柱であるしのぶが震えるほどの濃い殺気。
そんなもの、同じ柱の中でも最強とされる岩柱: 悲鳴嶼からも感じたことがない。
目の前の男のその変わりようには、雪那でさえも驚いていた。
「……なぜ、貴様がここに居る」
「んなこたぁ時期考えりゃあ分かんだろうが。脳味噌4つも増やしといて餓鬼以下の能しかねぇのなら、いよいよもって全滅は近いな。鬼擬き」
「相変わらず貴様等一族は口汚い」
雪原の向こう側からゆっくりと歩いてきた1人の男。
それは明らかに普通の人間ではなかった。
長く鬼殺隊として活動してきたしのぶならばこうして見ただけでも分かる。
あれは鬼だ。
それも……普通の鬼では無い。上弦の鬼とも違う、もっと濃い雰囲気を纏った、本物の化け物。
「まさか、あれは……」
「流石は柱だな、まあ分かるか。そうだ、あれがお前達鬼殺隊の宿敵、そして全ての元凶。
誰にも許されない、誰にも愛されることのない、他愛に染まった雪女とは対極に位置する完全な自己愛の権化……鬼擬きの頭領:鬼舞辻無惨だ」
「鬼舞辻、無惨……!」
黒いコートを雪に染めて、その男はそこに立っていた。
監視者でもなく、しのぶでもなく、無惨の目線の先には雪那が居るのみ。
それだけでこの男がここまで来た理由は分かるというものだろう。この男は間違いなく、雪那に対して何らかの意図を持ってこの地に足を踏み入れたのだ。
「んで?用件はなんだ鬼擬き。日頃逃げ回ってる臆病者のテメェがわざわざこうして表出てきたんだ、相当の理由があんだろ?」
「……用件を話せば貴様はそこを退くのか?」
「用件によるな、雪那に手ぇ出すようならこいつを抜くことになる」
「ならば必要ないだろう。私が今宵殺しに来たのは……雪女の横にいる、その女なのだからな」
「なっ」
無惨の言葉に、しのぶは驚愕を隠せなかった。
鬼舞辻無惨が雪那に執着していることは聞いていた、だからこうして現れたのも雪那を狙ってのものだと思っていた。
自分と同じ妖を吸収して力を増す、恐らくそれが執着の理由だと考えていたからだ。
だが今、現実に無惨の殺気は明確にしのぶの方へと向いている。鬼舞辻無惨は、確実にしのぶを殺そうと考えている。その気迫は尋常ではない。
「……どうして、私を」
「決まっている。貴様がその女を、雪女などを、鬼殺隊に入れたからだ……!」
「っ」
「他のものならばいい。警察だろうと、役人だろうと、それでなければ私の触れるところではなかった。……だが、だが鬼殺隊だけは駄目だ!他の何を許したとしても、鬼殺隊だけは許されない!その女を鬼殺隊から確実に引き離す、私はそのためにここに来た!」
「……相変わらず歪んでんなァ、鬼擬き」
しのぶは思考する。
このままでは不味い。
雪那を戦わせるわけにはいかない、かと言っていくらなんでも自分1人では敵わない。
監視者が加勢してくれることはあまり期待できないだろう、なぜなら彼等はあくまで雪女を存続させることが目的だ。自分が死んだとしても代わりを作ればいい以上、守ってくれる可能性は低い。
生物のいないここで援軍など頼めるわけもなし、普段使いの毒で鬼舞辻無惨を殺せるわけがない。
どうすれば……
「退いてろ」
「へ?きゃあっ!」
しかし、しのぶがそんな風に思考していれば、監視者の男が急に雪那としのぶを墓石のある空間に押し込んだ。
