霞渡りのイビユクは、生まれの村から山を越え、客人が住むという庵を訪れる。

村で流行している病を治すためには、もはや“彼方”の知識に頼るしかないと考えていた。

だが庵で彼を出迎えたのは、客人ではなく、親指ほどの大きさしかない小さな人族で――――。


※異修羅構文を書くために作った話です。オリ種族出ます。

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叢のカロエル

 それを見て、霞渡りのイビユクは目を瞬かせた。

 

「なんだ、この家は……?」

 

 彼の村から山を一つ越え、たどり着いた谷の庵。

 顕微のフランシスという、客人(まろうど)が住むはずの家だ。

 病に伏せる村の長から聞いていたとおりの場所だったが……その様相は、いささか想像と違っていた。

 

 家屋自体は普通だが、そのそばにある滝には四台もの水車が並び、何らかの動力を庵に伝えている。

 隣に建つ長い煙突は、どうやら焼却炉のようだ。

 家の裏には家畜を飼っているようだが、牛、豚、鶏のほかに、なぜか兎の小屋がある。

 そして庵の周囲には、何に使うかわからないガラクタが大量に散らばっていた。

 

 いかにも怪しげだ。加えて、近くに寄っても人の気配がしない。

 だが、ここで帰るわけにもいかなかった。

 

「ごめんください……」

 

 腰に吊った剣の重さを意識しながら、イビユクがゆっくりと扉を開くと……その瞬間、周囲の空気が室内へ吸い込まれるような感覚があった。イビユクは微かに眉をひそめるも、そのまま室内へ足を踏み入れる。

 

 イビユクは知らなかった。

 その庵が――負圧ポンプにより、中の空気を外に出さないよう陰圧に保たれていたことを。

 

 室内に、やはり人の姿はなかった。

 さらに言えば、人が住む場所とも思えない。

 

 部屋いっぱいに置かれた広い机の上には、様々な実験器具が並んでいる。

 壁際の棚も同様で、そうでない場所には、調理台に大きな釜や、何やら金属製の箱形の機械が置かれていた。

 

 まるで魔王自称者の研究施設だ。

 

 イビユクは慎重に、無造作に置かれていたガラス容器の一つを手に取ってみた。

 口が細長く、底面が広くなっている三角形の容器で、中には濁った薄茶色の液体が入っている――。

 

「それに触っちゃダメなのッ!!」

 

 声に驚くと同時に、手が滑った。

 床に落ちたガラス容器は粉々に割れ、中の液体を飛び散らせる。

 

「あーッ! なんてことしてくれるのッ!」

 

 イビユクが後ずさると、羽虫のようなものが視界をよぎった。

 

 羽虫は焦ったように空中を飛び回り――驚くべき事に、言葉を話した。

 

「あなたっ! そこ動いちゃダメなの! 【カロエル( caroel )より( io )エルシニア・ペスティス850411株へ( Yersinia pestis 850411 )。開く螺旋。灰は溶融せよ。砕ける街壁。乾け!】」

 

 詞術だった。

 生術か工術のようだったが……見た目には何も変化がない。

 

 しかし羽虫は、一つ安堵の息を吐くと、イビユクの眼前に滞空し、怒ったように甲高い声を発する。

 

「まったく! あなたは誰っ!? ノックもせずに人のお家に入ってきて、勝手に物を壊すなんて!」

「わ、悪い。おれは……」

「しかもよりにもよって、この子たちのフラスコを! これはペストの病原菌! 私が不活化しなかったら、あなた死んじゃうかもしれなかったのよっ!」

 

 イビユクは口を閉じて、目の前の存在を見つめた。

 

 それは羽虫ではなかった。

 親指ほどの大きさしかなく、その背からは昆虫のような半透明の羽が生えているが、人の形をしている。

 工術で編まれた精緻な作りの衣服を纏い、腰に手を当てて憤慨しているのは――小さな小さな女性だった。

 

