江東区某所。エレノアとワトソンは、巨大な二十六番倉庫を前にしていた。
ここから、エレノアはただの姓名ではない『血脈』としてのボンドを背負うことになった。エレノアが望むまいと、ジェームズが望むまいと。征く道は違えど、結局エレノアはボンドの血族。イギリスが誇る最高のエージェント、ジェームズ・ボンドの実子なのだ。
そうした場所だからか、エレノアにはこの倉庫から数倍のサイズ感にも感じる圧を感じていた。
「鍵はあるかい?」
ワトソンは、あくまでも平静だ。名家ワトソンの血を引くものとして、ここはあくまでも見守る立場であるらしかった。
幸い、エレノアはこの倉庫の鍵は肌身離さず持っていた。倉庫の所有者は、彼女の知らぬ間にエレノアへと移されていたのだ。完全に購入されたスペース故、利用料金は発生していないが、定期的な支払いはあった。
所有者らしく鍵を取り出し、シャッターを開ける。電気が点くと、そこにはヴァンテージが消えたあとの、空になった倉庫しかなかった。
やはり、何も無い。エレノアは少々焦れ始める。こうしている間にも、鈴那へ捜査の手が及ぶはず。そう簡単に捕まる彼女ではないだろうが、もたもたと時間も掛けられない。
「もう、一体どこにジェームズの装備が──」
倉庫に踏み入ったエレノア。ヴァンテージが置かれていた辺りに足を置くと、その部分の足音が違う事に気づいた。
勿論、ワトソンもすぐに反応を見せる。
「妙な響きがあるね。普通この下に音が響くような要素はないはず……」
足音に妙な響きがある。コンクリートのように見えるが、コツン、コツンとらしくなく軽い音がする。明らかに普通の床ではないようだった。
それも、ヴァンテージのあった下の床だけが、その音を発するのだ。
「……なるほど。ヴァンテージに乗り込むだけなら気付かない。クルマが邪魔で、そこに足を置くことはないからな。ボンド、手紙にもあったんじゃないかい?」
「“楽園の戦士を求めるなら、足下を見ろ”……。まさか、本当にそのままってこと!?」
明らかな異変はそこだけ。ジェームズが『ヴァンテージに乗った状態のエレノアへ手紙を書いた』とまで見越しているなら、つまりはそのまま『ヴァンテージの下を見ろ』ということだろう。
自分は父親に見くびられているのか、と思わず憤慨しかけて、何年も彼の謎解きを解けていなかったことを思い出して、思わず目を覆った。
「この床を開ける方法は? 書いていないのかい?」
「流石にそれは……」
手紙にはあくまでも場所のヒントしかなかった。開ける方法は見当たらない。
ヴァンテージを戻せば開くのか? いや、それならば倉庫の電源が入った時に床は開いていたはずだ。そうであれば、音や異変で気付く。
「手詰まりかな……」
壁などに隠しボタンなどがないか、ワトソンと隈なく探すもそんなものはどこにもない。完全に詰みだった。
時間がない。焦燥感がより強くなっていく。
「ダメだ、奥にも装置らしいモノはない。何か、キミにしか無いものがあるはずだ。ボンド、よく考えるんだ」
「そんなこと言われたって──」
わかるわけがない。そう言いかけて、ワトソンの言葉に一つの引っ掛かりを覚える。
エレノアにしかないもの。血? いや、ダークファンタジー小説じゃあるまいに、諜報員のジェームズがそんなものを捧げろとは言わないはずだ。
倉庫を見渡してふと、ベレッタが置かれていたガンラックが気になった。壁や床にも何も無い。しかし、ヒントはこの倉庫以外を指しているともいえない。ならば、ダークファンタジーではなく、推理モノならどうだ。隠し部屋への入口があるとするなら──仕掛けがあるなら、ガンラックじゃないか?
