祝福の物語 作:高城 あきら
「どうして私たちを騙したの?」
沈んだ声が広い部屋の中で虚しく響く。
マミはそっとソウルジェムをガラス机の上に置いた。そのくすんだ黄色の輝きは見とれるほどに綺麗だ。
それが魂の輝きであるという事実を除けば。
キュゥべえがその宝玉の真横に立つ。
「だましてなんかないよ。それに君には説明する時間なんてなかったはずだ」
ひどく無機質な声。マミはキュゥべえのそんな態度に腹を立てるよりも無気力感に襲われていた。
悪びれる様子もなく、声色に一切のぶれがない。
マミはその時初めて目の前にいる生物が理解の及ばない存在であると感じた。
人間の理解が及ばない、価値観が全く通用しない存在。
独りぼっちだったマミに寄り添ってくれた友達だったはずなのに、今は怪物のようにも見えた。
黒い感情がじくじくとマミの内側を蝕んだ。
あの時自分のことを願わなければマミの命は失われていただろう。契約したことについては後悔など無い。
周りの人を救えなかったという罪悪感はあるものの、だからこそ得られた力で罪なき命を救う。それがマミの使命だったはずなのに、今はそれが正しいのかすら分からない。
だが今気がかりなのはさやかのことだ。
「美樹さんには、ちゃんと説明したのよね⋯⋯?」
「していないよ」
マミはがばりと立ち上がりキュゥべえに掴みかかる。
目を大きく見開き絶望に満ちた表情で彼を睨みつけるが、本人は全く動じた風ではない。
その態度にマミの感情が逆撫でされた。
「どうして⋯⋯?」
「訊かれなかったからね。知らないことによる不都合なんて、何もないだろう? 現に君も真実を知ることなく、今まで戦ってこられた」
「そんな⋯⋯そんなことって⋯⋯」
マミの腕から力が抜け落ちた。信じていたものが根底から崩れ落ち、目の前が真っ暗になる。
黄色の瞳から涙が零れ落ちた。
太陽が覆い隠されて光が遮られた。
大きな窓から差し込んでいた陽光が消える。照明のついていない室内は薄暗く、まるで今のマミの心象のようだった。
今日は学校に行っていない。どうしてもその気になれなかった。
怒りすらも抱けなかった。ただ無力感だけが彼女を支配していた。
沈黙が空間を支配する。
マミは灰色の空気の中で、キュゥべえとソウルジェムだけが色を放っているように感じた。忌々しい存在だけが色を持ち、希望に満ちた世界が灰色に塗り潰される。
マミがガラス机に突っ伏すとひんやりとした感覚が頬から伝わった。
もう何かを考える気力すらない。マミが目を閉じた時だった。
チャイムの音が鳴った。
マミには立ち上がる気力すらなかったが、しばらくするとまたチャイムが鳴らされる。
さすがに怪訝に思いマミが立ち上がった時だった。
《おい、マミ。いるんだろ?》
《佐倉さん?》
《ちょっと話があるんだ。開けてくれ》
マミはのそのそと立ち上がり玄関へ向かう。
足が重い。体を引きずるようにして部屋を出ようとすると、
「気を付けた方がいいよ。ソウルジェムが肉体を操作できるのは、せいぜい百メートル程度だから」
「⋯⋯そう」
背後からキュゥべえに忠告された。
もう感情を動かす気にもなれなかった。机の上から玄関先までなら範囲内に収まる。引き返してソウルジェムを回収することまでもない。
しかしマミは立ち止まり、光の灯っていない目で振り返った。
「もう出て行って」
静かに告げた。キュゥべえは無言で机から降り、開いていた窓から飛び降りる。
それを見届けるとマミはソウルジェムを回収し、玄関の扉を開けた。そこにはいつもと変わらない様子の杏子が袋いっぱいのリンゴを抱えて佇んでいる。
彼女はマミが出てきたことを認めると、無言でリンゴをマミへと投げつけた。
マミはその赤い果実を受け取る。瑞々しい赤は、その果実がとても美味であることを表している。
とてもいい香りだった。
だがその感覚も、いまや魂の抜けた抜け殻が感じる錯覚に過ぎない。
その実感が再びマミを悲しみへと叩き落す。だがそれを表に出すことはない。
「それで、話って?」
「ああ、あんたと⋯⋯さやかって言ったっけ? あの新入り。あいつのことなんだけど」
「心配なの?」
