祝福の物語 作:高城 あきら
「ワル⋯⋯なんて?」
「ワルプルギスの夜、よ。美樹さん。魔法少女の間で噂になっている、超弩級の魔女なの。なんでも自然災害と見まがうほどに強力な魔女だそうだけれど、加野さん、本当にワルプルギスの夜が見滝原に来るんですか?」
さやかとまどかはぴんと来ない顔をしていたが、マミは流石に魔法少女としてのキャリアが長いこともあって、ワルプルギスの夜のことをうわさ程度には知っていた。尤もその実力まではよく理解していないようだが。
ワルプルギスの夜。それはほむらにとって忌々しいほどの理不尽だった。
笑い声を響かせながら、見滝原の街をまるでウエハースのセットのように吹き飛ばすさまは、いっそ清々しいほどだ。
「未来は割と簡単に変わる。巴、君の死ぬ未来が避けられたように。だが、大きな流れを変えることはできないんだ。例えば台風なんかいい例だろう? 来ることが分かっていても、台風そのものをどうこうすることはできない。あれはその類の存在だ。見滝原に来ることは確定といってもいいだろう」
マミが息を飲み、そしてそれでも決意を滾らせているのがほむらにも感じられた。成程、この町を守る正義の魔法少女でありたいという、マミの信念をうまく利用している。ほむらは神也に対し、今度は本気で感心していた。これでマミとの共同戦線は確定されたようなものだろう。後はワルプルギスの夜が来るまで、彼女が余計な真実を知らなければいいだけだ。
逆にマミが真実を知ってしまった場合、錯乱した彼女は何をしでかすかわからない。それも暴走した正義を纏って。
ほむらの中で苦々しい記憶がよみがえる。事故的とはいえ、魔女の正体を知ってしまったマミは彼女の持つ使命感を暴走させ、その場にいる魔法少女を消そうとしたのだ。将来、魔女になり果てる存在のことを。今思い出しても寒気がする。マミの戦闘センスは本物であり、あの時彼女は、錯乱しながらも冷静に対処していた。恐らくまともにやりあって勝てる相手ではない。しかし、問題はまだ山積みである。
「それでもワルプルギスの夜とやりあうには戦力不足よ。加野神也、巴マミ。あなたたちがいても勝てるかは分からない⋯⋯いいえ、恐らく相当に分が悪いわ」
「ああ、それは否めないな。そこで、私が提示できるカードはあと一枚ある──私は、この共同戦線に、佐倉杏子を招きたいと思っているんだ」
「なんですって!?」
露骨にマミの顔が歪む。佐倉杏子と巴マミは確執のある相手だ。ほむらも詳しいことはよく知らないが、恐らく考え方の齟齬が生まれたのだろう。自らを滅し、他人のために魔法を使い続けるマミと、己のためだけに魔法を使い続ける杏子。
以前はほむらもマミ側だった。困っている人のために魔法を使い、犠牲者を出さないために魔女と戦い続けた。それが自らに与えられた使命だと信じ切っていたのだ。純粋に正義の味方として。その愚かしさすら知らずに。
今は違う。彼女はまどかために戦っている。まどかの守りたいものを、大切なものを犠牲にしてもまどかを救う。それだけだった。暁美ほむらに残された道しるべは唯一、その一つだけなのだ。
「巴、君が佐倉杏子に対して複雑な感情を持っているのは理解している。価値観の相違というやつさ。君の正義と彼女の欲望は決して相容れないものだ。でもね、それがこの町を滅ぼす結果になるかもしれないなら、話は違うだろう? ⋯⋯まあ正直な話、私も彼女に斬りかかられたことがあってね、ちょっと苦手なんだ。一方で、」
神也は肩をすくめると、マミを見る。そして片目だけ目隠しを外した。虹の瞳が彼女をとらえ、絶対に目を逸らさせない。
「彼女の本心はそこにはない」
神也は再びその七色の光を覆い隠すと、背もたれに寄りかかる。
そしてびしっとマミへ人差し指を向けた。
「君は、一度彼女と言葉を交わしたほうがいい。
「そういう未来を見たんですか?」
「言ったろう? 未来は簡単に変わる。結構当たる占いくらいに思っていたほうがいいさ」
さて、そろそろ解散の時間かな。そう言いながら伝票をもって立ち上がった神也を、ほむらは凝視していた。ほむらには、ここにきてからずっと胸中に抱く疑問があるのだ。
「ねえ、加野神也。あなたにずっと訊きたかったのだけど、私たちのプライバシーはどの程度見られているのかしら」
