side胡蝶カナエ
それはあまりにも信じ難い光景だった。
これまで見たどんな敵とも比較できない様な力を持つ上弦の鬼。
柱である自分が一太刀入れる想定すら出来ないほどの絶望の具現化。
動き1つとってもまともに視認することができず、
力も速度も技術すらも敵う部分が存在せず、
ここから逃げることすら許されない。
恐らく鬼としての暦も長く、過去の柱を幾人も食っている様な規格外の化物。
鬼舞辻の右腕と目される様なそんな上弦の弐が、自身の血鬼術をコントロールすることが出来ず、目の前で全身を氷漬けにされていた。
そんな有り得ない惨状を私"胡蝶カナエ"はただ呆然と見つめている。
地に体を横たわらせ、思考をすっかり停止させ、近づいて来る死の雰囲気を確かに全身で感じ取りながら。
「だいじょうぶ……?」
「……だ、れ?」
ふと、砂を踏む音と共に現れた小さな影が、月明かりから私を隠す。
いくら自分の身長が女性にしては高いとは言え、その半分程度しかないような本当に小さなもの。それは見慣れぬ少女のものだった。
まるで月明かりのような神秘性を秘めている真っ白な髪と真っ白な肌。
そして鬼かと見間違うほどに血の色に染まった真っ赤な瞳を静かに向けて、彼女は死に入ろうとする自分の顔を興味深げにジッと見つめている。
鬼ではない、それは確かだ。
けれど少しだけ普通の人間とは違う雰囲気を持っている。
それがこの国では見ないような容姿のせいなのかは分からないが、彼女が間違いなく何かしらの異常性を抱えていることは分かった。
……だが、今はそんなことを言っている場合ではない。
鬼にとって女、特に子供は格好の標的だ。
この子のように容姿が特殊で、整っており、しかも年若い少女ともなればどんな鬼でも見逃すはずが無い。相手があの鬼ならば尚更だ、あの上弦の鬼は若い女に目がない様な発言を繰り返していたのだから。
鬼から人を守る鬼殺隊として、
力を持った柱として、
例え自分の命が尽きかけていようとも……
いや、尽きようとしているからこそ、
この小さな少女だけでも守らなければいけない。
「逃げ、て……私はもう、助からない、から」
そう言ってその小さな女の子に訴えかけるが、彼女は首を傾げるばかりで一向にその場から動こうとしない。
こんな場面に遭遇すれば普通の子供なら少しは異変を感じて逃げるだろうに、この少女はあの鬼の姿を見ても一切取り乱すことなく先程からずっとこの調子で私の顔ばかりを見ている。
私はなんとか彼女を引き離そうと身体を上げようとするが、最早それすら難しいほどに力が入らない。足の感覚はほとんど無いし、呼吸がまともに出来ず意識がどんどん薄れていく。
こうして言葉を捻り出すのもそろそろ限界だ。
「はや、く……にげて……」
今ならあの鬼もこちらに気を向けていられる余裕は無いはず。
いくらなんでも自分の血鬼術で死ぬとは思えないので、逃げるなら今しかない。
こんなに小さな少女が目の前で命を落とす瞬間など見たくない。
鬼と関わり悲しみを抱く瞬間など見たくない。
心配してくれているのに心苦しいけれど、例え突き離してでもここから逃す。そう決めて無理矢理腕を持ち上げて彼女の胸に押し当てるが……
「んっ」
「……っ!?!?」
瞬間、自身の口を他の誰でもない目の前の少女に封じられた。
ただし、封じたのは彼女の手ではない。
彼女のその小さな唇で。
(っ!?なに、これ……!)
