『雪龍』
小さく呟かれたその言葉と同時に、女を取り巻く様に8つに分かれた頭を持つ巨大な白い龍が現れる。
まるで伝説に現れる八岐大蛇を形にしたような威圧感を放つ巨体。
頭一つが童磨の大氷竜と同等の大きさがあり、それらを抱える胴体は長く、太く、そして冷たい。
きっと猗窩座ならば首の一つくらいは穿つことができるだろう。
そして童磨ならば更に一本を抑え込める筈だ。
……だが、所詮はそれだけだ。
8本あるうちの2本を押さえた所で何の意味もないことは馬鹿でも分かる。
更に言えば、今こうして真っ逆さまに落下しているが、猗窩座と童磨には限界が近付いてきていた。
本来ならば鬼の身であるならば怪我や損傷とは無縁なのにも関わらず、あの女によって与えられた傷は一向に回復する様子が無い。
どころか傷が人間の頃の様に放っておくだけで徐々に致命的なものへと悪化していくのだ。
体力すらも蝕まれ、ここまで生き残る為に大技を連発してきた彼等に、もう何度も大きな動きをする余裕は残されていなかった。
「まずいっ!」
「うわぁ、雪像が呼吸してるよ。お腹をあれだけ膨らませて、あの大量に貯めた空気をどうするつもりなんだろうね?猗窩座殿」
「……纏めて俺達を吹き飛ばすつもりなのだろう。凍らせた挙句粉々にして、気付いた時には全員氷の粒だ」
「どうすればいい?上弦の弍、足場は作れないのか?」
「うーん?敵対してた君達が流石に都合良く俺達に求め過ぎじゃないかなぁ?まあいいけどさ。……俺はもう無理かな、薄氷一枚作るのもやっとなくらい限界」
「俺もそうだ、空を蹴る脚力も残されていない」
「と、冨岡さん!どうすれば!?」
義勇は考える。
気になることは様々あるが、今はただ生き残る方法にだけ頭を回す。
こうなれば互いに互いを蹴り合って射線から避難するというのが一番現実的だろう。
だが今ここでは氷龍の尾に捕まっていた炭治郎だけが遠く離れた場所にいる。
これでは炭治郎が助けられない。
だからと言って凪で防ぐことなど確実に不可能だし、最初の一撃を防げなかった時点で自分の中でこの相手に対して凪を使うことは選択肢から外している。
防げない、避けられない、それならばどうすればいい?
「……そういうことか」
その言葉と同時に、義勇は刀をある方向に向けて投げ付けた。
それは雪龍の居る方向とは異なり、白い化物が居る方向ではなく、件の黒い化物の居る方向であった。
今自分達全員が助かるには、これ以外に方法が無い。
これに賭けて外れれば、炭治郎を見捨てることになってしまう。
「化物には化物をぶつける……!!」
ただ注意を引き付けるだけでいい。
どちらかの注意を、もう一方に引き付けるだけで。
そうして興味を持ってくれるならば、攻撃対象を変えてくれるのであれば、生き残れる可能性は十分に生まれてくる。
『ヴェア"ア"ア"ア"ォア"ェア"ア"ァ"ァ"!!!』
瞳に刺さった義勇の刀に、黒い化物は大袈裟に叫ぶ。
痛いのか苦しいのかも分からないが、周囲に衝撃波を生む様な凄まじい声量で化物は叫び散らかす。
そしてそれは、白い化物の目に留まるにはあまりに十分な動きであった。
白龍と同等の巨体を持ち、興味を引くには十分な存在であった。
そして、攻撃の方角を確認した黒い化物が白い化物を見つけたのも、言うまでもなく。
『エ"ァ"ア"ァ"ア"!!!』
『雪嵐』
突如として黒い化物の表皮に現れた複数の人間の口の様な物が大きく開かれ、周囲に嵐を巻き起こすかの様な勢いで巨体を風船の様に膨らますほどの空気が取り込まれていく。
同時に、白い龍の口からは真っ白な液体の様なものが溢れ始め、周囲からは真っ白な欠片の様な物が降り始めた。
周囲の隊士達が逃げ始める。
柱達もまた必死になって距離を取る。
義勇達はその場からは動けなかった。
