「―――はぁ」
天井を見上げて、竈門炭治郎は深く深く息を吐いた。
色々なことがあった。那田蜘蛛山での十二鬼月との戦いや、その最中に思い出したヒノカミ神楽の呼吸のこと。禰豆子の存在が鬼殺隊に露見してしまったことや、その後息をつく暇もなく開かれた柱合会議など、まるで嵐のような忙しなさだった。
そして今は、下弦の伍との戦闘で負った傷を癒やすため、蝶屋敷と呼ばれる屋敷でお世話になっている。なんでも、カナエさんが花柱だった頃から、怪我をした隊員を治療する場として活用しているらしい。手当を受けながら、そうしのぶさんに教えてもらった。
『それにしても、良かった。柱の人達に、禰豆子のことを認めてもらえて』
ともすれば、すぐに斬られてしまうかもしれないと思っていた。その時は命に代えても守るつもりだったが、柱を相手にすれば些細な抵抗しか出来ないことはわかっていた。
しかし実際は、風柱こそ禰豆子を認めず、自分の血で鬼の本能を引き出そうとしていたが、彼以外の柱は皆どこか受け入れても良い空気を漂わせていた。
確証は無い。柱が鬼を受け入れる理由もわからない。ただ、その匂いを嗅ぎ取ったことだけは事実だった。
『わからないといえば、もう一つ』
気になっていることがある。それは、この屋敷に来てから薄っすらと、しかし確実に存在しているこの匂いのこと。
「ねぇ炭治郎!俺さっき薬飲んでた!?飲んで無かったよね!?今飲んじゃった方がいいかな!?ねぇ!?」
「善逸から薬の匂いがしてるから、飲んだと思うよ」
「マジ!?それホントに!?信じていい!?」
「静かにしてください!他の人達の迷惑です!」
「ひいっ!」
「ウルサクシテ ゴメンネ」
「いや、伊之助が言われたんじゃ無いから」
アオイさんに怒鳴られてベッドの上で縮こまる善逸と、嘘みたいに覇気が無くなって弱々しい伊之助。それも、ここ数日で見慣れた光景だった。
「そういえば、アオイさん」
「なんですか」
「カナエさんはいるかな?少し、聞きたいことがあるんだけど」
「いらっしゃいます。ですが、その身体で動くのはおすすめしません」
「大丈夫。質問したら、すぐに戻ってくるから」
「そうですか。でしたら勝手にどうぞ。先程庭で桜を見ていらっしゃったので」
「うん、ありがとう」
アオイさんにお礼を言ってから部屋を出る。歩く度振動で身体が痛むので、出来るだけゆっくりと歩いた。庭に出ると、カナエさんはすぐに見つかった。咲き誇る桜の木の下で、ぼんやりと空を眺めている。舞い散る花弁の美しさも相まって、まるで一枚の絵画のようだと思った。
「あら。こんにちは、炭治郎くん。怪我の具合は大丈夫?」
「こんにちは、カナエさん。はい、おかげさまで、大分痛まなくなりました」
「そう、ならしのぶにもそう伝えてあげて。きっと喜ぶと思うから」
「はい、あとで会う時に必ず伝えます!」
カナエさんは優しく微笑む。心の清らかさが伝わってくるような、温和な笑顔だった。しかし、わかる。わかってしまう。彼女は悲しんでいる。明るさの裏に、悲哀を隠している。初めて出会った時から、ずっと。周囲を見回して、誰もいないことを確認する。聞くなら今が絶好の機会だ。
「カナエさん。一つだけ、お聞きしたいことがあります」
「うん、何かしら」
「このお屋敷には、禰豆子以外の鬼がいますか?」
「―――」
尋ねた瞬間、カナエさんはひどく驚いた顔をしてから、納得したように寂しげに微笑んだ。
「…そっか。炭治郎くんは、とても鼻が良いんだったわね」
「はい。ここに来てからずっと、禰豆子とは違う鬼の匂いが、うっすらとしていました」
