胡蝶の雪   作:ねをんゆう

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55.彼女の故郷

その日の夜、雪那としのぶはそのまま雪山へと向かった。

夜の山道だとか、吹雪だとか、野獣だとか、常識的に考えれば恐ろしく危険な行為ではあるのだが、そこに雪那という要素が加わることでその全てが無くなってしまう。

 

そもそも、どうして女性の芙美が成人男性でさえも近付けない様な場所に行けたのか。

そんなの、そこに守ってくれる雪女が居たからに他ならない。

 

雪女は雪に愛されている。

彼女達が願うならば、吹雪は止む。

それが雪女にとって力が強く働く場所ならば尚更だ。

 

事実、こうしてしのぶと雪那が山を登っていても、吹雪はこれっぽっちも吹いていない。

足元に降り積もっている筈の雪も邪魔にならない程の道になって2人を導いているし、野獣の視線も感じはするが、そこに敵意は全くこもっておらず、どころか見守られている様な節さえ感じる。

 

「……しのぶ、あれ」

 

「え?」

 

結局、防寒具の一つも要らない程にすんなりと、2人は目的地に辿り着いてしまった。

木造の小さな小屋。

風を防ぐ程度は問題ないのだろうが、それでも本当に小さく、古びた小屋だ。

 

だが、虫が入ってくる心配も無ければ、雪女がいる限りは雪や風が入ってきて困ることもない。彼女達が住むというだけならば、これくらいの小屋でも十分だったのかもしれない。

 

「ここに雪那は、住んでたの……?」

 

「ん、そう。……入っていいよ?おもてなしできるものは、無いけど」

 

「そんなこと気にしなくても大丈夫よ。……お邪魔します」

 

ガラガラと鍵の付いていない引戸を開ければ、そこには特に何の感想も抱かない様な埃に塗れた空間があるだけ。

建物は木造ではあるが今も腐り落ちる事なくしっかりとしているが、長い間手入れもしていなかったので中身は色々と酷いことになっている。

そんな有様にしのぶが困惑していると、雪那によって入口の前から退く様に促された。そして雪那が人差し指を上から振り下ろす様な動作をしてみれば……

 

「きゃっ……な、なにしたの雪那!?」

 

「ただのお掃除」

 

突然突風が部屋の中に吹いたと思えば、次の瞬間には凄まじい勢いで外に出ていってしまう。

しのぶが恐る恐る再び部屋の中を覗いてみると、あちらこちらにあった埃は完全に消え失せ、先程よりは幾分かマシな様相に変わっていた。

余計な道具が無いからというのもあるだろうが、そのなんとも強引な掃除方法にしのぶは苦笑いをするしかない。

 

「雪那、こんなこともできたの……?」

 

「ここだから出来るだけ、山を降りたら流石に無理。ここならある程度の無理もできる」

 

「やっぱり、身体的にも楽……?」

 

「うん……入ろ?ここに立ってても仕方ないから」

 

「……そうね」

 

中に入ってみると、改めて必要最低限という言葉の似合う場所であるとしのぶは感じた。目立つものは布団くらいで、包丁等はあるがどうにも使われている様子がない。

 

「ねえ、雪那?雪那はここでどうやって暮らしてたの?町には降りていなかったのでしょう?食べ物は?あとはお風呂とか……」

 

「森の草木や生き物達から生命力を分けて貰ってた。ここの草木は特別だから……お風呂とかはこうやって雪を溶かして使う」

 

「あ、ああ、なるほど……暮らしてて困ることとか無かったの?足りないものとか」

 

「……暇つぶし?」

 

「それはまあ、確かに」

 

雪那が指を振ると簡単にそこにあった雪が水に変わる、冬の草木は雪女にとって効率の良い食物だ。

確かに彼女達にとって普通に暮らすだけならば、ここに居るだけで完結するのだろう。

雪那の母親は最終的に30近くまで生きていたというが、ずっとここに暮らしていればもう少し長生きできていたのかもしれない。

 

「確か、この辺に……」

 

雪那がゴソゴソと色の違う床を開けて漁り始める。何を探しているのかとしのぶが覗き込むと、そこには色々な本や玩具が隠されていた。

本は子供の読むような簡単なものから、一般的な小説まで様々だ。玩具も古いものから比較的新しいものまで取り揃えてある。

どれも長く使われていたのか、調子の悪いものや破れているものもいくつかあるようだ。

 

「芙美が色々と持ってきてくれたの、ずっとここに集めてた。4年くらいはずっと本を読んでたり野犬と遊んでたりしたけど、流石に暇だった」

 

「い、意外と活動的に過ごしてたのね。本も物語とか恋愛ものばかり……文字も芙美さんから教わったの?」

 

「ん……覚えていれば将来好きな人の役に立てるって、お母さんと芙美が。あの時に頑張って良かったって、今は思ってる」

 

「そっか……」

 

そう言って雪那は懐かしそうに手元の本を撫でる。

雪那は芙美に愛されていなかったと言うが、しのぶは今でもそれが信じられない。どんな人間であっても、大切な人と自分の子供を愛さないなんてことがあるたろうか。雪那の容姿が苦手に思っていた、なんてことがあるならば別だろうが、聞く限りではそんな様子は無かった。

 

……だが、いくらしのぶが考えても真実を知ることは無い。誰にも死んでしまった人間の本心を知ることはできないのだから。

ただ、せめて"愛されていなかった"なんて悲しい思い込みをして欲しくない。

そう思うだけだ。

 

「しのぶ、連れてって欲しいところがある」

 

「それはいいけれど、どこに行くの?」

 

「ん……お母さんと、芙美のお墓」

 

……着実に、しのぶに残された思考の時間は迫っていた。

 

 

 

 