そして彼は刀を抜き、明確に鬼舞辻無惨に対して敵意を向ける。
「なぜ、貴様が私の邪魔をする。私はその女を殺すだけだ、女ならば他の人間を当てがえばよい話だろう……!」
「馬鹿野郎、雪女が自分の選んだ人間以外と子作りなんざするわけねぇだろうが。惚れた女を探すために、死ぬまで彷徨い歩く様なイカれた連中だぞ。ここで殺されちゃあ困る」
「っ、ならば両手足を奪い、この地に縛り付ける!それならば構わないだろう!」
「雪那にはもう時間がねぇんだ、母体に余計な負担をかけさせる訳にはいかねぇよ」
「巫山戯るな!!」
瞬間、無惨が凄まじい勢いで巨大な触手の様なものを振り下ろした。
その速度と衝撃は尋常なものではなく、しのぶでさえも実際に食らえば避け切ることは不可能だっただろう。
監視者の男は無惨にも肉片と化した……そう思わざるを得ないほどの一撃だった。
「ったく。マジで救いようがねぇな、テメェは」
「……そこを退け、今ならば貴様も見逃してやる」
「はっ、逆だろうが。テメェが引け、鬼舞辻無惨。見逃してやるのはこっちだ」
「弱者に成り下がった分際で……!」
「擬きが強者気取ってんじゃねぇよ。その無様な傷跡増やしてやってもいいんたぜ?」
編笠の男はその凄まじい破壊跡からぬらりと姿を現した。直撃したと思われたその身体には一切の傷跡がなく、汚れ一つ付いていない。
二撃三撃と無惨の目で捉えることすら困難な速度の攻撃を男は余裕を見せて避けていく。
人間ではあり得ない跳躍力と身のこなし、高速の攻撃はしかしただの一度も彼に擦りはしない。
しのぶから見れば、どちらもやっていることは化け物だ。
あれでどちらもまだ秘めているものがあるというのだから、その異常さは嫌でも分かる。
「やめときな、テメェがいくらやった所で俺には当たんねぇよ。……俺ァそういう妖だからな」
「相変わらず貴様等"妖"という輩は……!だから私は貴様等が嫌いなのだ!この私を見下すのを止めろ!!」
「だったら見下されねぇような生き方をしやがれ。この羽虫が」
「貴ッ様ァァァァ!!」
無惨の背中から6本の細い触手が生え、それまでとは比べ物にならないほどの恐ろしい速度で編笠の男へと放たれた。
もはやこのレベルになると、しのぶの目でも全く追い切れない。あんなものを避けるのは、普通に考えれば不可能だ。しのぶでさえ無理ならば他の柱にだって出来ないだろう。
……だが、編笠の男はあろうことかその攻撃に対し、引くどころか踏み込んだ。体感速度を考えればもう見えるとかそういう尺度の話ではない筈だ。それなのに、その身体にはやはり傷一つ、汚れ一つ付くことはない。
「よっ、と」
「なっ……!」
「……ちっ、指一本か。やっぱ今の俺ァここらが限界かね」
そうして目にも留まらぬ衝突の後、2人は咄嗟に距離を取った。その中央部に転がっているのは1本の男の指。編笠の男が切り落とした、鬼舞辻無惨の人差し指だ。
あの鬼の頭領に一太刀を与えた、これがどれほどの偉業であるかは言うまでもない。
当然、無惨は憎悪に満ちた目で男を見ていた。
彼の指の再生は本当に微々たる量でしか行われていない、普通の鬼よりも遥かに遅い速度での再生……鬼の元凶たる鬼舞辻無惨の回復速度としてはあまりにも遅い。
そこにも何かしらの理由があるのかもしれない。
「……邪魔を、邪魔をするなァァ!貴様等にも利点はあるはずだ!なぜ邪魔をする!?