場の空気が凍り付いた。おそらく誰もそのことについて考えなかったのだろうが、それにしても短絡的に過ぎるのではないか? それとも魔女の結界内での出来事が、加野神也という人間を信用できる存在だとして彼女らに印象付けられたのかもしれない。
ほむらは何というか、みなが容易くキュゥべえに騙される理由を垣間見た気がした。
たっぷり一分は経過しただろうか。ぎぎぎ、と軋んだ音が鳴りそうなくらいゆっくりと振り返った神也の顔は青ざめており、顔中に滝のような冷や汗が浮かんでいた。
「⋯⋯割と全部」
ファミリーレストランの片隅で、少女たちの悲鳴と怒号が響き渡った。
その後、会計を済ませた彼女らは神也の提案で連絡先の交換をし、そして土下座せんばかりの勢いで謝り倒す神也に対して制裁を加えた後、解散という流れになった。
しかし、鬼のような形相で彼に掴みかかるまどかには流石のほむらも唖然としており、さやかも猫だましを食らった出目金のような顔をしていた。食事中に見せたマミの怒りよりも、よほど生存本能に警笛を鳴らすそれは成程、まどかが惑星規模の被害をもたらす魔女に成れる素質を持った少女であるというのにも納得がいった。
しかしあの温厚な少女の典型例といったまどかをあんな顔にさせるとは、一体神也は何を見たのだろうか。今度こっそり訊いてみよう。とほむらは胸に決め、家路に着こうとしたが足が縫い付けられたように動かない。怪訝な顔で振り返ると、太陽が沈んでいるにもかかわらず、彼女は虹を見つけた。
この男、まだ私に蹴られ足りないのか。ほむらは半ば殺意を抱きながら彼を睨みつけると、神也は慌てたように再び目隠しをした。それと同時に霧散する虹の蔦。
「君に話がある。少しでいい。時間をくれ」
ほむらの眼光に怯んではいたものの、その声は静かにゆっくりと放たれた。
まだ話していないことがある。そう、キュゥべえの──
ほむらもゆっくりとうなずいた。
「ありがとう、時間はとらせない。まず目下の目標だが、鹿目を契約させないことと、ワルプルギスの夜を倒すこと。後者はともかく、前者はあまり問題がないだろう。私が近くにいる限り、インキュベーターは鹿目に近づくことができないからね」
ほむらは今、聞き捨てならない言葉を聞いていた。
青天の霹靂が彼女に叩きつけられ、眩暈を起こした。都合がよすぎる話だ。目の前の男はキュゥべえとは違い、嘘を吐くことができる。ほむらを安心させるために、聞き触りの良い言葉を与えているだけかもしれない。
そんなほむらの感情が顔に出ていたのだろうか。神也は心配しなくてもいいと言うように頷き、腕を組んで続きを話し始めた。
「キュゥべえは私のことをひどく警戒している。いや、正確には彼らを殺すことができる私の能力を、かな。この眼と感覚共有の力があれば、インキュベーターを宇宙の塵にすることはできるだろう。実際私はここ数年、彼の姿を見ていない」
キュゥべえを脅かす存在がいる。にわかには信じがたい話だった。いくら手を尽くしても蛆のように湧いてきて、まどかに契約を迫る奴らが跡形もなく消え去るのというは、ほむらにとって、希望の光と同義だ。
しかしだ、それならばほむらの中に浮かび上がる疑問がある。
「それが本当なら、キュゥべえを見つけ出して始末すれば楽な話じゃないかしら? あなたの眼ならそれができるでしょう?」
「そうしたいのはやまやまだが、彼らを消したところで状況は変わらない。むしろグリーフシードの回収ができなくなり、魔法少女も次々と減っていくせいで、世界中に魔女があふれかえる大惨事となってしまう。幸運なのはインキュベーターがこの事実を知らないことだな。彼らには死の意識というものがないから、滅亡した後のことは全く考えていないようだね」
そこまで都合のいい話はないようだ。しかしキュゥべえがまどかに近づくリスクが抑えられるのなら、それは大きな進展ともいえる。
それならば。ほむらは瞑目し、自らの決意を改めて見つめた。
何度も繰り返した時間の螺旋の中、加野神也という存在はようやく見つけた大きな光芒だ。だが考えもなしに食いつくにはまだ早い。ほむらにはまだ、彼に対しての大きな疑念がある。
「インキュベーターについてはよくわかったわ。でもまだ私の疑問は払拭できていない。食事の時はなあなあになっていたけれど、あなたの魔法のことを、もっと詳しく教えてくれないかしら?」