気の所為かとも思った。ひどい臭いが蔓延していた那田蜘蛛山にしばらく居たことや、怪我を負った影響で一時的に鼻がおかしくなったのかと。
しかし、カナエさんとこの屋敷で初めて会った時、漂ってくる以上に濃い鬼の匂いがカナエさんからしたことで、気の所為では無いと気付いた。その場で理由を聞いてしまおうかとも思ったが、鬼殺隊の元柱が鬼を匿っているのなら、きっと何か大切な理由があるに違いないと考え直し、今日まで保留にしていたのだ。
「ごめんなさい。鬼と縁が深い君には、話しておくべきだったわね」
「何か、事情があるんですか?」
「…そうね。多分、会ってもらった方が早いと思うわ。付いてきて」
屋敷に戻っていくカナエさんの背中を追いかける。こちらの身体を気遣ってくれているのか、ゆっくりとした歩調がありがたかった。
「ここよ。普段は、私としのぶ以外はほとんど誰も入らない部屋なの」
そこは、日のよく当たる蝶屋敷とは思えぬほどに暗い場所だった。扉は厳重に施錠されており、誤って誰かが入らないようになっている。カナエさんは懐から鍵の束を取り出すと、慣れた手付きで錠を開けた。
「入って」
「はい、失礼します」
軽く頭を下げながら、カナエさんに続いて部屋に入った。蝶屋敷に住む鬼。一体どのような人物なのだろう。背筋に言い様の無い緊張感がはしり、知らず手に力が入った。
―――薄暗い部屋だった。窓は無く、いくつかの行灯が、足元が見える程度に部屋を照らしている。その怪しげな部屋の中央に、誰かが眠っていた。身じろぎ一つせず、青白い肌は部屋の暗さのせいもあって、幽鬼のように不気味だった。
「彼が、その鬼よ。眠っているの。もう三ヶ月になるかしら。ある日突然眠り込んで、それから一度も、目を覚ましていないわ」
「大切な人、なんですか?」
「ええ、とても、とても、大切な人よ」
そう言って、カナエさんは布団のすぐそばに座り、眠り続けるその人の頭を優しく撫でた。悲しい匂いが強くなる。きっとカナエさんとこの人は、自分と禰豆子のような家族にも近い関係なのだろうと思った。
「十二鬼月の、上弦の鬼が狩られたことは知ってる?」
「はい。鎹烏から聞きました」
「狩ったのは彼と、炎柱の杏寿郎くんの二人なの。杏寿郎くんは、自分の功績など少しも無いって言い張っているけど」
それは―――初耳だ。鬼と柱が協力して、十二鬼月を倒した。それも下弦の鬼よりも数段強いとされる、上弦の鬼を。身体が震えた。こんな身近に実績があった。鬼と人は、協力しあえるのだ。
「私はその時の戦いで、長い時間呼吸が使えない身体になってしまった。でも、彼が私の想いを繋いで、上弦を倒してくれた。…その時のお礼は、ずっと言えないままなのだけれど」
カナエさんは待っている。いつ目が覚めるとも知れない人を、いつか目覚めると信じて。その気持ちは痛い程にわかる。禰豆子が眠っていた二年間、信じようとする気持ちと不安とで、いつだって押し潰されそうだった。無心で刀を振っている間だけが、何も考えずに済む時間だった。なら、今の自分に出来ることは。
「大丈夫です!」
思いのままに発した言葉は、無意識に大声になってしまった。カナエさんは驚きのあまり、こちらを見たまま目をぱちくりしている。
「大丈夫です。禰豆子も、二年間眠っていましたが、ちゃんと起きてくれました。だからこの人もきっと、必ず、目を覚まします」
同じ境遇にあった自分だからこそかけられる言葉。不安はある。目を覚まさないまま死んでしまうかもと思う日だってある。それでも。
「信じましょう。信じて、待ち続けましょう。そうすれば絶対に、思いは届きます」
