それは雪女の元を私が訪れてから5年だったか、10年だったか、はたまたそれ以上に長い時間だったか……その時点では大したことがない話だと思っていたのでもう殆ど覚えていないが、今思えば全ての始まりたる分岐点がひっそりと私の元へと忍び寄っていた。
「子供を、つくりたい……?」
「ああ、どう思う?」
「何を愚かな事を……無理に決まっているだろう。頭の病か?」
「これでも真剣なのだがな」
突然自分の子供が欲しいと言ってきた雪女の言葉を、私は最初なにかの冗談だと思った。
当然だろう、あの覚の半妖でさえも雪女には触れれば瞬く間に氷漬けにされてしまうのだ。あの女と手を繋ぐどころか、接吻でもしてみろ。肉体どころか魂まで永久に氷の中だ。
にも関わらず子供を作る?
頭がおかしくなったとしか言いようがない。
「雪女に男は居ないから人間と交わるしか無いのだが、まあ私はこの通りの身体だ。とりあえず十月十日火炙りになることは前提だろうな」
「……おい、やはり頭でも打ったのではないか?」
「そもそもの子を宿すのは物理的に不可能だ、だから知り合いの産女に頼もうと思っている。あれの力があれば私と言えど何度か試せば体液を殺すことなく取り込めるだろう」
「産女にはそんな力があるのか……」
「問題は生まれてくる子供の調整だな。妖は単体で完成された存在故に、半妖になれば諸々の欠陥が生じてくる。失敗は許されないのだから、あらゆる可能性を考えて調整しておかなければならない」
「ほう、欠陥か。そこで黙々と飯を食っている半妖にも欠陥があるのか?」
「……人の心を読むだけが取り柄の覚が、天狗を一方的に殲滅できるほどの力を持てると思うか?」
「それは、欠陥と言えるのか……?」
「もぐもぐ」
「他に強いて言うならば、本来は相手の考えを読み当てて動揺を誘う妖怪にも関わらず、それに漬け込んで狡猾に人の心を弄ぶ所か。元の覚はかなりの正直者で小心者だ、それこそ正面から対話をしながら襲おうとする癖に偶然跳ねた焚火に驚いて山の中へ逃げ込む程に」
「んぐんぐ……ひひうえ(父上)はわらひ(私)をふくる(つくる)のに、すうしゅうねん(数十年)ひゃまに(山に)こもったほうれふ」
「何を言っているのかは分からんが、間違いなく貴様が失敗作であったということだけは分かった」
「秘儀・不可避の髪飾り」
「ぐぁっ!?め、目が……!私の目がぁあ!!」
その時の会話がこの様に半妖によってあやふやにされたせいで私は気付けなかったのだ。
……いや、今考えても仕方ない気もしている。
半妖が覚の能力でこちらの動きを完全に予想し、的確に私の目に向けて髪飾りの投擲を行なってきたのだ。あまりの激痛にそれまでの会話が吹き飛んでしまっても仕方ないだろう。これに関しては私は絶対に悪くない。
……例え、この半妖が元よりこの話題から私の意識を逸させるためにこの様な行動を振る舞っていたとしても。
そもそも気づくはずがない。
あの女がそれほどに自身の子という存在に強い憧れを持っていたということなど。
「おう兄ちゃん、今日もこんな所で油売ってんのかい?薬師の仕事は終わったのかい?」
「……行商人か」
「最近はここらの天気も安定しないねえ、普段はもう少し行き帰りが楽なんだけども」
「フン、生きて帰れるだけマシだろう」
「こっちも妻子のある身だし、そうはいかないよねぇ。親にとっては子が一番、それに勝るものなんて無いからねぇ」
「……子、か」
誰が想像できる。
あの話があってから僅か数年であの女が子を作ることに専念し始めるなど。
43回、43回だ。
あの女は自分の子を残すためにそれだけの回数の試行錯誤を重ね、自ら地獄を見た。
天気が安定しない?