ほむらの言葉に、神也は押し黙ってしまう。何か不都合でもあるのだろうか。
彼が本当のことを言うまでほむらも動くつもりはない。彼女は、余程知られたくないことでもあるのか、もごもごと口を動かす神也をしばらく見つめていたが、やがて「わかった、すべてを話そう」と彼が皮肉気に両手を挙げたのを確認して思わず嘆息した。
この男は協力関係を築こうというのに秘密が多すぎはしないだろうか。ほむらはそう感じていた。思い切り自らのことは棚に上げて。
すると突然、神也は目隠しを両目とも外し、爪のような形状に虚無の結晶を展開させると、躊躇なく上から下へ胸を切り裂き、裂け目を両の手で広げた。そして彼女は見た。どくどくと脈を打つ彼の真っ赤な心臓に、黒い
グリーフシード。
魔女の卵。いずれ孵化して絶望を振りまく黒い宝玉。
ほむらは言葉を失っていた。まさか、まさかこの男は──
「君の想像通り、このグリーフシードは私の恋人のソウルジェムが変異したものだ」
神也が手を離すと、虹色に輝く結晶が植物の蔦のように傷口を覆い、裂かれた服を縫い合わせた。今ほむらの目の前に立っているのは、胸を心臓が見えるほどに深く切り裂いたとは思えないほどに、平然と立っている背の高い男だった。
ほむらは絶句して、思わず口を押えた。何を考えているのだ、この男は。可能性があったところで、そのようなことができるのだろうか。
しかしこれで彼の謎が分かった。信用しても悪いようにはならないだろう。その内容自体は正気の沙汰ではないが、神也が魔法を使える理由そのものは判明したのだから。
そのうえでほむらが抱いた感想は、
「気色が悪いわ」
「恋人にも言われたよ、それ」
もう少し言葉は優しかったけど。そう言いながら目隠しを被り、歯を見せて笑う神也。しかしほむらは別のことを考えていた。この男は今、傷を縫うことで体を修復した。それならば他にある大きな不安要素を取り除けるかもしれない。
美樹さやかのこと、そしてその契約のきっかけとなる彼のことだ。
さやかが契約する理由のうち、そのほとんどが彼女の幼馴染であり、秘めた想いの先である上条恭介のことだ。交通事故に会い、腕を動かすことができなくなった若き天才ヴァイオリニスト。そんな彼の腕を再び動かせるようにするために、さやかは魔法少女となるのだ。
そして意外にも傷つきやすく繊細な彼女は、高確率で魔女と化す。まどかがそんなさやかを救うために、魔法少女となったのは一度や二度ではない。美樹さやかの魔法少女化は、まどかが契約する原因となり得る要因のうちで最も大きいものだった。
ならばその理由の方を消してしまえばいい。いま神也が見せた力で、上条恭介を治療してしまえばいいのだ。
ほむらはそのことを神也に伝えた。彼は成程、と頷いて、
「それはいいな。だが問題もある。病室に入り込むのは美樹に協力を仰げば何とかなるだろう。私は自分の身体からしか虚構物質を展開できないが、いざとなれば拘束してでも上条君に触れられればいい」
「結論だけを簡潔に言いなさい。そこまで問題がないなら、あなたの言う『問題』とは何なの?」
「手厳しいね、もう少し会話を楽しんでくれてもいいじゃないか。⋯⋯睨むなよ。冗談だ、すまん。私は今日、眼の力を使いすぎた。全機能の解放までしたんだ。今はまだ来ていないが、反動として丸二日ほど寝込むことになるだろうね」
それでも問題はないか? 首をかしげてそう尋ねる神也に、ほむらは頷いた。
そう、問題はない。さやかが恭介の事実を知るにはまだそれなりに猶予がある。それに魔法少女の厳しさについて、図らずも神也が警告していたことでさやかに恐怖心が植え付けられたはずだ。そして、
「あなたなら上条恭介を治療できること、美樹さやかに伝えておくわ」
「オーケイだ。当面の目途は立ったな。──そろそろ反動が来る。引き留めて悪かったね。道中気を付けて」
「私は平気よ。それよりもあなたの方が重症に見えるわ」
平気平気、と言いながらもふらふらと歩いてゆく背中を眺めた後に、ほむらも部屋に帰ることにした。
振り返った時、すっかり太陽が落ちて冷たくなった夜の風が彼女の長い髪を煽り、大きく巻き上げる。彼女は暴れる髪を右手で抑え、夜空を見上げた。