鬼殺隊などに入ればその子供もまた鬼殺になる!そうなれば雪女が途絶える可能性は増すのだぞ!」
「それを元凶のテメェが言うのかよ。……大体、俺達は確かに断絶だけは避けたいが、それでもそいつが進んで戦場走ってるのを助けてやるほどお人好しでもねぇ。鬼殺隊に入って死ぬのならそれまでだ、事実こいつが那谷蜘蛛山で死にかけた時も俺達は手を貸さなかった。俺達が助けるのはあくまで事故や災害からだけだ」
「ならば私という鬼の邪魔をするのもまた筋違いだろう!」
「休暇とっての旅行中に鬼に襲われたら事故に決まってんだろ、馬鹿かテメェ。女同士水入らずの旅行中に通り魔なんかしてんじゃねぇよ。だから部下に恵まれねぇんだよ、テメェは」
「貴ッ様ァァ……!」
処刑1人
死亡6人
裏切1人
謹慎1人
これが鬼舞辻無惨の部下の堂々たる戦績である。
まあ酷い。
ここに加えてさらに上弦の鬼が2人も加わることとなるのだから、彼の陣営はボロボロである。
そもそもどうして無惨がこの山に他の誰も引き連れることなく自分一人で歩いてきたのか……それは彼が部下を信用できなくなってしまったからだ。
上弦の壱の黒死牟でさえ、雪那と会えば心変わりをして自分を裏切るのではないだろうか?そんなことを考えると、もう全てがしんじられなくなってしまった。
それ故に、今の編笠の男の言葉は無惨にとって痛い一言だったわけで。
「帰りな、鬼舞辻無惨。雪女に呼吸法が合わないと分かった以上、鬼殺隊に入ろうとする雪女なんざ今後は出ねぇよ。雪那ももう続けられねぇ、放っといても問題は無い」
「……鬼殺隊の近くに居る以上、自分の寿命を顧みず呼吸を使い出す可能性はあるだろう」
「だぁから、元を辿れば全部テメェが原因だろうが。他人事みたいに言ってんじゃねぇぞ。……大体、呼吸なんざ一朝一夕で出きるもんじゃねぇ。テメェの危惧なんざ、数だけある脳味噌が愚鈍に描いた妄想以外のなんでもねぇんだよ、さっさと帰れ」
編笠の男の言葉は全て真っ当な正論だった。
一部例外はあるが、呼吸の習得には時間がかかる。
雪女の一族は基本的に武に特別関して才能というものを持っておらず、かつ体が適応していない。そのためもし呼吸を習得するとなると、普通の雪女ならば雪那が費やした倍以上の時間がかかるだろう。
復讐のために突然覚える、なんてことは出来ず、雪女の寿命に関ると分かった以上、彼女達にそれを勧める者も居ないはずだ。
呼吸を扱う雪女も、鬼殺隊に所属する雪女も、間違いなく雪那で最後だ。そしてその雪那もまた、復帰することはもう無い。
「チィッ……雪女、貴様は本当にもう戦う意思は無いのだな?」
「……山を降りたら、もう歩けない。戦おうと思っても、戦えない」
「貴様の娘が鬼殺の兵になる可能性をどう否定する?」
「しのぶが絶対に許してくれないから……しのぶが居るなら、逆に安心」
「雪那……」
その言葉に満足したかどうかは分からないが、鬼舞辻無惨は一度雪那の顔を見ると、そのまま無言で山を降りていった。
追い討ちをかける気も、何かしら情報を盗み取る気など今のしのぶには毛頭無い。
ただ生きているというだけで今はいい。
雪那もホッとしたようで、しのぶに絡めた腕の力を緩めてしのぶに体を預ける。
「ったく、相変わらずの野郎だなあいつァ」
「えっと、ありがとうございました。私では敵いませんでした」
「あん?気にすんな、理由はさっき話したろ。それに、アレが本気で殺しに来てたら俺でも守り切れん、運が良かったと思っとけ」
「そうなん、ですか。……あの、これはダメ元の話なのですが」
「言っとくが、手は貸さねぇ。あれはテメェ等でどうにかしろ。……それに、突然現れたぽっとでの俺達がアレを殺ったところで、お前等それで納得できんのか?」
「それは……」
「戦いってのは勝ちゃあいいってわけじゃねぇ、その場は良くとも必ず勝ち方は後に響く。犠牲が出るほど丸く収まったりするもんだ。綺麗事だとか舐めた事言ってねぇで、拘れよ、勝ち方に」
「……はい」
しのぶのその返答に、男は満足そうに頷いて刀を収めた。
そして最後にもう一度だけ雪那に向き直ると、彼女の目線にしゃがみ込み、懐から巾着袋の様な物を2つ取り出して手渡した。
一つは空で、一つは何か小さな箱のようなものが入っている。それ以外は何の変哲も無いらしい。
「……これ、なに?」
「お守りみてぇなもんだ、困った時に開けりゃあいい。
