胡蝶の雪   作:ねをんゆう

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78.雪女と擬鬼 - 1

私がその女について知ったのは、この体となって数十年が経った頃の事だった。

それまで人間という小さな生物しか知らなかった私が妖という理の外の化物と出会い、この肉体への慢心と優越感を粉々に砕かれた直後の話だ。

 

「雪女……?」

 

「ふぇっへっへ、そうよ。今の妖の中で最も強い力を持つ存在、そいつが雪女。年寄の中では常識さ」

 

「だが私が聞いた話では妖の主はぬらりひょんだと……」

 

「あれは確かに集団を率いる存在としては脅威だろうが、単体の存在としては間違いなく最強

は雪女だろうよ。その証拠に、ぬらりひょんは自ら出向いて雪女に対等な関係を持ち掛けておるからのぅ」

 

当時、数多居る妖の頂点として名高かったのは"ぬらりひょん"という老いぼれた妖怪であった。

各地に存在する妖の集いの中でも最も巨大で最も強大な百鬼夜行を持つ伝説の妖。

しかしそんな姿とは裏腹に普段は夜行から離れて放浪し、人間の家屋に忍び込んでは好き勝手寛ぐという意味の分からない行動を取っていた事でも有名であった。

 

その当時の私は下級の妖程度の力しか持っておらず、毎日を怯えて過ごすしかない。

故にこうして妖でなく人間に近いことをいいことに陰陽師の元に身を隠し、妖の情報を集めていたのだ。

だからこそ、人を襲わない"ぬらりひょん"を好意的に見る陰陽師から聞かされた武勇伝は多く、それよりも更に強いと言われる雪女についてあまり現実感が湧かなかったのだ。

 

「だが、雪女のことについてなど私は聞いた事がない。これまでも陰陽師を頼った事はあったが、奴等は雪女の話など一度もしたことがなかった」

 

「そりゃぁそうよ、アレは普段は人間の隠れ里の長をやっておるからなぁ。悪事を働かず、人間の前にも出てこん以上、最近の若い者が知らんくとも無理はあるまいさ」

 

「人間の、隠れ里だと……?妖共を纏めているのではないのか?仮にも力のある妖が、一体なぜそんなことをしている?」

 

「さあのぅ、それは直接聞いてみん限りは誰にも分からん。だが、その里は何らかの理由で身を隠さねばならぬ者達にとっての理想郷だと、人間達の間では噂されておる。貢物として差し出された人間の扱いに困った妖共も、ぬらりひょんを通じてそこに人間を送ることもあるらしい」

 

「身を隠す者達の、理想郷……」

 

その言葉に私が惹かれたのは当然の話だ。

妖でも人間でもない私を面白半分に襲ってくる妖は当時それなりに居た。

奴等にとっては暇を潰す娯楽であっただろうが、その時は陰陽師の住処に姿を隠していても突破してくる頭のおかしい輩も居たのだ。

最強の妖の保護下に入る、もしそれができるのならばこれ以上に好ましいことは無い。

 

「その隠れ里は何処にある?」

 

「さあのう、詳しいことはほんに一部の妖しか知らぬ。噂では国の中心に拠を構えとると聞くが、それもどこまで本当のことやら」

 

「チィッ……まあいい、有益な情報ではあった」

 

「ふぇっふぇっふぇ、それはなにより。それでは、ワシはもう行くとしよう。そろそろ家主が戻って来る頃なのでな」

 

「は……?」

 

その言葉を最後に少しの痕跡や音すら残すことなく目の前から消失した老人を見て、その時改めて私は強力な妖の異常さというものを認識したものだ。

名のある陰陽師の家の中に入り込み、私を匿う為に部屋中に張り巡らせていた数多の結界をモノともせず、どころかその気配すらも察知させることなく痕跡すら残さない。自らその正体を明かすまで自身の存在に少しの違和感も与えることなく、警戒心を抱かせるどころかこちらの空間にアレは易々と踏み入ってきたのだ。

あの時あの男がなぜ私に接触してきたのかは今でも分からないが、私に最初に雪女の存在を教えたのは間違いなく妖の主である"ぬらりひょん"だったのだ。

 

 

 

私が雪女の居場所を突き止めたのは、その出来事から僅か数ヶ月あまり後のことだった。

……いや、突き止めた、というのはあまり正しくはない。

面白半分に私を付け狙う下級の妖共から逃げるうちにいつの間にか奴の領域に踏み込んでいたのだ。

 

飛騨の山中の奥深く、山々に囲まれ豪雪に遮られ、普通ならば虫すら近寄らない様な場所にあったその里は外界から完全に断絶されているとは思えぬ程に栄えており、そこかしこを信じられない程に透き通った水が流れていた。

 

まだ血鬼術すら使えぬ手下の鬼共を身代わりに息も絶え絶えにそこに足を踏み入れた私が眼前に広がる光景に最初に抱いた感想は、"ここが死後の国なのか"という死を拒む私にしてはあまりに陳腐なものだった。

