我に返ったとき、血の海の中にいた。見覚えのある屋敷の中。目の覚めるような赤色の水溜まり。そこに、首の皮一枚で胴体と繋がった人間だったものたちが、三体か四体ほど転がっている。あれは何だろうかと呆けた頭で考える。目を擦ろうとして手を上げると、両手が赤く染まっていることに気付いた。
「――なんだ、これ」
ここはどこだ。何故こんなところにいる。痺れて働かない頭を必死に回して考える。考えて、考えて、考えて。全部自分がしでかしたことだと、思い出した。
――下弦の壱『独孤』。
それが、鬼舞辻無惨から与えられた新しい名前。それが嬉しくて、もっと役に立ちたくて、目一杯人を殺した。新しく習得した、もう一人の自分を生み出す血鬼術を生かして、大勢の人間を殺して回った。
そして今日、ついに人間だった頃の肉親を皆殺しにした。その肉が大層美味で、啜った血まで甘露のように甘く芳醇で、思わず涙を流した時。目の眩むような感情の濁流に溺れて、ようやく自分を取り戻した。
「――そうか。全部、俺のせいか」
開いた両の手の平で頭を握り潰す。脳漿が零れて眼球が飛び出すが、数秒もせず元に戻った。当たり前だ。俺は鬼。それも、一際人を殺して強くなった、十二鬼月。こんなものはかすり傷程度にもならず、瞬きの間に修復する。
死ぬ方法は3つ。人の手を借りずに終わらせるなら、ただ夜明けを待つだけで事足りる。どれだけ苦しくても、それが受けるべき罰。鬼と化し、己を見失い、人を殺して、遂には肉親さえも手にかけた、愚か極まりない男に相応しい末路。そんなことで償えるとは思わないが、それ以外に道が無いのも事実だった。
陽のあたる場所に出るため、ゆるゆると立ち上がる。時刻は深夜。夜明けまではまだ時間がある。死ぬ前に、せめてこの人たちを手厚く葬らねばならない。経などは読めないし、埋めて、日が出るまで祈ることしか出来ないが、それが今の精一杯だった。
亡骸を運び出す最中、ふと部屋にあった刀に目がいった。父の刀だ。父は腕のある武芸者だった。幼い頃、目にも見えない速さで刀を振るう父の背中を見て、そのひたむきさに憧れたのを思い出す。もうほとんど憶えてはいないけれど、脳に染み付いた映像が朧げに残っていた。
刀を持ち上げて柄を握ると、いやにしっくりくる。手に馴染む。しかし、これは自分のような外道が持つべきではないものだ。人を殺すことも、活かすことも出来る道具。人でなしどころか、本当に人でなくなった者が持つには、手に余る。本来なら――そう、自分のような鬼ではなく、研鑽を積んで鬼を狩る、鬼殺の隊員が持つべき代物。
――でも、もし。もしも、身体能力と再生力に優れた鬼が刀を持ち、呼吸を使い、鬼殺の剣士のように刃を振るったなら。全てを費やして研鑽を積んだなら。元凶を、始まりの鬼を、――鬼舞辻無惨を殺すことが、出来るのだろうか。
家族の亡骸を庭に埋めてから、手を合わせる。謝罪は尽きない。鬼としての長い生を尽くしても、足りることは無いだろう。だから、約束する。これからの生を全て贖罪に使うと。人を殺してきた罪を、家族を手にかけた罪を償うために、鬼舞辻無惨を討つと。その後は必ず、日に焼かれて苦しみながら死ぬことを、ここに誓おう。
――そんな、過去の幻影を見た。
◆
「はっ」
我に返ると、昇り始めた日の光でじりじりと肌が焼けていた。痛いとか熱いとかいう話では無い。脳に直接針が刺さるような、感覚を超えた激痛が全身に走る。
「やっばい死ぬ!」
走る、走る、とにかく日の当たらない場所へ一直線に。幸いまだ日はほとんど差していない。急いでねぐらに戻ればなんとか間に合う。半年前、必ず日に焼かれて死ぬと誓ったものの、それは今じゃねぇのである。