そんなことは当然だ、それまで天候を維持していた存在が安定を失っているのだから。
むしろあの状態でどうしてここまで空間を維持できるのか、それが不思議な程だ。
そしてそんなあの女の異常さを受け入れられることができないからこそ、自分は今この空間と外空間の境界線に居るのだ。
「……意味がわからない。なぜ他者のことをそれほどまでに考える、自身の苦痛も顧みず」
「それが子を持つってことさ、特に母親なら尚更だねぇ。父親の僕だってこうなんだから、その思いの凄まじさは理解できないかい?」
「……貴様等異常者の考えることなど、やはり私には理解できない」
自身の力を抑えながら炎獄にその身を焼かれ、何度も何度も子を宿しは失敗し、その度その度に試行錯誤を重ねて再び地獄に身を宿す。
いくら異常な生命力を持っているとは言え、雪女にとって炎という存在がどれほど苦痛なものかなど誰にでも分かることだ。
その炎を司る妖達の者ならば尚更。
死ぬことは無いとは言え、そこまでする理由が全く理解できないのは当然の話だと私は思う。
「理解、できない……」
あの女が自由に動けない今、もし他の妖共の集団が襲ってくれば、それに便乗してここを狙う輩も出てくるかもしれない。
それを察知する手段はいくらでもあるだろうが、仮に"ぬらりひょん"がその加担者であった場合は話が変わる。
その場合は一度対面したことのある私が察知するしかない、これはそのための行動だ。
あの女が何をしようとも私に否定できる権利も力も無いが、私は私のための行動をする。
それは何がどうなったとしても変わらない。
例えあの女が子を産めなくとも、この空間が保たれるのならばそれでいい。
「奴のことなどどうでもいい。……だが、いい加減どうにかして欲しいものだな。奴の悲鳴は、そろそろ耳障りだ」
生娘の様な悲鳴では無いにしろ、苦痛に耐えながら苦しさに呻く女の声。
私はそんなものに幸福や愉悦を感じる様な異常者では無い。
「……調子はどうだ」
「ふふ、まあ良くは無いと言ったところか。なにせもう65回目だ、そろそろ私も疲れてきた」
「……いい加減諦めたらどうだ、別に今でなくとも良いだろう。貴様ならば10年後でも100年後でも変わるまい」
「いや、それは駄目だ。これは今やらなくては意味が無い、だから私が妥協や諦めをすることはない」
「頑固者が……!」
失敗に続く失敗の中、久方振りに見た雪女の普段通りの姿はそれこそ病人の様に弱っている様に見えた。
奴に対して欠片の同情もしていない私がそう見えたのだから、実際に奴は弱っていたのだろう。
だからこそ直接こうして説得を試みたのだが、雪女は想像していたよりも強い決心をしていた。
「色々と試してみたのだが、どうにも並の人間の体液では定着しないらしい。年齢、体質、筋肉量、その他様々な可能性を考慮したが、そのどれもが駄目だ。私もまさかここで躓くとは思っていなかった、火に耐えるのは問題無いのだがな」
「戯言を……その様で問題無いと言い切るのは異常者か愚か者かのどちらかだ。それで十月も保つのか?」
「それこそ愚問だな、保つ保たないの問題ではなく保たせるんだ。……ああ、心配はいらない。この土地の維持にも勿論努める」
「……そうか」
「……ああ、お前が体液を提供してくれてもいいのだぞ?お前のそれならばもしかしたらということも有り得るかもしれない、いや可能性はそれなりに高いと見た。どうだ?私に預けてみないか?可愛い子を産むぞ?」
「ふ、ふ、ふっ、巫山戯るなァァ!!だ、誰が貴様なんぞにそんな、そんなものを渡すものか!近寄るな強姦魔!体液を欲しがる淫売め!」
「いや、流石にそこまで言うことは無いだろう。いくらなんでも私だって傷付くのだが」
「喧しいわ!貴様は本当にやりかねないから恐ろしいのだ!貴様との子など絶対に御免だ!」
「お前の様な人格破綻者の子を産んでくれる女など、千年探しても私くらいしか居ないだろうに。永久に女性経験の無いまま死ぬことが確定した瞬間だ」
「滅茶苦茶言うな貴様ァ!」
相変わらず何処からが冗談で何処からが本当なのか分からない雪女の適当な話に不意を突かれ、私は大きく取り乱す。
相手がこの女で無ければ大して反応することもなく受け流せるのだが、それでもこうして反応してしまうのはきっとこの女が自分よりも上位の存在であると無意識に認めてしまっているせいに違いない。
