胡蝶の雪   作:ねをんゆう

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66.決戦前夜

「あ……」

 

「む」

 

指先を離れ飛んでいく歩の駒。

義勇はそれを反射的に掴み取り、対戦相手に手渡した。

別にこれは珍しいことではない、雪那の訓練が始まってから何度も見られた光景だ。

 

僅かな時間で多くのことを考えさせられるこの訓練では新たな駒を使う際に勢いのあまり手から離れてしまったり、駒を動かす時に他の駒を動かしてしまったりといったミスが頻発する。

その場合も一度落ち着いてからやり直すのが通例であり、そういった経験を通して自分の未熟さを思い知るというのも訓練の目的の一つだ。

 

ただ、そんな何度も何度も見てきたそのミスが、今回ばかりは少し意味が違ってくる。

なぜならそれが、訓練を受けている者ではなく、訓練を指示した側である雪那のミスであったからだ。1週間が経った今日まで、ほぼ毎日の様に開かれていたこの訓練で、彼女がそんなミスを犯したのは初めてだった。

 

「……大丈夫か」

 

「ん、ちょっと滑らせちゃった。ごめんね、義勇」

 

「いや、構わない。俺もこの訓練を始めて2日経った今でもするからな。一戦で3度も駒を投げた時には流石の宇髄も苦笑いをしていた」

 

「義勇は基礎を固めて成長する人だから、誰よりも堅実に強くなれる」

 

「……成果を出すのに時間がかかるというのも、俺はあまり好きではないのだがな」

 

そう言って義勇は雪那の左手に視線を向ける。

この数日、義勇もただ訓練に集中していた訳ではない。

仮にも雪那は自分の弟子。

しのぶがここに来れない以上、彼女の様子は逐一把握し、彼女が無理をしないようにと見ていたつもりだ。

いくらカナヲが居るとは言え、基本的に椅子に座っていることしか出来ない彼女に代わって動いていれば、見逃してしまうことも多い。

それが自分の役割だと自覚して、雪那のことを気付かっていたつもりだ。

 

(……やはり、動かないか)

 

義勇がそれに気が付いたのは2段階目の試験に望み始めた頃だった。

その頃には雪那は1段階目の訓練をカナヲに任せて、自分は2段階目の訓練の方で動いていた。だがその中で何となく不自然だったのは、彼女が1段階目の札遊びに全く参加しなくなったことだ。

いくらカナヲが居るとは言え、雪那が始めた訓練だ。1段階目の訓練に全く参加しなくなるというのは、言い方を悪くすれば無責任だ。そしてそんな無責任なことを雪那がする筈がない。

 

それならば、"参加しない"ではなく"参加できない"と考えたらどうだろうか。

義勇はそう考え、その理由を探った。

そして行き着いた。

彼女が極力、自分の左手を使わないで生活をしているということに。

 

「……義勇、気付いた?」

 

「っ」

 

それだけ熱心に左手を見られていたからか、雪那は真剣な顔をした義勇に微笑みながらそう呟いた。

周りには聞こえないくらいの声で、自分の左手を摩りながら雪那は問い掛ける。

 

「……やはりもう、動かないのか」

 

「ん。動かないし、感覚も無い。黙っててごめんね、自分で開いた稽古だから最後まで責任は持ちたくて」

 

「謝る必要はない。……右手は大丈夫なのか?」

 

「利き手だから動かす機会も多いし、しのぶがいつも揉んでくれてるから。……けど、やっぱり少しずつ悪くなってるみたい。飛んでっちゃった」

 

義勇から手渡された歩の駒を見せながら、彼女は笑ってそう言うが、義勇とて関係者だ。

しのぶから彼女の病についてはある程度伝えられている。

 

身体の末端部から徐々に感覚を失っていき、体温の急低下と共に足、手、内蔵と少しずつ人の機能が消えていく。

そうして最後には死に至り、氷の塊のようになった肉体だけがそこに残るという。

 

事実、雪那の足の指は今や外部からの力を加えても殆ど動く事はない。日に日に冷たく、氷の様に硬くなっている。きっとこのまま進行すれば、直ぐにでも彼女は膝を曲げることすら出来なくなるだろう。

……だからこそ、義勇は彼女の笑顔に笑顔で返すことができない。

 

「柱稽古も、もう終わる。お前の訓練を受けたのは他でもない柱達だ、いずれは他の隊士達にも内容は伝わるだろう。……お前はもう十分に責務を果たした、気に病む必要はない」

 

「……うん、みんなが優しい人達で良かった。だから私ももう、あんまり未練はない」

 

「……そう言いたい訳では無かったのだが」

 

