「遅れて申し訳ない」
剣士はそう言って頭を下げた。一瞬、この男が何を言っているのか私にはわからなかった。間に合っただろう。すんでのところで、私を助けてくれたではないか。
「もっと早く来ていれば、彼が鬼になることも無かった」
「――――――」
その一言で理解した。さっきまで鬼がいた場所に目を落とす。信じたくはなかった。しかし、そうか。やはりあれは―――太郎、だったのか。
混乱している。まるで濁流のように次から次へとわからないことが押し寄せて、もはやまともな思考などできそうに無い。
それでも、知らねばならない。何が起こったのかを。どうして心優しい少年が鬼となり、家族を殺めなければならなかったのかを。ならば、全てを知っているだろうこの剣士を帰すわけには、行かなかった。
「…時間も遅い、今夜は、私の家に泊まっていって欲しい。私は村の者に、事の顛末を伝えなければ」
そして一刻も早く、彼らの遺体を弔ってやりたい。それが今、最優先ですべき行いだ。
名も知らぬ剣士が頷くのを見てから、案内すべく自宅へと向かう。持ってきた魚のことなど、すっかり忘れてしまっていた。―――ああ、今夜は長い一日になりそうだ。
◆
帰宅すると、男は背筋を伸ばしたまま、まるで時間の経過など気にさせない様相で居間に正座していた。静謐だ。さながら、一本の大樹がそこに根付いているようだった。
「待たせてしまってすまない」
「いえ」
「太郎の家族は手厚く弔った。村の大人たちには、しばらくは日が落ちてからは外に出ず、戸締まりもしっかりするよう伝えておいた」
「良いと思います」
剣士はそう言ってくれるが、効果が薄いことはわかっている。実物を見た。もしあんなものが悪意をもって襲ってきたら、戸締まり程度ではどうにもならない。気休め程度の対策だった。
「では、教えて欲しい。何が起こったのか、あれは一体なんなのか」
「はい」
―――そして剣士は語った。鬼舞辻無惨という男のこと。その男には、人を人喰い鬼に変える能力があること。その理不尽に抗うべく、力のある剣士たちを集めて鬼狩りの集団が組織されたこと。それは荒唐無稽な御伽噺のようで、しかし確かに存在している、悪夢のような実話だった。
「――――――」
言葉が出ない。この世が不条理に満ちていることは知っていた。人の命など容易く散ってしまうことも。だからこそ医者の真似事をして、少しでも死に抗おうとしていた。せめて目の前の人だけでも救えるようにと、通常の人には見えない世界も見えるようになった。
だが、私が知っていた不条理などは、世に満ちるほんの欠片にしか過ぎなかった。私達が暮らすそのすぐ裏側には、予想だにしない過酷な世界が広がっていたのだ。
背筋が震えた。寒気。恐怖。どれでもない。これは―――怒りだ。渦巻く不条理や理不尽。一歩踏み込んだ場所にある地獄。それがたった一人の人間によって起こったという事実。我々は薄氷の上に立っているようなものだ。運が悪い。たったそれだけの理由で、容易く命が踏みにじられる。何よりも。
「―――鬼となった者に、自我はあるのか?」
「人だった頃の記憶は、ほとんど残りません。鬼舞辻無惨の命令に従い人を喰うだけです」
つまりは、自分の意思とは関係なく人を殺し、ただ罪を重ねるだけの生物に成り下がるということ。腹立たしさのあまり自然と手に力が入る。そんなことは許してはならない。それではあまりにも―――鬼となった者が哀れではないか。
「こちらからも一つ。お聞きしたいことがあります」
「…聞きたいこと、とは?」
剣士は色の無い瞳で、じっとこちらを見た。それは全てを見透かされるような、不思議な目だった。
「人の身体が透き通って見えた経験はありますか?」
「…ある。患者を診る時は必ず、そう見えるよ」
「そう、ですか」
妙に歯切れの悪い返事。剣士は言葉を選ぶよう、少しだけ俯いて考えると。
「鬼狩りの、助けとなって頂けませんか?」
「…なぜ、私が?」
「見えているからです。あの世界が」
『あの世界』と表現するということは、この剣士にも見えているのか。考えてみれば当然だ。人ならざる者と戦う以上、人と同じ領域にいるはずもない。
「鬼と戦う剣士は、常に死と隣り合わせです。貴方のように、知識ある者が身体の内部まで見通して治療出来れば、生き残れる者も増えます」
「見える人間は、他に?」
「私と貴方以外には、知りません」
「…そうか」
ならば、これはきっと特別な力なのだろう。自覚は無い。必死になって手に入れたものでも無く、ただ目の前にある命に向かい合った結果、突然見えるようになった世界だ。だからと言って増長する気も、悪用する気もないが。
深く息を吐いてから、考える。鬼狩りの助けとなるか、否か。これは今後の生き方を変える大きな分岐点だ。頷けば、今のように村の人たちも穏やかに過ごす日々は終わり、より多く生と死の狭間を見続けることになるだろう。だが。
「わかった。私程度で良ければ、力になろう」
「…本当に、よいのですか?」
「いい。私は、鬼舞辻という外道がのうのうと生きているのが、どうしても許せない」