それでも、射線を逸らすことは出来ていた。
この後に生じる破壊に、自分達がどうなるのかは全く分からないが。
『ア"ガァ"ァ"ア"!!!」
『Ahaaa……!』
「身を抱えろ!」
「頭だけでも守れ!身体を丸めろ!」
「うわぁあ!!」
それは正しく、破壊の嵐と呼んでいいものだった。
「ぐあっ!」
「まずい!地面に叩き付けられる……!」
「炭治郎!駄目だ!!」
氷と衝撃波による地を破る様な破壊の渦。
2つの強大な力が打つかり合い、予想よりも遥かに凄まじい勢いで空中に居た5人は吹き飛ばされて行く。
この勢いで地面に落ちれば、炭治郎だけでなく誰であろうと死に至るのは間違い無かった。
それは当然、満身創痍の上弦の鬼達もまた。
「炭治郎!」
「冨岡さん!無一郎くん!」
「オイ!こいつ等も助けんのかァ!?あァ、クソがァ!!」
だからこそ、この瞬間に彼等が間に合ったのは奇跡や運命の類としか言いようが無い。
ほんの数秒でも遅れていれば、取り返しの付かないことになっていた。
抜け出した位置が少しでも違っていれば、彼等の命は失われていた。
ここまで全力で走り抜けたカナヲ、しのぶ、実弥。
諦めることなく走り続けた彼等だからこそ、この偶然を掴み取る事ができたのかもしれない。
「胡蝶……!?今まで何をしていた!」
「せっかく助けたのに文句から入りますか……気持ちは分からなくも無いですが、こちらにも事情がありましたから。まずは情報共有を」
「いや、今は一度離脱した方がいいと思うよ。上手い具合にあの二体がぶつかってる、態勢を立て直すには今しかないと思う」
「……そうだな。隊士達を集めて、お館様は」
「先程から連絡が取れません、今他の隊士達が様子を見に行っている所です。この状態ですし奇襲は考えたくありませんが……」
「憶測を話してても仕方ないし、今はまず戦力を掻き集めよう。あれは流石に、小手先をどうこうで倒せる相手じゃない」
白い龍と黒い化物が衝突する。
泥の様な黒とそれを氷結させる白。
そんなものを見てもまだ戦う意思は消えない。
戦力は集まりつつある。
致命的な欠損はまだ無い。
まだ戦える。
まだ勝てる。
そう信じてならない。
「……必ず勝つ。時透、胡蝶、絶対に諦めるな」
「当然だよ、せっかくここまで来たんだ」
「冨岡さんも随分熱いことを言うようになりましたね。……ですが、誰に言ってるんですか。この状況を見て誰よりも諦めることができないのは、私に決まってるじゃないですか」
誰かが諦めない限り、どんなに小さくとも必ず可能性はそこに存在している。
「柱は全員生存……ただし不死川さんが手当て済みとは言え重傷、冨岡さんは刀無し。他の皆さんは手当て次第でまだ戦えそうですね」
「未だアレと戦えというのも狂っているがな」
「他の隊士達は軒並み撤退させている。人手が必要になる時まで付近に待機させているが、とにかく重傷者が多い。無惨の衝撃波と幻覚による被害が酷い」
「あれ本当に酷かったよねぇ、私も思わず伊黒さんのこと殴っちゃって……」
「……問題ない」
「伊黒さんの頬の膨らみは手当ての必要も無いので放っておいても大丈夫ですよ。皆さん健康そうで何よりです。ただ問題は……」
「私とこの鬼達、だろうな」
柱達が集まる。
そこは瓦礫の山の中に作られた小さな広間のような場所で、怪我をした柱達をしのぶとカナヲが手当てをしながら話を進めていた。
勿論彼等の近くにいた伊之助や炭治郎、善逸もまたここに居たが、なにより皆疲労が酷い。
上弦の鬼との連戦の末にここに居る者や、無惨と戦ってここに居る者、白い女との死闘の末に生き残った者。
誰もが幾つもの視線を乗り越えてここに居る。
そしてその中でも特に状態が酷かったのは、岩柱: 悲鳴嶼行冥と2人の上弦の鬼達であった。
