猗窩座の雪那に対する最初の印象は、その名の通りまるで雪のように儚い女だというものだった。
吹けば飛んで叩けば壊れる、触れるだけでも殺してしまいそうな、そんな女。
なぜこんな女が鬼殺隊などに入っているのか、どうすればこんな女が人間を超越した鬼を殺すことができるのか。
話を聞けばそこそこ腕は立つそうだが、イマイチそれを信じられることができなかったし、今こうして目の前に構えている姿を見ていても信じられない。
猗窩座は基本的に女子供を喰らわない。
それどころか殺すことすらしない。
だからこそ、いくら挑発されたとは言え、こうして目の前の少女に拳を向ける事に忌避感を感じている。
気絶させるだけだと、少し動けないようにするだけだと、自分にそう言い聞かせて拳を向けている。
けれど同時に、なぜか目の前の少女に振り下ろす拳の抵抗感は、他のどんな女子供に対するものよりも強いものであることを自覚してしまっていた。
ずっと頭に引っかかる"雪"という文字。
周囲を包む白雪が自分に何かを呼びかける。
ただ強くなる事だけを追い求めている筈なのに、他の違う何かが自分の胸の内で叫び続けている。
「ハァァ!!」
破壊殺 乱式
煉獄に対して放ったものより幾分か威力も速度も精度も落ちた連撃を猗窩座は放つ。
それでも普通の隊士ならば避けることも叶わない様な乱撃だ。
猗窩座はこれで十分だと思ったし、これでも多少冷静さを失っていたこともあって"やりすぎた"と思っていたほどだった。
雪の呼吸 壱ノ型 深雪
「なっ……!」
……だが、雪那はその普通の隊士ではない。
極め創りあげた雪の呼吸が、元となった水の呼吸をより受けに特化させたものということもあり、とりわけ受けという面においては柱をも凌ぐ一種の化け物だ。
雪那にとってこの程度の乱撃は脅威ですらない。
猗窩座の乱撃の最初の拳が雪那の構えた刀を捉えた瞬間、猗窩座はこれまで感じたこともない様な浮遊感の様なものに襲われた。
刀ごと体を穿つ筈だった拳は止まり、普段ならば喧しく周囲に響き渡る様な音や衝撃すらも発生しない。
自分の身体からは一切の力が奪われ、体に染み付いている筈の乱式の二撃目すらも放てない。
本当に一瞬の間、自分の全てが目の前の少女に奪われてしまったかのような感覚になり、何が起きたのか全く分からず猗窩座は驚愕の表情で固まってしまう。
雪の呼吸 伍ノ型 雪華
「くあっ!?」
次に放たれたのは殆ど殺傷能力の無い、力を相殺するか対象を吹き飛ばすしか能のない突き。
しかし、無抵抗な状態となった猗窩座はそれをまともに食らってしまい、自分が少女に殴りかかる前の地点にまで強引に押し戻されてしまう。
猗窩座の体には傷一つ付いていない。
ただ数秒前の状態へと戻されただけ。
自分の攻撃がまるで無かったことにされてしまったように、巻き戻されてしまっただけ。
彼はここに来て漸く雪那が言っていた"勝てないけど負けない"という意味が理解でき始めていた。
彼女は自分を殺すつもりなど一切ない。
それどころか、傷付けるつもりすらない。
ただ自分の技の全てを受け捉え、それでも最後まで生き残ると。
彼女は本気でそのつもりなのだ。
そして、彼女にはそれができる可能性がある。
破壊殺 空式(くうしき)
雪の呼吸 陸ノ型 風花百沫(かざはなひゃくまつ)
猗窩座が次に放ったのは空式。
