「……ここ、は」
雪那が目を覚ました時、そこは見慣れた蝶屋敷の縁側だった。
日が当たっている時には決して座ることのできない筈のその場所に、自分は日傘すらさすことなく座っている。
なぜ自分がここに座っているのか分からない。
先程までの記憶が思い出せない。
自分は懐かしい私服を着てここにいる。
そこには刀も何も無い。
「雪那?」
「……カナヲ?」
突然の出来事に混乱していた自分の横に座っていたのは、珍しく隊服を着ていないカナヲだった。
彼女は懐かしい桃色の私服を着て、いつも通りシャボン玉で遊んでいる。
そんな風にジッと見つめていたからだろうか、カナヲは雪那にもシャボン玉の片方を手渡して笑う。
「こうするの」
「う、うん……」
日中に活動することができない雪那は、カナヲがシャボン玉で遊んでいる姿を見たことがあっても、自分で遊んだことがなかった。
夜に吹いたところで殆ど見えないので触れたこともなかったが、こんな液体と筒だけであの球体ができるらしい。
使い方がイマイチ分からず困っていた自分にもカナヲは使い方を優しく教えてくれて、雪那は小さな玉をたくさん、カナヲは大きな玉をいくつか空へと飛ばしていく。
シャボン玉は日の光を反射して、薄らと虹を纏いながら風に吹かれた。
パチンとその身を破裂させる様子すらも何故だかとても綺麗で、雪那は何度も何度もシャボン玉を作り出しては空へと消えていくそれを見送っていく。
「……綺麗」
「うん、綺麗」
初めてこんなにも近くで見た光の下のシャボン玉の美しさに、雪那は心を奪われた。
今なら毎日のように時間さえあればこうしてシャボン玉を吹いていたカナヲの気持ちも分かる気がする。
これは確かに見ているだけでも全く飽きない。
……それになにより、日の光というものは、こんなにも温かく美しいものだっただろうか。
雪那の記憶の中にある光は、恨めしく、厄介で、危害を加えてきて、そして自分と他者の立ち位置をその存在だけで分けてしまう。
自分だけをのけものにしようとする、そんな確たる敵のようなものだった。
それなのに、今はこんなにも自分に安心感を与えてくれる。
自分も皆と同じだと、同じ場所に居てもいいのだと、そんな風に迎え入れられたような気がして、心の底まで照らされているような気がしてくるのだ。
「「雪那」」
ふと、門の方から2人の人物に呼びかけられた。
片方の声は見なくとも分かる、しのぶだ。
だが、もう片方の声だけが思い出せない。
カナエではない、アオイでもない。
他のどの看護師の声でもないし、知っている隊士の声でもない。
ただ、ずっと前に何処かで聞いたことがある。
その声が大好きだった記憶がある。
その相手だけがどうしても思い出せないだけで。
「雪那、またカナヲちゃんと遊んで貰ってたの?」
「……ぁ」
けれど、その顔だけは忘れていなかった。
その姿だけは忘れていない。
忘れるはずがない。
忘れられるわけがない。
「……お母、さん?」
「うん?どうしたの、そんな顔して」
「おかあさん……!」
雪那はシャボン玉をその場に置いて駆け出す。
履き物も上手く履けていないのに、転びそうになりながら必死になってそちらへ走る。
もう頭の中にはさっきまで感じていた小さな疑問なんて一つもない。
ただただ衝動に任せて母に抱き着いた。
「あらあら、まあまあ」
「ふふ、いきなり抱き着いてくるだなんて。雪那もまだまだ子供ね、可愛いなぁ」
「もう、しのぶちゃんだって雪那とは2つしか変わらないじゃない。私から見ればしのぶちゃんもカナエちゃんも十分子供です♪」
「私は未だに雪蘭さんと姉さんが12も離れていることが信じられないですよ……」
雪蘭としのぶが何かを話しているが、今の雪那はそれどころではない。
ただこの安心感に包まれていたかった。
懐かしいこの感触に浸されていたかった。
雪女が雪女に抱きついた時、雪女が人に抱きついた時とは全く異なる感覚を得る。
互いの体温が近しい故に感じる心地の良さ、安心感、充実感。
これは雪女の母と子が居なければ成り立つことのない、彼女達にとってはとても特別な感覚だ。
母親に抱き締められ、しのぶに撫でられ、雪那は自然と涙が溢れ出してくるのが分かった。
胸の内から熱いなにかが染み出してくる。
「もう、本当にどうしたの雪那?今日はなんだかとっても甘えん坊ね。そんなんじゃ大好きなしのぶちゃんに子供っぽいって思われちゃうわよ?」
「せ、雪蘭さん!……大丈夫よ、雪那。私はそんな甘えん坊な雪那のことも大好きなんだから」