あとは墓石作ってる氷塊、こっちの空の袋に入れときな。溶けねぇ、減らねぇ、超冷てぇと三拍子揃った地獄の氷だ。身に付けとくだけで多少は楽になるだろうよ」
「……ありがと」
「別に構わねぇよ、お前の病を治してやれるわけでもねぇしな」
「それは、仕方ないから」
「……ま、もう2度と会うこともねぇだろうよ。なんにしても元気なガキ産めよ、そのガキのことも俺達が最後まで見といてやるから」
「……ん、お願い」
そうして男は、先程の無惨と同じ様に2人に背を向けて山を降りるために歩き始めた。
懐から煙管を取り出し口元を隠していた布を取って咥えるものの、この寒さと風で火が付かないことに気付き、それにイラついたのか編笠ごと布も煙管も投げ捨てた。
存外、あれで短気な気質を持っているらしい。
「あれって……」
しかし何よりしのぶが注目したのは、男の頭だった。
一見普通の人間と変わらない髪がある様に見えるが、後頭部だけが異様に突出している。
そして、しのぶにはそんな特徴をもつ生物についての知識があったのだ。
「ぬらり、ひょん……?」
「……なに?それ」
「雪女と同じ有名な妖怪よ。後頭部が膨れ上がった老人の様な見た目で、他人の家に勝手に上がりこんで寛ぐ妖怪って言われてるの」
「……迷惑なお爺さん?」
「うん、まあその見間違えってお話もあるけれど、怪物の親玉って話もあったり、色々と分からないことの多い妖怪なの。……でも、まさか生き残りが居たなんて」
「でも、まだ103歳だって言ってた」
「つまり、息子とか孫ってこと?雪女以外にも隠れて現代に残ってる妖怪は居るってことなのかしら……それはそれで気になるというか、趣味的な意味で凄く興味を惹かれるというか……」
あの男の言動から察するに、雪那を手助けするのも男の仕事のうちの一つの様だった。
それはつまり、妖の親玉の子孫の今の役割は、生き残った妖達の管理と存続というものなのかもしれない。
雪那やこれまでの雪女や相方達ですら、その存在どころか他の妖怪の存在を知らなかったとすれば、今回あの男の正体を偶然にも見てしまったということはとんでもない収穫だったのかもしれない。
もしかすれば、しのぶの好きなあんな妖怪やこんな妖怪を実際に目にすることができる可能性も……
「むぅ」
「な、なに?どうしたの雪那……?」
「……雪女は、もう飽きたの?」
「えっ」
「雪女のことは、もう調べなくていいの?」
もちろん、今更雪那がしのぶのそんな考えを見抜けない筈がないのだ。
雪那はしのぶの腕に身体を押し付けて、上目遣いで彼女を見上げる。
「えっ、と……ここ出る前に、一晩だけ泊まって、いきましょうか?」
「ん、布団一つしかないけどいい?」
「え、でも雪那とお母さんの分とか、芙美さんも住んでたっていうし……」
「一つしかないけどいい?」
「あ、はい」
しのぶはそのままヨタヨタと歩く雪那に、されるがままに連れていかれるのであった。
彼女の今日の試練はまだ終わってはいない、むしろここからが勝負どころと言えるのだから、彼女はとりあえず頭の中の妖怪達を放り出し、改めて気合を入れ直すのであった。
妖について
元々強い力を持つ妖達の中でもほんの少数が、現代でも生き残っている。
身体を切り詰めてしぶとく生き残っている者、人間と交わりながら子を残していく者、姿形を変えて何とか保っている者、物や人間を依代にしてこの世にしがみついている者。
様々な方法で各々の目的のために人々から姿を隠して生活している。
編笠の男はそれらの妖の全てを把握し、監視し、人の世に悪い影響を与えないようにするという役割を持っている。
ただし、雪女のように人々と寄り添い合いながら暮らしている者達も稀に居り、そんな彼等を支援することも陰ながら行っている。
基本的には人の世には干渉せず、鬼舞辻無惨に関しても"人によって生み出された人という化け物"という認識なので干渉しない。
どの生き残りも鬼舞辻無惨ほどの力は持っていないが、彼に永久に治る事のない痛手を負わせる程度のことならば出来るため、無惨側から干渉するということも滅多に無い。
ちなみに彼等から見た雪女に対する印象は、『人と妖の理想の関係』『その生涯が一つの物語』『鬼でも泣くし、ぬらりひょんでも身を乗り出す』という感じであり、それぞれの生涯を綴った小説本(全13巻)が一部の妖達の間で出回っていることがあったりなかったり。