 

里を囲む様にして存在する分厚い黒雲と豪雪はその場所からでもよく見えるにも関わらず、その付近だけは一粒の雪も雲も存在せず、どころか生茂った緑が月夜に照らされ瑞々しく育ち、野に寝そべる野生動物達はこちらを警戒するどころか興味深そうに私を見ていた。

なにより私が衝撃を受けたのは、その場所にはこれまでなんとなく感じていたら影の者達の雰囲気がこれっぽっちも存在しなかった事だ。

当時は闇夜だけではなく、日の無い場所から影のある場所にまで、様々な形で妖が住み着いていたこともあり、感覚の優れる者はどうしても本能的に脅威や視線、言葉に出来ぬ圧や違和感に悩まされていた。

だが、その場所に入った瞬間にそれ等は一切合切消えて無くなったのだ。

安心感、解放感、緊張の解れ、一度に自身の体を満たしたその様な陽の感情達は情けなくも私の涙腺にまで至り、私はこの時に人生で初めてというほどの大泣きを経験した。

他者を犠牲に自らを保身して生きてきた自分にとって、やはり最大の幸福とは自らの無事だったのだ。涙が出たのは当然の話だった。

 

……そして、あの女が現れたのはその直後だった。

 

「稚魚に追われる奇妙な男が来たかと思えば……なんだ、ただの泣きじゃくる童じゃないか。可哀想に、親とでも逸れたか?」

 

「なっ……!」

 

それはあの"ぬらりひょん"と対面した時と似たような感覚だった。

声を掛けられて初めて気付き、顔を上げれば直ぐそこに奴は浮遊していたのだ。

"ぬらりひょん"と違ったのは、認識した瞬間にこちらを押し潰す程に流れてきたその圧倒的な存在感と妖気の存在だろうか。

一瞬思考を真っ白に染められたものの、ニィッと意地悪そうに笑うその女の表情を見て私は瞬間的に悟った。

その女こそが"ぬらりひょん"の語っていた最強の妖:雪女であると。

 

「た、頼む!私を、私を匿って欲しい!何でもする!どんな仕事でも満足にこなして見せる!だから!だから私をあの妖達から匿ってくれ……!」

 

私は自尊心も何もかもを捨て去って、その女に首を垂れて情けなくも心の底から助けを求めた。

猗窩座には如何にも嫌々頭を下げた様な説明をしたが、実際にはそんな余裕すらも無かったのが当時の私だ。

どうしてもここに居たい、どうやってもここで生きていたい、何をしてでもこの女の庇護下に入りたい、私はただその一心だった。

一度その場所の雰囲気に浸ってしまえば、もう2度と外界の世界に出る勇気が出なかったのだ。

自らの死を嫌う私が、常に死と隣り合わせに生きるということにそれ以上耐えることが出来なかったのだ。

私は涙を流し、額を地に擦り付けて、必死になってその女に頼み込んだのだ。後にも先にもそれ以上に自らを捨てたことは無い様に思う。

 

「くふっ、くくくくくっ……」

 

「………っ!」

 

そんな私を見て、奴は笑った。

嗤ったのではなく、笑った。

その笑い声に恐る恐る顔を上げてみれば、女は私に氷で作られた小さな装飾品を差し出して来た。

皮膚に害を与えるほど冷たくもなく、異様な透明度を持ち、けれど決して溶ける事のない雪の結晶を象った掌より小さなそれ。

浮遊してきたそれを手に乗せ、意図がわからず困惑をした私を見て、女は更にその笑みを深めた。

 

「なに、それはただの資格だ。ここに住む者達な皆持っている、ただの飾り物。絶対に壊れる事は無いが、私が死ねば砕け散る。それだけのものだ、深い意味はない」

 

「資格……」

 

ちらちらと女の周りを落ちる氷の破片に目を奪われながらもその意味について思考をする。

そしてその意味に気付いた瞬間に変えた私の表情を見て、奴は再度楽しそうな笑みを浮かべたのは今でもよく覚えている。

私はどうやら出会った瞬間にあの女に気に入られてしまっていたらしい。

私が見せる大きな感情の起伏を、あの女はどうにも異様に気に入ったというのだ。

その女の異常な趣味によって私がこれからどれほど困らされたかということは言うまでもない。

 

……まあ、敢えてあの女の褒められる場所を探せと言うならば、顔は良かった。

後の雪女共は黒髪を主にしていたが、初代のあの女は白い髪をした雪の化身に相応しい姿をしていた。

あの里に住んでいる若い連中は男女関わらず一度はあの女に惹かれるという定番の笑い話があるくらいには整っていた。

そしてそれがあながち間違いではないと言うことも、その者達に嫌み妬みを打つけられた私はよく知っている。


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