妖人(フェアリー)……?」

「あら、ほかの何に見えるのかしらっ? こんなに小さな人間(ミニア)を見たことが?」

「いや……妖人(フェアリー)でも、あんたほど小さい奴はいないだろう」

 

 標準的な妖人(フェアリー)ならば、手のひらくらいの身長はあるはずだ。

 ずっと山間の村で生まれ育ったイビユクでも、それくらいの知識はあった。

 

「失礼ねっ、小さいのは生まれつきなの!」

「ひょっとして……あんたが、顕微のフランシスか?」

 

 イビユクがそう訊くと、妖人(フェアリー)は小首を傾げる仕草をした。

 

「違うの。客人(まろうど)は普通、人間(ミニア)なのよ。あなた、フランシスに会いに来たの?」

「そ、そうだ。おれは霞渡りのイビユク。村に病気が流行ってて、それで、助けてほしくて来たんだ! 顕微のフランシスがここにいるのなら、取り次いでほしい」

「フランシスは、十五年前に死んだのよ。今ここに住んでいるのは、私一人なの」

「な……」

 

 イビユクは言葉を失った。

 客人(まろうど)は年を取らないと言われている。だが、彼らは決して不死ではない。事故や病気で命を落としていることは、当然ありえた可能性だった。

 

「そ、そうか……すまない、失礼した」

「待つの」

 

 肩を落として踵を返しかけるイビユクを、妖人(フェアリー)は引き留める。

 

「フランシスはいないけど……私が、力になれるかもしれないの」

「あんたが……?」

「私は(くさむら)のカロエル。フランシスの助手よ。あの人がいなくなった後も、やり残した研究はずっと進めてるの。だから、話してみてほしいの」

 

 イビユクは少し迷ったが、すべてを語った。

 

 村に突然、たちの悪い風邪が流行りだしたこと。

 初めは咳が出る程度だった症状が、次第に起き上がれないほどにまでなったこと。

 もうすでに、村の半数近い人間が感染していること。

 まだ動ける若い自分が、かつて村を救った客人(まろうど)の医師に助けを求めるため、山を越えてきたこと。

 

 フランシスが故人となっている以上、もはや目の前の小さな女性だけが希望だった。

 

「ふむ……亡くなった人はいるの?」

「おれの婆さんが……他にも、老人や小さい子供が何人か……」

「ふむ、ふむ、なの……」

「ど、どうだ? なんとかできそうか?」

「実際に行ってみないとわからないの」

「そ、そうか。なら……」

「でも、できれば先にあたりをつけておきたいの」

「あたり?」

「だからね、イビユク」

 

 カロエルは、笑顔で言った。

 

「ズボンとパンツを脱いで、お尻をこっちに向けてほしいの」

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

「うん、これでいいの。さーて……もう、イビユク! いつまでもメソメソしてないの!」

「……メソメソはしていない」

 

 だが、イビユクの表情は晴れない。

 当然だ。突然下着を脱がされたと思ったら、先端に布のついた棒をいきなり尻に突っ込まれたのだから。

 

 下手人であるカロエルは、水の入った小さなガラス容器をじっと見つめていた。

 一度尻に突っ込んだ棒を差し入れてかき回していたので相当汚いはずだが、その顔に嫌悪の色はない。

 

「うーん、これは普通の大腸菌なの。これは乳酸菌。これはブドウ球菌……」

「それは、何をやっているんだ?」

「あなたの中にいた子を見ているのよ」

「ど……どうやって?」

「うん……? この水が何かってこと? これは〇・五パーセント食塩水よ。ただの水より、少し塩が入っている方が細菌にとっては快適なの」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 イビユクは訊ねる。

 

「あんた、もしかして見えているのか? おれの体の中に住む、小さな生き物が」

「もちろんなの」

 

 カロエルは頷いて、少しおどけたように言う。

 

「私は小さいから、小さな物も見えるのよ」

 

 人間の目の分解能は、およそ一〇〇マイクロメートルと言われている。

 対して、細菌の大きさはおよそ一マイクロメートルだ。とても肉眼で視認できる大きさではない。

 

