『私は初代の雪女を知っている』
『初代の雪女、ですか……?』
それはほんの少し前のことだった。
突然城に謹慎されていた猗窩座の元へやってきた無惨は、雪に塗れた上着を放り捨てて不機嫌そうに椅子に腰掛けた。
そうして語り出したのがその話だった。
あまりの出来事に彼が絞り出す様にしてその返答をしていたのは言うまでもない。
『戦国の世よりも前の話だ。妖の蔓延る混沌の世界……人と人、人と妖、妖と妖、この後の時代を後世の人間共は戦国と呼んだが、私からしてみればあの時代の方がよっぽど戦乱だ。この私が逃げ隠れ続け、常に死の恐怖と隣り合わせに生きていたのだからな』
『貴方ほどの方が、それほどまでに恐る相手が……?まさか、それが雪女だったのですか?』
『間違っては居ない、あれは妖の世でも頂を取れる程の力を持っていたからな。……だが、私を殺せる妖など当時はそれこそ百鬼は居た。力のある妖は再生を許さず、一度身体を裂かれれば2度と治ることは無い。私は少数の手下を作り、それを囮にしながら生き延びていた』
『………』
珍しい鬼舞辻無惨の昔語り。
彼ほどの圧倒的強者がこれまでどのようにして生きてきたのか、正直に言えば興味はあった。
だが、その過去は猗窩座が思っていた以上に信じられないもので。
驚きに目を見開いて固まっている猗窩座を見て、無惨は嘲笑うように笑みを描いた。
『私の行動が戦国以降に行ったものが多いのはそれが理由だ。世の移り変わりで妖の力が削がれようとも、妖ではない私には関係が無い。その時代になって私はようやく個として歩くことができるようになった』
『……それまでは、どのようにして生き延びていたのですか?』
『そこで出てくるのが雪女だ』
『………?』
猗窩座の質問に答えるようにして無惨が箱から取り出したのは、今も周囲を凍て尽くす様な冷気を放っている真っ白な髪留めだった。
その冷気を封じ込める為か箱は酷く厳重な作りになっていて、なんとなく鬼の肉体が使われているのが感じられた。
無惨はそれを一瞬だけ猗窩座に見せると、直ぐに蓋を閉じて胸元に仕舞い込む。
『力の無い者が生きていくには力の有る者に取り入るしかあるまい。私は当時、雪女の元で庇護を受けていた』
『っ!?まさかそんな!?』
『事実だ。偶然にもあれが統治していた領土に踏み込んでしまった私は、無様にも額を地に擦り付けて頼み込んだ。私は死にたくないと、命だけは助けて欲しい、とな』
『っ』
『あれは馬鹿な女だ、私の真意などろくに考えることもなく受け入れた。どころか私に家を与え、職を与え、守ってやる代わりに話し相手になれとまで言ってきた。恐らく奴にとっては面白い玩具を見つけたという感覚だったのだろう。指先一つ動かすだけで殺せる鬼擬きだ、近寄るだけで死ぬなど羽虫にも劣る』
『……屈辱では、無かったのですか』
『屈辱ではあった、殺してやりたいとも思った。だが、今思えばあの瞬間はこの1000年の間で最も私の望みが叶っていた時間だ。今ならば分かる、自身よりも強い者に庇護されている環境がどれほど楽なものであったかがな』
その言葉に、猗窩座は何も答えることができなかった。
弱者が嫌いだと、ずっとそう言い続けて来たにも関わらず、あの鬼舞辻無惨でさえも弱者であったという事実を、どう受け止めればいいのかが分からなかった。
自分の中で最上位に位置していた化け物が、より強い者に命のために媚び諂っていた。そんな事実を今更どうすればいいというのだ、
猗窩座の中の価値観がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
『猗窩座よ、貴様を含めて私の下僕はどうしようもない愚か者ばかりだ。数百年の時間があったにも関わらず、ただ一人として私の望みを叶えることができない』
『………』
『だが、もしかすればそれは私が上に立つ器では無かったからではないかと最近は考えるようになった。思えばあの女の僕はどれも優れた者達ばかりだった。それは奴が部下に恵まれていただけだと思っていたが、私は今代の雪女を見て自分の行いが虚しくなった。1000年を生きた私の元には無能から裏切り者まで多種多様な愚図しか集まらなかったにも関わらず、僅か10数年しか生きていないあの小娘の周りには、奴を心から慕い、その命を守ろうとする人間や妖が溢れていた。奴が10年で出来たことが、私には1000年かけても出来なかったのだ。
あの女の元を離れてから自身で同じ環境を作ろうとこれまで足掻いてきたが、あの場所は何千年かけても私には作ることの叶わぬものだったのかもしれん』
そう言った無惨は彼には珍しくやさぐれている様だった。
鬼舞辻無惨は自身にとって最も望ましい環境であった場所が、自分では作れないと悟ってしまった。
だからそれを今の雪女に作らせたい。
そしてもう一度あの場所に戻りたい。
そういった思惑があるのではないだろうか?