この頃、義勇を含めた柱達は何となく自分達の周囲に漂う不穏な気配について訓練の最中に話している。

鬼舞辻無惨が仕掛けてくる日が近付いているのは間違いない。

 

もしそうなった場合、雪那が狙われる可能性は非常に高いだろう。だがその時、彼女はきっと少しの抵抗もすることができない。

そして彼女の病状を考えれば、彼女がそのまま命を落とす可能性も十分に高いだろう。

出来るならば今からでも遠い場所に避難していて欲しいが、そんなことは他ならぬ彼女自身が許さない。

 

「ねえ、義勇。私、役に立ったかな……?」

 

「……お前は、多くの命を救った。胡蝶姉妹をはじめ、怪我を負った隊士や病に苦しむ民間人、末に煉獄や他の柱達もまたお前に救われている。それは少なくとも、俺には出来なかったことだ」

 

「……そっか。じゃあもうひと頑張り、しないと」

 

何度も何度も、間に合わなかった。

姉の時も、錆兎の時も、炭治郎の時も、任務の時もそうだ。

……だが、将来の危機が分かっていたにも関わらず間に合わなかっただなんてことは絶対に許されない。

そんなことになれば、本当に全てが無意味だったと思ってしまう。

 

「……心配するな、あとは俺達の仕事だ。お前はもう、自分のことだけを考えればいい」

 

「……うん、ありがとう」

 

周囲に聞こえないように小声で話していた2人。

だが、それに本当に気付かないような者がこの場にいるはずがない。

2人の会話は、他の者達にも様々な影響を与えていた。

 

 

 

 

「雪那さん、少し話をしてもいいですか?」

 

「炭治郎……?」

 

その日の訓練が終わり、皆が鍛錬場をいつもの様に去っていく中、炭治郎だけがそこに残り雪那にそう声をかけた。

普段ならばカナヲに背負われながら部屋に戻っている雪那だが、炭治郎のあまりにも真剣なその顔に戸惑いながらカナヲに目配せをする。

 

「うん、10分くらいしたらまた来るから。炭治郎、それまで雪那のことお願い」

 

「分かった。手間をかけさせてごめん、カナヲ」

 

「ううん、私は大丈夫だから」

 

カナヲが去り、少しの明かりが灯った鍛錬場には雪那と炭治郎の2人きりになる。

だが、特段この2人の間にはそういった甘い雰囲気など有り得ない。この2人の関係は教える者と教えられる者、出会った時からずっと変わらずそのままだ。故に、目と目を合わせる2人のそれも師弟の様なものでしかない。

 

「えっと、その……」

 

「……強くなったね、炭治郎」

 

「えっ?」

 

「最初に見た時から強くなるとは思ってたけど、やっぱり間違ってなかった。多分もう、私が戦えてた頃よりずっと強くなってる」

 

「い、いや!そんなことは……」

 

「そんなことある。……やっぱり、あの時カナヲに任せて良かった。私が役に立てるのはあの時じゃなくて、炭治郎が十分に強くなった今だから」

 

「あの時……」

 

何から話したらいいか悩む炭治郎の言葉を遮り、雪那は嬉しそうに話しだす。

彼女が言う"あの時"……それを思い出した炭治郎は入り口の方に顔を向けた。

あの時も確か、こうして座る雪那の前に炭治郎は座っていた。

『自分の鍛錬は炭治郎にはまだ早いからカナヲの所へ行け』という彼女の言葉に従い、炭治郎は雪那をこの場所に残してカナヲの元へと向かった。

 

確かに、カナヲの元で炭治郎は様々なことを学べた。そして強くなった今、雪那によって自分の強さに更に幅が広がっている様に感じる。

あの時の雪那の言葉は少しも間違っていなかった、自分の選択も間違っていなかったと思っている。

 

だが、もしあの時カナヲではなく雪那を選んでいれば……彼女との関係は少しは変わっていたのだろうかと思うことはある。

炭治郎が雪那に感じている少しの壁。

同期でありカナヲの姉妹の様な人であるにも関わらず、未だに敬語を崩すことができないその関係。

炭治郎だって強くなった。

彼女の言う通り、今ならかつての雪那にも勝てるかもしれない。

 

……だというのに、どうしてか彼女が未だに雲の上の人のように感じてしまう。

その理由は明確、炭治郎が彼女のことを知らないからだ。彼女を知る余裕も努力もしてこなかった。そしてその結果、彼女は知る機会すら与えてくれずに目の前から消えようとしていると今日の義勇と彼女の会話から知った。

 

今更この敬語をやめることも無理だろう。

けれど、それでもこのままにしておけないという勢いのままに今日こうして彼女との会話の機会を作って貰ったのだ。

何を話せばいいのかは考えておらず、こうして戸惑うしかないけれど。

 

