機能回復訓練が始まって15日ほどが経った。
今では雪那もカナヲの側になり、カナヲが任務で参加できない時には炭治郎の相手を雪那が行なっていた。
それでもボコボコにされている。
反射訓練の話ではあるが、雪那はカナヲとは違い基本的に積極的に攻撃してくることがない。こちらが手をつけた薬湯を全て完全に封殺し、炭治郎が完全に視界の外に出してしまったものを瞬時に判別して死角から投げてくるのだ。
自分と雪那の腕によって生まれた死角、そこにあった薬湯が次の瞬間には目の前に来ている。炭治郎にとっては正統派なカナヲ以上に苦手な相手であり、酷い時は2秒で負けた。
流石の炭治郎も心が折れそうになった。
(集中……集中……集中!今日の負けは気にするな!そういう時もある!気にし、気にし、気にしししし……気にしてしまう!!ああ、悔しかった!とても悔しかった!次こそ勝ちたい!)
夜、瞑想を行いながら常中を練習することが習慣になった炭治郎でも、今日の内心は荒れている。
最近は少しずつ常中が保つようになってきて、カナヲとの戦いも少しは足掻くことができるようになってきていた。段々と自分の成長が実感できてきたのにも関わらず、相手が変わった途端に手も足も出なかったのだ。悔しさは一押しである。
「おや、今日も頑張っていますね。炭治郎くん」
そして、そんな彼の元に今日は珍しく客人が訪れた。
この時間に話しかけられることが少ない炭治郎は驚いて屋根の上から落ちそうになりながら声のした方へと視線を向ける。
「えっと……蟲柱のしのぶさん、ですよね?」
「はい、覚えていてくれていたんですね」
「柱合会議の時に助けて貰いましたから。……あの時は誰も禰豆子のことを信じてくれなくて、しのぶさんが鎮痛剤を分けて話を聞いてくれた時、俺本当に嬉しかったんです」
「……あまり気にしないでください。あの時は私も冷静ではありませんでしたから」
しのぶはそう言って炭治郎の横に座り込む。
あの柱合会議の時以来、炭治郎はしのぶと殆ど会っていなかった。それはもちろんしのぶが雪那にかかりきりだったことが原因だが、治療の大半をカナエが受け持っているという理由もあった。
(相変わらず優しい人だなぁ)
炭治郎のしのぶに対する印象は、柱合会議での一件が無くともまずそれだった。
柔らかな仕草や言葉遣いをするけれど、彼女から発される匂いはもっとトゲというか角のある人のもの。けれどそれは決して冷たい角ではなく、温かなく柔らかで、彼女が彼女の姉と同じ愛に溢れた人であることは間違いない。
(……何か、困りごとでもあるのかな)
しかし、そんな彼女から発せられる匂いが今日はどうにも困っているようなもので、炭治郎はついつい言葉に出して聞いてしまう。
「何か困りごとですか?」
「あら、分かってしまいますか?」
「はい、そんな匂いがします。あの時も困っていましたけど、今日のは少しだけ恐怖感が混じっているというか……」
「……炭治郎くんにはなんでもお見通しなんですね。その鼻が羨ましいです」
「自慢の鼻ですから!」
「ふふ」
炭治郎の自慢げな表情にしのぶは口元を隠して笑って見せた。
そうして何かを決めたように一度目を閉じると、ポツリポツリと彼女は少しずつ言葉を漏らし始める。
「……炭治郎くんは、雪那のことをどう思いましたか?」
「雪那さんですか?……えっと、不思議な人だなぁと。雪那さんからは殆ど匂いが感じ取れないので、正直に言うとよく分からないんです」
「そうなんですか?」
「はい、善逸も雪那さんからは音が聞き取りにくいって言ってました。多分そういう感覚では察知しにくい人なんだと思います」
「そう、ですか……」
その話を聞くと、しのぶはますます落ち込んでしまったようだった。
炭治郎は慌ててフォローしようとするが、しのぶはそれを手で制す。
「……炭治郎くん。雪那はですね、普通の人間ではありません。雪女なんです」