凄まじい拳圧によって生じた衝撃波で中距離から敵を攻撃する技であり、タイムラグが殆ど生じないために回避することは容易ではない。
少女の先程の深雪という受け技は、一体どういう原理なのかは分からないが、猗窩座から直接攻撃の威力以上のものを奪い取った。
ならば直接攻撃でなければいい。
そう思った故の攻撃だった。
しかし、雪那はそれすらも予想していたかの様に彼と同時に技を使う。
"水の呼吸 玖ノ型 水流飛沫"と"蟲の呼吸 蜈蚣の舞い 百足蛇腹"を基にした新たな歩法である風花百沫(かざはなひゃくまつ)。
水流飛沫ほどに縦横無尽に駆け巡る事は出来ず、百足蛇腹ほどの速度は出ない。
しかし雪那の作り上げたこの歩法は、なにより隠密性と、距離感の誤認を相手に与えることに優れていた。
そして雪那は猗窩座の放つ拳の数々を完全に見切っているかの様にして、最小限の動きだけで避けて近付いていく。
猗窩座とて、ただ乱雑に拳を放っているわけではない。
敵の行動を見て、次の動きを予想して、そうして攻撃を行なっている。
確かに猗窩座が本気で拳を振るえない状態だという理由もあるが、それでも雪那の読みは猗窩座のそれを完全に凌駕していた。
雪の呼吸 伍ノ型 雪華
「ぐっ!?」
そしてまた、猗窩座は後方へと押しやられる。
自分が見下していた相手に、女子供だと見縊っていた相手に、何故か自分が退かされている。
今でもそうだ、目の前の少女からはこれっぽっちも覇気や殺気どころか脅威すら感じない。
叩けば壊れそうだという印象は変わっていないし、一瞬でも本気を出せば簡単に壊せてしまえるという確信だってある。
それなのに……
(なっ、羅針が後ろに反応した!?援軍か!?)
敵の闘気に反応して動きを探知をする猗窩座の足元に広がる雪の結晶の型をした光の陣:羅針。
ただそれだけの能力しか持たない陣だが、猗窩座の高い技量を十分に活かす事ができる、彼にとっては今や欠かす事のできない能力だ。
そんな羅針が突然何の前触れもなく彼の後方に反応した。
当然、雪那は目の前にいる。
煉獄も今は下弦の鬼達の方に居る筈で、他の隊士達もこちらには来れない状態だ。
よって猗窩座は、これを他の援軍が来たと考えた。
闘気という隠せない筈のものが突然出現したことには驚愕しか無いが、彼にとってはまだ十分に間に合う段階である。
背後から襲われたところでまともに攻撃を食らう猗窩座ではない。
破壊殺 脚式 冠先割
背後の相手を下から強烈に蹴り上げる"脚式 冠先割"。
その威力は僅かに掠っただけでも敵に痛手を与える凄まじい一撃。
まともに身体に当たってしまえば、そのまま破裂して肉片と化してしまうだろう。
……だが、猗窩座のその一撃は何も捉えることなく空を切った。
「なっ、誰もいない!?」
雪の呼吸 伍ノ型 雪華
「しまっ……ぐぁっ!」
3発目の雪華。
猗窩座は再び後方へと吹き飛ばされる。
雪那は絶対に敵を吹き飛ばしても追い討ちを掛けない。
分かっているからだ。
単純な接近戦になれば猗窩座の方が強く、下手な追い討ちをかけようものなら即座に捕まってしまうことを。
雪那は徹底的に時間稼ぎに徹していた。
同じ手を使うことは絶対に無く、様々な異なる方法を使って猗窩座の裏を書いてくる。
そしてこの羅針の誤作動もまた雪那の仕業だった。
