美夜の部屋で目を覚ましたエレノアは、肝心の部屋の主がいないことに気がついた。
遮光カーテンの向こうからは朝日が漏れていて、スマートフォンの時計も起床時間アラームの数分前を示している。
「美夜……?」
借りていた布団を畳み、部屋から出る。人の気配は無く、彼女はもとより彼女の両親が帰宅した様子も無かった。
佐々野宅のリビングには、朝食と弁当箱。それから、メモ書きと鍵が置かれている。
『悪い、今日は朝から依頼入ってて先出てるわ。メシ用意したから、弁当持って学校来いよ。鍵はスペア貸すから、今度返せ』
少々乱雑な書体。エレノアが見る限り、美夜の筆跡で間違いなかった。
学校へ行くにもまだ時間があったし、朝食も用意されていたから、エレノアはそのまま食卓についた。朝食は目玉焼きとソーセージ、冷めてはいるが白米も用意されていた。
「いただきます……っと」
ラップを剥がして、朝食を進める。
ゆっくりと食事をとっていると、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響いた。登校開始のアラームだ。
今回は学園島から少し離れた場所からの登校のため、エレノアは手早く食器を洗って片付けると、支度を済ませて足早に佐々野宅を後にした。
□
一般教科の間も、美夜は現れなかった。
ぽつんと空いた席を眺めつつ、エレノアは右手に握り締めた鍵を手の内でころがす。
聞いて回った話では、彼女は
美夜の置き手紙通り、機会が来たら返却出来るように鍵は預かっておこう。そう決めて、エレノアは車輌科へと向かう。
車輌科は相変わらずの喧騒だった。それに加わること無く、足早にまず向かったのは自身の車が保管されているガレージ。
シャッターは開けられていて、その中でヴァンテージはエレノアを待ち受けていた。
外観に大きな変化は無い。わずかに車高が低くなり、タイヤ周りに変化が見られる程度。ホイールはどうやって調達したのか、大径化した純正のような形状を残すメッシュホイール。ブレーキも大型化されていたから、合わせてタイヤサイズも上げたのだろう。
「どれ……っと」
ボンネットを開けると、中はスカスカにスペースが空いていた。元々大型のV型8気筒を収めていたエンジンルーム内には、日本はおろか、世界でも優秀と名が挙がる直列6気筒エンジン『RB26DETT』がそのまま縦向きに収まっていて、不思議な光景だ。
カバーだったグリルはメッシュグリルに変えられ、スパルタンな表情を作り出すと共に前置きの
とにかく、イギリスのヴィンテージマシンに、日本のエンジンが収まっているのはやはり異様だった。
ボディ下部などを見て回るが、本当に一日で全てやり遂げたようだ。エレノアはドアを開け、運転席に座る。
「すごい……違和感ほとんど無いよ」
座った位置から見る景色に、変化はさほど見受けられなかった。溶け込むように配置されたブースト計や燃圧計などは増えていたが、補器類が増えることは仕方がない。
シフトノブもノーマルを意識したシックな物だ。
「ステアリングは……まぁ、いっか」
エレノアが難色を示したのは、唯一現代らしいスポーツライクな雰囲気を醸し出すステアリングホイール。アストンマーティンと国を同じくする、イギリスはプロドライブ製のスポーツステアリングホイールだ。
しかし、ノーマルのままでは不都合も出てくる。ステアリングホイールは代えが利くため、エレノアはあえて見ない振りをした。
「掛かるかな、エンジン」
キーは既にシリンダーに刺さっている。明らかに踏力のいる、重くなったクラッチを床まで踏み込み、ブレーキペダルも右足で踏み込む。
セルモーターの回る音に、明らかな金属を震わせるような旋律が交じっていた。強化したエンジンに合わせ強化クラッチに変更されているのは、その音と自らの左足に伝わる感覚からも明らかだった。
数回始動にチャレンジすると、エンジンは綺麗なハイトーンサウンドでエレノアを受け入れた。クラッチから足を離し、休息。当然ニュートラルポジションに入っているから、エンストは無い。
