雪那が目を覚まして直ぐに、その知らせは蝶屋敷の住人達に知れ渡った。
アオイやカナエはその知らせを知るや受け持っている仕事を文字通り投げ捨てて(薬湯が善逸にぶち当たり)雪那の元へと走り、それはもう過剰な可愛がりを行ったという。
久々に帰ってきて目が覚めたら2回も揉みくちゃにされたのだから、雪那はもう疲労困憊である。それでも嬉しさを隠し切れていないところを見ると、そもそも人との関わり自体に飢えていたのかもしれない。
「……たん、じろう……?」
「雪那ちゃんが那田蜘蛛山で助けた額に痣のある男の子よ、記憶にないかしら?」
「……ん、いた」
「今その子達が機能回復訓練をしているのよ、カナヲはそのお手伝い」
「私は、いつから……?」
「う〜ん、最低でも歩ける様になってからかしら。回復は順調だし、今の調子なら早くても3日後くらいね」
今日はカナヲでもしのぶでもなく雪那の隣にはカナエが居た。
蝶屋敷の仕事のために普段はなかなか来ることが出来ない彼女だが、ある程度雪那の体調が落ち着いてきたためにしのぶが戦線復帰し始め、こうして時間が取れるようになったのだ。
切った果物を雪那に"あ〜ん"と食べさせるカナエ。
しのぶも雪那に甘いが、カナエも彼女にかなり甘い。
彼女が居なくて寂しかったのは決してしのぶやカナヲだけでは無かったのだ。
……そしてこの1ヶ月で、カナエは雪那にいくつか聞きたいこともできていた。
特にあの兄妹が来てから生まれた疑問が一つ。
カナエはそれまでの明るい雰囲気を潜めて、不思議そうな顔をした雪那に意を結した様にして問いかける。
「……ねえ雪那ちゃん。雪那ちゃんは鬼のこと、どう思う?」
「んぅ……?」
「私がずっと"鬼と仲良くしたい"って言っていたのは知ってるでしょう?それでね、今雪那ちゃんが助けてくれた、禰豆子ちゃんっていう鬼の子がこの蝶屋敷にいるの。人を決して襲わない、鬼の子が」
「………」
「この1ヶ月、色んなことを体験してきたと思うの。それを踏まえて聞かせて。雪那ちゃんから見て、鬼ってどう思う?」
童磨との遭遇でカナエは自分の命を落としかけ、偶然出会った雪那の力で急死に一生を得た。
自分の"鬼と仲良くしたい"という考えのせいで危うく妹に重荷を背負わせることになりかけ、一時はその考えはやはり間違いだったのかと思い悩むこともあった。
……だが、今こうして目の前に人間と仲良くすることができる禰豆子という実例が現れてしまった。そのせいでカナエが一度は諦めようと思っていたその想いがもう一度心の内に浮かび上がってきてしまっている。
カナエは分からなかった。
果たしてこの想いが本当に正しいものなのか。
妹を破滅させてしまいそうになったこの夢を諦めないことは間違っているのではないか、と。
「……私はね、今の雪那ちゃんが一番中立的な意見をくれるんじゃないかなって思ったの。人を助けるために鬼殺隊士をしていて、この1ヶ月でたくさんの鬼を見てきて、私達とは違う雪女っていう立場の視点を持ってる。だから私は、自分のこの想いの行く末を、雪那ちゃんの意見を聞いてから決めたいと思った」
「……んむ……」
「重く考えなくてもいいの、雪那ちゃんが思ったことをそのまま聞かせてもらえば」
雪那はその質問に考えこむ。
確かに、この1ヶ月たくさんの鬼を見てきた。
鬼という存在が如何に狡猾で残酷な存在だったのかをその身を持って体感した。
その上で、今の自分が鬼という存在をどう思うのか。
「病気、災害……」
「え?」
「……鬼は、病気と一緒。今は薬が、ないだけ。
鬼は、災害と一緒。被害は完全には、防げない」
それは他の鬼殺隊士が聞けば怒り出すような答えだった。
鬼が病人だから仕方ないとでも言うのか、と怒る者だっているだろう。
カナエもまたその答えに疑問を持ち、彼女の答えに問い返す。
「けど、鬼舞辻無惨を倒せば鬼は撲滅できるのよ……?」
「海を無くせば、津波はなくなる。空気を無くせば、台風はなくなる。それと同じ。それより簡単に無くせる、それだけ」
