿勢を見せています。
「しかし、この学園のことです。きっと一歩間違えたら退学になるような仕掛けだらけに決まってますわ」
「すっかり疑心暗鬼だね。ソアラさんは……」
「まぁ、姐さんの場合は食戟だけで3回も退学を賭けてるからねぇ」
わたくしはスタジエールとやらも退学の危機が迫りくると戦慄しておりました。
食戟は自己責任ですが、ダメなら退学とか簡単に言ってしまう学園です。なぜ、皆さんはこんなに平然とされているのでしょう? 緊張感のある表情をしているのは、わたくしと恵さんだけです。
「お前ら、スタジエールを侮っちゃならねぇぞ。どこのスタジエール先も遠月学園への信頼があって受け入れてくれてるんだ。もしも遠月の名を汚すような問題を起こせば、幸平の言うとおり、一発退学になることだってあるんだぜ」
「いやでもさ。そういうセリフは小西先輩が言っても危機感が煽られないっつーか」
「むしろ、小西先輩でも通過できたくらいだって思えちゃうんだよねぇ」
「お前ら……!」
小西先輩がスタジエールは一発退学の危険があると警告しますが、その脅しもあまり皆さんには通じてませんでした。
「とにかく、問題を起こさずに滞りなく仕事をこなせればクリアってことか?」
「違うな。合格基準は研修期間内に“目に見える実績を残してくること”だ。これが中々難しくてよぉ。俺の行った現場なんか――」
「幸平さん、こんなむさ苦しいところより、えりなの所に遊びに行きましょうよ」
「えっ? アリスさん。今、先輩がヒントになりそうなことを――」
葉山さんの質問に小西先輩が答えようとしたとき、アリスさんがわたくしの腕に自分の腕を絡ませて外に出ようと言って来られます。
小西先輩の話に興味が無いのでしょうか……。
「お前は選抜優勝者だ。こんなとこで落ちるなんて考えなくていいんだよ」
「そりゃそうだ。小西先輩に負けてるなんてことはないだろうし」
「いえ、そんなことはないと思いますが……。退学になるかもしれないですよ? 皆さん、キチンと話を聞いたほうがよろしくないですか?」
「いいんだ。幸平……、どうせ俺なんて……」
「小西先輩……、拗ねちゃってる」
話を聞いてもらえない小西先輩はしょんぼりした表情で俯いていました。
いくらなんでも、可哀想です……。
「冗談だよ。小西先輩。どうやって実績を残したのか聞かせてくれよ」
「ふふっ、よく聞いてくれたな。実はこのリーゼントヘアが役に立った話なんだ。それはな――」
小西先輩はにくみさんの言葉で機嫌を直して、リーゼントヘアが偶然に偶然を呼んで、あるお店でとんでもない実績を上げる話をしてくださいました。
話が終わったあと、黒木場さんに「時間を返しやがれ!」と何故かわたくしが怒鳴られましたが、面白い話だと思ったのはわたくしだけだったのでしょうか……。
そして、最初の研修先に向かう日になりました――。
「ええーっと、最初の研修先は二人一組で実施するのですね。わたくしとペアを組むのは――」
「ゆ、幸平……、創愛……! さ、最悪だ……」
「まぁ、新戸さん! 新戸さんがペアの方でしたか!」
最初の研修先はペアを二人で組むと聞いておりましたが、わたくしとペアを組む方は新戸さんでした。
わたくしは嬉しかったのですが、彼女は顔を青くされてこちらをご覧になっていますね……。
「な、馴れ馴れしくするな! 貴様と協力するつもりはない! スタジエールは私一人の力で乗り越えてみせる!」
「それにしても、研修先ってどんな場所でしょうか? 高級料亭なんかですと、緊張しちゃいますよね〜」
「私に話しかけるな!」
「ふえっ!? わたくし、新戸さんに何かしましたでしょうか? ぐすっ……」
「な、泣くな! 貴様は何もしてない! 私の問題だ!」
新戸さんは何だかピリピリされており、わたくしが何か無礼を働いたのか心配になりましたが、彼女は自分の問題だと答えます。
何かあったのでしょうか……? 心配です……。
そんな気まずい雰囲気の中、わたくしたちは研修先の場所にたどり着きました。