雲は一つもない。本当ならそこに満天の星空があるのだろうが、今は新興都市である見滝原の街灯たちの光が邪魔をするせいで、星々の輝きが隠されている。
しかし、ほむらにとってはそのわずかな光こそが希望だった。ずっと変わることのなかった暗闇に照らされた、弱弱しくも確かな光だった。とりあえず、怒涛のように過ぎていった今日一日の情報を整理しなければならない。そう考えながらほむらは家路についた。
翌日、昼のチャイムが鳴り、生徒たちが各々の昼食をもって友人たちと憩いの時間を過ごす、昼休みが始まった。と言っても生憎、暁美ほむらにはともに昼食を食べる友人など居はしないが。
適当に購買で買ったパンをもそもそと食べ、あとの時間はまどかを契約させないためにどうするか計画を立てる。それが彼女の昼休みの過ごし方だった。
昨日までは。
「ちょっとほむら~、あたしたち花も恥じらう女子中学生なんだよ? そんな味気ないパンだけなんてもったいないよ。ほむらはかわいいんだからさ⋯⋯ていうかどっちかって言うと綺麗系? まあとにかく、そんな味気ない食事じゃそのまま味気ない体になって⋯⋯あ、ごめん、怒らないで。そんな怖い顔でこっち見ないで」
「さやかさん、今のは少しひどいですわ。暁美さんは今のままでも十分魅力的ですもの。無理に変える必要なんてありませんのよ?」
「でもほむらちゃん、確かにパンだけじゃ寂しいよ。よかったら私のお弁当分けてあげる! パパが作ってくれたんだ。とっても美味しいよ」
ほむらはなぜか今、屋上でまどかたち三人とともに昼食を摂っている。というのも彼女自身は何もしていないのだが、昼休みが始まった直後にさやかから「ほーむらっ、ごはん、一緒に食べよ?」と言われたからだ。そのまま無視してもよかったのだが、まどかからも懇願されては断るにも断り切れない。結局勢いに押される形で、ほむらは仲良し三人衆と昼食を共にしていた。
あれはいつのことだっただろうか、まどかの父お手製の弁当は分けてもらったことがある。ほむらに分けられた小さなハンバーグは、その時と変わらない美味しさだ。
まどかたちと普通に学園生活を営む。それはいつ振りだっただろうか、もう思い出すのも億劫だ。
周回を重ねるごとにキュゥべえの、まどかに対する執拗さは増してゆく。ほむらにも理由は分からないが、繰り返してゆくうちにまどかの魔法少女としての素質が増しているのだ。特に最近は彼女らと言葉も交わせないくらい、キュゥべえがしつこかった。
暖かい陽の光の下、さやかが笑っている。仁美が笑っている。そして、まどかが笑っている。
久しぶりだ。本当に久しぶりだった。まどかの笑っている姿を、こんなにも近くで見られるのは。
それを自覚した途端、ほむらの頬を伝うものがあった。
さやかがぎょっとして、ほむらを見る。言い過ぎただろうかと心配になり、急におろおろしだした。仁美も驚いたように口を押えている。
ほら、急に泣き出すなんて、変な子に見られてしまうじゃないか。
ごめんなさい。ごめんなさい。ほむらはそう言いながら勝手に溢れるそれを止めようと、目を乱暴にこすったが、次から次に溢れ出しては視界を滲ませてゆく。やがて堪えきれなくなり、ぽろぽろと零れ落ちてゆくそれを、ほむらはついに止めることができなかった。嗚咽がほとばしり、しゃくりあげ、言葉を発するのも困難になっていく。
「大丈夫だよ」
不意に暖かさに包まれた。規則的な心地いい音が、とくんとくんと、ほむらの耳に届く。
優しい声だった。忘れることのない、ほむらの
「ごめんなさい⋯⋯こんな、急に⋯⋯」
「ううん、私にはほむらちゃんに何もしてあげられないから、これくらいしかできないけど。辛かったらいつでも言っていいんだよ。だって私たちは、友達なんだから」
ほむらはただまどかの胸に縋りつき、静かに泣いていた。
時間とはいくつもの歯車でできた大きな機械のようなものだと、ほむらは思っている。それも繊細な機械だ。少し歯車の噛み合いがずれてしまうと、動きを鈍らせてしまう。
今までの時間は互いに空回りを繰り返していて、ほむらの意志を回すことはできなかった。しかしそこにもう一つの歯車がはめ込まれた時、再びそれは回りだしたのだ。
ほむらはまどかの腕の中、その大きな機械が回る音を確かに聞いていた。