行冥はそもそも痣の影響で日の出と共に命が尽きる筈であった。
それでも何とかこうして座っているのは、命も魂も削り切る程に全てを費やしての死闘をせずに要られたからだ。
上弦の壱との戦いでは伊之助が、無惨との戦いでは無一郎が、彼等が中心となって活躍したおかげで行冥が身を犠牲にしてまでも戦う必要というものが無かった。
故にこうして生き残ることは出来ているが、やはり限界は近い。既に身体に力が入らず、立つこともままならない。
戦うことは不可能だろう。
そして問題の上弦の鬼達。
彼等はもう見て分かる通りに限界だ。
誰よりも白い女と戦い続け、何度もあの致命的な攻撃を喰らっている。
身体は元の形に戻らず、塞がらない傷を氷で強引に覆い隠し、精魂尽き果てるまで己の技を行使した。
放っておくだけでも死に至る。
手を施す余地すら既に無い。
それが分かっているからこそ誰も彼等がここに居ることについて何も言わないし、警戒をしていても本当に何かをされるとは思っていない。
彼等の口が動くことだけを期待していた。
「猗窩座と言ったな。お前はあの化物達について知っているのか?」
最初に彼等に質問を投げ掛けたのは、どちらとも直接刀を交えたことのある義勇であった。
そしてその末に誠実であった猗窩座に声を掛けたのは当然の話で。
「……無惨様についてならば分からない。だが白い女についてならば、俺よりもお前達の方が知っているだろう。まさかこの期に及んで事実から目を背けているということはあるまい」
「…………」
「そしてあの雪女……いや、"雪那"という少女がどうしてああなってしまったのか。
それをこの場で知っているのはお前しか居ない。
……あの子に一体何をした、童磨」
全員の視線が今も仰向けに身体を倒している童磨の元へと集まる。
報告によれば、雪那を最初に誘拐したのはこの男だった。
そしてその後、異様な冷気によって付近を自分の領域に変え、この男は長時間に渡って雪那を閉じ込めていた。
その間に何をしていたのかは未だに誰も知らず、結果的に雪那は氷の中に幽閉され、童磨すらも苦痛を感じる程の冷気を放つ状態になっていたのだ。
全ての原因は間違いなくこの男にあった。
そして、何らかの想定外がそこにあった。
にも関わらずこの男は、笑っていた。
「知ってるよ?でも殆ど分からないと言ってもいい。それで、どの辺から聞きたいかな?猗窩座殿は」
反省の色など当然無い。
この男はそういう男だ。
そういう男だと知らない者からすれば、本当に許せないものでしかないが。
「お前があの少女にしたことを全て話せ。これまでの経緯を、全てだ」
「……別にいいけどさあ、それって本当に今必要な話なのかな?」
「なに?」
「時間の無い今、この話は本当に今する必要があるのかって話だよ。だって俺は今のあの子を止める方法なんて知らないし、経緯を聞いてもどうにもならないと思うんだよね。
こんな話、無駄な時間の浪費になると思うんだ」
「テメェ!!」
童磨のその態度に最初に突っ掛かったのは実弥だった。
実弥とて雪那に対して何も感じていない訳では無い。
それなりに彼もまた少女とは長い付き合いだ。
知り合いをこうも好き勝手されれば、怒るのも当然の話だった。
そんな彼を止めたのが他でも無いしのぶで無ければ、きっとその怒りは止まらなかっただろう。
「……貴方の感想はどうでもいいので、早く話して下さい。貴方に思い付かなくとも、その情報で他の人間が気付くこともありますから。貴方のその態度こそ、私からすれば時間の無駄です」
「……なるほど、確かにそれは一理あるかもしれないね。いいよ、話そうか。こんな想定外だらけの話に何かを見出せるって言うのなら、やってみればいいんじゃないかな」
やっぱり無駄だと思うけどね。
童磨は再度そう言って話し始めた。