一面灰色の荒野にぽつんとある岩の上に、一人の男が乾いてぼそぼそのパンを死んだ目で齧かじっていた。
男の肩には古ぼけて細かい傷がいくつもあるフリントロック式の騎兵銃から伸びる負い紐が掛けられており、服装も黒く染色された頑丈そうな革製のブーツや手袋、さらには胸には薄く伸ばした鉄を曲げて作られた胸甲を身につけていて、腰のベルトには革製の鞘に入れられたボロボロの剣が、吹きすさぶ荒野の風に揺れている。
そして男はパンを食べ終えたのか、手についたパンの小片を荒く振り払うと、静かに曇天を見上げる。リュートニア王立第三十二歩兵連隊。国家から徴発され、戦乱に身を投じた無数の若者たちによって形成された数多な部隊。その中の一つに所属して戦った者がこの男、ジョン・ロードナイトであった。
落花生の殻のような形をした大陸。その大陸の中でも、特に強大な陸軍を保有している大国リュートニア王国と、近頃高い軍事力によってその名を轟かせてきたデュンセン公国。両国は国境を接していたこともあった上に本来リュートニアにとって格下であったデュンセンが力を拡大してきたこともあったが、年々両国の関係は悪化。結果的にリュートニアによるデュンセンに対しての宣戦布告を境に、戦争を引き起こすこととなった。
当然ながらリュートニアは戦争を有利に進めるべく、自国と志を同じとする同盟国と連合軍を組織した。だがデュンセンもそれに対抗する形でリュートニアに反発する大国や小国を引き込み、同盟軍を形成したのだ。
そしてリュートニアによる宣戦布告から間も無くしてデュンセンによる応戦が始まった。そして大陸中を巻き込む戦争が始まってしまったのである。
結果的な話になるが、戦争は未だに続いていた。
その最中で様々な技術革新があり、旧来の戦争の中心であった騎士は数多の新兵器によりその座から引き摺り下ろされ、歩兵による戦争が主流になった。
リュートニアとデュンセン、そして両国いずれかに付いて各々の欲を叶えようとした国家も含め、全ての国家に等しく荒廃が与えられたからにも関わらず、残った国々はひたすら勝者になるべく醜い争いを続けていた。
急速な技術革新で自国の資源を次々に失い、その最中で多くの国民を戦争に投じ、そしてその国民たちの大半は死に、更に元からいた軍人たちも次々に死体の山を築き上げていく......そのような地獄を続けているのにも関わらず、まことに人間とは何と愚かであろうか。
美しき清流は濁流へと変貌を遂げ、緑豊かだった草原は戦いによって荒野となり、英雄の証であった竜騎士ドラグーンもその数を次々に減らしていき、気づけば傷付き死に絶え堕ちた竜の亡骸は、それほど物珍しい存在ではなくなり、歩兵の亡骸が丘を埋め尽くす戦争。もはや終わり処を見失った絶望。
そんな戦争が16年目を迎えた冬の日。
数々の王家が断絶し、国家の多くが滅び、荒野が草原に戻ることもなく、ただ絶望のみが漂う大陸に、彼...ジョンは生きていた。
「早く村に帰らないとな...。でも、羅針盤もないし地図もないし、一体どうすりゃいいんだ」
ジョンは曇天を見つめながら、そういった風に独り言を喋ると、はぁ〜っという大げさなため息を吐いた。
このご時世に別段珍しくはないが、軍人ではあるもののジョンは元から軍人志望の人間ではなかった。
というのも、戦争というものは国民の中でも健康な男子を徴発し、戦力としてこき使うのがこの大陸では至極一般的だったからだ。
そしてジョンも元はごく平凡な農民であった。
農民の父母から独立する形で実家のある村と少し離れた村に畑を持ち、とりあえずの平凡な暮らしをしていたジョン。
だが、そんなある日。いつものように朝飯を食べていたジョンの元に役人が訪ねてきたのだ。
結論から言えば、強制的な徴兵のお誘いであった。
無論ただの農民であるジョンに拒否の2文字はなく、淡々と首都に運ばれていった。
しかしながらジョンは徴兵組の中では特に戦争末期に多発していた数合わせの徴発であったため、結果ジョンはろくな武器も与えられずに前線へと出された。
しかしジョンは回復ポーションを染み込ませた絹製のガーゼで負傷兵の手当てをする準衛生兵であったことから、あまり人を殺すこともなかった。
ちなみに胸甲と騎兵銃は前線で死んでいたデュンセン騎兵の物を奪った物であり、それを除けば粗製のボロい剣と量産品の革鎧しか与えられていない。
そんなジョンではあるが、生き永らえることができただけ、戦場では誰よりも幸運であった。
だが、現在のジョンは残念ながら単なる逃亡兵に過ぎない。
数日前、年を越す以前に行われた会戦でジョンの属するリュートニアは大敗。
混乱の最中、敵軍から追撃戦で蹂躙された敗走中のリュートニア軍。それを見たジョンの心は、もはや完全に折れてしまった。
ジョンが軍に入って二年。負けは少なからず体験してきた。
たが、その大敗で今まで同じ釜の飯を食べてきた仲間が矢や魔術であっさりと死んでいくにつれ、自身が幼い頃から言われてきた神に祝福を受けたリュートニアの強軍とはこんなものだったのか?俺はこのまま追撃され死ぬのか?そんな思いがジョンの脳内を埋め尽くした。
そして、ジョンは逃げた。
一心不乱に、自身がどこに向かっているかもわからないまま、ただひたすらに逃げた。
森や川をいくつ渡ったかはわからない。ただ運よく敵兵や獣からは攻撃されずに済んだおかげで、気づけば見渡す限りの荒野に立っていたのだ。
正気に戻ったジョンは、ひたすらに故郷の村へ帰る術を探していたが、最早ここがどこか理解できないのに、どう帰ればよいのかわからない。
「うっ!ぺっ、ぺっ。あぁ、もう食えないなぁ・・・このパン」
パンをかじっていたジョンだが、突然舌に異変を感じたのか、今まで食べていたパンを全て吐き出す。
そしてパン自体を見てみると、どうやら既に半分かびていたようだ。
「とりあえず、歩かないと。いてて、歩きたくねぇなぁ」
逃亡してから数日の間逃げていたせいか、もはやジョンの足はボロボロであり、痛むのも仕方ないことだろう。
だが、このペンペン草も生えていないような荒野にいても餓死するだけ。
そう結論着けたジョンは、のろりと立ち上がり、静かに歩を進めるのだった。