「今日の義勇との話、聞いてた?」

 

「それ、は……」

 

「炭治郎、これは私からの忠告。

……私のことなんか気にしたら駄目」

 

「そんな訳には!」

 

「炭治郎は私のことなんか気にしてられる余裕は無い筈。私のことを想ってくれる人は他に居る、炭治郎が心を捧げるべきなのは禰豆子。それを忘れちゃ駄目」

 

「うっ」

 

なんとなく、雪那は炭治郎の考えている事が分かっていたのかもしれない。彼が自分の話を聞けば動かずにはいられない優しい人である事も。

だから彼女はあえて厳しくそう言った。

笑顔を仕舞い込み、厳しい表情で彼に伝えた。

 

「人が抱え込めるのは多くて自分以外の1人だけ。それ以上に手を伸ばすのは、一番大切なものを疎かにするのと同じ。貴方の本当に大切なものを思い出して」

 

「でも、それでも俺は……」

 

「……もう一回言う、私のことは気にしないで。禰豆子に炭治郎が居るように、私にはしのぶが居る。これ以上のものを、私は求めていない。余計なお世話、勝手な自己満足」

 

「………」

 

「余計なことに思考を使うくらいなら、今はいち早く強くなって。自分に求められていることに集中して。本当に私のことを思うなら……私の代わりに、炭治郎が鬼を倒して」

 

淡々とそう述べる雪那に、炭治郎は何も言えなくなってしまう。彼女の言葉はどうしようもなく正しくて、自分の芯を貫いていて、甘さを見抜いていた。

他人のことを知りたいと思うのは勝手だ。

だが、知ってしまった以上は責任が伴う。

雪那は自分の現状がどれだけ相手の思考を占めてしまう厄介なものなのかを知っていた。

だから彼女は炭治郎に自分のことを話さない。

他ならぬ彼のために、厳しい言葉を使ってでも、それを拒む。

 

「……もしあの時ここに残っていれば、雪那さんのことを知ることができましたか?」

 

「……それは無意味な仮定。けど確かなのは、炭治郎は正しい道を選んだ。炭治郎は正しい道を選ばないといけない。そうでないと、禰豆子は救えない」

 

「………」

 

「私のことは知らなくていい。どうしようもないことを知っても、悩みの種が増えるだけ。それでもどうしても知りたいなら、全部終わった後にしのぶに聞けばいい。

それとも、しのぶのことは信じられない?」

 

「そんなことはないです。雪那さんの言ってることが正しいのも分かるんです。……ただ、どうしても自分が納得できないだけで」

 

「……炭治郎は優しいから、身近な人の良くない話を聞けば気にしちゃうのも当然。あんな場所であんな話をした私が悪い。

でも、本当に気にしないで。私は人に恵まれたから、みんなが私の為に頑張ってくれてる。私はそれだけで十分なの。私は私のせいでその人が本当に大切なものを見失ってしまう方が嫌」

 

「……すみません」

 

「いいの、分かってるから」

 

あの話を聞いて、自分にも何か出来たらと。

そんな考えでこの場を作って貰ったのに、どうして今自分は逆にこの人に気遣って貰っているのだろう。

きっとこれも炭治郎が雪那に敬語を使ってしまう理由の一つだ。

彼女は他の柱と同じくらいに人間として成熟している。色々な経験を積んできている。色々なことを考えてここまで来ている。

教えられるのは技術や知識だけではない、考え方や道筋だってそうだ。

彼女は本当にたくさんのことを自分に教えてくれる。

 

「炭治郎、頑張って。私にはもう頑張ることも出来ないけど、炭治郎にはそれができる。人はいつまでも頑張れる訳じゃない。だからこうやって人に頑張りを求めることしかできない。……でも、聞いたから。炭治郎は頑張るのが得意だって」

 

「……はい。頑張るのなら、得意です!だから、俺が雪那さんの分まで頑張ります!俺が雪那さんの分までみんなを守ります!頑張るのと守ることは、やり抜いてみせます!長男ですから!」

 

「うん、期待してる。……ふふ、お兄ちゃんか。禰豆子ちゃんが羨ましい、炭治郎みたいなかっこいいお兄さんが居るんだから」

 

そう言って笑う彼女の顔は今まで自分に向けていたような厳しいものとはまた違い、炭治郎はまたしても彼女には敵わないのだと思い知らされることになってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……やあ、来たのかい。初めましてだね、鬼舞辻無惨」

 

「……何とも醜悪な姿だな、産屋敷耀哉。雪女はどこだ?」

 

「なるほど……君の目にもう私達は映っていないらしい」

 

長い長い夜が始まる。




終わりは最初から決めてました。
後はそこに向けてラストスパートです。

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