たった一人のために大勢の人が死ぬ。それを当然のことと思い込み、死を撒き散らし続ける。我慢ならない。そんな生物は存在してはいけない。――――太郎のような鬼を、生み出してはならない。
それと、最も言うべきことを失念していたのを思い出した。居住まいを正し、男と真正面から向かい合い、言葉を紡ぐ。
「私の名は、久彦という。―――ありがとう。貴方のおかげで、私は今も、生きている」
深く頭を下げる。感謝と敬意が、少しでも伝わるように。
「…継国縁壱です。よろしくお願いします」
私の人生は、この日大きく変化した。
◆
鬼狩りの力になると約束した日から数年が経った。どうやら、医者が必要だと判断した縁壱の判断は正しかったらしい。鬼との戦いは過酷で、どうやっても怪我は避けられない。日々私の元にくる怪我人は後を絶たず、その忙しさは猫の手も借りたい程だった。
特に多いのは、鬼狩りとなって日が浅い者の怪我だ。単純に実力が足りていないのだろう。鬼と相打って深手を負うものや、逃げようとして背中に傷をつけられる者などが、特に多かった。
「縁壱。柱未満の剣士にも、呼吸を教えてやれないか?」
「ちょうど柱と、その検討をしていました」
珍しく手の空いたある日。茶を呑みに来たらしい縁壱と縁側で話ながら、咲きかけの桜を眺める。彼は怪我らしい怪我をしたことが無い。だから私の屋敷に来る必要も無いのだが、ひっそりとやってきては茶を呑み、少しだけ雑談をして帰っていく。縁壱とも交流が深い炎柱にこの話をしたら、縁壱がそんなことをするのかと、大層驚いていたのが印象的だった。
「柱には、いずれ柱となる見込みのある者を育成してもらいます。そして呼吸を使える柱には引退後、経験の浅い剣士に剣術や呼吸を指導してもらう予定です」
「なるほど、それは効率的だ。縁壱が提案したのか?」
「いえ。お館様です」
だろうと思っていた。縁壱は優れた指導者ではあるが、そういった仕組みを考えるのは得手ではない。
「指導しても呼吸を使えない剣士は、今後どうなる?」
「まだ未定ですが、鬼狩りの剣士ではなく、後方支援などを担当してもらうそうです」
「…"隠"だ」
「…それは?」
「呼び名だ。"隠"にしよう。今考えた」
「お館様に提案してみます」
「おう、頼んだ」
茶をすする。良い天気だ。こんな日には、日がな一日のんびりと過ごしていたいが、そうにもいかないだろう。
「そういえば。巌勝にも痣が浮いたと聞いた」
「はい。つい先日に」
「あの世界は?」
「まだ見えぬそうです」
『まだ』。縁壱は信じている。兄ならばきっと辿り着くだろうと。事実、その可能性は高いはず。呼吸が使えず、痣だって出ていない私にすら見えるのだ。才能ある人間が充分以上の努力を重ねれば、必ずそこまで進めるだろう。
「…久彦殿。私は、兄に恨まれているのでしょうか?」
それは不意打ちだった。予想だにしない質問を投げかけられて、一瞬逡巡する。
「…何故そう思う」
「時折感じるのです。兄上の目が、ひどく冷たいものに」
継国縁壱という男は、感情が欠落しているわけではない。ただ表に出すことが得意でないだけで、むしろ通常見えないものが見えてしまっている分、観察力や感受性に優れている。
だから、驚いたのは気付いたことにではない。その思いをこうして、口にしたことこそが意外だった。
「巌勝はな、羨ましいんだ」
「羨ましい、ですか?」
「縁壱は、巌勝が欲しいものを持っている。兄としては、弟にずっと先を進まれているのが、悔しいんだろう」
きっと縁壱には理解しづらい話だろう。自分が兄よりも優れている、などとは微塵も思っていないだろうし、自分が欲しいものを持っている人間を羨む、という感情も知らないはず。
何よりも厄介なのは。縁壱は紛れもなく天に愛された才覚を持つ人間で、同じだけの才能を持った人間は、今後数百年は生まれないだろうということ。その凄まじさを、縁壱は理解できておらず。理解している巌勝は、焦がれるほどの憧憬を誰でも無い弟に抱いている。
複雑だ。面倒とも言える。縁壱を羨ましいと思えるだけの才能すら、大抵の人間は持っていないというのに。
「ま、そう気になさんな。兄弟なら少なからず、妬み嫉みはあるもんだ」
「そう、なのでしょうか」
「そうだよ。心配なら、うまいものでも食べながら剣術も鬼も関係無い話でもするといい」
「…わかりました。助言、ありがとうございます」
「そんな立派なもんでもないよ」
縁壱が立ち上がる。それと同時に、屋敷の入り口から人の声が聞こえた。休息は終わりだ。今日も今日とて、忙しい日が始まる。
「では、また」
「おう。また」
そうして別れる。なんでもないただの日常。しかし、いつ死ぬかもわからない鬼狩りには貴重な、かけがえのない日常の一幕だった。
―――それから、2年後。継国巌勝が、鬼狩りを裏切って鬼となり。身内から鬼を出した継国縁壱が、鬼狩りを追放された。それは私の人生において、二度目の転機となる出来事だった。
前後で終わるはずが3話になりました。縁壱さん好きすぎて少しでも登場させたい気持ちが先行した結果のもよう。