「ここですね……、思ったよりも普通のお店ですね……。あら……?」
研修先は至って普通のレストランでした。しかし、そう思った刹那――お店から多くの人が飛び出してきました。
「ふざけるなよまったく! どんだけ待たせるんだ!」
「あぁもう間に合わない! もういいよ注文取り消しね!」
「す、すみません、すみません……!」
「「…………」」
お店から出てこられたのは、怒りの声を上げるお客様とそれに対して平謝りをされる店主らしい男性みたいですね……。
どういった状況なのでしょうか……。
「あっ……!? ひょっとして遠月学園の生徒さん? 恥ずかしい所を見せちゃったね……。ここの三代目店主・三田村です」
「始めまして。本日から一週間スタジエールをさせていただく新戸緋沙子と申します」
「同じく、幸平創愛と申します」
店主の三田村さんはわたくしと新戸さんに気が付き自己紹介をされたので、わたくしたちも挨拶をします。
三代目ということはかなり長く続いているお店のようですね……。
「ふーん。新戸さんと幸平さん……、ね。んじゃ、早速で悪いんだけど――」
三田村さんはわたくしたちの名前を確認すると、まじまじとこちらを見つめてこられました。
「――さ、サイン貰えないかな?」
「「はい?」」
「だってあの遠月学園に通う生徒さんだよ? 将来世界中に知られるスターシェフになるかもしれないからね~」
「なんでしょう……。誰かに似てるような……」
サインが欲しいと仰る三田村さんはわたくしたちがスターシェフになるかもしれないと仰ります。いや、ただの定食屋のサインなんて誰も要らないでしょう……。
「私なんて――人様に誇れるような料理人ではありませんから……」
「そんなことありませんよ。新戸さんは凄い料理人ですわ! 薬膳の知識なんて――」
「貴様に何がわかる!?」
「――っ!?」
新戸さんが俯いて自分を卑下されておりましたので、わたくしは彼女のことについて話そうとすると、彼女は大きな声を出してそれを遮りました。
やはり、新戸さんは何か変です……。
「私の欲しかったものを全部手に入れた貴様に……。何が分かるんだ……」
「新戸さん……」
「き、君たち喧嘩中なのかい?」
「す、すみません。取り乱しました。私はともかく幸平さんは才能も実力もある料理人です。私も彼女に負けぬように頑張ります……」
三田村さんが心配そうな声をわたくしたちにかけると、新戸さんは首を振って謝罪をしました。
これは、彼女とキチンとお話する必要がありますわね……。
こちらのレストラン――“洋食の三田村”さんの制服に着替えることになり、わたくしと新戸さんは更衣室に足を運びました。
「新戸さん、どうしたのですか? えりなさんも最近顔を見ないと心配されてましたよ」
「私はもうえりな様の下へは戻れない。秋の選抜で敗れた私にその資格はない」
「何を仰っているのですか?」
わたくしはえりなさんが彼女のことを心配されていることを含めて新戸さんの近況を尋ねてみました。
すると、彼女は“秋の選抜”で葉山さんに敗れたことを気にされて、えりなさんの元に行きたくないと答えます。
まさか、試合で負けたことを気に病んでそこまで落ち込まれているとは思いませんでした――。
「えりな様は完全無欠を体現なさってるお方なんだ! 敗北者である私がお側にいてはえりな様の株が下がってしまう。私が貴様のように強ければ――」
「あのう……、えりなさん寂しがってましたよ。新戸さんが居ないから」
「な、なんだと!? そ、そんなわけあるか! 私が居なくて、えりな様が寂しがるなんて……」
新戸さんは自分がえりなさんの側にいると迷惑がかかるというようなことを仰っていますが、当のえりなさんは彼女が居なくて寂しがっています。
この前、アリスさんと一緒に彼女の所にお邪魔させてもらったときなんて玄関を開けるなり、彼女の名前を呼んでおりました。
「この前、アリスさんと遊びに行ったときも新戸さんのことずっと気にされてましたし」
