「……なんで、帰らないの?」
「ハァッ、ハァッ!そんな顔をした君を置いて帰れない!」
「……困る」
「クッソ!この女早ェ!!」
凄まじい速度で山を駆け抜けていく少女を追う炭治郎と伊之助。
しかし少しも表情を変えることなく走る彼女に追いつくのが精一杯で、むしろ少女が自分達に合わせて速度を落とした事に気付くと嫌でも実力の差を思い知らされてしまう。
まるで自分がどこに行くべきか分かっているかのように走る彼女に付いていくだけだが、炭治郎はそれでもなんとか役に立ちたいと懸命に走り続ける。
「……あの人、お願い」
「へ?う、うわぁ!!」
「ご、権八郎ォォ!!」
「炭治郎だ!!」
突然速度を落とした少女に背中を押され、炭治郎は全く別方向の草叢の中へとぶっ飛んでいく。
ツッコミを入れる余裕があるので特に問題はないだろうが、突然のその行動にはさしもの伊之助でさえも驚きを隠せなかった。
しかし炭治郎は吹き飛ばされる直前に彼女に何かを任されたことだけは気付いていた。
きっと彼女には何か目的があるのだろうという謎の信頼のもと、特に抵抗せず素直にそのまま吹き飛ばされる。
「うわぁっ!?なんだお前!?」
「え?……あ、あれ、人?」
吹き飛ばされた先にいたのは1人の隊士……あまり傷は負っていないようで、どうやらそこで隠れていたらしい。
あれほどの速度で走っている中でもこの人の存在に気付けていた少女の感覚に舌を巻きながら、とりあえず炭治郎は現状の説明と自己紹介をした。
「あ、えっと、応援に来ました!階級:癸、竈門炭治郎です!!」
「癸……癸……!?柱じゃないのか!?癸なんて何人来ても結果は変わらないぞ!!」
「あ、えっと……それなら大丈夫です。多分俺よりずっと強い人も来ているので」
「強い人?だ、誰なんだよそれ」
「……そういえば、まだ名前聞いてなかった。えっと、確か"白い幽女"って呼ばれてたんですけど」
「"白い幽女"!?"白い幽女"がここに来たのか!?……やった、助かる!これで助かるぞ!俺達!!」
その名前を口にした途端につい先程まで絶望に顔を歪ませていた目の前の隊士の顔が歓喜に染まったのを見て、炭治郎は首を傾げる。
明らかに自分達よりも先輩な隊士がここまで喜んでいる。
ということは、もしかしたら彼女は自分達が想像していたよりも凄い人なのだろうか。
そんな噂を露ほども聞いた事が無かった炭治郎は目の前の隊士に問いかける。
「あの、"白い幽女"ってなんなんですか?」
「お前、知らないのか!?危機に陥った隊士の前に音も無く現れて鬼を倒すと、普通なら間に合わないような怪我まで治して去っていくっていう最近流行ってる噂だよ!もう何人もの隊士が命を救われてるんだ、本当に知らないのか!?」
「……知りませんでした」
「とにかく!"白い幽女"が来てくれたのならもう大丈夫だ!よく連れてきてくれたなお前!お手柄だぞ!」
「い、いえ、それは……」
話を聞く限り、その噂は事実なのだろうと炭治郎は考える。
あの少女の医療技術は確かなものだったし、実力も音や匂いを殆ど感じさせないというのも事実だ。
あの様子を見れば幽女と呼ばれるのも仕方ないのかもしれない。
……だが、炭治郎だけは知っている。
以前の彼女は、少なくとも幽女と呼ばれるほどに酷い顔をしていなかったことを。
「おい!権八郎!!」
「伊之助!あの人は!?」
「こいつら置いて消えちまった!クソっ!全員助けて治療したから、一緒に連れて山を降りろってよ!勝手言いやがってあの女!……あん?なんだそいつは」
「ひっ!い、猪!?」
村田と名乗る隊士と伊之助が何やら言い合っている間に、伊之助が引きずってきた数人の気絶した隊士を炭治郎は受け持つ。
怪我はしているがどうやら伊之助の言う通り応急治療は殆ど済まされており、直ぐに意識も取り戻すことだろう。
もしかしたら彼女が自分達がここまで来るのを許してくれたのは、この人達を救い出すためだったのかもしれない。
その証拠に、彼女は伊之助も追えない様な速度で何処かへ行ってしまった。
(……もう、匂いじゃ追えない。それに確かにこの人達のことを考えると、ここで山を降りた方がいいかもしれない。あの人の実力は本物だ)
けれど、炭治郎はそこまで聞き分けの良い少年ではない。
伊之助だって彼女の言葉に従って山を降りる気など更々無いだろう。
例え実力が足りなくとも、人手があるだけで役立つこともある。
1人より2人、2人より3人いた方が心強いことは、今の炭治郎が一番よく知っている。
「村田さん!この人達のこと、お願いしてもいいですか!」
「は!?……いや、それは別にいいけどよ。お前達はどうするんだ?これはもう癸じゃどうにもならない任務だぞ?」
「癸とか柱とか関係ありません!出来ることなら探せばいくらでもありますから!行くぞ伊之助!」
「俺に指図すんな!!俺についてこい権八郎!あいつの向かった場所なら俺が大体分かる!」
「炭治郎だ!任せるぞ伊之助!」
「おうよ!!」
「……マジかよ、お前等」
なお、伊之助に従い向かった方角で炭治郎達が彼女を見つけることは無かった。
その代わりに隊士達を操っていた母親蜘蛛と遭遇したりしたが、そこにも彼女は居なかった。
"雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 六連"
決死の覚悟で山の中へと入ってきた善逸を待っていたのは、人間を蜘蛛へと変える見目も臭いも悍しい蜘蛛の集団だった。
そしてそれを操る異形の鬼。
気付いた時には自身の身体も人間を蜘蛛へと変える毒に侵され、恐怖のあまり木の上で震えていたら僅か数分で抜け落ち始めた自分の髪。
木々の周囲には人間の顔をした蜘蛛、つまり自分の成れの果てが囲んでいて、思わずその意識を手放したりしてしまった。
それでも痛みと痺れを耐え抜いて、ようやく振り抜いた唯一使えるその技で、善逸は敵の首を引き裂く。
本来彼にはそれだけの実力があるため大金星と言っていいのかどうかは分からないが、それでも炭治郎の鼻を時々潰していた異臭の根源を叩いた功績は大きい。
善逸がその鬼を倒したことにより、人面蜘蛛達も解放され、もう襲ってくることもなくなっていた。
「げほっ」
それでも、敵を倒したからと言って、毒の効力は消えはしない。
人間を蜘蛛へと変える毒は刻一刻と身体を蝕み始め、善逸の身体を大きく変えていく。
呼吸を使って少しでも毒の廻りを遅めているが、それもいつまで保つかは分からない。
(諦めるな……諦めるな……まだ、まだなんとかなる……!)
