胡蝶の雪   作:ねをんゆう

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52.笑顔で送り出すために

「雪那、海の音が聞こえてきたわよ。……聞こえる?」

 

「ん、聞こえる。……ごめんね、しのぶ。なんだか急に疲れちゃって」

 

「……いいのよ。仕方ないわ、今日までずっと歩き詰めだったんだもの。とにかく早く宿に行きましょう?海を見るのはまた明日」

 

「うん、ごめんね」

 

しのぶは雪那を背負い、目的の宿へと歩いていく。

この日の為に以前から話を通していて、色々と特別な扱いをさせて貰っていた。だからしのぶ自身も今日という日をとても楽しみにしていた。それは今も変わらない。

……けれど、この子の前では絶対にしたくないと思っていた作り笑いが今は張り付いて動かせない。

 

「……しのぶ、あのね?」

 

「大丈夫よ、少し休めば良くなるわ。今日はお風呂に入って食事をしたら、もう眠ってしまいましょう?そしたら明日は砂浜に行って、水遊びとか、ね?」

 

「……うん。ごめんね、お願い」

 

「いいの、私に任せて」

 

異変があったのはあの村を出てから数日後の明け方のことだった。

段々と雪那の歩く速度が遅くなっていることには気付いていたが、明らかな変化として彼女の方から休憩を求めるようになった。

雪那は基本的に我慢をしがちだ、だから普段はしのぶから休憩を提案する。

それ故に、彼女が自分から休憩を求めるということは相当に限界な時でないとあり得ない。

 

そして、その回数は日に日に増していった。

 

少しの運動でさえも長時間保つことができなくなり、気温の高い日には更に苦しそうな顔をする。

氷を加えた水を手放すことができない。

常に薄着で冷やした手拭いを首元に巻いている。

完全に普通の状態ではない。

 

……そして目的地が直ぐそこにまで迫った今日この日。彼女は遂に最初の2時間以降、全く足を動かすことができなくなってしまった。

最早それは"疲れた"で済ますことができる状態ではない、それはしのぶが一番よく分かっている。

 

「しのぶ、抱きしめて?」

 

「……いいの?暑くなるし、苦しくなるのよ?」

 

「いいの、そうして欲しいの。……側にいて、欲しいの」

 

「……おいで、雪那」

 

……冷たい。

彼女の身体は、初めて出会ったあの3年前と比べると随分と冷たくなった。

最初はただ冷んやりとしていただけだったが、今ではこうして触れているのも辛いくらいの冷たさになっている。

 

毎日のようにこうして身体を触れ合わせて来たのだ。

この子の身体の変化は誰よりも自分が把握している。

 

(……もう、決断しないといけない)

 

その日は着実に近付いてきている。

この子との旅行を純粋に楽しむことができるのは、きっと明日で最後だ。

 

(けど、それまでは、それまではどうかこの夢に少しでも長く浸らせていて欲しい。この子とのただ幸福で笑い合える時間を、続けさせて欲しい)

 

寝息を立て始めた雪那の額に小さくキスを落として、しのぶも瞳を閉じる。

段々とこの手から離れていってしまう引き止めるように、しっかりとその腕で抱き締めたまま、意識を闇の中へと落としていった。

 

 

 

 

「雪那、見える?これが海よ」

 

「……すごい、本当に水で端が見えない」

 

次の日、2人は日の落ちかけた夕暮れの空の元でようやくその海というものの姿を見ることができたのだった。

夕暮れで赤く染まった海の姿はきっと本来のものとは少しだけ違うものなのかもしれないが、その壮大さは変わらない。

全てを包み込むようなその大きさに、しのぶに支えられた雪那は思わずその場で立ち尽くしてしまう。

 

「……もう少し、近くに行ってみる?」

 

「ん、そうしたい。ちょっとでいいから、触ってみたい」

 

「分かったわ、足元に気をつけるのよ?」

 

「うん、ごめんね」

 

しのぶに付き添われながら雪那は少しずつ海へと近付いていく。

一晩休んだことで昨日より多少回復したものの、やはり完全に元通りにはならなかった。

 