「え……?」
「冗談ではありませんよ?私の頭がおかしくなった訳でもありません。雪那は正真正銘、現代まで続いた雪女の家系の、最後の1人です」
「……本当の話、なんですか?」
「そうでもなければ、この時期にこんな風に雪が降ると思いますか?彼女のおかげでこの屋敷は年中雪が降ってるんですから」
「……あ、そういえば那田蜘蛛山にも雪が降ってました。あれも雪那さんが居たからですか」
「そういうことです。……私、こう見えても怪談話が大好きなんですよ。なので、初めて雪那が雪女だと知った時にはとても驚きました。自分が大好きなお話が架空のお話じゃないって、嬉しくもなったことを覚えています」
空から舞い落ちる雪の一粒を指に乗せ、しのぶはそれを微笑みながら見つめる。
しかし自身の体温で水に変わり、その姿が保てなくなる姿を見てその微笑みが悲しいものになっていくのを炭治郎は見た。
「……しのぶさんは、雪那さんに普通の人でいて欲しいかったんですか?」
「……もしかしたら、そうなのかもしれません。分かってはいるんです、雪那は雪女という種族だからこそ雪那であるということは。でもそれでも……あの子が背負っているものは、あまりにも重い」
「しのぶさん……」
ぎゅっと膝を抱えてしのぶは呟く。
あまりにも濃い不安と焦燥、そして絶望の匂い。こんなにも濃い負の匂いを感じたのは、炭治郎も久しぶりだった。
柱合会議で感じた時も相当だったが、今日のそれはあまりにも、凄まじい。
「っ!ごめんなさいね、こんな話をしてしまって。今日は私、炭治郎くんに一つお願い事をしにきただけなんですよ」
「……えっと、自分にできることでしたら」
「そんなに難しいことじゃないんですよ?ただ、これから雪那のことを助けてあげて欲しいって、それだけの話なんです」
「雪那さんを……?」
自分なんかよりもずっと強い彼女を守るだなんて、どういうことなのか分からない。
それでも、しのぶは真剣な顔をしてもう一度炭治郎に頼みごとをする。
「お願いします、炭治郎くん。きっとこれから雪那は、炭治郎くん達の任務に同行することになります。その時にあの子の無茶を止めることができるのは、炭治郎くん達だけなんです。ですから……」
「……分かりました。俺が出来ることなら、出来る限りのことはやります!俺もいつまでも助けられてばかりにはいかないですから!きっと強くなって、みんなを守れるようになります!」
「……ありがとう、その言葉を聞けただけでも私は十分です。」
そうしてしのぶは立ち上がった。
後ろを振り向いて、月に向けて手を伸ばし、その手に溶けた雪水を絡めて掴む。
「炭治郎くん、私は君に期待しているんですよ。鬼舞辻と直接面を合わせ、人を襲わない禰豆子ちゃんという鬼を連れて、常に前を向いて歩き続ける君ならば、もしかしたらこの鬼との戦いに何か変化をもたらしてくれるんじゃないかって」
「俺が、鬼との戦いに……?」
「そうであって欲しい、そうなって欲しい、半分は私のわがままです。でも、私の目に映る未来はいつも真っ暗……知れば知るほど、考えれば考えるほど、その先には悲しみしか存在していない。」
「………」
「だから、せめて君だけは明るい希望であってください。君という小さな光があるだけで、その光を頼りに明るい可能性を見出せることができる。……それに、もしあの子が君に興味を示してくれるのなら、私は……」
「え?」
「……いえ。常中の修行、頑張ってくださいね?陰ながら見ていますから」
次の瞬間には、そこに彼女の姿はなかった。
ただ雪に寄り添う紫色の蝶が月に照らされ飛んでいるだけ。
しのぶと雪那、この2人の間に一体何があるのか。炭治郎はそれに対する興味を自覚しながらも、踏み込むべきではないのだと身を引いた。
(勝つ!勝つ!勝つ!勝つ!勝つ!勝てる!勝てる!勝てる!勝てる!勝てる!勝てる!)