「雪那、大丈夫……?」
「……大、丈夫」
泣いている雪那に3人は次々に優しい声をかけて頭を撫でる。
雪那が涙を拭って頭を上げると、やっぱりそこには母親の雪蘭の顔があった。
どうしたの?とこちらを優しい笑顔で覗き込んで、愛おしげに手のひらで頬に触れてくる。
それがなんとも気持ち良くて、嬉しい。
「おっ!雪蘭、しのぶちゃん!遅かったんだな!」
「っ」
そうして雪那が雪蘭に甘えていると、今度は背後の屋敷の方から声をかけられた。
雪那はその声を聞くと、弾かれたようにして殆ど反射的に後ろを向いてしまう。
理性が働くより前に、考えるより前に、その声を聞いた途端に身体が反応してしまった。
「……芙、美……?」
「ん?どうした雪那、あたしがどうかしたか?」
今度はそこにカナエと芙美が居た。
記憶にあるような焦燥し切った姿ではなく、昔の元気な姿で、持ち前の明るい笑顔をそのままに、彼女は確かにそこに立っていた。
「それがね、それがね!なんだか今日の雪那はすっごく甘えん坊なの!私を見た途端に抱きついてきてね?もう、と〜っても可愛いの♪」
「あはは、だから雪蘭は上機嫌なのか。しのぶちゃんの方は自分に甘えてきてくれなくて餅焼いてるってとこかな?」
「そ、そんなことないです!……もう!」
相変わらず男勝りな性格で快活に笑う芙美。
彼女のこんな顔を見たのもいつぶりだろうか。
彼女は慣れたようにしのぶを揶揄うと、『よいしょっと』と縁側に座り込み、片膝を立てながら雪那の方に手を伸ばしてくる。
雪那がその意味が分からず首を傾げると、彼女はクツクツと笑って、またこちらに笑いかけてきた。
「ほら、雪那。あたしには甘えに来てくれないのかい?」
「……いいの?」
「いいに決まってんだろ?ほら、来な」
「う、うん……」
雪那は雪蘭の手を離れて、恐る恐ると芙美の方へと近づいて行く。
けれど、雪那は彼女にどう甘えればいいのかが分からない。どう接すればいいのかが分からない。
とりあえず雪那は自分の手を彼女の差し出している手に重ねようと伸ばしてみて……その手を芙美に引っ掴まれた。
「よっし!雪那捕獲ゥ!」
「あぅ……!?」
グイッと手を引かれて、芙美によって膝の上に乗せられてしまう雪那。
そしてそのまま両手両足で身体を拘束され、ぎゅーっと頬を擦り付けられた。
雪那は突然の出来事に抵抗一つできやしない。
「あーもう!ほんとにお前は可愛いなぁ!あたしはお前を自分の目の中に入れてもこれっぽっちも痛くないよ!」
「こ〜ら、芙美?そうやっていつも無理矢理可愛がるから雪那が嫌がるのよ?もっと優しく抱き締めてあげないと」
「そうは言うけどなぁ雪蘭、こんなに可愛いうちの愛娘を可愛がるなって方が無理な話だろ?ほんとに可愛い、ほんとに大好き。雪那〜、愛してるぞ〜♪」
「っ」
「もう、また避けられるようになっても知らないんだからね」
「芙美さん、芙美さん!次!次私にも変わって下さい!」
「カナエはまた今度な!」
「そんなぁぁぁ……」
雪蘭と芙美が笑顔で笑い合っている。
2人がこんなにも明るく笑い合って話している姿を、雪那は久しく忘れていた。
確かにこんな優しい世界があった筈なのだ。
そしてそんな2人を中心に笑顔を浮かべる蝶屋敷の住人達。
カナエも、カナヲも、しのぶも、いつもと変わらず自分のことを愛してくれている。
彼等の変わらない笑顔が今日もここにある。
ああ、なんて幸福な世界なのだろう。
どこもかしこも優しい笑顔に溢れている。
自分の心がどんどん満たされていく。
空いていた穴を埋めるように、開いたままの傷を塞ぐように、心に熱が戻ってくるのを感じる。
ここにいるだけで自分が生き返る様な感覚に襲われる。
「え……?お、おい雪那!?な、泣いてるのか!?痛かったのか!?悪い!」
「もう!だから言ったじゃないの、芙美!」
「だ、だってよぅ……だ、大丈夫か雪那?」
「……うん、大丈夫。ちょっと、嬉しかった、だけ」
「お、おおう……今日の雪那はなんかマジで可愛いな。こう、見てるだけで抱き締めてやりたくなる。いやしてるけど。」
「「「分かるわ(ります)!」」」
やんややんやと騒ぎ立てる女性陣。
カナヲもそれを見てニコニコと笑っている。
こんな人達に囲まれて暮らしているなんて、自分はなんて幸せものなんだろう。
きっと今の自分は、どんなお金持ちよりも、どんな美人よりも幸福な人生を得ていると言い切ることができるだろう。