急激な身体の変化に戸惑いはある、恐怖もある、絶望もある。

……けれど、今はなにより目の前に広がるこの光景が雪那の心を満たしていた。生じたその感動に、涙が出そうになる。

 

「芙美の言う通りだった。海には水がたくさんあって、水と空の境目が見える。……すごく綺麗」

 

「……水、入ってみる?」

 

「ううん、ここでいい。ここでいいから……しのぶもここに座って?」

 

「うん、分かった。……久しぶりに見たけれど、海ってこんなにも綺麗だったのね」

 

人の居ない砂浜に2人は寄り添いあって腰掛ける。

足元を少しだけ濡らす波を感じながら潮風を嗅いでいれば、雪那が懐から何かを取り出した。

それはもうボロボロになってしまっている赤い手拭い、しのぶですらそんなものをこれまでに見たことがない。

 

「これ、芙美の形見」

 

「……どういう人だったの?芙美さんは」

 

「ん、すっごく酷い人。勝手に後悔して、勝手に思い詰めて、私を置いて行っちゃった。……お母さんの事が大好きだっただけで、私のことを愛してはくれなかった」

 

「そんなことは……」

 

「ううん、それはもういいの。もう納得してるし、理解してる」

 

そう思っていた筈だった。

そうすることができていたと思っていた。

そう思っていたけれど、列車に乗った時の夢の中での出来事……そしてこうして海を見ることができた今、分かったことが一つだけある。

 

「……でも、本当は羨ましかったのかもしれない。私も、お母さんみたいになりたかったの。芙美みたいな誰かに心から愛される。そんな人人になりたかった」

 

「………」

 

「ねえ、しのぶ?どこまで知ってるの?……もう、知ってるんだよね。私が歩けなくなった理由も、しのぶに甘える理由も」

 

「……うん、もう全部知ってる。雪那が抱えてる病も、雪那が抱えてる想いも」

 

「……そっか」

 

力の抜けた雪那の身体を、しのぶはしっかりと受け止める。

これでも相当に頑張っていたらしい。

相当に頑張ってもこれだというのが、とても痛々しい。

 

「……雪女は、子供を産むことができない。なぜなら生まれてくる子供は、その時点では普通の赤ん坊と変わらないから。体温の低い雪女の体内では、正常に育つことができない」

 

「だから雪女は種を残すために、人間の女に自分の子供を産ませる事にした。自身で子を産んだ初代の雪女以外の相方が全員女なのは、それが理由」

 

その初代でさえも自身の体温をあらゆる方法で十月の間引き上げ、凄まじい苦痛に耐えながらなんとか出産したという事実がある。

けれど、生まれてきた子供は雪女としての力の大部分が削がれていて、これでは次の子供を望めない。

そこで初代が施した調整が同性愛だった。

今の雪女は女性しか愛せない。

 

「……一目惚れ、だったの。山の中で鬼と戦ってたしのぶを見て、山を降りる決心がついた。子供を産んでくれなくてもいい、ただ側に居たいって、そう思った」

 

「……だから、あれだけの努力をしていたの?呼吸を使えば自分にとって良くないってのも知ってて頑張ってたの?」

 

「ううん、最初は知らなかった、前例も無かったし。……けど、使ってるうちに良くないかもしれないとは思ってた。その時にはもう何もかもが手遅れだったから、考えないようにしてたけど」

 

「それは嘘ね……大方、私に失望されたくない、余計な心配をかけさせたくない。そんな見当違いなことを思ったんでしょう?それに、それを説明するには雪女の病の話をせざる得なくなってしまうから」

 

「……ごめんなさい」

 

「馬鹿ね、ほんとにお馬鹿。それで雪那の寿命が縮んでしまったら何の意味も無いじゃない」

 

……違う、そうじゃない。

悪いのは自分のことばかりを考えていて、雪那のことを知ろうとしなかった自分だ。

襲われた姉のこと、鬼を斬れない自分のこと、あの頃の自分はそれに支配されていた。雪那の能力を知った時にも、心の奥底では姉を襲った鬼を殺せる可能性が増えたことへの嬉しさがあった。