「ほ、本当か……?」
「負けて気持ちが落ちるのは分かります。本戦に残った方々は皆さん負けず嫌いの方ばかりですから。しかし、辛いかもしれませんが前を向いて見てください。そうすれば、えりなさんが新戸さんのことをどれだけ大切に想っているのか分かるはずですわ」
新戸さんはとても誇り高い方で向上心が強いので負けたことを人一倍気にされるのだと思います。
ただ、彼女にわかって欲しいのはたった一度の負けくらいで彼女の価値は下がらないということと、誰よりもその価値を知っているという方が身近に居るということです。
知り合って半年ほどのわたくしだって彼女が優れた方だということを知っていますのに、えりなさんがそれを存じ上げないはずがないのです。
「……えりな様が私のことを想ってくださっている?」
「当たり前じゃないですか。えりなさんは誰よりも頼りにされていると仰ってましたよ。新戸さんはしっかりされてますし、頼りがいのある方ですから」
「そ、そうなのか……。考えたこともなかった……。すまない。心配をかけた……」
新戸さんの表情は少しだけ和らいだように見えました。あとは彼女が自信を取り戻すことが出来れば良いのですが――。
「まぁ! 新戸さん、エプロンがとっても似合いますわね。とても可愛らしいですわ。今日から一緒に頑張りましょう」
「――っ!? な、なんだこの気持ちは……、何故、私はドキドキしてるのだ……」
着替えが終わり、わたくしは彼女の両手を握りしめて、一緒にこのスタジエールを乗り越えようと声をかけました。
それにしても新戸さんのエプロン姿がとても可愛らしいです――。
「し、静かだな……。さっきの騒ぎが嘘のようだ」
「ええーっと、これがこのお店のレシピですか……。とりあえず新戸さんは現場は未経験だと聞いておりますので――」
わたくしはこのお店のレシピを拝見しながら、現場の経験をされたことがない新戸さんに最初にすべきことを伝えようとしました。
「むっ、心配には及ばん! 私だってチームを組んで調理する授業は受けているし合宿でのスピードを求められる課題もクリアしている! スタジエールだろうが問題はない!」
「いえ、授業でのそれは不特定多数の注文が飛んでこない状況なので、実際は――」
「「きたー!」」
新戸さんは授業を優秀な成績でクリアされている事は存じておりますが、どんな注文が飛び交うか分からない状況での作業はされていないと思われます。
そのことを口早に説明しようとしましたが、時はすでに遅く、多数のお客様が雪崩のように店に飛び込んで来られ、またたく間にお店は満席になりました。
「何――!? 一瞬で満席……、オーダー殺到!? これほどとは――」
「もともとウチは、地元客ばかりが来てくれる店だったんだ、満席になるのなんて週に何回かで……。でもウチの最寄り駅、新幹線が止まるでしょ? 半年前から、乗車前のお客さんが殺到するようになって――。一気に来店して一気に注文して一気にお会計するもんだから、仕事がどんどん後手後手になって……」
なるほど……。ここ数年で駅周辺の開発が一気に進み、今までは来なかった客が流れてくるようになったというわけですね。
最初の方は何とか皆さんオーダーについて行っておりましたが、第二波、第三波とお客様は途切れることなくやって来られて、徐々にオーダーに遅れが目立つようになってきました――。
「ちょっとまだー!? そろそろ来てくれないと困るんだけど!」
「シェフ! オムレツAセットとDセットまだですか!? お客様怒ってます!」
「待って……、あと五分……」
「洗い物溜まってるぞ!」
「今、手が離せない!」
「や、やります!」
新戸さんはお皿を洗いに行きましたね……。わたくしもようやく全てのメニューのレシピを暗記したところです。
これで、場所は“ゆきひら”とは違いますが、いつもどおりの仕事が出来そうです。
「いらっしゃいませ! 3名様ですね? こちらは4名様、奥のテーブルにどうぞ! お冷です、あっ大きいお荷物はこちらの隅に置きましょうか?」