だとしたら、あれほどの雪女への執着も納得できる。
……やはりこの鬼舞辻無惨という男は強者ではなく、むしろその本質は弱者なのかもしれない。
自身よりも強い存在に庇護されることを望むような男が、いくら強力な力を持っているとは言え、本当の強者と言えるのだろうか。
だとしたら強者とはなんだ。
なにを持って強者とする。
己が求める強さとはなんだ?
考えれば考えるほど分からなくなってくる。
そもそも、なぜ俺は強くなりたい?
力は十分に持っている筈なのに。
なぜ未だに自分を強者だと認められない。
"なりたい"などと考える。
力が強さの真の条件では無いとするならば、あの鬼舞辻無惨でさえも弱者だと断定したのであれば、俺は一体だれを強者だと言えるのだ。
雪女の雪那。
どうしてか、俺はお前が強者であって欲しいと思ってしまっている。
「猗窩座……どうして、本気で戦わなかったんだ」
「……あの女のせいだ。全て、あの雪女のせいだ。あの雪女にさえ出会わなければ、俺は今尚強者と戦うことを純粋に楽しめていたというのに」
「雪那が……?」
炭治郎の問いに力無く答えた時、もう全てがどうでも良くなってしまっていた。
なんとなくこの戦いに自分は負けるのだと対峙する前から感じていて、実際にそうなってしまえば投げやりになるのも当然だ。
何をするにもチラつく白い女の影。
この拳を振り上げる度にあの女の視線を感じ、それに呼応する様に顔の見えない少女と大男が自分を引き止める。
これでどう戦えというのだ。
これでどう殴れというのだ。
拳を振り抜こうとする度に目の前に現れるお前達を見て、本気で拳を叩き付けられる訳がないだろう。
戦いが楽しくない。
力の強さが嬉しくない。
業者との出会いが待ち遠しくない。
この人生から力が抜けてしまえば、残るのは何の価値も無い抜け殻だけだというのに。
なぜ、なぜお前達はそんな抜け殻な俺を見て笑う。
なぜ日々を鬱鬱と過ごす俺の側による。
どうしてそんな安心した様な顔をする。
そんなにも俺のことが憎いのか。
俺が悩み苦しんでいる姿がそんなにも滑稽か。
俺の煮え切れない姿がそんなにも面白いか。
……そんな風に、お前達が本気でそれくらい悪意に満ちた存在であるならば、もっとマシな心地でいられたのに。
どうしてだ、どうしてそんなにもお前達の瞳は慈愛に満ちている。
これではまるで俺が、俺が……お前達に見守られる子供の様ではないか。
「あの雪女は、どうしている」
「……あの子は私のもう一人の弟子が守っています。ここには来ていません」
「そうか……最後に顔の一つでも見たかったのだが、叶いそうにないな」
「………」
雪女の技を使った黒髪の女は、なんとも言えない顔でこちらを見ていた。ただ、それ以上の言葉は発さず、他の2人も何も言うことはないらしい。
何もかもが定まらず、こんなにも胸の苦しい状態で死ななければならないというのも納得がいかない。
もしこの場にあの雪女が居れば、死にゆく俺に救いを与えてくれたのだろうか。
なんと情け無い妄想か、自分への恥で狂い死にしそうだ。
今思えばただ吹き飛ばされているだけだったあの列車後の出来事も、戦いというよりはあの雪女に叱られている様なものだった気もする。
奴は見抜いていたのかもしれない。
俺の心の中にある鬼となってなお治ることのなかったガキの部分に。
「師範!師範!!」
「っ、カナヲ!?どうしてここに!?」
とうとう口の部分まで崩れかかった段階で、1人の女がこの部屋に入ってきた。
その女は知らない。
ただ、そこの黒髪の女と親しい仲らしいことは分かった。
どうやら何か不味いことが起きたらしい。
まあ、そんなことはもう今更どうでもいいが。
もう直ぐそこで地獄が口を広げて俺を待っている。
今更何を知ったところで、俺の結末は変わらない。
この先の話は生者の話であって、死にゆく俺には無関係なこと……
「ゆ、雪那が、雪那が上弦の弐に拐われて!私、雪那のこと、助けられなくて……!」
「っ」
「なっ、そのあと童磨はどこに!?」
「この城のもっと向こうのところに、多分……でも、凄く寒い空間が出来てて、入ると鴉が凍り付くくらい寒くて!その中には入れないから人が必要で!」
「雪那が拐われたのはどれくらい前の話なの!」
「も、もう10分以上は……」
「っ!今の雪那が極寒の空間に長時間居るのは不味い!富岡さん!炭治郎くん!先に行ってください!私はカナヲと行きます!」
「胡蝶、落ち着け!今はお館様の命令を!」
「そんなこと言ってる暇もないんですよ!今直ぐ行かないと雪那が本当に……!」
『イマ、ナント、イッタ……?』
「なっ!?」
どこからか、そんな擦れた汚らしい声が聞こえた。
ズルズルと何かを引きずる音と共に、自分の視界が上がっていくのに気がついた。
……声の主は自分だった。
崩れて消えたと思っていた口元が、いつの間にかボロボロでありつつも再生を始めていた。
ピクリとも動かなかった身体が1人でに立ち上がり、自分の頭を引き揚げて強引に首へと押し付ける。
そんなもので治るはずがない?
