澱んでいる。時折この街からは、濁った泥水のような匂いが漂ってくる。これは人の負の感情が生み出す匂いだ。悲しい。辛い。耐えられない。暗く積み重なった感情が沈殿して、空気を澱ませる。そしてその奥底に潜んでいるのは、人を食い物にする鬼に他ならない。
以前の自分ならば気付かなかっただろうと炭治郎は思う。この所、任務で経験を積んだわけでもないのに、嗅覚がさらに鋭くなった。細かな違いを嗅ぎ分けられるようになったし、前よりも隙の糸を感知しやすくなった。この短い期間で確実に変化している。理由は考えるまでもない。独孤さんの継子になってから、明らかに何かが変わった。
「炭子ちゃん、カナヲちゃん、この荷物を運んでもらえるかい?」
「わかりました!カナヲ、行こう」
「うん」
こくりと小さく頷いたカナヲと一緒に、言われた通り荷物を運ぶ。この荷物は遊女への贈り物なのだそうだ。人気のある遊女ほど、気を引くために多くの男性から贈り物を貰う。だから、鯉夏花魁が身請けでいなくなると贈り物も減って寂しくなると女将さんが言っていた。
「これが終わったら、廊下と窓の拭き掃除と、夕餉の準備も手伝おう。カナヲは大丈夫?」
振り返って後ろのカナヲの様子を確認する。カナヲは、何故か立ち止まったままじっと床板を見ていた。
「カナヲ?」
「炭治郎、任務はいいの?」
「任務?」
「うん。さっきからお店の仕事ばかりしているから」
ああ、なるほど。任務のことを忘れてしまったんじゃないかと、心配になったのか。
「勿論任務はこなすよ。でも、仕事はちゃんとしないと」
「任務よりも大切?」
「どっちも大切だよ。女将さんは、俺たちに期待して雇ってくれた。だからその期待には応えなくちゃいけない」
任務や潜入というのはこちらの都合だ。お店の人たちには関係ないし、任務のためだからと仕事を蔑ろにするのは、引き取ってくれた女将さんに申し訳が立たない。
「だから一生懸命働いて、一生懸命任務もこなす!絶対に、須磨さんを助けよう」
「……」
カナヲはぽかんとした表情。何かおかしいことでも言ってしまっただろうか。いや、もしかすると気付かないうちに、カナヲに無理をさせてしまったのかもしれない。慣れない環境の中で仕事をするのは大変だ。疲労が溜まっていてもおかしくない。だとしたら大変なことをしてしまった。カナヲのことは、独孤さんやカナエさんにも頼まれていたというのに。
「ごめん、カナヲの分の荷物も俺が持っていくから後は―――」
「炭治郎はすごいね」
「え?」
「だって、いつも炭治郎なんだもの」
「……え?」
謎かけ?だとしたら相当な難しさだ。俺が俺であることがすごい。それは本当にすごいのか?何かどうすごいんだ?長男だからか?
「行こう、炭治郎」
「え、ちょっと待って、もう少し時間を」
脇をすり抜けて歩いていくカナヲを追う。その背中からが楽しそうな匂いがして、つられて楽しい気分になった。
◆
日が落ち始めた。拭き掃除を終え、さて夕餉の手伝いでもしようかとした矢先。懐の札から、鉄臭い錆のような匂いがしていることに気づく。定時連絡の時間にはまだ早い。となればこれは緊急連絡だ。想定外の何かが起こった。その連携のための連絡に違いない。
カナヲを連れて人気の無い場所へ移動する。札を出して耳を澄ますと、札の向こうから宇髄さんの声が聞こえた。
『宇髄天元だ。そちらは大事ないか?』
「はい、問題ありません。何かあったんですか?」
『さっき胡蝶んところの妹が、鬼の血鬼術に襲われた』
連絡を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。咄嗟に傍にいるカナヲの様子を窺うと、ほんの少し顔が青ざめているように見えた。日が落ちる前に鬼に襲われる。その可能性を今の今まで失念していた。日の届かない室内なら、充分あり得ることだったのに。
「しのぶさんは無事なんですか?!」
『無事だ。怪我も無いらしい。元々、鬼に不意をつかれた時の備えをしていたそうだ』
「そうなんですね、良かった」
『だが、鬼側に潜入が露見した以上、お前らだっていつ襲われてもおかしくない。潜入は中断、装備を整えて控えてろ。あとはこっちで進める』