接客をして、注文を覚えて調理を開始します。スピードは最大限に上げないと追いつきそうにないですわね――。
「4番テーブルナポリタン他! 全部あがりましたわ!」
「嘘っ!? さっき注文を取っていたのに……。あ、ありがとう幸平さん!」
これで、何とかお客様の求める早さに追いつけそうです。しかし、トラブルはまだ終わりそうにないですね……。
「ちょっと! 俺が頼んだのチェダーチーズハンバーグだよ!?」
「も、申し訳ありません! すぐにお取り替えを……!」
「新戸さん! 厨房とホールの連絡が混乱していますから、ちょっと見てきます! その間、こっちをお願いします!」
「くっ…! 私が行く! 貴様はレシピを全部覚えてるんだろ? そっちをやれ!」
「はい! 承知しました!」
わたくしが厨房とホールの連絡の混乱を正そうと動こうと口にすると、新戸さんは率先して自分が動くと答えてくれました。
彼女と上手く連携が取れているだけで安心感があります。
新戸さんは責任感が強くて、処理能力が高いので本当に心強い方です。
そして、嵐のようなスタジエール初日が終わりました。
「いやぁ~たまげたよ! やっぱり遠月の生徒さんは違うねぇ!」
「ええ、彼女は……、現場で働いていた経験もあるので……、流石ですよね」
「なに言ってるんだいあんたもだよ!」
「――っ!?」
「ディナーの頃にはもうほとんど手間取らなくなってたじゃないか!」
「覚えが早いし要領もいい! 助かったよ本当に!」
「あ、ありがとう、ございます……」
新戸さんはお店のスタッフの方に褒められて、表情が明るくなったような気がします。
彼女がいくら自己評価を下げようとも、彼女の価値は変わりません。新戸さんの力を目の当たりにすれば、彼女がいかに優れた方なのか誰もが認めるからです。
「新戸さん、今日はお疲れ様です。皆さま、お茶を入れてきました。よろしければどうぞ」
「あ、ありがと……。貴様は疲れてないのか? それに比べて私は……」
わたくしは皆さんの分のお茶を淹れて差し出しながら、新戸さんに声をかけました。
すると、彼女はわたくしが疲れを見せてないことに劣等感を抱いているようなことを口にされます。
「小学生の頃からやってましたから。慣れているだけです。それより、新戸さんの伝票整理のやり方、とっても見やすくてびっくりしました」
慣れている人間と慣れない作業をされている方を比べることはナンセンスだと彼女に伝えて、わたくしは新戸さんがあれだけ忙しい中で伝票整理をキレイにされていたことを口にしました。
「ああ、あれとてもキレイに処理されてたよね。遠月の学生さんは事務処理も得意なのかと驚いたよ!」
「新戸さんが特別ですの。わたくしの友人は、彼女のことを最も頼りにしていますし、わたくしもペアを組めて頼もしく思っております」
「そ、そんなこと……」
新戸さんと組めてわたくしはどれだけ心強いか三田村さんに説明をします。
彼女と組めば、きっとこのスタジエールもクリアすることが出来るでしょう。
「そっか〜! いや〜、優秀な学生さんが二人も来てくれて幸運だったなぁ!」
三田村さんはわたくしたちの仕事ぶりをとても喜んでくれました。
「新戸さん、明日からも一緒に頑張りましょう」
「も、もちろんだ。明日は貴様だけに任せっきりにはさせん!」
わたくしは新戸さんの右手を両手で握りしめて、一緒に頑張ろうと声をかけますと、彼女の目に覇気が戻りやる気に満ちた返事を返してくれました。
わたくしと新戸さんは翌日から作業に躓くことはほとんど無くなりました。
しかし、だからこそ見えてしまったのです。この“洋食の三田村”が抱えている問題の大きさを――。
ここから、秘書子と仲良くなっていきます。
今は好感度がマイナスからちょっとプラスに上がった所ですね〜。
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