その程度で首を切られた鬼が生き返る筈がない?
そんなことはどうでもよかった。
そんな理屈はどうでもよかった。
誰が誰に拐われたとこの女は言った?
あの雪女が、童磨に拐われたと言ったのか?
無惨様が動いていないのか?
10分もあの狂人の元に囚われていると言ったのか?
誰がそんなことを許したのだ?
どうしてそんなことが許されるのだ?
「ドウマァァァァアアア!!!!」
「「「!?」」」
治りかけの首が弾ける程の勢いで喉元から音が出た。
思考が白く染まり、微かに残る童磨の気配がある方向に向けて格好も式もない純粋な拳を叩き付ける。
大きな穴が城を貫通するかの如く吹き飛んでいった。
そうして遥か彼方に見える凍りついた空間、白く染まった生ける者全てを凍らす地獄の世界。あれから漂う冷気の主を俺は嫌という程に知っている。この身をもって知っている。
『猗窩座、最早私は貴様がどこでどう死のうがどうでもいい。私に歯向かいさえしなければ好きにしろ。……だが、この命令にだけは従え』
『……どのような命令でしょう』
『童磨にだけは決して雪女を近づけるな。あれは既に私の支配を脱しつつある、今から殺そうにも奴は上手く逃げ切るだろう。奴の性格を考えれば今も淡々と裏切りを考えていてもおかしくない。そしてもし奴に雪女が渡れば……雪女を取り込み、別の妖に変異する可能性がある。私は産屋敷を殺した後、真っ先に雪女の確保に向かうが、もし私に何かあれば貴様が雪女を童磨から守り切れ』
『……!』
『いいか、私のこの戦いの目的は3つだ。
産屋敷を含めた鬼殺隊の抹殺。
今後裏切る可能性の高い童磨の抹殺。
そして最後に、雪女を引き離し山に帰すこと。
今の貴様とて3つ目ならば全力をもってやり切れるだろう?せめて最期に私の下僕が無能ばかりでなかったことを示せ』
鬼舞辻無惨が内心で何を考えているのかなど知らない。
あの男が雪女の少女をどうしたいのかなんて知らない。
だが、童磨にだけは近付けてはいけないと思っているのは俺と同じだ。
あの男が雪女と初めて会ったと言った時から、その壊れっぷりを見てきたからこそ言える。
奴にだけは絶対にあの女を渡してはいけない。
奴からだけはあの女を守らなければならない。
……いや、そうじゃない。
奴にだけはあの女を渡したく無いのだ。
あの男にだけは雪那を渡したく無い。
これは独占欲か?
いいや、嫌悪感だ。
自分の中でいつの間にか憧れの位置に居た女を、自分の中で最も底辺の男に渡したく無いという、当然の反応。
底辺の男が憧れの女に手を出しているという事実への、耐え切れない怒りと憎悪の感情。
綺麗な感情ではない。
感動的な動機でもない。
ただただ自分のわがままだ、嫉妬だ、相変わらず醜い感情だ。
……けれど、この拳にだけは、誰も邪魔する者は居なかった。
「鳴女!今直ぐ童磨の元への道を開けろ!!さもなくば貴様を城ごと破壊してやる!」
どうせ童磨に協力したのは鳴女だ、どうせ上手いこと丸め込まれたのだろう。今となっては自分の失敗を自覚している筈だ。
童磨の元への道が開く。
この身体でさえも近付くだけで凍り付く様な冷気が放たれている。
だが、それが何だと言うのだ。
例えいくら冷気を飛ばした所で、この怒りの熱を冷ますことなどできやしない。
俺と同じく醜い童磨、貴様にあの美しい少女は少々勿体無いが過ぎる。
頑張って、狛治さん