「……それが例え、悪意によってなされているものでも?」
「……悪意を持つ災害が鬼舞辻しか残ってないだけ、知らないだけ。たまたま鬼の根本が鬼舞辻だった。他の可能性もあった」
「他の可能性……?」
その質問をすると同時に、雪那の表情がスッと暗くなる。
自分が思っても見なかった雪那の意見に引き込まれていたカナエは、彼女の変化に訝しみつつも、その言葉をただジッと待つ。
そうして暫く黙っていた彼女がようやく発した言葉は、カナエが想像もしていなかった様な事実で。
「……最初の雪女は、町一つを滅ぼした」
「なっ」
それは、雪那すら初めて話した事実。
できるなら話したくなかった、雪女の歴史。
今はもうしのぶが持つ本の中にしか存在しない忘れ去られた話の一つ。
「自分の住処を作る為に、人を殺して、町を雪に沈めた。私達は、最初からこうだったわけじゃない」
「……雪女も、鬼舞辻と同じ様になる可能性があったっていうこと?」
「雪女だけじゃない、他にも色々。鬼舞辻無惨は、最後に残った化け物って災害の一つ。あれを倒すのは、同じ化け物じゃないと難しい」
それは暗に、鬼殺隊は鬼舞辻無惨を過小評価しているという雪那からの警告でもあった。
確かに海を無くしたり空気を無くしたりするよりは余程現実的な対処ができる部類のものだろう。しかし、常人が対処できる様なものではなく、あれは確実に災害と分類できるほどの強大な存在である。もし本気で対処するのなら、同じ化け物の協力を得なければ完全に消滅させることは絶対にできない、と。
「……雪那ちゃんは、その病に罹った人と仲良くすることは有り得ない。そう言いたいのね?」
「ん……基本的には、そう。禰豆子は例外。例外は少ないから、例外。普通はあり得ない」
「………そう、なのね」
雪那の言葉は思いの外カナエの心に深く突き刺さった。
確かに禰豆子という例外は見つかったが、それはあくまで何千何万という中でエラーによって生まれた1例であり、それに希望を持ってはならない。
鬼という存在と仲良くするのは不可能だ。
なぜなら、彼等はそういう病に罹ってしまったため、そもそも人と仲良くするということが出来ないのだから。
雪那の意見はこういうことだった。
それはあまりにもその通りの意見であって、カナエの心は拒んでいるのに頭が納得してしまう。
「鬼は、治せるかもしれない。けど、鬼と仲良くするのは、無理」
「で、でも、雪女とはこうして仲良くできているじゃない?だったら鬼とだって……」
「雪女は病じゃない」
「っ」
「雪女は、病の根本。私の立場は鬼じゃない、鬼舞辻。だから、カナエも鬼舞辻と仲良くすることはできる。カナエは、それを望む……?」
「………っ」
望むわけが無い。
望めるわけが無い、そんなこと。
例え鬼舞辻が子供を作ったとして、それ相手にだって優しくすることなんて出来はしない。
絶対に無理だ。
けれど彼女とてそうだ。
彼女の祖先である雪女に町ごと沈められた者達は、きっとその子である雪那だって許しはしないだろう。いくら彼女に罪はなくとも血が繋がっている以上は憎悪の感情は向かってしまう。
鬼舞辻と雪那の立場は同じなのだ。
雪那の雪による害と、鬼舞辻の鬼による害。
鬼も雪も結局は根本である彼等の匙加減次第。
彼等の許可なく、その下のものを人間の都合の良い様にすることは出来はしない。
もしどうしても鬼を人間にとって利のある生物にしたいのならば、その根本である鬼舞辻と和解するしかないのだ。それが出来ない以上は、鬼と仲良くするなどということは決してあり得ない。
「……私達は、どうしたらいいのかしら。雪那ちゃん」
「鬼を治す薬を作って、鬼殺隊を駐在させる。鬼舞辻無惨と話し合って、約束事を決める。鬼舞辻無惨に同じ化け物をぶつけて、倒す。そのどれか」
「……鬼舞辻が話し合いに応じるとは思えない。薬を作って駐在させても、被害は無くならないしイタチごっこになりそうね。でも雪那ちゃんは、鬼舞辻を倒すのは難しいと思うのね?」