この場所はそれほどに理想的で、それほどに都合の良い場所だ。
「……けど、違う」
「ん?雪那、なんか言ったか?」
「ううん、なんでもない」
雪那はもう一度、芙美の顔を見上げる。
少し色黒の肌とこの時代の女性にしてはかなり短めの髪。自分を背負って夜間に散歩をしてくれた時、この人のこの髪が妙に鼻をくすぐってむず痒かった覚えがある。けれど今も感じる少し高めの体温が、力強い心音が、彼女が確かにそこで生きているということを自分に教えてくれた。それ等が自分に1人ではないということを教えてくれた。それだけで嬉しかった。
「雪那?」
次に雪那は自身の母である雪蘭に顔を向けた。
自分とは違う真っ黒な長髪を軽くまとめ、今でも変わらない優しい目で嬉しそうに自分と芙美のやりとりを見つめている。
自分が芙美に遊んで貰っている時、彼女はいつも今と同じ顔をしていた。当時の自分はその理由がよく分からなかったが、今なら分かる。彼女にしてみれば自分の愛している2人が仲良く笑い合ってくれている事が何よりも嬉しく、微笑ましいことだったのだろう。
穏やかで、けれど朗らかな人柄な人。
きっと自分の体が健康だったのなら、こんな風に誰かとはしゃいでいる姿ももっとたくさん見る事ができていたかもしれない。
その証拠に、目の前のこの人は出会ってから今まで一度も"ごめんなさい"と謝ることはなかった。
「……私、顔洗ってくる」
「ん?おう、ついて行こうか?」
「ん、大丈夫。直ぐ戻ってくるから」
「そうか、気をつけろよ」
雪那は芙美に対してそう言ってその場を立つ。
雪那の服装は縁側を離れて1人になった頃には既に普段の隊服姿に戻っていた。
日輪刀も布に包まれてそこにある。
心はもう決まっていた。
「……わかってる、この世界が夢だなんて」
母も、芙美も、もう居ない。
2人が蝶屋敷に来るはずがない。
自分にとってこんなにも都合の良い世界があるわけがない。
それに、なにより……
「芙美が私のことを、愛しているわけがない」
この世界に侵食されていく自分が目を覚ましたのは、それがきっかけだった。
彼女は確かに自分に対して"愛している"と言ったことはあるが、その時の彼女はさっきの様な本当に心の底から愛している人間に向ける様な顔はしていなかった。
あの時の彼女が自分に向けていたのは、後悔、同情、謝罪、それだけだ。そこに自分に対する愛なんて存在していない。
「……またね、お母さん、芙美。きっとまた、直ぐに会えるから」
もしあの時に少しでも道が違っていれば、こんな風に過ごしていた未来もあったのだろうか?
もし自分の身体がもう少し強ければ、こんな風にみんなで笑って暮らせる未来もあったのだろうか?
雪那はそんな考えを首を振って振り払い、引き抜いた日輪刀を自分の腹へと向ける。
例え眠らされていても、強烈な激痛を味わえば意識が身体へと反射を伝える。
自分がこうして眠らされているということは、炭治郎達も同様の状態に晒されているのだろう。
時間がない今、最も早く起きれる可能性があるとするならこれしかない。
(それで起きれなくても……ここにはしのぶとカナエがいる、カナヲが直ぐに気付いてくれる)
この数年で培った彼等への信頼は、夢の中でも揺るがない。
雪那はそのまま何の迷いも恐れもなく、自身の腹部へと刀を突き立てた。
すると、何かに吸い込まれる様にして自分の意識が身体から離れていく感覚に襲われる。
「雪那……!!」
最後にその世界で見たのは、そんな自分の姿を見て必死の形相で何かを叫びながらこちらに駆け寄ってくる芙美の姿。
どうやら彼女だけは近くで見ていたせいなのか、自分の異変に気付いていたらしい。
服装が変わっていることも気にせず、この世界の彼女は本心から自分の心配をしてくれている。本心から自分を愛してくれている。
それが分かってしまうから、痛い。
腹の傷よりもよっぽどこの胸が痛い。
ふと、雪那はこの世界の自分が羨ましくなった。
身体が健康で、母が生きていて、芙美に愛されていて、しのぶが居て、蝶屋敷に住んでいて、皆が笑い合っていて……そんな世界に住んでいる自分は、一体どんな人間になっているのだろう。
どうやら可愛がりの激しい芙美を避けていたりもしたらしいが、少しは我慢してあげて欲しいとも思ってしまう。
「ねえ、芙美?どうして私を、1人に、したの……?」
引き剥がされる意識と腹部からの激痛で、自分が何を言っているのかも分からない。
ただ雪那には涙を流している芙美の顔だけしか見えなかった。