 だが――身長が人間の数十分の一しかない極小の人族であれば、この断絶を乗り越え、ミクロの世界を観測することも可能となるのだろうか。

 

「ん! こいつなの!」

 

 カロエルは小さなピンセットを手に取ると、ガラス容器の中に突っ込んだ。

 そして目に見えない何かをつまみ、眼前に引き上げる。

 

「鞭毛がないから動かなくて捕まえやすかったの。莢膜のない桿菌。そしてこの細胞壁の気持ち悪い感じ……うん、マイコバクテリウム属なの。でも初めて見る……」

「なんだ? それがどうかしたのか?」

「たぶんだけど、これが病原菌よ」

「えっ」

「あなたも感染していたの。きっと、おばあさんからもらったのね」

 

 イビユクは動揺する。

 

「だ、だが、おれは何も悪くなっていないぞ」

「若くて元気な人は、感染しても症状が出ないことがあるの。不顕性感染というのよ」

「そんな……」

「症状が出なくても、感染していれば菌は持っているものなのよ。予想が当たったの」

 

 カロエルはピンセットを持ったまま飛ぶと、今度は薄いガラス皿に入った茶色いゼリー状の平面の上に、その先端を軽くくっつける。

 

「さーて。マイコバクテリウムなら、たぶんあれでいけるの……」

「そ、それはなんだ? 今度は何をするんだ?」

「これは海藻の成分で固めた培地なの。これから、この子をやっつけてみるのよ」

 

 カロエルはそう言うと、別の培地の表面にあった白い点――これが目に見えるほどに増えた菌なのだと、先ほど言っていた――の上に飛び、それを見下ろす。

 

「【カロエル( caroel )より( io )ラクトバチルス・アシドフィルス( Lactobacillus acidophilus )880613株へ(880613)。開く螺旋。入れ替わる階梯。消える四指。引力は前へ――】」

 

 それは長い長い詞術だった。

 

「【――生まれ出る三指。閉じる螺旋。換われ!】」

 

 何も変化がない。

 だがこの頃には、イビユクも彼女の詞術が、目に見えない小さな生命を対象とした生術であることは察していた。

 

「……何をしたんだ? その、菌に」

「あなたの村の病原菌をやっつけられるようにしたのよ。見てて」

 

 カロエルは白い点の表面をピンセットで軽くつまむと、それを先ほどの培地の表面にくっつける。

 

「【カロエル( caroel )より( io )皿の上の生命へ( bedes kiriblia )。満ちる潮。変遷する月。豊穣の地は荒野へ。広がれ!】……見て、イビユク」

 

 イビユクは近寄って、皿を見下ろす。

 今度の変化は、わかりやすかった。二つの白い点が培地表面に現れ、次第に大きくなっている。細菌が殖えているのだ。

 だが、そのうちの一方は、途中で拡大が止まってしまう。やがてもう一方の、カロエルが後から置いた方の菌に覆われ、白い点は見えなくなってしまった。

 

「マイコバクテリウムの方だけが、途中で増殖を止めてしまったでしょう? 死んでしまったからなの。私が植えた菌の、抗生物質のおかげで」

「抗生物質?」

「ほかの菌を殺すための毒よ。細菌にとって、この世界は(くさむら)なの。一見穏やかそうでも、実際には激しい資源争いが繰り広げられてる。ライバルに勝つためなら、この子たちは毒でもなんでも使うのよ」

 

 カロエルは続けて言う。

 

「この子たちをもっと殖やして、村のみんなに飲ませるの。きっとよくなるのよ」

「だ、大丈夫なのか? 毒を出すんだろう?」

「人間に害は少ないから大丈夫なの。代を経れば遺伝子が脱落するよう設計しているし、そうなったらただの乳酸菌だから、むしろお腹にいいはずなの」

「設計? こいつはあんたが作ったってことか?」

「抗生物質を作る放線菌の遺伝情報の一部を乳酸菌に組み込んだのよ。細菌は作りが単純だから、こういうこともできるの」

「そ、そうか……」

 