猗窩座は何度も何度も周囲を確認するが、やはりここには雪那以外の人間は存在しない。
羅針が雪那に殆ど反応しない事についてはもう諦めていた。
そもそも闘気というものが薄い人間だと考えれば無理矢理にだが納得はできるからだ。
だが、この羅針の誤作動とも言えるものだけは話が違う。
これは既に彼にとってもう一つの感覚と言ってもいい程に染み付いているものだ。
例え間違った反応だと分かっていても、反応をした時点で心がそちらへ向いてしまう。染み付いた癖を急に修正することはできない。
それに自分の能力を疑うということは、自分の在り方への否定にも繋がるものだ。
これまで様々な鬼を見てきた猗窩座は、それがどれほど危険なことであるかということをよく知っている。
(待て、そういえば以前にも羅針が間違った状態を示した事があった。……そうだ、確かあの時も雪が降っていた筈だ。そしてあの時も追っていた相手の中にこの女がいた)
それは数年ほど前の話。
突然彼は鬼舞辻に呼び出され、羅針の能力を使って山の中にいる筈の雪女を探して来いと言われた。
その時、羅針が普通とは異なる挙動を示して追っていた集団と全く異なる場所へと自分を導こうとしていたことがあった。
今感じている羅針の感覚は、正にその時に感じた違和感そのものだった。
「貴様、俺の羅針に何かしているな?」
「……直接、何かしてる訳じゃない。ただお願いしてるだけ」
「願うだと?俺の能力に祈ることに何の意味がある」
「貴方のそれは、ただの模様じゃない。そこには貴方とはまた違う、意志がある。それが雪という形を持っているのなら、私はそれと言葉を交わせる」
「……俺の羅針に、別の意志が宿っているだと?何を馬鹿なことを言っている、これはただの陣だ。それ以上でもそれ以外でもない!」
「そんなことない、貴方の陣はとても優しい人。貴方が1人にならないように、貴方を包むように、ずっと貴方の側に寄り添っている」
「だが今はこうして俺を裏切っているではないか!!」
「女の子はいつだって、恋愛話で盛り上がるから……すごく気が合って、応援された」
「全く意味が分からん!!」
自分の能力に干渉されている。
それを跳ね除ける為に、猗窩座は必死になって雪那の言葉を理解しようとした。
だが無理だったので投げ出すことにした。
目の前の少女の言っている言葉が全く理解できない。
羅針が雪の形をしているので干渉できる←分かる
羅針には他の意思が宿っている←まあ分かる
羅針は女の子←分からない
羅針と恋愛話をした←全く分からない
羅針に恋愛を応援された←分かりたくもない
一体なにがどうなればそんな話になるというのだ。
自分はただ羅針の誤作動の理由を知りたかっただけなのに。
下手に目の前の少女がこんなことで嘘をつくような人間に見えないだけに、猗窩座は余計に頭が痛くなる。
本当にこの羅針に女が居るというならば、自分はこれからこれをどう見ればいいのだ。彼は女子供の話になると意外と繊細な感情を持つ男だった。
(なぜだ?なぜ羅針に女の意思が?しかも自分に寄り添っている女?誰だそれは?……いや、そんなこと言い始めたらそもそも羅針とはなんだ?鬼となって自分の能力だとして使っているが、それが自分の能力になった理由はなんだ?鬼の能力は鬼になる前の自分に由来する事が多いとは聞くが、羅針も人間だった頃の名残を持っているというのか?)