「不思議だなぁ。イギリス車からGT-Rの音がする」
軽くアクセルを踏み込むが、やはりそれはヴァンテージの音ではない。追随を許さない戦闘力を思わせる、力強くも美しいサウンドだった。
まだ全開は早いだろうか。どれほどの物になったのか、好奇心が湧いてくる。今すぐ練習用サーキットへ向けてアクセルを踏み込みたくなる。
「ボンド、客だぞ! ソイツは飛ばしても良いけど、南野さんの話聞いてからにしとけ!」
ガレージに飛び込んできた先輩の声を聞いて、エレノアは目を丸くする。
去っていく車輌科上級生のあとから、ひょっこりとガレージに顔を覗かせたのは、CVRの南野六花だった。
友人の、それも先輩が顔を見せたとあっては無視出来ない。エレノアは仕方なく、エンジンを停止する。
「ごめんね、エリー。これから練習だった?」
「いえ。少し調子見てただけなので。どうかしたんですか?」
車のドアを閉めつつ、エレノアは問う。CVRという特殊な科に所属する生徒が車輌科に顔を出すとは、珍しい。
「前のカジノ警備、お疲れ様って言ってなかったなって。それと、美夜ちゃんはまだ依頼?」
「──みたいですね。何してるんだか」
車に寄り掛かるエレノア。ガレージの天井を仰いでいると、傍に六花もやってきた。
「私、嫌な予感がするのよ。ピラミディオン事件も、あまりにあっさり終わりすぎてるし」
「だからって、調査になんて動けませんよ。それは先輩の憶測でしょう?」
「そうだけど……。エリー聞いてないの?」
「何をですか?」
「美夜ちゃん、最近妙な依頼ばかり回ってきてるの。依頼主は同じで、基本は狙撃手による護衛。でもお使いみたいな雑用もさせられてる」
まさか。六花へ視線を向けたが、彼女は至って真剣だった。
「ねぇ。私たち武偵は、受けた依頼を断れない。それがもし、巧妙にフェイクを掛けられた犯罪行為だったとしても」
美夜はまさか犯罪に手を貸しているのか。エレノアが聞く限り、そう捉えるしかない発言だ。
「美夜ちゃんは知らなくても、知らされてなくても……そういうことって、ゼロじゃないよ。武偵の依頼制度を考えればね」
重たく告げる六花。刹那に二人のスマートフォンがけたたましい音を上げた。
周知メール。内容を開いてみると、爆破事件とあった。エレノアたちに出番は無さそうだ。
「ふぅ……。最近周知メールが来る度に、気が気じゃなくなるの。美夜ちゃんの名前が出てきてしまわないかって」
「まだ危ない橋かの断定も出来ません。今は待ちましょう」
納得いかない様子の六花。しかし、それしかない。情報は全て憶測の域を出ない。エレノアの言う通りだ。
「そろそろ戻るわ。美夜ちゃんに会ったら、よろしくね」
そう言って、六花はガレージを後にする。意味深な事を告げられた。とはいえ、今それをどうにか出来るわけでもない。
気付けば車を走らせる前に、車輌科の履修時間は終わりに近付いていた。サーキットも追い込みを掛ける生徒で行列が出来ている。満足な走行は難しいだろう。
エレノアは近くを通りかかった生徒に、先に帰ることを告げてヴァンテージに乗り込んだ。
帰りに学園島を出て、首都高速湾岸線辺りを流せばテストにはなるだろう。馴らしもあるし、最初から全開は現実的ではなかった。
□
夕日射し込む湾岸線。車の流れは良く、ドライブにはちょうどいいスピードだ。ストレスも無く、無理もさせられない。
エンジンは快調に回り、電子制御も問題無し。サスペンション周りの改修によって、路面へのパワー伝達や路面追従性も発見時より上昇しているようにエレノアは認識していた。
圧倒的パワー、それでいて気を張らずに乗れる快適性。たった一晩でそれを両立させるのは、どれだけの困難か。エレノアはまだ巡航程度にしかアクセルを踏んでいない。床まで踏み込んだとき、どれほどの性能を発揮するかはまだ未知数だ。
ふと、エレノアの電話が鳴った。ワイヤレスイヤホンのボタンを押し、通話を開始。掛けてきたのは美夜だった。
『あぁ、わりい。運転中か』
「別に。ハンズフリーだし、流してるだけだから」