エレノアはベレッタをガンラックに戻してみるが、何も起きない。それも当然だ。ベレッタが鍵なら、最初から隠し部屋は開いていたはずだ。
ガンラックからベレッタを下ろし、良く調べてみる。フックにピストルを乗せる形のラックだが、何かある。
エレノアが注目すると、それはセンサーのようにも見えた。手をかざす、もう一度ピストルを戻す。そのどれも意味はなかったが。
「ボンド。そのセンサー、上に何か刻まれてる」
ワトソンに視線を導かれ、刻まれたマークに目を凝らす。それを見た時、エレノアの中で謎が全て解けたといっても過言ではなかった。
「このマーク、私のワルサーに刻まれているマークと同じです。『私にしか無いもの』──父譲りのワルサー!」
美夜たちにも何度かつつかれたことがある。彼女のP99に刻まれた、謎の刻印について。
「これは……小さくて判別が難しいが、MI6の刻印に見える。もしかするとアタリだぞ、ボンド!」
「学園島に戻りましょう! 拳銃は車輌科にあるんです!」
□
ワルサーを取りに戻り、再び倉庫へ。
ワトソンも心做しか緊張しているようだが、エレノアはゆっくりとガンラックにワルサーを掛けた。
暫く機械音が鳴ると、ガンラックから女の声が流れる。
『刻印を確認。ゲートを開放します』
正解だ。エレノアが後ろにいるワトソンへ振り返る。
二人して思わずテンションを上げてしまった。しかし、少しして開きかけたゲートが停止する。
『ゲート上に重量物を確認。ゲート開放を中断します』
何らかのセンサーがゲート開放を止めてしまったらしい。エレノアはゲートの上にいない。つまり、残るはワトソンだが──
「ボ、ボクはそんなに重くないぞ!?」
「重量センサーですよ! ワトソン先輩、下がって!」
「ハッ……! そ、そうだよな! ボクとしたことが、そそっかしい!」
慌てたようにゲートから退くワトソン。ゆっくりと、だが静かにゲートは開いていく。
中から現れたのは、一本の階段だった。倉庫の電源が入っているからなのか、中が暗闇ということはなかった。
ゲートが開き切るのを確認すると、二人で一度顔を見合わせて頷いた。エレノアを先頭に、一段また一段と階段を降る。ジェームズがこの階段に資金をどれだけを費やしたのかは分からないが、倉庫からでは終点を確認できなかった。二人も五分ほど階段を降り続け、ようやく機械式のゲートが立ちはだかったのを確認したところだ。
「随分降りてきたが、また扉か。電源が来てないのか?」
扉は開かない。ワトソンが周囲を見渡すが、それらしいパネルがあるわけでもなかった。
「……うーん」
エレノアは唸りつつ、扉に触れる。すると、電子音と共にロックの外れる音がした。
とうとう扉が開いた。ごう、とその先の空間に籠っていた風が二人になだれ込む。
「掌紋認証……? ここでか……?」
「でも私、ジェームズにはあったこともないですし……」
ジェームズに会ったことはない。掌紋など取れるはずがない──と、一瞬は思った。しかし、一箇所だけ思い当たる場所があった。
「孤児院……」
エレノアの育った孤児院。院長は彼女の事情を、少なくとも知っているようだった。だからこそ、入金される金の使い方も、孤児院から旅立つ時の物資もエレノアに語られ、そして渡されたのだろう。
つまり、院長がジェームズからの依頼で、幼少期のエレノアからデータを取った可能性があった。当時は彼女も幼かったから、検査の名目なら疑いもしなかった。実際、検査など何十回も孤児院の友人と共に受けた。どれがここの封印に関わっているかは、最早知りようがない。
「──ボンド、これはスゴいぞ。ボクの想像の遥か上を行く中身だ」
扉の向こうは、また大きな部屋になっていた。それも、倉庫とは比べ物にならないほど近代的で広い。
白一色の味気ない空間だが、自動車が確認できるだけで七台、バイクが一台存在する。カバーが掛かった一台とバイク以外、全てアストンマーティンと確認出来た。
「凄い……。2009年式DBS──多分色はクァンタムシルバー」
車を見て回るエレノア。一台はすぐにでも動かせそうだった。それが彼女の見つめる、グレイッシュシルバーとも言える専用色『クァンタムシルバー』に身を包んだDBSだった。
内装を見るが、劣化も全く無い。ブラックインテリアに、マニュアルギアボックス用のシフトノブも見て取れた。
「こっちも素晴らしいよ、ボンド。2001年式V12ヴァンキッシュだ──内装の兵器類のスイッチも生きてるように見える」