残された者に出来るのは、たったそれだけのこと。だからこそ、いつ目覚めても良いように、信じ続けなければならない。
「ふふ。そうね、ありがとう」
カナエさんは笑った。出会ってから初めて見る、花の咲くような笑顔だった。
◆
―――童磨の消滅を見届けてから、独孤は息を吐いた。紙一重の戦いだった。自分が童磨の気を引き、目隠しの札を貼った杏寿郎が隙をついて首を斬る。知っていなければ対処出来ない、正しく必勝ともいえる策。しかしそれは、失敗したら二度は通じない一度きりの秘策でもあった。
だからこそ、杏寿郎には前もって決定的な隙を待つよう伝えていた。―――童磨が勝利を確信した瞬間。その時までは、何が起ころうと手を出さず音も立てないよう、予め決めていたのだ。杏寿郎が焦って手を出せば失敗していた。自分の実力が足りず、童磨の注意を少しでも外に向けられていても、うまくいかなかった。お互いに信頼していたからこそもぎ取れた勝利。胸に満ちていくような達成感は、今までの戦いのそれとはまた違う、充実したものだった。
「やったな、杏寿郎。さすがだよ」
「何を言う。上弦の弐討伐の功は、全てお前のものだ。俺がやったのは最後のひと押しに過ぎない」
平然と杏寿郎は言った。何を言うはこちらの台詞だ。その最後のひと押しを頼める剣士が、鬼殺隊にどれほどいると思っているのか。
「ともあれ、上弦の弐は消滅した。鬼の戦力を大いに削いだことは間違いないだろう。お館様も喜ばれる」
「カナエは?」
「胡蝶妹が診ている。命に別状は無いそうだ」
「…そうか。良かった」
本当に、それだけが気がかりだった。もし、助けが間に合わずカナエが死んでいたなら、俺は鬼を絶滅させるまで止まれなかっただろう。あり得たかもしれない別の未来を幻視し、そんなことにならなくてよかったと心底安堵した。
「独孤、夜明けが近いぞ。早くここを去らなくては」
「あー、うん。それなんだけどさ」
「どうした」
「杏寿郎に頼みがある。一つは、俺を日光が当たらない場所まで連れて行って欲しいってこと。もいっこは、この手紙をカナエに渡してほしいってこと」
「―――動けないのか」
「うん。多分、しばらく」
手足がうまく動かない。加えて、さっきから暴力的な眠気に襲われている。なんとなくわかる。この眠気に負けて寝れば、しばらく起きることはできない。予兆はあった。血鬼術を使いすぎたせいか、人を喰わないせいか。誤魔化しながら今日まできたが、童磨との戦いでとうとう限界を迎えたらしい。
「わかった。任せろ」
「助かるよ。ありがとう。あとは」
駄目になる前に、やらなければならないことがもう一つ。ぱんぱんぱんと3回手を叩く。にゃあ、という鳴き声とともに何も無い場所から現れた猫を見て、杏寿郎が感嘆の声をあげた。
「すごいな。いつからいたのかまるでわからなかった」
「ずっといたよ。賢い子なんだ」
猫の頭を撫でながら、懐からもう一通の手紙を取り出し、猫の背中にくくってある鞄に入れる。にゃあと猫はもう一度鳴いて、そのまま消えていった。これで良い。いつかこんな日がくるだろうと、前々から準備しておいて良かった。
「あ。あと、できればカナエに謝っておいてもらえると助かるんだけど」
「断る!それは自分でやるべきことだ」
「はは、手厳しい」
微睡みに飲み込まれる。手足の痺れが全身に蔓延していき、立ち上がることも出来なくなった。
「ごめん杏寿郎。少し寝る」
「そうか。ゆっくり休むといい」
「うん」
目を瞑る。願わくば、良い夢の一つでも見れますように。
折り返し地点に入りました。