「でも、まだ須磨さんの情報が」
『優先事項が変わった。お前らは派手に引け、命令だ』
そう一方的に告げ、宇髄さんからの緊急連絡は終わった。宇髄さんの言うことは尤もだ。状況が変わった。鬼に潜入を気付かれたなら、これ以上俺たちにできることはない。この任務には現柱が2人、そして元柱が1人と充分な戦力が揃っている。位と力量を考えるなら、これ以上は彼らのみで任務を進めるべきだ。
「炭治郎」
カナヲに呼びかけられてはっとする。知らず、手に力が入っていた自分に気付く。
「炭治郎はどうしたいの?」
「…須磨さんを助けたい」
力が足りていないのはわかっている。引くことが一番賢い選択であることも。それでも、手を伸ばせば救える可能性があるのなら、最後まで諦めたくなかった。
「なら助けよう。私も手伝うから」
「でも」
「自分の心の声をよく聞くこと。そう言ったのは、炭治郎でしょう?」
「――――――」
言葉を失った。そして同時に、自分をも見失っていたことに気付いた。恥ずかしい。穴があったら入りたい程に。最近自分がカナヲに言った言葉すら、忘れていたなんて。
「―――カナヲ。俺は、宇髄さんの奥さんたちは生きていると思う。そう思って行動する。力を貸して欲しい」
「うん」
カナヲが力強く頷いた。心強い。きっと出来る。1人では無理でも、2人なら手が届くはず。
「俺は色んな人から話を聞いて、少しでも情報を集める。カナヲは、この店に何かおかしなことが無いか、よく目を凝らして見ていて欲しい」
この店には何か手がかりがある。特有の嫌な匂いもしてくるしそれはわかっているのだが、どうにも掴みきれない。まるで影を追いかけているようだ。あと一歩が届かないせいで、実体の無いものに欺かれ続けている。
匂いだけでは追いつけない。ならば、視覚も合わせれば何かが見つかるかもしれない。カナヲはすごく眼が良い。きっと俺に気付けないものにも、気付けるはずだ。―――と。
「おかしな所ならあったよ」
「―――どこに?」
「さっき通った床板の下、地面のところに穴が空いてた。土竜の穴か何かかと思ったけど」
平然とカナヲは言う。床板の下。それはもしかすると、さっきカナヲが立ち止まって見ていた所か。
すぐさま確認すべく移動し、カナヲの言う場所で這いつくばって匂いを嗅ぐ。わかる。さっきは意識していなかったせいで気付かなかったが、この下から微かに、鬼の甘い匂いがする。
「ごめんなさい!」
謝罪の言葉とともに、べりべりと床板を強引に剥がす。果たして、すぐに穴は見つかった。同時に鬼の匂いも強くなる。ここが鬼の通り道だ。となればこの先に匂いの元、鬼がいるはず。
「ふんっ!」
「―――えっ」
穴に頭を突っ込む。ちょうど良く頭部は入ったが、肩から先が入らない。ぐりぐりと何度か押し付けてみるが駄目だ。カナヲでも同じだろう。関節を自由に外せる伊之助なら潜り込めるかもしれないが、そうでもない限り子供くらいの大きさでも入れない。
「ぬんっ!」
「あ、出た」
がぽんと頭を引っこ抜き、考える。手がかりはあった。しかしそれを活かす手立てがない。なら―――活かせる人に情報を渡せばいい。宇髄さんから連絡がきたものとは別の札を懐から引っ張り出し、告げる。
「鬼は地面の下にいます。宇髄さんの奥さんたちもいるはずです。よろしくお願いします―――独孤さん」
『引き受けた』
短い、だがこれ以上なく頼りになる返事。これで地下は大丈夫だ。あとは、この先に備えておかなければならない。
「日輪刀を持ってこよう。この後は大きな戦いになる。そんな予感がする」
「うん」
頷くカナヲとともにその場を離れる。一人でも多くの人を守らなければ。そのために、今日まで厳しい鍛錬を積んできたのだから。
連絡用の札は複数枚あり、繋がる相手によって色が違います。しかし炭治郎は匂いで判別しているようです。
宇随天元の札:赤色、鉄錆のような匂い
独孤の札:朱色、埃っぽい匂い
カナエの札:桃色、花っぽい匂い
しのぶの札:緑色、薬品っぽい匂い
炭治郎、カナヲの札:黒色、焦げ臭い