呼吸を使って身体能力を底上げし、風と見紛うほどの速度で山中を駆け抜ける。ねぐらにしている人気の無い洞穴で飛び込んだ時には、穴の入り口に差し込む日の光が見えていた。
「危な…。うっかり死ぬところだった…」
日の出ているうちは洞穴にこもり、瞑想をしながら呼吸の鍛錬。夜間は洞穴を抜け出し、開けた場所で日が出るまで剣術を研鑽する。眠る必要が無く、無尽蔵の体力を持つ鬼だからこそ可能となる鍛錬法。誤算があるとすれば、どうやら肉体に精神がついていかないのか、刀を振るいながら意識を無くすことがあること。無意識下でも動きが染み付いているのか、呼吸を使って刀は振っているようだったが、まさか太陽に焼かれるまで覚醒しないとは思わなかった。
――水柱と邂逅し、
使うとわかるが、この呼吸にはあらゆる場面に対応出来る柔軟さはあるものの、これといった決定力のある型が無い。高々10日振るった自分がそう思うのだから、歴代の使い手は嫌というほどそのことを知っているだろう。命をかけて鬼と戦う者たちが、そんなわかりきった弱点を放置し続けているとは思えない。ということは、十の型以降に威力のある何かしらの型があるはずだと、半ば確信していた。
そしてもう一つ。これがちょっと悩みどころなのだが、多分水の呼吸は自分に合っていない。腕は格段に上がった。最適な身体の動かし方を知ったことで、一足飛びに水の呼吸を使えるようになった。が、どれだけ振るってもある一定が超えられない。脳内に映し出した柱の剣技を、再現することが出来ない。
それに、どうにも水の呼吸はやけに疲れる。鬼だから実際に疲弊するわけではないが、なんというか、動いた分の力を発揮出来ている気がしない。歯車がうまく噛み合っていないような、根本的な部分で食い違っている気がする。
「あー、もう。せっかく、柱と会って生き残れたのに」
一方、風の呼吸はいやに馴染む。直感的に技が使えるし、身体が滑らかに動く感覚がある。使い手が技を繰る瞬間を一度見ただけで習得出来たことからも、多分こっちの方が身体に合っているのだろう。だからこそ優れた使い手が見たかった。風柱の剣技を見ることが出来れば、その技術を再現出来れば、今よりもずっと強くなれる。
とはいえ、また柱に会って生き残れる自信は無い。水柱の時も、彼がもう少し慎重な性格だったなら、地面の下にいる鬼に気付いて殺されていたやもしれぬ。博打を打つにしても、もう少し勝算を得てからしたいのが本音だった。
「…風柱に会いたかったなぁ」
無い物ねだりをしてもしょうがない。なんせ、物をねだれるような状況でもない。半年程前、鬼と戦う鬼殺隊員の戦闘を盗み見て、呼吸を覚えてから鬼を狩り始めた。殺した鬼の総数は凡そ百体程。そのうち、下弦の鬼は2、3体程狩った。
以来、鬼を狩ろうと夜に出歩くと、鬼に襲われることが増えた。下弦の鬼を狩って、ようやく鬼舞辻は謀反に気付いたらしい。鬼に襲われ、鬼殺隊に狙われる。気の休まる時など一時もなく、しかしそれこそが願っていた罰でもあった。
「――シッ」
窮屈な洞穴の中で刃を振るう。水の呼吸。確かに柱とは比べ物にならない出来ではあるが、以前よりも遥かに熟達している。現状では、風の呼吸よりも戦力としては高い。これなら以前よりも効率的に、多くの鬼を狩れるだろう。無論、上弦や柱と出会ってしまったら、逃げの一手ではあるが。
ともかく、今晩からまた鬼狩りの再開である。呼吸を使う隊士が見れれば儲けものだが、まぁ、世の中そんなにうまくはいかないだろう。
◆
「てめぇが鬼を狩るだとかいう巫山戯た鬼だなァ?」
むしろ最悪だった。