その小屋は決してこの山の頂上にあるわけではなかった。

変わりに頂上にあるのは、雪女という種族の彼等が最後に行き着く場所。

雨すら凍る様な何者の存在も許さない外部から完全に断絶された空間。

その氷の門から先へは雪女が側に居なければ決して入ることはできない。

ここへ入ることができる人間は、その代の雪女の横に立つことを許された者だけだ。

つまり全ての人類の中で、今はしのぶだけ。

 

「……綺麗」

 

「しのぶ、手を離さないで。いくらしのぶでも、私が居ないと肺から凍らされる」

 

「え、ええ。綺麗だけど、恐ろしい空間なのね……」

 

その性質とは対照的な、その場所はまるで楽園の様な場所であった。

あまりにも純度の高い氷のブロックによって作られた墓石や装飾品、常にヒラヒラと舞い落ちている細かな氷の破片、一切の生物がここには存在しない。空間の中央部には遥か下まで続く巨大な氷柱が埋まっており、地下の何らかの光を虹色に変えてこの場所へと放たれていた。

 

「ここに埋まってるのが……」

 

「ん、今までの雪女。生涯を共にした人間も、一緒に埋められてることもある。それはその人の自由」

 

「もしかして芙美さんも」

 

「うん、私が埋めた。多分、今も掘り起こせば残ってる。雪女の死体は、死後も周囲を凍らせるから……一緒に氷の中に居る、筈」

 

「……報告だけでもしていきましょうか」

 

「うん」

 

2人は雪蘭と芙美の墓石の前にしゃがみ込み、互いに手を繋ぎながら目を瞑る。

 

雪那はこれまで自分にあったことを、そして今の自分の思っていることを素直に伝えた。

彼女の心はもう決まっている。

ここで語る事ももう決まっていた。

 

だが、しのぶはここに来てもまだ雪那の両親に何を伝えるべきなのかを迷っていた。

自分の心にはまだ迷いが残っている。

ここに来れば何かが分かる、などという都合の良い理由をつけてここまで先延ばしにしてきたが、やっぱりここに来ても何の手掛かりも得ることができていない。

そんな自分が雪那の両親に向かって何を報告することができるだろうか。

情けのない自分の姿をこうして晒していることにすらも抵抗感を感じている。

 

雪那はこのことにも気付いているのだろうか?

自分を自分よりもよく見ている彼女の事だ。

こんな自分の醜い心内でさえも見透かしているのだろう。

そして、それを知っていてもなお、彼女は自分のことを愛してくれている。

だからここまで付いてきて、連れてきてくれた。

 

それを考えると、本当に自分が情けなくなった。

いつも彼女を導く側だった自分が、いつもにか彼女に後ろから支えられているようになっていた。

前を走っていると思っていたのに、本当は後ろから押されていただけだったのだ。

この旅行の最中に、自分はそれを知ってしまった。

自分の存在意義に疑問を持ってしまった。

 

保護者としての立ち位置に縋り付いてここまで生きてきて、それ以外の生き方を無意識に避けていた。彼女はそんな自分の心の弱さを知っていて、それに甘んじてくれていた。

自分の想いを閉じ込めて守られる側の人間に徹してくれていた。

 

(ああ、なんて情けない……)

 

彼女を支えることが、彼女を救うことが自分の生きがいになっていたのだ。

あの日、姉が襲われた時、自分の心が鬼への憎悪に染まることなく真っ当に生きることができたのは、どこにいるかも分からない憎悪の対象よりも、分かりやすく守るべき人間がそこにいたからだ。

憎むことを、復讐することを忘れさせてくれるくらいに世話を焼かなければいけない相手がいたからだ。

 

そして、その立場は本当に楽だった。

誰かを守っている間は大人でいられる。

誰かの世話を焼いていれば心が満たされる。

誰かを憎むよりも、誰かを守っていた方が心安らかに生きていられる。

 

別にそれが悪いことじゃない。

だが、その立場に依存することは悪いことだ。

保護者で居続けることは相手を保護される立ち位置に居続けさせるということなのだから、いつまでもその立場に居座っているのは間違っている。

 

……だが、その時のしのぶには2つの選択肢しか見えていなかった。

雪那の保護者として生きる道と、鬼への復讐者として生きる道。

そして本当はもうあの復讐心に蝕まれることを自分は怖がっていた、笑うことすら憚られる様なあの頃の自分に戻るのが嫌になっていた。

だからしがみついたし、雪那もそれを受け入れた。例え2人の関係が最期の時まで保護者と被保護者としての関係で終わったとしても、それでしのぶが笑って日々を過ごせるのならと。

 

「もっと早く気付けば良かった……」

 

「……?どうしたの、しのぶ?」

 

「ううん、もっと早く雪那との関係を考えていればなって思って」

 

「……しのぶだって大変だった。必死だったしのぶに、私もそこまで求めない」

 

「でも、こんなにギリギリになって考えたくなんて無かったの。雪那のこと、本当に本当に大切だから、もっともっと無理してでも、貴女と向かい合っていたかった」

 

「……ごめんね、しのぶ」

 

「謝らないで、謝るのは貴女に甘えっぱなしでいた私の方なんだから」

 

しのぶは雪那の手を握り、再度墓石の方に向き直る。

当然だが、墓石は何も答えてはくれない。

しのぶの質問に答えてくれるどころか、この下に居る2人ですらもその答えは持っていないだろう。

……結局、自分で決めるしかないのだ。

それが自分の責任であり、ここに足を踏み入れた人々がしてきたことなのだから。

 

 

『己の異なる今を見ろ』

 

 

「え……?」

 

 

墓石は何も答えてはくれない、しかし問い掛けて来ることがあるとは、しのぶは欠片も想像していなかった。


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