だから無意識のうちに拒んでいたのだ、彼女が戦えないという可能性を。期待していたのだ、彼女が戦力になるという未来を。

彼女はそんな自分の心のうちを感じ取っていたに過ぎない。

 

「……治せる可能性は、ないの?」

 

「ない、それが雪女としての結論。芙美も商人の娘として、色々な手段を使って"青い彼岸花"や治療法を探してた。芙美の前の人も、その前の人も、この数百年ずっと誰かが探してた。……けど、1人も見つけることができなかった」

 

「延命の、方法は?」

 

「私が居た雪山……そこは初代の雪女が一つの町を沈めて生まれた、これまでの雪女達の死体もたくさん眠ってる。雪女の力が今も強く残っているあの場所に居れば、数年は長く生きられると思う。お母さんはそうだった」

 

「……他には、無いのよね?」

 

「しのぶが期待してる、あの本に載ってない延命方法なんて無い。今から雪山に行ったとしても、まともに活動できるのは1年が限界。それからはずっと、寝たきりになる」

 

それはつまり、雪山に行かなければ雪那は直ぐにでも活動できなくなってしまうということでもある。

もうこの時点で、選択肢は殆どないと言ってもいい。雪山へ行き、雪那が力尽きるまでの間、しのぶがずっと側にいる。それ以外にない。

 

「……でも、私は雪山に行きたくない」

 

「っ!どうして!」

 

ただ、その選択肢は他でもない雪那自身によって捨てられてしまった。

 

「このままだとあと1年生きられるかどうかも分からないのよ!?3年もあればきっと何かしらの手掛かりは掴めるはず!諦めないで探し続ければいつかは……!」

 

「同じことを言って芙美は壊れた!!……しのぶには、そうなって欲しくない」

 

「それ、は……」

 

「もう、一人はやだ。誰かを一人で残すのもやだ。もし死ぬなら、私は最後までみんなの側に居たい。あんな音も何も無いところに、居たくないの」

 

「そんなの……卑怯よ、雪那……」

 

生きていて欲しい。

なるべくずっと側に居て欲しい。

ただそう思っているだけなのに、そんなことを言われてしまえば他の選択肢が取れなくなってしまう。

 

「ごめん……ごめんね、しのぶ。私が追いかけて来なければ、こんなに悲しい思いをさせなくて……」

 

「……お願いだから、それ以上は言わないで。雪那。貴女と出会って、貴女を愛したことだけは、絶対に後悔したくないの。わたしと出会ったことを、貴女にも後悔して欲しく無い」

 

「……しのぶ」

 

今やっと、しのぶはあの文字を書き殴った芙美と同じ立場に立つことができていた。

今なら分かる、あの本に書かれた多くの追記と、その文章一つ一つに込められた強い感情と意味を。

 

『おかしいと思うな』

『決して迷うな』

『心に従え』

『周りを見るな』

『ただ愛を追え』

『常識を捨てろ』

『形を求めるな』

『足を踏み出せ』

『迷わず選べ」

 

それぞれの筆者が違うにも関わらず、必ず一つの言葉につながる文章があった。

全ては雪女が人間の女に子供を産ませるという記述の後に付けられたものだ。

全てを知った筆者達が、全てを終えてしまった彼等が、次の自分になるであろう者達に向けて、きっと何よりも伝えたかったその言葉。

 

 

 

『『『彼女達を笑顔で送り出すために』』』

 

 

 

「……雪那、一つだけお願いがあるの」

 

「……なに?」

 

「雪那の故郷に行ってみたい、雪那の育った場所を知りたい。今まで知ろうとしなかった私に言う資格なんて無いかもしれないけれど……私は貴女の、全てが知りたい」

 

「……ありがとう、嬉しい」

 

夕日が沈み、目の前に広がる広大な水面がその姿を消していく。

……けれど、それすら今は好都合だ。

こんなにも情けない泣き顔を、彼女に見せなくて済むのだから。


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