驚愕も束の間、変化は急激に現れた。
彼女の体内から自身の体の中へ、触れ合った口元を通して何か熱い液体のようなものが流れ込んで来るのを感じた。
その熱は段々と冷たくなり始めていた自身の身体の隅々まで行き渡り、浸し、解きほぐし、ゆっくりと、しかし確実に、もう少しも感じ取れなくなっていた指先の感覚や、既に懐かしさすら感じるような呼吸のリズムを私の身体に取り戻させていく。
「な、なにをしたの……?」
「んぅ……にげ、よ?」
「っ!そ、そうね……!今のうちに!」
怪我が完全に治った訳ではない、呼吸もすっかり元通りになった訳ではない。全集中の呼吸・常中すらも出来ないくらいに弱ったままだ。
ただ、どちらも前よりずっとマシになった。
理由も理屈も分からないが、自分の身に近付いていた死の存在が今はほとんど感じられない。
今ならこの足で走り出せる。
今ならこの子を連れて逃げ出すことができる。
大切なのは、それだけだ。
まだ少しだけ足に違和感はあるものの、なぜかフラついている少女を抱いて走り出す。つい先程まではピンピンとしていた筈だが、今はぐったりとしていて視線も朧げだ。だがこんな状況だ、その方がむしろ運び易くて良かったのかもしれない。
既に日輪刀すらこの手には無いが、そんなことはどうでもいい。
今は戦うことよりも大切なことがある。
自分を救ってくれたであろう目の前の少女を守ることこそが、今この場で何よりも重要視すべき事柄なのだから。
(……けど、本当に一体何が起きているの?)
背後の鬼は今も凍り付く身体を何とか動かしてこちらを追おうとしてくる。しかしまるで自分達を守るかの様にして冷気は勢いを増してその行手を阻んだ。相変わらず血鬼術で新たに冷気を出してもその全てが彼に対して反乱を起こし、何度叩き割ろうともその度に重ね重ね凍らせていく。そんな普通ではあり得ない現象に、逆に面白がっている様に見えるのはきっと見間違えでもなんでもないのだろう。あれはそういう狂人なのだから。
(正直なんにも分からないけど、とにかく今は……!!)
走って、走って、走って……もう時間の概念なんか忘れてしまうくらいに痛みを堪えて足を動かして、肺を動かした。走る速度はもう普通の人間と変わらない。以前は息切れ1つしなかったのに、今ではたったこれだけ走っただけなのに胸が苦しい。自分の女性にしては大きなこの体格をこれほど嬉しく思ったことはない、そうでなければ彼女を抱えてここまで走ってこられなかっただろう。
そうして他の鬼殺隊員達に合流した頃には、もう日の光が上がっていた。
失血と疲労で意識も朦朧としているが、それでもこうして涙目で自身に何かを訴えかける最愛の妹と、今や腕の中で眠ってしまっていた小さな少女を見て、ようやく張り詰めていた糸が切れたらしい。
「あぁ、よかった……本当に、よかった……」
もう一度見ることができた妹の顔。
恐らく死ぬことは無いであろう自分。
救うことができた小さな命。
これ以上の嬉しいことが他にあるだろうか。
走馬灯の中であれほど愛しく感じた妹の存在、忘れられない愛らしい弟子の存在、これから先はもっともっと大切にして、もっともっと愛を伝えていこうと。そう心に決めて意識を落とした。
そんな風にあまりに今の状況に満足した顔で意識を失ってしまったからなのか、目を覚まして直ぐに紛らわしいと妹に怒られてしまった。
本当に死んだと思ったと。
自分としては生きていることの方が不思議なくらいだと言ったら、もっと怒られてしまった。
……けれど。この日を境に妹と接する機会が増えたこと、可愛い弟子が少しだけ甘えてくれるようになったこと、そして家族がもう1人増えたことは、私にとって本当に幸福な変化であったと今では感謝している。
胡蝶カナエ
"鬼とは仲良くすることができる"という持論を持つ鬼殺隊所属の美女。
花の呼吸の使い手であり、17歳にして柱にまで上り詰めた天才でもある。妹の胡蝶しのぶと、引き取ってきた少女:カナヲと共に蝶屋敷と呼ばれる屋敷で何の変哲もない幸福な日々を過ごしていた。
本作では上弦の弐との戦いから逃げ延びたものの、肺へのダメージが大きく呼吸法が使えなくなってしまっている。しかし一般人と同じ程度には活動することが可能なため、主に蝶屋敷での活動をして生活している。柱を降りてからはよくお館様に相談事をされるようになった。