「馬鹿言うなよ。あいつもあんたも同盟の一員だろ? これ以上足手まといになられちゃ困るってだけさ」
肩をすくめて笑う杏子。やはりいつもとほとんど変わらないその様子に、マミは眉をひそめた。
なぜそんなに余裕があるのだろうか。マミは半ば睨むようにして杏子を見ていた。
それに気づいた彼女は笑みを深め、リンゴを齧る。
「後悔したって仕方ないだろ? あたしはそれくらい大きな希望を叶えたんだ。でもあんたもあいつも、叶えた希望に対して払った代償が大きすぎる。その不条理が納得いかないってだけさ」
代償。
思い出すのは自らがキュゥべえに願った奇跡のことだ。
事故に遭って消えるはずだったマミの命を“繋ぐ”こと。それが彼女の願いだった。
その時は夢中だったために願ったのはマミの命だけだった。ずっと後悔していた。周りの人たちも救えたのではないかと。
“未来とは可能性だ”
閃光のようにその言葉がマミの脳裏に走った。
それはかつて魔女の結界の中で神也に言われた言葉だった。
そうだ。たとえ暗闇の中で迷ったとしても、未来という可能性を捨ててはならない。絶望に身を落としてはいけない。
マミは今こうして命を繋いでいる。
それで十分だった。巴マミという人間として存在できるのなら、戦いの運命に身を投げることなど容易いことだった。
代償は確かに大きい。しかし戦いをやめるほど大きなものではなかった。
「私は、キュゥべえと契約しなければ死んでしまうはずだったの。でも今もこうして生きてる。それに、この力を得たことでたくさんの人を救えるの。そう考えたらこの代償も、高すぎるなんて思わないわ」
「あんたは⋯⋯こんな状況でも人にために戦うってのか? そんなんじゃいずれ壊れちまうぞ!」
杏子がマミに詰め寄る。
怒っているのだろうか。こんな状態になってもまだ人のために魔法を使うという信念を曲げないマミに対して。
違う。マミはそう感じた。
心配しているのだ。大きな希望を抱いても結局それに見合うほどに大きな絶望が訪れることを知っている杏子は、マミが抱く希望を恐れているのだ。
そのあとに訪れる絶望を。
マミは気丈に笑って見せた。
襲い来る絶望を吹き飛ばすように、未来への不安を消し去るように。
「大丈夫よ」
杏子の身体をそっと抱き寄せる。その体の強張りを感じながら、杏子を安心させるように強く抱きしめる。
鉛色の雲が切れ、暖かな日差しが地に満ちる。
その光はマミたちも照らす。
あらゆるものを照らし出す輝きは、魔法少女という人間を逸脱した存在にも平等にその温度を与えた。
「私は未来を信じている。だから、絶対に絶望なんかしない。破滅なんて恐れない」
「ちがう! 希望と絶望は差し引きゼロだ! 未来なんか信じたところで、何も変わりゃしないんだよ!」
杏子がマミの身体を突き飛ばした。二人の間に数歩の距離が開く。
杏子は荒い息でマミを睨んでいた。その表情には怒りもあったが、最も大きなものはほかにある。マミにはそう感じられた。
「あたしらは取り返しのつかないところまで来ちまった。だったらもう、自分のために生きるしかないだろ?」
それは自分に言い聞かせるような声色で、信じられないほど弱々しく杏子の口から滑り出た。
マミは大きく首を横に振った。
「そうじゃないわ。これは私が私であるための信念よ。神也さん風に言うなら、
「あの、野郎の⋯⋯?」
「そう、貴女が嫌うあの人の。あなたにだってあるはずよ。まだ無くしていない、願いの起源が」
杏子は目を伏せる。きっと心の奥底に隠したものがあるはずだ。
ならばそれを引っ張り上げなければならない。たとえそれが深い闇の底にあったとしても、希望があるということを彼女には教えなければならない。
マミは杏子の手を取った。暗闇から救い出さなければならないのは彼女だけではないのだ。
「行きましょう。本当はあなたも心配なんでしょう? 美樹さんのこと」
マミと目を合わせた杏子は複雑な顔をしていた。
恐らく彼女自身にも整理がついていないのだろう。
ならば導かなければならない。希望の示す方へ、暗闇の出口へと。それが巻き込んでしまったものの宿命なのだから。
マミは杏子の手を引きながらさやかの家へと向かった。