「ここだぁぁぁあ!!!」
「ちがう」
「ぶへっ!」バッシャァンッ!!
24戦24敗、
今日も全試合15秒以内決着の大敗北。
いつも通り炭治郎はびしょ濡れになってここに座っている。
「……惜しかった」
「そうですかね……」
しかし、雪那の言う通り炭治郎も随分と健闘するようになった。
今もまた薬湯をぶっかけられたが、それも雪那に読みという面で大敗北したからに過ぎない。動き自体はかなり付いてこれるようになっているし、事実正統派なカナヲとの勝負ならばかなり長く続く。
常中の完成度で言えば隊士として十分な出来にまで仕上がっていた。
「全ッ然、雪那さんに勝てない……」
「あと少し、あと三歩」
「一歩ですらない……!?」
「炭治郎、読み合い向いてない。他のこと頑張って」
「しかも見放された!?……も、もう一戦!次こそ勝ちますから!」
25戦目
「待ち過ぎ」
「ぶへっ!」ビシャァァッ!
26戦目
「攻め過ぎ」
「ぼふっ!?」バチャアンッ
27戦目
「どこ見てるの」
「ぶはっ!」ドパンッ
28戦目
「惜しい」
「ぐふっ」ジョバァンッ
29戦目
「台無し」
「ギャッ!」バッシャァン!!
30戦目
「脳死はだめ……!」
「もはや痛い!」ビシィッッ!!!
もうどうやれば勝てるのかが分からない。
やればやるほど悪循環にハマっていく。
読むってなんだ?
何を読めばいいんだ?
本当にこの読みは合ってるのか?
やっぱり違うじゃないか!!
全身から薬の匂いしかしない。
きっと今ならどんな生き物だって自分から逃げ出すだろう。
全く嬉しくない。
「炭治郎は、カナヲに教えてもらうといい。私の練習は、まだ早い」
「う……確かにまだまだ雪那さんには勝てないですけど……」
「そうじゃない」
「え?」
バサリと雪那に拭いを投げつけられる。
雪那はそのまま炭治郎にここから去るように手で追い払うような仕草をすると、無表情のまま目を閉じた。
「炭治郎は、伸び代がある。私の練習は、それが無くなってからでいい。私より強くなれるから、頑張って」
「は、はぁ……」
雪那が何を言っているのか今の炭治郎には分からず、されるがままにそのまま追い出されてしまう。
日の光が最低限しか入らない鍛錬場から出ると、外の明るさに目が眩んだ。
そこにはシャボン玉が浮かんでいて、雪と混じるそれを見つめている少女が目に入る。
(……相変わらず、不思議な場所だ)
日の光は入っているのに雪が降っていて、それなのに蝶がたくさん生息している不思議な空間。それが蝶屋敷。
そんな蝶屋敷が、今この瞬間はなんだか綺麗に2つに分かれているように炭治郎は感じてしまった。
日の光が遮られた暗い鍛錬場の中で雪那は目を閉じて座っていて、逆にその反対側の縁側ではカナヲが日の下でシャボン玉を飛ばして遊んでいる。
対照的な2人の姿に、一瞬炭治郎はどちらに身体を動かすべきか悩んでしまう。
(……雪那さんにもああ言われたし、ここは大人しくカナヲに教えを請おうかな。雪那さんも忙しいだろうし)
そうして、炭治郎はカナヲの方へと歩き始めた。
それを見送った雪那は無言で立ち上がり、看護師としての仕事をするために鍛錬場を去った。
一方で突然教えを請われたカナヲは、困惑した顔をしながらも彼の熱意に負けて立ち上がる。
変わらない、何も変わらない。
変わらない日常の一風景。
そこには特別なことなんて何もない。
けれど確かにここには、2人の少女の描くそれぞれの世界がある。
その片方の世界に飛び込んだ者がいた。
これはただ、それだけの話。
(炭カナ推しなので炭治郎√は)ないです。