「同じくらいの化け物が、もういない。今の雪女じゃ勝てない。次の化け物が生まれるのを、イタチごっこをして待つしかない」
「……今の柱は歴代でもかなり強いのよ?全員でまとめてかかっても、それでも無理かしら?」
「多分、無理。策を立てて、運を味方にして、そこまでして追い詰めても、逃げられる」
「……これはお館様には伝えにくいお話になっちゃったわね」
最初は自分の心情を確かめる為の質問だったのに、気づけばとんでもないことになってしまっていた。
知りたくなかった事実、確かに自分達は鬼舞辻を過小評価してしまっていたかもしれない。
ここ数百年の間、上弦の鬼すら倒せていないのだ。いくら柱が歴代最強と言われているとはいえ、他の隊士の力量は下がってきている。その今の柱達ですら足りないならば、将来にも希望はないだろう。
鬼殺隊の未来はとても暗いものであると言わざるを得ない。
「……鬼舞辻が弱ってたら、話が別、かも」
しかしそんな中で、雪那がひとつだけ明るい可能性を提示してくれた。
「鬼舞辻は、室町時代から、生きてる。だから多分、他の化け物とも、戦ってる」
「……その化け物との戦いで弱ってるってこと?」
「可能性。けど、鬼舞辻は元は人間って聞いた。上弦より強くても、普通の化け物よりは弱い、はず。傷を負ってる可能性は、ある」
「傷って……鬼には再生能力があるのよ?鬼舞辻ともなればそれはかなりのものだと思うのだけど……」
「雪女の凍傷は、絶対に治らない。町が沈んだ場所は、何百年も雪が降ってる」
「……もしそれと同じ様な傷が鬼舞辻にあるのなら、勝てる可能性はあるってこと?」
「ん、多分。鬼舞辻は用心深くて、臆病。きっと理由がある」
「……確かに。もし鬼舞辻に雪那ちゃんが言うほどの力があるのなら、もっと傲慢になっている筈よね。彼にそうさせない何かがある……いや、あった?お館様なら何か知ってるかも」
自分から手を下すことが殆どない鬼舞辻。
もし個人で強い力を持っているならば、わざわざ十二鬼月などというシステムを作って配下の鬼達に競争をさせる必要がない。
無敵の鬼舞辻無惨でさえ何かを恐れているのだ、しかしそれは決して今の鬼殺隊ではなく、もっと別の、他の強大ななにか。
「……ねえ。もし、もしもの話よ?雪那ちゃんがたくさんの人の命を使って強くなったとしたら、無惨に勝てる?」
それはもしもの話だ。
そんなことは許されないし、カナエだって許すつもりはない。
しかし、カナエは今の話を聞いて一つだけ最悪の可能性を見出していた。
なぜ鬼舞辻が雪那を探しているか。
なぜ自ら姿を現し、上弦の鬼を2人も動員させるほどに本気になっていたのか。
もし雪那に鬼舞辻を倒せる可能性があるとするなら、その行動に説明がついてしまう。
「………無理」
しかし、カナエの考えは杞憂に終わった。
雪那ははっきりとした声でカナエにそう伝えた。
「私は、雪を操れるわけじゃない。雪に好かれてるから、お願いしてるだけ。いくら命を奪っても、消えた支配権を取り戻せない」
「……その支配権を取り戻す方法はあるの?」
「ない。私達は人と暮らすためにそれを捨てた。もし取り戻すとことができても、その時は私達が次の鬼舞辻になるだけ。それじゃ意味がない」
「……そっか。ごめんね、変なこと聞いて」
「ん……私も、力になれなくてごめん」
「いいのよ。雪那ちゃんの言う通り、病気といっしょ。病を根本的に除去するのに近道なんてないもの。」
カナエはそう言って雪那の頭を撫でる。
雪那ではどうやったって鬼舞辻には勝てない。
その事実を知って、意外にもカナエの心には安堵感が生じていた。
確かに鬼舞辻を倒す可能性がひとつ消えたのは痛いが、それはつまり雪那が鬼舞辻を倒すために自分を犠牲にする可能性もひとつ消えたということだ。
家族が死ぬ可能性が減って嬉しくならないはずがない。
そして同時に、カナエの中でも一つ覚悟が決まった日でもあった。
鬼と仲良くするのではなく、鬼を救うために働こうとする、鋼の覚悟が。