マミの住まいからさやかの家まではそう離れていない。着いた時にはまだ太陽は高く昇っていた。
学校に行かなかったのはマミの勘だ。しかしそれは確信に近かった。
恐らくさやかはマミ以上に精神的負荷を負っているだろう。ならば学校に行く余裕などないはずだ。
《美樹さん、いる?》
半ば願うようにして声を届ける。
《マミ、さん⋯⋯?》
《よかった、いたのね。ねえ、美樹さん──》
《いつまでもしょぼくれてんじゃねえぞ、ボンクラ》
杏子のあまりにも乱雑な言い方にマミは呆れて額を押さえる。これではさやかが警戒して出てこないかもしれない。
マミは少し心配したが、やがてそっと玄関の扉が開けられ生気のない顔をしたさやかが出てきた。
今にも泣きそうな顔だった。それこそ暗闇の中に閉じ込められた者のように。
杏子はそれを見るや遠慮なしに門を開け、さやかの右肩を掴んだ。
さやかは拒絶することなく杏子を見る。払いのける気力すらないようだ。そんな様子のさやかに杏子は大きな舌打ちをした。
「ちょっと面貸しな。話がある」
そう言って杏子は強引にさやかを連れ出すと、マミの目の前で立ち止まった。
「どうする気なの?」マミが問う。
「行きたいところがあるんだ。自分の
杏子は自嘲気味に笑うと、右手に抱えた袋からリンゴを一つ取り出してさやかへ差し出して
「食うかい?」
さやかは気力のない瞳でその果実を見つめる。
「これ、どうやって手に入れたの?」
「それはあれだよ。魔法で少し、な」
さやかは顔をしかめた。杏子の手の上にあるリンゴを掴むと、袋に戻す。
「だったらあたしはそんなもの受け取れない。あたしは何があっても魔法を自分のためになんか使わない」
「⋯⋯そうかよ」
互いにかたくなだった。
だが歩み寄らなければ何も進まない。マミは二人の間に立った。
恐らく杏子なりに距離を詰めようとした結果なのだろう。わかりやすく表に出すことはしないが、それなりに付き合いのあるマミには落ち込んでいるのが分かる。
それを素直に出せればもう少し楽なのに──マミはそう考えて、それ以上深追いするのをやめた。外側を取り繕っているのは彼女とて同じなのだから。
人間は一人では何もできない──それを示したのも神也だった。
だから誰かに頼って生きて行くのだ。
マミはそっとさやかの肩に手を置いた。負の感情に塗りつぶされた顔のさやかが、そのマミの手を縋るように握った。
マミは笑いかける。さやかが少しでも希望を見出してくれることを祈って。
「行きましょう、美樹さん」
「マミさん、でもあたしは⋯⋯」
躊躇するさやか。自らのことについて、まだ整理がついていないのだろう。
多少強引な手段になっても構わない。マミにとってもうかけがえのない友となってしまったさやかが、絶望に落ちてしまう姿など見たくはなかった。
「美樹さん。後悔、しているの? 私はしていないわ。魔法の力を罪のない人たちに使うんだったら、後悔している暇なんてないもの」
マミがにっこりと笑うと、さやかは弾かれたように顔を上げた。
マミより少しだけ高い背丈の彼女は、マミを見下ろすようにして驚きに目を見開く。
その隣で杏子がリンゴを齧った。しゃり、という音がした。
「あたしは別にいいじゃんって思ってるよ。魔法少女ってのはなんだかんだ便利だし」
「あんたのは自業自得でしょ」
杏子は綺麗に芯だけを残してリンゴを食べつくすとそこらに投げ捨てようとして、マミの鋭い眼光に気づくとおとなしく袋の中に突っ込む。
杏子はにんまりと笑った。
「そう、自業自得にしちまえばいいんだ。そしたら全部自分のせいになるだろ? そうすれば後悔なんてなくなるし、大抵のことは自分で背負えるもんさ」
杏子は袋から二つ目のリンゴを取り出すと、また齧った。
透明な果汁が唇を潤す。杏子はそれを親指で拭うと、
「まあ、四の五の言わずに付き合えよ。話したいことは山ほどあるんだ」
さやかに向かって笑いかける彼女の声は、ほんの少しだけ陰を帯びていた。
学校の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室から次々と生徒たちが出ていく。
ほむらもさっさと荷物をカバンに詰めて立ち上がると、目の前に愛らしい小動物を思わせる少女がいた。
