「……あの子が30になる頃、山の上に住んでいた女が死んだ。どうしてそれが分かったかなんて、あの子が酷く暗い顔をして、真っ白な少女を連れて山を降りてきたら誰でも分かるってもんだ。
結局、あの女は商家からこれっぽっちの財産をせびることもなく、最後の最後まであの山の上で暮らしてた。その時になってようやく俺達は自分の間違いを確信したんだ、あの子は何一つ嘘をついていなかったって」
「……その、後は」
「太陽の下で過ごせないあの子を守るために、あの子はご当主様と弟に頭を下げて、それまで稼いだ金を譲渡して、屋敷の一室を借り受けた。
ご当主様ももう何も言わなかった。
商家としての経営が傾いていたこともあって、それどころじゃ無かったんだろうな。弟君は商人としての才能が致命的に無かったし、今更になってあの子に跡を継いで欲しいなんて言える筈がない。金が入ってきただけマシだと思って、一切の干渉をしなかった」
「……でも、長くは続かなかった。そうですよね?」
「ああ、結局数ヶ月くらいであの子は子供を連れてまた山を登っていっちまった。理由はまあ、陰口とかだろうな。
その時にはご当主様達の評判は地に落ちてたし、女なのに男の格好して得体の知れない物を探してるあの子は、あの子の過去を知らない人間にとっては奇妙でしかない。その上、その子供の見た目は普通のものじゃないと来た。
生活しやすくする為に山を降りてきたのに、常に周りの人間から陰口を叩かれている環境に居る必要性なんて無いだろう。当然の話だ」
「貴方は、何もしなかったんですか?」
「ああ、何もしなかった。俺達は商人だ、変な噂が立てば生活が出来なくなる。だが、俺達は人間だ、自分のしたことに罪悪感は感じる。だからこの話は俺達の中ではあんまりしたくない話になってるんだよ。……思い出すと、死にたくなるからな」
「………そう、ですか」
「それ以降あの子がどうなったかは知らない。少なくとも、俺はあの2人の姿は見ていない。……けど、あの子はもう死んでるんじゃないかと思うよ。あんな酷い顔をした人間が、周りの支えもなく生きていけるとは思えないからな」
「この屋敷の人間は、どうなったのですか?」
「見た通りだよ。弟君が大損をやらかして、借りちゃいけねぇ所から金を借りちまった。その金を資本にまたぶち込んで、吹き飛んだ。最後は金取りに襲撃されて、一家まるごと連れてかれたよ。誰にも助けられることなく、どこに行ったのかも分からない」
「そっか……もう、芙美の家族は居ないんだ」
「っ!?ゆ、雪那!?なんでここに!?」
親父さんの話がひと段落した頃、しのぶの背後から雪那の声が聞こえた。
ばっと振り返った先にはフラフラと壁に手をつきながらそこに悲しそうな顔をして立っている雪那が居り、彼女はそのボロボロになった屋敷を見つめている。
「お、お嬢ちゃん!もしかして、あの子の!芙美の……!」
「ん、そう。芙美と雪蘭の子、雪那……ありがとう、良い話が聞けた」
「嬢ちゃん。その、芙美の奴は……」
「もう4年以上前に、死んでる。私に、殺して欲しいって」
「っ」
その話は、しのぶも聞いていなかった。
芙美が死んでいたというのは知っていたが、まさか雪那自身で彼女の命を奪っていただなんてことは、これっぽっちも想像していなかった。
けれど、当の雪那自身はそれすらもう受け入れている事実のように無感情で……自身の身に起きたことを淡々と受け入れることができる彼女の姿が、しのぶにはとても大きく見えてしまう。
「そう、か……壊れちまったんだな、心が」
「うん、お母さんが死んだ日から芙美は壊れた。私がしなくても、芙美は一人で死んでたから。ずっと側に居た」
「……本当に、誰も幸せになれない話になっちまったんだな」
「ううん、それは違う」
雪那はフラフラとその身体を引きずって歩き、しのぶは慌ててそんな彼女を背負いに行く。
幸い、話している間に日は完全に沈んでいた。
雪那はしのぶに後ろから抱きつき、頬を寄せる。
「私は、今が幸せ。辛いことも多かったけど、今は幸せだから。
……だから、悲しいだけの話じゃない。芙美の人生も、無意味じゃない」
「嬢ちゃん……」
「……芙美さんも、辛いだけじゃなかったと思います。
確かに辛いことの方が多いかもしれないけれど、それでも心から愛している人が自分を愛してくれているということは、それだけでとても幸せなことですから」
「……ああ、そうか。あんたは、次の芙美なんだな」
「いえ、それも違います」
そうしてしのぶは雪那の頬に自分の頬を擦り付けた。
嬉しそうな雪那の頭を撫でて、薄らと目を開く。
「私は、芙美さんにはなれません。芙美さんのように直ぐには決断できないし、たったここまで辿り着くだけで信じられないくらいの時間がかかった。それに、この子にもたくさんの苦労をかけてしまった。
……芙美さんは本当に凄い人です」
「そう、なのか」
「貴重なお話し、ありがとうございました。防寒具の代金はこちらに置いていきますね」
「……待ちな、嬢ちゃん」
買い取った防寒具を手に背中を見せたしのぶを引き留め、店の親父は家の中から何かの箱を取り出してくる。
布に包まれた漆の箱、彼はそれをしのぶに手渡す。
「あの、これは……?」
「あの屋敷が金取りに襲われる前に、『これだけは』って弟君に託されたものさ。芙美とその子が住んでいた部屋に残されていた物らしい」
「芙美さんが……」
「中に入ってるものは学のない俺にはよく分からなかった。俺が持ってるよりも、嬢ちゃんが持ってる方が何かしら役には立つはずだ。持っていってくれ」
「……ありがとうございます。貴方に会えてよかった」
「それは俺の台詞だ。あの子を悲しませることしかできなかった俺の人生だが、せめてあの子の娘が笑って生きている所が見れただけでも救われた」
芙美という女性の人生。
彼女という女性がどのように生き、何に苦しめられてきたのか。
雪那すら知らない先代の軌跡を知ったしのぶが、それに何を感じ、どう受け止めたのか。
日に日に弱っていく雪那の身体。
それでも延命を拒む雪那の意思。
なるべく長く隣に居たい。
どんな形でもいいから生きていて欲しい。
そう思っている自分がいる。
けれど、雪那の意思を尊重したい。
寂しい思いのまま死なせたくない。
そう思っている自分もいる。
そのどちらを優先すべきなのか、しのぶはまだ答えを出せていない。
雪那の故郷を訪れて、彼女の全てを知りたいなんてのは詭弁だ。そう思う気持ちもあるではあるが、本心ではない。
そこに行けば自分の気持ちも定まるのではないかという現実逃避だ。
最悪、無理矢理そこで2人で暮らし続けることもできるという卑怯な考えだ。
芙美という女の苛烈な生涯がそんなしのぶに何か影響を与えたのか……それは山頂に着いた頃に分かるかもしれない。