自分を簡単に殺せる相手だからこそ、他の相手よりも警戒してしまっているのだ。
自分の子など考えられない。
「そうは言うが、お前はこれからどう生きていくのか考えているのか?何の変化もなくただ時間を浪費しているだけでは石や草木にも劣る愚物だ」
「貴様今私のことを砂利扱いしたか?」
「事実そうだろうに今更何を。何の目標も無く生きていて何が楽しい、何か目的を持って生きなければ私達のような化け物は本当に虚になる」
「変化無く生き続ける、死を拒み続ける、命を脅かせる者のいない完全な不死の生命体としてこの世に君臨する。私はこれで十分だ、生きるに十分な目標を持っている」
「その中身の無いすっからかんな未来図は本当に子供の語る夢物語のようだな、頭の中はやはり餓鬼だったか。これだから夢見る少年:無惨くんは頭無惨なんだ。最近は町の子供達にも頭無惨という言葉が広まり始めた、人気者で良かったな元祖くん」
「本当に火で炙るぞ貴様」
疲労した状態でも口の減らない女の相手のなんと疲れることか。
何を言いたいのかよく分からず、結局はこちらの罵倒をしてくるのだ。これだから女というものは面倒臭い。
だがそんな私の思いを読み取ったのか、奴は一つ溜息を吐きながら改めて真面目な顔をして私を見た。少しの圧をこちらにかけながら。
「なあ無惨、お前はどんな化け物になりたい?」
「どんな化け物に、だと……?」
「そうだ、私達は化け物として生きていくしかない。だが、どんな化け物になるのかくらいは選んでもいいと思わないか?無惨」
化け物。
自分が最早普通の人間ではないことは自覚していたが、改めてその表現で自分を評された時、なぜか微かな抵抗感があったのを覚えている。
『私は化け物などではない、貴様等の方がよっぽど化け物だろう』
そう言いかけたものの、気付いた。
この女は既に自分が化け物であることを受け入れているのだから、そんな批判に何の意味も無いということを。
女の視線はまだ私を貫いていた、何かの答えを待っているかのように。
「……馬鹿馬鹿しい。私が成りたいものは死を超越した生命体、そう言った筈だ。巨大な力を持ち、何者も私を脅かすことのない完全。つまり貴様の様な存在だ。貴様がその体を私に開け渡せば私の願いは叶うのだ」
「……ふっ、そうか。奇遇だな、私はこんな身体よりお前の身体の方がよっぽど羨ましい。そうなればよっぽど楽に子を作り、自分の腕で抱き寄せることが出来ただろうに」
「チィッ、ならばさっさと明け渡せ」
「それは無理だな。そういう力を持つ妖は居るが、どれも私に干渉できるほどの力は持たない。無惨くんと家守くんを入れ替える事くらいならば造作も無いだろうが」
「恐ろしいことを言うな!!」
この女の考えることが本当の意味で理解できたことなど一度もない。
特にこの日の奴が私に何を伝えたかったのか、それを気付くのにまさか千年近くもかかることになるとは思わなかった。
それほどの時間をかけなければ奴の背に手を掛けることも出来なかったと考えると、なんと悔しいことか。
千年も前に貴様はそこに辿り着いていたのに、私はもう千年かけなければ辿り着けそうにない。
「まずは自分を知ることだ。悩んで、疑って、否定して、削ぎ落として……それでもこれだけは、例え間違っていたとしても、間違っていると分かっていても、どうしても譲ることができないと思えるものを探せ。それが始まりだ。お前はまだ始まってすらいない、それだけは覚えておけ」
「……一つ、聞いてもいいか」
「なんだ?」
「お前は、、どのような化け物になりたいのだ?私はお前が一番化け物であることを否定しているようにしか見えん」
「……母親だ」
「?」
「私はな、母親になりたいのだ。子を思う母の愛、私はそれに惹かれた。だから私はここに住む者達を皆私の子のように扱っている、それでも自身の子が欲しいと願ってしまったのは流石は絶えることのない妖の欲求といったところか」
「っ」
「もちろん、お前もまた私の子のようなものだ。母親としてはもう少し真っ直ぐに育って欲しいものだが、どうにももう少し時間がかかりそうだ。だが、あと100年もあればお前を真っ当な化け物にしてやる。それをここに約束してやろう、私の可愛い鬼舞辻無惨」
……大した女だった、本当に。