 イビユクは頷きながら、一つの疑問が浮かんでいた。

 治療のための細菌を作って見せた、この妖人(フェアリー)は。

 ひょっとすると、逆に……村を全滅させてしまうような恐ろしい細菌も、作り出すことができるのではないだろうか。

 

 イビユクの疑問を察したように、カロエルが口を開く。

 

「フランシスが何の研究をしていたか、あなたは知っているの?」

「いや? 聞いていない」

「彼はね、最強の菌を作ろうとしていたの」

「は……?」

「どんな薬も、免疫機構も効かない。あらゆる生命に簡単に感染して、そのすべてを死に至らしめてしまう、そんな細菌を……。フランシスのイメージとは、違ったかしら?」

「あ、ああ……」

 

 村の長から聞いたフランシスの人物像は、まさに聖人といっていいものだった。

 豊富な“彼方”の知識で村を救ってくれた、無私無欲の英雄。

 

「別に、それも間違ってないの。彼は何も、この世界を滅ぼそうとしていたわけではなかったのよ。ただ、最強がどんなものか知りたがっていただけだったの。純粋な好奇心だったの」

「……」

「言いたいことはわかるのよ。とっても子供っぽいの。最後には自分の体で実験して死んでしまうのだから、笑い話にもならないの。でもね……私は、彼のそんなところも好きだったのよ」

 

 イビユクは恐る恐る訊ねる。

 

「あんたは、フランシスの研究を引き継いだんだよな。ひょっとして……作り出せたのか?」

「惜しいところまでは行ったの。きっと、もう少しなのよ」

「……」

「そんな顔しないでほしいの。大丈夫なのよ。私も、この世界を滅ぼそうとなんて思っていないの」

 

 カロエルは少し笑うと、話題を変える。

 

「それより、あなたの村のことなのよ。たぶんこの病気は珍しいものなの。原因に心あたりはない? たとえば、誰かが野生動物を飼い始めたとか」

「あっ……そう言えば、狩人のゴルグが猪の子供を連れ帰ってきていたな。一番最初に罹ったのも、あのじいさんだった」

「きっとそれなの。獣を使う者は、注意しなければダメなのよ。そうやって思わぬ形で牙を剥かれたりもするの」

 

 カロエルは呆れたように言って、イビユクの眼前へと飛び上がった。

 

「さーて。今日はもう夕方だから、泊まっていくといいの。明日、あなたの村へ向かうのよ。フランシスの部屋を貸すの。ちょっと埃っぽいけど、がまんするのよ」

「あ、ああ……」

 

 イビユクは深呼吸して、頷く。

 

「明日だな。わかった。助かる」

「……どうしたの?」

「いや……ただ、帰り道が不安だというだけだ。回り道をしない限り、獣や盗賊の出る道を通ることになる。行きは何事もなかったが、帰りはどうなるか……と思ってな。だが、あんたのことだけは全力で守るつもりだ。もしおれが死んでも、村のみんなのことは助けてほしい」

「ふむ、なの……」

 

 カロエルは少し考え込んで言う。

 

「そういうことなら……大丈夫なの。今夜から明日の朝まで、大人しめの子を風に乗せて撒くわ。潜伏期間を考えると……お昼頃には、安全になるはずなの」

「安全になる、って……どういうことだ? 獣や盗賊を、あんたがどうにかできるのか?」

「できるのよ。私に任せるの!」

 

 小さな妖人(フェアリー)は、腰に手を当て、自信満々に言った。

 

「明日のお昼には、この山の生き物みーんなお腹壊して、動けなくなってるはずなの!」

 

 

 それは種族特性を超えた、極小の世界を観測しうる顕微の眼を持つ。

 それは“彼方”よりもたらされた、病理学や微生物学の深淵な知識を有している。

 それは遺伝情報の操作により、全人口の数割を滅ぼす致死の細菌をも作り出せる。

 意思なき極微の生命を使役する、世界最小の獣使いである。

 

 調教師(テイマー)妖人(フェアリー)

 

 (くさむら)のカロエル。

 


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