『そっか。朝、急に居なくなっててゴメンな』
「最初は困ったけど、依頼なら仕方ないよ。押し掛けたのは私だし」
エレノアはステアリングを握りつつ、しかし違和感を抱いた。なにも感じないようで、どこかおかしいと。
『……私さ。ずっと先輩方にウザがられてたじゃん? エリーも強いし、スズも強い。南野先輩なんて、私より美人だしさ』
「……美夜? 何か変なモノ食べた?」
『ずっと考えてた。私が皆に並べる要素ってなんだろうって。狙撃? それだけ?』
やっぱりおかしい。エレノアの疑念が確信に変わろうとしていた。
『だから変な依頼だと思っても頑張ったんだ。単位取っとけば、練習に集中出来る。……でも、ダメだった』
「美夜? 何を──」
『ウチ、バカだったんよ。とんでもないアホやった。でも、何としてもやり遂げる。エリー──スマン、次は殺し合いになる』
静かな敵意というべきか。美夜の言葉から感じたのは、やはり敵意だ。
「美夜? 美夜ッ!」
切断音。刹那、周知メールの受信をスマートフォンが告げた。だが、走行中に読むわけには行かない。エレノアは僅かにアクセルを踏み込み、焦燥に駆られるままパーキングエリアまでその速度を上げて向かった。
しかしパーキングエリアへの到着を待つこと無く、六花からの着信。エレノアは迷わずに受けた。
『エリー、周知メール見た?』
「運転中で、まだ。ただ、嫌な予感は当たってたみたいですね」
『……ううん、美夜ちゃんは関係無かったの。でも、調べてみたらやっぱり彼女の依頼主が犯罪行為に荷担してるのは間違いないみたい』
「そうですか。鈴那に繋いでみます。彼女なら何か知ってるかも」
『ええ、わかった。こっちもCVRなりに調べてみるわ』
通話を切り、次に鈴那へと通話を繋ぐ。情報科である彼女なら、何か知っているかもしれなかった。
『やはり来たか。何となく読めておったが』
「ということは、何か知ってるの?」
電話口で、鈴那は『ふむ』と少々悩むような声を漏らす。
『今回は不発だったんじゃが、爆弾がな。置かれたと見られる時間のあと、美夜の姿が街頭カメラに映っておった』
「爆弾?」
『ピラミディオン事件は始まりに過ぎなかった。まだ連中、手を考えておるようじゃ』
「それで爆弾? 大騒ぎになるわよ」
『裏の裏は表、ということじゃな。裏口からコソ泥して、次は表から堂々と。武偵が絡んでることもバレたから、立場を隠して協力させた。最後までやらせる気じゃな』
大きなため息がエレノアから漏れる。美夜が気付いた頃には、恐らくもう引き返せなかったのだ。だから、彼女は最後までやり遂げる事にした。どんな依頼であれ、武偵憲章に乗っ取って。
『エレノア? 大丈夫か?』
「……なら、私たちも武偵憲章で戦いましょう。第一条『仲間を信じ、仲間を助けよ』」
『無論じゃ。美夜も最初は知らんかったハズじゃからな、自棄になっとる可能性もある。作戦を立てる前に、わしらで任務の申請をしよう。希望のメンバーはおるか?』
美夜を助けるためのメンバー。自分と鈴那は当然、内容次第では六花もいると楽かもしれない。
いざというときに信頼できる仲間がまだ足りない。しかし、当てがない訳ではなかった。
「同じクラスの間宮あかり、火野ライカ、佐々木志乃。可能ならアリア先輩たちも」
『待て待て。一年だけで行くのも難しいが、神崎先輩らに協力を取り付けるのはもっと難しい気が……。やってはみるが、いつ戻る?』
「……なるべく早く戻る」
ギアを落とし、回転を上げる。その音が伝わったのか、鈴那は静かに通話を切った。
「全く、あのバカ。勝手に突っ走ってんじゃないわよ」
ぐん、と速度を上げるヴァンテージ。後ろに傾く車体。ぱさりとホッチキス留めされて纏められたメモ帳がサンバイザーから落ちて、エレノアの膝の上に乗った。
読む余裕など無い。今は一刻も早く、台場に戻らなければ。夕日の首都高速を、チョコレートブラウンの車体が走り抜ける。
まずは仲間を助けなければ。エレノアの語る通り、次は武偵憲章のぶつけ合いになる。
焦る心を落ち着けながら、エレノアは学園島へ向けて車を飛ばす。