シルバーの車体は変わらないが、色味は違う。DBSと比べると少しずんぐりした大きさだが、全体的な細かいデザインはDBSへ確かなフィードバックを感じさせる車体。それがV12ヴァンキッシュという、世界で最も有名なボンドカーの一台といえるマシンだった。
「楽園の戦士──そういう意味だったのね」
エレノアの目の前に、二台の車が並んでいる。そのどちらも全高は異常に低く、比較的低い部類に入るDBSよりも更に低い。全体的に平べったいが、各部に無駄がない。空気の取り込み、排出、利用。その機能をフル活用するための車体。
余分な物はなく、何一つ飾らないながら一目でアストンマーティンと判る流麗なデザイン。
二台は兄弟車であり、『空力の鬼才』と異名を取る天才デザイナー、エイドリアン・ニューウェイがデザインした、アストンマーティン最強のモデル。
「ヴァルキリーに、ヴァルハラ……。こんなものまで」
「DB10に、DBXもあるよ。ジェームズはとんでもない物を残していたんだね。──そこのカバーには何が?」
ここのモデルだけでも日本円にして20億円以上の価値がある。しかし、まだカバーを被った車が一台あるのだ。
エレノアにはなんとなく予測がつく。しかし、鼓動はより高鳴っていく。ワトソンと二人、左右前方からカバーを捲っていった。
「コレは……とんでもないぞ」
現れたフロントマスクを見て、ワトソンが目を丸くした。カバーを取り切り、エレノアさえその場に固まった。
明らかなノスタルジックシルエット。低さはないが、メーカー独自の美しさが見て取れる。シルバーの車体、高扁平のタイヤに錆び付いたワイヤーホイール。一部欠損があり、車体はジャッキで上げられた状態で置かれていた。
「DB5……。ジェームズの、愛車」
その価値は1963年生まれながら、今の時代まで
リアには仕舞い切られずに残された防弾プレートが、トランクフードから立ち上がったまま放置されている。
つまり、これも本物のボンドカー。内部を開ければ、その装備はもっと出てくるはずだ。
「これが、エレノア・ボンドに遺された装備か……。ん……?」
エレノアには時間がない。DBSで大阪へ向け出発をしようとする彼女の傍ら、ワトソンはDB5の車内にタブレットを見つけた。電源を入れ、内容を確認すると、秘密通路に車を向けたエレノアへタブレットを放った。
「ボンド! キミ宛だ!」
「え!? おっと……!」
タブレットを胸元でキャッチし、画面を開く。PINコードが求められたが、試しに入力した誕生日で突破。すると、画面には『航空券の予約完了』の表示。
「航空券……? とにかく、行かないと! ワトソン先輩、車輌科と装備科にこのクルマたちを回収させてください」
「いいのかい? きっと、彼らは興味本位に分解するよ」
「大丈夫です。これは、もう私のですから」
サムズアップをワトソンへ見せると、エレノアはDBSに乗り込んだ。専用のキーをセンターコンソールに挿入し、押し込む。調子の良いセルモーターの音と共に、長いボンネットフードの中に収まったV12エンジンに火が入る。
「ガソリンはほぼ無しか。途中で入れるまでは、アクセル踏めないわね」
フューエルゲージはほぼ、エンプティを指している。バックミラーでワトソンを見遣り、エレノアはゆっくりと倉庫地下の秘密通路を走り抜け、外へと抜け出した。
車の調子はかなり良い方だ。ガソリンを入れればもっとアクセルを開けられる。
大阪への道のりは遠いが、エレノアは鈴那の元へ急ぐ。その目的だけは、あれだけの宝の山を見ても変わっていない。
今回は、大阪へ出発前の新車大量登場回です。
DB5をはじめとして、様々なアストンマーティンが登場します。
DBSは慰めの報酬で登場した、クァンタムシルバーの個体です。
あの時の劇中車はダニエル・クレイグ氏が撮影時、マニュアル免許をお持ちでなかったようでマニュアル風のオートマだったようですね。
すぐに壊れてしまった個体ですが、DB9からのDBシリーズでは一番スポーティーで好きです。
ちなみに、カジノ・ロワイヤルのDBSはカジノアイスという専用色だそうです。
ヴァルハラはノー・タイム・トゥ・ダイに一瞬登場したことで、ちょっとだけ有名になりましたね。
DBXは007に登場したことないんですが、PS2版ソフト、エブリシングオアナッシングのポルシェカイエンのオマージュです。SUV枠だけポルシェなのもおかしいですし。
次はいつになるか、確約ができません。
気長にお待ちいただければと思います。DBSをかっ飛ばすエレノアちゃんは早く書きたいです。