その少女は本当に花の咲くような可愛らしい笑顔をほむらに送ってくれるはずだった。
しかし今日に限ってはどこか沈んだような、暗いものを隠してしまったようなぎこちない笑顔をほむらへと送る。
ほむらはその傷ついた花に心が痛んだ。
やはり彼女が傷つくのは見ていたくなどなかった。
「ほむらちゃん⋯⋯その、今日も一緒に帰ろ?」
「ええ、もちろんよ。まどか」
笑いかけることはできなかった。
自分でもわかるくらい冷え冷えとした声が、ほむらの口から発せられた。
「あら、お二人ともお帰りですの?」
「うん。仁美ちゃんもいっしょ帰る?」
「今日は塾がありまして、学校から直接行かなければなりませんの。ですのでご一緒できるのは校門までですわ」
上品に仁美は笑う。
世界の表層しか知らないのんきな笑顔だ。だがそれが何物にも代えがたいものであることは、ほむらは実感として知っていた。恐らくまどかも、ようやく知ったことだろう。
ほむらは通学かばんを肩にかける。
無視をして帰ってもよかったが、必要以上にまどかを刺激して契約させるようなことは避けなければならない。傍にいた方が都合がいいのだ。
頼みの綱だった神也が使えない以上、ほむらは頭を冷やしきって計画を立て直していた。
この時点で誰も死亡しておらず、魔女にもなっていないのは好都合だった。もうこれ以上彼女たちが余計なことを知らないようにすればいい。
「さやかさん、大丈夫でしょうか⋯⋯?」
「え、あ、うん⋯⋯心配、だね」
仁美の心配そうな言葉に曖昧な返事を返すまどか。それを見ながらほむらは黙って二人の少し後方を歩いていた。
すると仁美はほむらの方へと振り返り、眉尻を下げた。
「暁美さんは、何かご存じありませんか?」
「いいえ。何も聞いていないわ」
「そう、ですか⋯⋯」
沈んだ声の仁美。だがどうすることもできないため、ほむらは黙るしかない。
ぽつぽつと短い会話を交わしながら校門へと向かう。
今日は魔女狩りをしながら、ついでにまどかに寄り付くインキュベーターを始末しようと方針を固めたところで、校門を出たすぐのところに人影があるのをほむらたちは見た。
なにやら言い合っているようで、生徒たちはその人影を避けるように歩いている。
「──皐月先生?」
最初に声を上げたのは仁美だった。
驚いた声すらも上品に上げた彼女の先に居たのは、緑色の少しウェーブ掛かった髪をした皐月先生と呼ばれた人物と、
「神也さん?」
なぜかその『皐月先生』に首を腕で固められている神也だった。
その『皐月先生』は彼女らに気が付くと、にっこりと笑った。
背が低く、童顔であるため女性のように見えるが、よく見ると男のようだ。ほむらは警戒し少し距離を取ったが、仁美は無警戒でそんな彼らに近寄って行く。
ほむらがそれを止めようとしたときには、彼女はすでに男たちの前にいた。
「こんなところで何をしていらっしゃいますの?」
「いやあ、実は暁美ほむらさんにこいつが迷惑をかけたみたいで、謝らせに来たんだ。そういえば友達だって志筑さんも言ってたね」
『皐月先生』が笑う。どこか神也を思わせる笑い方だった。
「お話し中だったでしょ? ごめんね、すこしお話しさせてもらっていいかな?」
『皐月先生』がほむらに向かって話しかけた。
腕の中で神也が藻掻いているが、がっちりと極められて身動きが取れていない。
警戒して動けないまどかとほむらに今度は仁美が走り寄ってきた。
耳まで赤くなっている。
志筑仁美という少女のことはほむらも詳しくは知らないが、あまりそういった表情をするような人物ではなかったはずだ。
「大丈夫です、怪しい方ではありませんわ。あの方は
ほむらはその男を見上げた。と言ってもほむらとの身長差は頭一つ分もないのだが。
皐月翔はにっこりと笑った。本当に女性みたいな見た目をしている。
「本当にごめんね、親友が迷惑をかけたみたいで。連れてきたんだ」
ようやく解放された神也が咳き込みながら翔を見下ろす。
目隠しのせいでほむらからは詳しい表情が分からないものの、どうやら怒っているようだ。
ほむらはその時初めて、嘘偽りのない彼の“人間性”を見た気がした。