月の綺麗な夜だった。
鬼となってからは夜間のうちしか出歩けない。最後に太陽を見たのがいつだったかすら忘れてしまった。月は必ずそこにある。だからとっくに見飽きているはずなのに、その日に限っては夜空に浮かぶ三日月が、やけに美しく感じた。
そこは小さな村だった。家屋が密集し、五十人に満たない程度の人がほそぼそと生活を送る小村。山の麓にいくつかの田んぼがあるだけの、何の変哲も無いはずの場所。―――だから、辺り一面に漂う濃密な血の匂いさえ無ければ、一生縁が無かっただろう。
「助けてください!助けてください!」
必死で逃げ続ける女に出会ったのは10分程前のこと。すでに日は落ち切り、微かな月明かりが照らすだけの道を、脇目も振らずに走る姿は異様だった。半狂乱になっている女たちの着物にはべったりと血が付着し、村で何があったのかを物語っている。
「何が?」
「男が、村人を殺して回っているんです…!一軒ずつ、村の人を殴り殺して……!」
自分の頭を押さえつけるようにして、女はその場に泣き崩れた。殴り殺す。それだけで、鬼の所業と知れた。
「わかりました。助けます」
「お願いします…。主人が、皆が、まだ村に残っているんです」
「すぐに」
呼吸で脚力を強化し、全力で駆ける。集中して嗅ぎ取れば、確かに女が来た方向から血の匂いがした。風のように駆けると、同じように逃走する女性とも何度かすれ違った。間に合うか。いや、間に合わなければならない。こんな理不尽を、許すわけにはいかない。地面を蹴って加速を重ねる。肺が潰れようと、足が砕けようと問題無い。鬼の身体は、限界を超えた能力を許容する。
―――そして。辿り着いた村には、誰一人として生き残りはいなかった。そこかしこに散らばる人だったものたち。手も、足も、頭も、まるで路傍の石同然にあちこちに落ちている。呻く声さえ聞こえない。見回らなくてもわかる。ここには、もう生存者はいない。村中を濃厚な死の気配が包み込んでいる。この中で生きていられるのなら、それはもう人間では無い。
足元に誰かの血が流れている。さっきまでは生きていたもの。理不尽に日常を奪われたもの。鮮やかな赤色に脳が沸騰しそうになるが、本能がそれを戒める。そんな暇は無い。警戒しろ。この惨劇の首謀者が、まだ近くにいる。そう考えた瞬間、僅かに月明かりが陰った。
「破壊殺・砕式 万葉閃柳」
全力でその場を跳び退く。舞い降りた暴力は圧倒的だった。地に亀裂が走り、砕かれる。衝突した時の音は、とても何かが地面を殴っただけとは思えぬ炸裂音。まともに受けていれば肉片すら残らない。かすっただけでも人なら致命傷を負う。それ程の技を使える者は、鬼の中でも限られている。
「避けたか。元下弦の鬼にしては、存外良い反応だ」
薄く笑みを浮かべた男の瞳には、上弦の参という文字。心臓を鷲掴みにされたような重圧。全身が総毛立つ緊張感。それはかつて見た上弦の壱に近い。
いずれ会うとは思っていた。だが、まだ先のことだと無意識に思っていた。現実はそんなに甘いものでは無く、ある日突然に全てが崩れるものだと知っていたのに。
「あの方の命だ。お前を殺す」
「下弦の始末に上弦が出てくるなんて、随分と念入りだな」
「お前は鬼を殺し過ぎた。三百体以上の鬼を殺したお前を、捨て置くわけにはいかない」
そうか。まだ、たったそれだけの鬼しか狩れていなかったのか。その程度で上弦を向かわせるとは、鬼舞辻無惨は思いの外肝が小さいらしい。木っ端の鬼などどれだけ殺したって問題にならない。上弦の鬼が在り続ける限り、鬼の脅威は万全であるはずなのに。
「この村の人たちを殺したのはお前か」
「鬼狩りなどしているお前なら、必ず来るだろうと思っていた」
「…俺をおびき寄せるためだけに、殺したのか」
「そうだ」
その返答を聞いて、意識せず柄を握る手に力が入った。たったそれだけのために、村一つを滅ぼすという異常。それを為し得る力よりも、当然のこととする精神こそが恐ろしかった。
「何を怒る。お前が鬼を殺すように、俺は人を殺す。強者が弱者を狩るのは当然の理屈だろう」
その通りだ。鬼だろうと人だろうと、弱い者が淘汰されるのは当たり前のこと。だから、この怒りは正当なものではない。目の前にある理不尽を許せないという、あまりにも自分勝手な感情だ。しかし。
「お前には、強者としての誇りが無い」
「何?」
「上弦の鬼が、たかだか一人の鬼を狩るのに村一つを滅ぼす。無様な事この上無い。自分の強さに誇りが無いから、そんな恥を晒せるんだろう?」
「――――――」
瞬間、場の空気が変わった。胃がひっくり返りそうになる程の圧迫感。空気が質量を持ち、息をすることさえも難しい。錯覚だ。わかっている。ただ、その錯覚で人を殺せる力を、アレが持っているだけの話。
「そうか」
地の底から響くような声だった。呑み込まれるな。意識を保て。刀を強く握り、一瞬たりとも目を離すまいと上弦を凝視する。
「それが、お前の今際の際の言葉でいいんだな?」
心臓の音がやけにうるさい。柱と遭遇して、死にそうな目には何度か遭った。実際一歩間違えれば死んでいただろうとも思う。だが、今感じる緊張感に比べれば大したことは無い。明確な死の予感。こうして相対しているだけで、常に首筋に刃を添えられているような気がさえする。
大きく呼吸をする。風の呼吸独特の、風を斬るような音。それは、自分の中の恐怖を斬る音。全身に血が巡り、力が漲る。精神が奮い立ち、一本の刃になる。
「名を知りたい」
「猗窩座」
「そうか。なら、猗窩座」
前を見据えたまま、腰を落とす。死ぬわけにはいかない。目的がある。誓いがある。そのために、こんなところで蹴躓くわけにはいかない。障害となるなら、鬼だろうと、上弦だろうと。
「お前を狩る」
「やってみろ」
地を爆ぜ、大気が唸る。上弦との戦いが始まった。
評価や感想ありがとうございます。面白いと思って頂けるかぎりは頑張ろうと思います。
追記:
猗窩座は女を殺さないという設定を忘れるミスをやらかしましたので、加筆修正を行いました。村の女は散り散りに逃げています。