那谷蜘蛛山に派遣された隊士が戻ってこない。
最初はただそれだけの話だった。
しかし、3人、5人、10人と次々と派遣する人数を増やし、質を増やしても、彼等はカラスを含めて1人たりとも戻って来ない。
その異常性を産屋敷が認識した時には、既に20人あまりの犠牲者が出ていた。
産屋敷とて全ての任務を産屋敷耀哉1人で管理しているわけでは無い。
柱の関わる重要案件を確認するのに手一杯な耀哉が、一般隊士の間で起きた異常事態を見落としてしまう事もある。
雪那の件もその一つであるが、とにかく今回の那谷蜘蛛山の一件を聞いた時、産屋敷耀哉は産屋敷家特有の勘だけではなく、その経験からも直ぐに直感した。
ここには十二鬼月が関わっているということを。
(カラスか隊士、どちらかでも帰ってきてさえくれれば……)
派遣できる柱を集めるにも時間がかかる。
その間に今は少しでも情報が欲しい。
そこに潜伏する鬼が上弦の鬼である可能性も考えれば、簡単に柱を派遣することもできないからである。
(……雪那に頼むしかない、かな)
付近にいる隊士の中でその可能性が最も高いのは間違いなく彼女だ。
彼女ならば怪我をした隊士を助けるだけではなく、個人としての生存能力は柱をも超える。
上弦相手でも逃げ切るだけなら可能だろうし、普段の彼女ならば下弦の鬼くらいならば倒すことだって視野に入れられる。
彼女を投入してそのまま解決してしまえる可能性は高い。
どう考えても、彼女を派遣することが今できる最善策だった。
(……しかし、なぜこうも嫌な予感がする。私は何か見落としているのか?雪那を派遣する事が最善策であることは確かなのに、この違和感はなんだ……?)
この選択は間違っていない。
しかし、どうしてもこれだけで解決するとは思えない。
(鬼舞辻……ではない、奴は炭治郎に見つかり始末に失敗した時点で姿を隠す方に動いた筈だ。故に、恐らく今回のこれは姿を隠すための陽動のような役割。ここに潜む鬼も普通に考えれば切り捨てのための下弦の鬼と考える方が納得がいく)
可能性を考えれば考えるほどにキリが無くなる。
既に炭治郎を含めた事態を好転させる可能性を持った3人の派遣も決定している。
これから良くなることはあっても、悪くなるということはないだろう。
とにかく、今はできる最善手を打つしかない。
雪那を派遣するのは確定事項だとして、耀哉は派遣できる柱を早急に集めることとした。
『アー!アー!那谷蜘蛛山ァー!那谷蜘蛛山二急ゲェー!沢山ノ隊士ガ戻ッテコナイー!那谷蜘蛛山二急ゲェー!』
その指令を聞くや否や、雪那は走り出していた。
最早条件反射のようなもので、今も肩に止まっている白いカラスの指示に従って、陽の落ちた夕焼けの空の下を全身を布で覆い隠しながら走っていく。
こんなことをしのぶが知れば、きっと有無を言わさずに叱るだろう。
しかし、昼に外を出歩けない雪那にとって、これが最大限の譲歩だった。
1分1秒でも遅れれば、それによって失われてしまう命があることを、雪那はこの1ヶ月で嫌というほどに知った。
今日まで自分の都合を無視した結果救えた命はあったし、自分の都合で失われた命は山ほどあった。
だからこそ、雪那は色々な試行錯誤をして、ギリギリまで自分の身体を追い詰めながら任務へと向かう。
大きな怪我こそ無いものの、雪那のコンディションは最悪だ。
元から体力が無いにも関わらず1ヶ月間毎日、眠る時間以外は走り回っている。
日の下でも活動するようになり、更には精神的にも追い詰められて。
人を救うために自分の生命力を分け与えることだって何度もした。
けれどそれでも、既に死んでしまった者や、生きるのに必要な臓器や機能を失ってしまった者を救うことは出来ない。
ただ自分の力を無駄に消費するだけで終わってしまう。
きっとカナヲが逆の立場ならば、ここまで追い詰められることは無かっただろう。
雪那はこの任務というシステムに致命的に噛み合ってなかったのだ。
確かに彼女の能力だけを見れば向いているが、彼女の強過ぎる責任感と看護師としての経験、そしてそもそも彼女の過去と鬼殺隊士として働く上で根底とした感情が、何よりも彼女を悪い方向へと向けてしまう。
隠と鬼殺隊士の2つの役割を同時にこなせるということは、つまりその2つが本来分かち合うべき責任と負担を1人で受け持つということだ。
精神的な面を考慮すれば、彼女はむしろ今のカナヲの立ち位置が最も効果的に働けた。
彼女を1人にするということは、彼女の過去を考えれば決してしてはならない選択だったのだ。
「……酷い」
道ではなく山の中を走り抜け、獣道から那谷蜘蛛山に入り込んだ雪那がまず最初に見たのは、まゆの様なものに包まれた、かつて人間だったと思われる何かだった。
それは十四にも渡り吊るされており、まだ辛うじて人の形を保っている中身を見るに、あと数日早ければ助けられた命もあっただろう。
それでもここに間に合う命は既に無く、ただただ静かな死の痕跡だけしか残っていない。
"雪の呼吸 参ノ型 雪の声"
薄らとした降雪の範囲を広げ、山全体に知覚を巡らせる。
木々のせいで雪が遮られてしまう場所もあるが、戦闘が行われていたり強力な鬼のいる場所はこれでも大まかには分かる。
鬼は複数いる様で、十二鬼月と思われる鬼も1匹居るようだった。