猗窩座の動きは完全に停止していた。
鬼舞辻からの命令も、目の前の敵も、戦闘の楽しみも、何もかもを一切忘れて考えに耽った。
それは雪那が闘気を殆ど出さず、こちらから何もしない限りは一切の害も与えようとしない姿勢を取り続けたことも理由の一つだろう。
現に彼女は猗窩座がそうして停止した途端、何かを察したように刀を下ろした。
(……この女を見ていると、なぜか酷く心が乱れる。俺はこの女に一体何を感じている?何を思い出そうとしている?一体誰を重ねている?分からない、分からない、分からない、分からない、分からない)
ただ一つだけ分かること、それは……
(俺はこの女を、殴れない)
猗窩座は遂に、その拳から完全に力を抜いた。
それは殆ど諦めに近いものだった。
彼は全てを投げ捨て、その場に胡座をかいて座り込む。
雪那の後ろでは丁度煉獄が最後の下弦の鬼と戦っているところだった。
「……一つだけ、聞かせて欲しいことがある」
「なに?」
「お前の言う羅針の中の女というのは、どういう女なんだ?」
その言葉に、雪那は刀を鞘にしまって微笑む。
これ以上この刀を出している意味は無いと、そう直感したからだった。
「とても優しくて、可愛らしい人。貴方のことを、ずっと想い続けてる。」
「……物好きな女だな。俺は強くなること意外に興味はない、そんな俺に何を求めるというのだ」
「そんなの、貴方の幸福に決まってる。好きな人には幸せになって欲しい、誰だってそう」
「……お前に似ているのか?その女は」
「ん、そうかも。……私も子供の頃は、病気でずっと寝てたから。けど、大好きな人のおかげで、世界が変わった。それはきっと、その子と同じ」
「……だから、か」
「ん?」
雪那の言葉に、猗窩座は何かを納得したかの様な顔をして立ち上がる。
その拳は再び握られており、全身から闘気が登り始めているが、それは雪那に対して放たれたものではない。
もう彼は、雪那に対して攻撃することはない。
「遅かったな、煉獄杏寿郎」
「……よもや待っていてくれるとは思っていなかったぞ!一体なにがあった!」
「なに、どうも俺はその女を殴る事が出来んらしい。故に、お前に賭けを申し込もうと思った」
「賭けだと?」
猗窩座はそう言ってあの独特な構えを取り、雪那をそこから退くように視線で語る。
雪那はそれに素直に従い、彼が煉獄と正面から向き合える様にその場を離れた。
煉獄もまた、なんとなく猗窩座の言いたい事が分かったようだった。
闘気を漲らせ、刀を抜く。
「一撃だ。互いに全力の一撃をぶつけ合い、お前が生き残ったのならば俺はここを去ろう。だがもしその一撃を耐え切れなかったら……雪女の雪那には素直にこちらについて来てもらう」
「ふむ、単純明快でわかりやすいな!……雪那少女も、それで構わないか?」
「……ん、煉獄さんに任せる」
「よし!任された!!」
煉獄は猗窩座のその賭けを快諾した。
自信があったわけではない。
目の前の鬼の実力は最初の一撃でよく分かっているし、今の猗窩座からは先程までと違い何か強い意志を感じる。
きっと今の彼と普通にぶつかれば、自分が死ぬ可能性の方が高いだろう。
……それでも、彼の心の中にだって絶対に譲る事のできない一つの魂が宿っている。その魂が自分に力を与えるのだ。
煉獄は知っている、自分とは違い剣の才能に恵まれなかった雪那という少女のことを。
そんな少女がここまでやってくれたというのに、どうして自分が引き下がることができようか。才のあるものには責任が伴う。煉獄はまだ責任を果たせてはいない。
「杏寿郎、最後に聞きたい。お前は自分の強さのために鬼になるつもりはあるか?」
「一切ない!俺には母上との約束がある!自分の強さよりも大切なことを、俺はもう見つけている!」
「……そうか。愚かな事だと思いはするが、同時に今はお前を少しだけ羨ましいと思っている自分もいる」
瞬間、煉獄と猗窩座から凄まじい圧が放たれる。
ビリビリと身体の芯まで響いてくるような、大気が震えるほどの闘気の嵐。
きっとこれ以上の純粋な力の衝突は、今後実現することは絶対に有り得ないだろう。
「ならばもう言葉は要るまい!お前の全てをぶつけてこい!煉獄杏寿郎!!」
「無論だ!俺は俺の責務を全うする!ここにいる者達を絶対に守り切って見せる!!」
破壊殺 滅式
炎の呼吸 玖ノ型 煉獄(れんごく)
まるで地面を抉るかのような凄まじい威力の互いの技が、確かな信念を持って衝突した。