必死に自分を鼓舞して耐えるが、脳裏をよぎるのは蜘蛛へと変貌してしまった自分の姿。
あんな姿にはなりたくない、けれど身体は動かない。
自分を育ててくれた師の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返し、来る可能性の少ない助けを待つ。
(あと10分、いや5分……誰でもいい、誰でもいいから……)
「助け……」
薄れていく視界の中で、何か白いものが視界の端に映った。
音も無く、臭いもなく、まるで羽衣のようにそこにふわりと舞い落ちる。
「……大丈夫。まだ、助かるから」
鈴の音のような小さく心地の良い声が、自分よりも安心感のこめた言葉を発して息をついた。
その声に、善逸は覚えがある。
最終選別で生き残り、自分のそれからの未来に絶望していた時にも聞いた声だ。
なんだかんだと言いつつも結局彼女に助けてもらう事になってしまったらしい。
カチャカチャと器具を取り出して作業をし始めた彼女。
ハッキリと視界に捉えることはできなくても、自分を救うために何かをしてくれているということは分かる。
「……痛いけど、我慢して」
彼女がそういうと同時に腕に何かの違和感を感じたが、そもそも感覚が麻痺しているので痛いもクソもない。
しかし変化は急激で、おそらく注射針を刺された場所を中心に自分の体の感覚が戻ってくるのを感じた。
苦しかった身体が確実に楽になっていくのが分かる。
彼女は同じ薬を他の吊るされている人々にも打つと、もう一度善逸の横たわる場所へと戻ってきた。
そうして何度か善逸を触診した後、彼を除きこむようにして視界を確かめ始める。
「気分は、どう?」
「……大分、マシ。これなら、あと、5分もすれば……歩ける、かも」
「ふふ、それは無理。……けど、よかった」
「っ」
戻ってきた視界に映った彼女の表情は数刻前に見たような悲しげなものではなく、安堵感に満ち溢れた月夜に映えるとても綺麗な微笑みで。
薬の巡りを確かめる為に自分の腕に触れる彼女の手付きはとても優しい。
「直ぐに助けが、来る。蜘蛛ももう、動かないから……行くね」
「ま、待った……!」
「……なに?」
立ち上がろうとする彼女を善逸は引き止める。
別にやましい心があったからでは無い。
彼女にどうしても一つだけ聞きたいことがあったからだ。
「どうして、そんな悲しそうな顔、すんの……?」
笑えばちゃんと可愛いのに、とまでは言わない。
これは真面目に聞きたいことだから、善逸も茶化したりはしない。
そんな善逸の質問に、名前も知らない彼女はまた少しだけクシャリと顔を歪ませて、微かにではあるが悲しい音を鳴り響かせた。
「……私は、鬼を殺すために、鬼殺隊をしてない」
「じゃあ、なんのために……?」
「………」
善逸の言葉に、彼女は俯いて背中を見せる。
言いたく無いことだったのだろうか?
一瞬そう思った善逸だったが、彼女はある一言だけを残して再び山の中へと姿を消していった。
「……みんなに、生きていて欲しいから」
「………」
善逸とて、鬼に対して特別憎しみがあるわけではない。
今こうして鬼殺隊士をしているのも、自分を救い上げてくれた師に報いるためだ。
そこに崇高な目的なんて無かったし、だからこそ鬼によって命を落としたものが居たとして、同情することはあってもそこまで酷く悲しむことまではなかった。
自分に力がないことを自覚していたことも理由の一つだろう。
(他人の命を守るために鬼殺隊なんてしてたら……泣きたくなるのは当たり前だよな)
常に命が失われることが当然の場所に行くのが鬼殺隊、むしろその場に居合わせた全員が生きて帰れる事の方が少ないと言っても良い。
根底にある願いが優しいものであればあるほど、鬼殺隊士は苦しみを抱くことになる。
「……あの子を最初に"幽女"なんて呼び始めた奴、絶対名付けの才能無いだろ。やっぱり"てんし"だよ、あの子は」
善逸はそれだけを言うと、ゆっくりと意識を手放した。