辛うじて生きている隊士も何人か見つけたが、既に命を落とした隊員はもっと見つけた。
そして、その辛うじて生きている隊士達が、何故か他の隊士と殺し合っていた。
まるで何かに操られているように、歪な動きをしながら……もう既にまともな動きをしている隊士はそこには数人しか居ない。
「もうこれ以上、殺させない……!」
雪那は肩の白いカラスに赤色の布を括り付けて産屋敷家本部の方へと飛ばし、自分が把握した情報を全て届ける。
この任務は一般隊士では犠牲になるだけだから近寄るなと、彼等全員を救う為には柱を集める必要があるのだと、そう伝えるために。
「なァ……あの山、なんか雪降ってねぇか?」
「……ほんとだ、なんでこんな時期外れに」
「鬼の仕業だ!絶対鬼の仕業だよ!なぁもう帰ろうよ!炭治郎だって怖いだろ!?もう帰ろうって!」
「善逸……」
「何座ってんだこいつ、気持ち悪いな」
「やめろよ!2人してそんな顔して見るなよ!悲しくなるだろうが!!」
雪那の到着と同時に、3人の同期達もまた同じくして那谷蜘蛛山に辿り着いていた。
一刻も早く向かうこと、とだけカラスに言われてここまでやって来たが、どうにも山の雰囲気がおかしい。
いや、鬼がいるのだから嫌な雰囲気を感じ取るのは当然なのだが、雪が降っているのはあからさまにおかしいだろう。
確かに機敏な伊之助や耳や鼻のいい2人が辛うじて分かる程度の薄らとしたものだが、それでも雪が降る時期はとうに終わっている。
ここもそれほど寒い場所というわけではない。
天候まで操れる鬼が居るとすればそれは凄まじい力を持った相手だろうが、果たしてそんなものを相手にする任務が自分達に来るのだろうか?炭治郎は首を傾げて山を見上げる。
「た、助けてくれ……」
ガサガサという草叢の音と共にそんな助けを求める声が聞こえ3人が振り向くと、そこには山へと続く道で倒れ伏している1人の隊士が居た。
どうやらもう立ち上がる力すら無いらしく、涙目になりながらこちらを見ている。
「大丈夫か!どうした!」
伊之助と炭治郎が男の元へと走り寄る。
善逸は座り込んだままだが、それは今はいいだろう。
しかし直後、まるで何かに引っ張られるかのようにして男の身体が宙に浮き、山の方へと吹き飛んでいく。
炭治郎は助けを求める様に伸ばされたその腕を掴む事ができなかった。
「アアアア!!繋がっていた……俺にも!!」
男は必死になって這ってきた道を、問答無用に引き戻されていく。
2人はそれを見て何もする事ができない。
男は必死の形相で手を伸ばすが、その手は何も掴むことはない。
"雪の呼吸 陸ノ型 風花百沫(かざはなひゃくまつ)"
しかし、突如としてそんな男の体が先ほどとは異なる浮遊感に襲われた。
音もなく、臭いもなく、気配もなく。
山に引き込まれる寸前に飛び出した一つの白い影。
炭治郎はその影の主を知っていた。
「君は……!」
「……大丈夫?」
救い出した男を慣れた手付きで治療し始める白い少女。
炭治郎が彼女を見たのはあの最終選別の時以来だった。
背後を向いている為に今は顔は見えないが、他人に治療を行うその尊い後姿を忘れることはない。
彼女は以前と変わらず同じようにして他人を思いやって傷を癒している。
突然の登場に驚きはしたものの、炭治郎は変わらない彼女の姿になんだか嬉しくなった。
「し、"白い幽女"っ!?」
……その言葉を聞くまでは。
「幽女……?」
炭治郎の疑問に答えるものは誰もおらず、治療を終えた少女は男をそっと地面に下ろすと、直ぐにその場で立ち上がり、腰の刀に手をかけた。
「帰って」
「……え?」
「貴方達じゃ、勝てない……帰って」
「なにふざけたこと言ってんだテメェゴルァ!」
「やめろ伊之助!」
炭治郎が以前彼女と会った時から一つだけ疑問に思っていた事がある。
何故かはわからないが、彼女の匂いはとても分かりにくいのだ。
まるで雪の中にいるかのように彼女からは匂いが感じられない。
そして、それは善逸もまた同じだった。
初めて彼女を見た時から、彼女からは殆ど音が感じ取れない。
悪い印象は受けないのは確かだが、彼女の心根が全く分からないのだ。
彼女がどういった意図を持ってその言葉を発したのかも、2人には分からない。
ただ今は薄らと、彼女でも隠しきれないような悲しい雰囲気が漏れ出しているのだけは確かで……
「もう、帰って……あとは、全部……私がやる、から……」
「っ」
少しだけ振り向いた彼女の顔は以前のものとは似ても似つかない酷いものだった。
元々白かった肌色は今や本当に青白く染まっており、表情すらも以前のような少女のものではなくなっていた。
"幽女"と男は言ったが、確かにこれ以上にいまの彼女に似合う言葉も無いだろう。
その顔からは既に殆ど生気が感じられないのだから。
「……おい、どうすんだ権八郎」
「炭治郎だって言ってるだろ。……俺は追いかけようと思う、あんな顔した人を放っておくわけにはいかない」
「よっしゃ!あの女に目にもの見せてやるぜオラァ!!」
「あ、え!?マジで行くの!?ちょ、待って……!」
それだけを言い残して走っていった少女を追いかけて、炭治郎と伊之助は山の中へと入っていく。
当然善逸は置いてけぼりだが、つい先程まで感じていた恐怖感も炭治郎と同じくあの少女の変化を見た途端に薄まった。
これが彼女の助けになるか、むしろ足手纏いになるかは分からないが。