「アポプスさん、ベーコン何枚?」
《むぅ……今日は二枚いただこうかな》
「あいよー」
アポプスさんの返答を聴きながら俺は油の引いたフライパンに先週、珍しく安売りしていた厚めのベーコンを贅沢にも四枚並べていく。
それとは別のコンロの上では目玉焼きが蒸されている。もうそろそろか?
アポプスさんがこの部屋に来てからはや、二ヶ月近く。俺もアポプスさんにはそれなりに慣れた。
最初の頃は俺の周りの状況も相まって、アポプスさんとの関わり方が分からずパニックになる事がそれなりにありはしたがこの二ヶ月、特にこれと言った問題はなく過ぎていった。
今ではこうして仲良く過ごしている。
『ヘヴンリィ・オブ・アロハ号の沈没事故より今日で二ヶ月が過ぎ───』
アポプスさんがつけたのだろうテレビから朝のニュースが流れてくる。アナウンサーの声が俺の耳に届き、その表情を歪めた。
「…………」
《…………》
俺の変化を察したのか、アポプスさんはすぐにリモコンでチャンネルを変えた。そんな彼の配慮に俺はぎこちないながらも笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ、アポプスさん」
《…………そうか》
焼きあがったベーコンを皿に乗せてその上に分けた目玉焼きを滑り乗せていく。皿をテーブルに運び、冷蔵庫から牛乳を引っ張り出し片手でマグカップを二つ持ってくる。そのままアポプスさんの対面に座り、マグカップに牛乳を注いでいく。
「《いただきます》」
目玉焼きをご飯の上に乗せ、黄身を割って醤油をかけて軽く混ぜる。その後、箸で上手く目玉焼きを切り分けてから缶から取り出した海苔で卵ごとご飯を巻き口に放り込む。
朝のニュースを見ながら、ベーコンにかぶりつく。
《………………玄斗。今日は何か用事は?》
「ん?」
そんなタイミングでアポプスさんが今日の予定を聞いてきた事に俺は軽く驚きつつも、ベーコンを噛みちぎり口にした分を食べ終えてから軽く牛乳を呷り!口元を拭いてからそれに返答する。
「とりあえず、今日は都心の方で買い物かな……あ、軽く友達とカラオケに行くから帰りは夕方過ぎになると思うな」
《そうかい…………帰る時は寄り道をしない方がいい、今日はね》
「……?」
何か含む様な言い方に俺は首を傾げながらも食べかけのベーコンにまたかぶりついた。
─────────────────
友達とカラオケを終え玄斗は電車に揺られながら、車内の中吊りを見上げていた。
『未だ原因不明!ヘヴンリィ・オブ・アロハ号の沈没事故!事件には米国の影が!?』
そうか、もう二ヶ月経つのか。
そんな声を漏らしながら、目を瞑る。
二ヶ月前、玄斗の部屋にアポプスがやってくる数日前、玄斗らの学年は修学旅行があった。だが、玄斗は修学旅行に参加することが出来なかった。
資格の勉強をして根を詰め過ぎて、修学旅行当日に体調を崩してしまった為だ。その結果、彼は修学旅行に行かず、助かってしまった。
同級生二百三十三名と教師らを乗せた豪華客船の沈没事故。たった一日で消えてしまった友人たち、そしてそんな大事件に食いついてきたマスコミら報道陣の存在。
気丈に振舞っていたが、二ヶ月前の暫くは玄斗は極端に弱っていた。だが今では嘗て通っていた陵空高校とは違う高校で友人が出来るほどに回復した。これも恐らく彼本来のものもあるだろうが、アポプスの存在もあるのは間違いないだろう。
だが、振り切ったとは言えない。玄斗の中でそれは未だ尾を引いているのだから。
「……夕飯、どうしようか」
電車を下り、駅から出て帰路に着き、玄斗は夕食について考えていた。携帯電話を見れば既に六時頃、七月とはいえ既に外は暗くなり始めている。
予想以上に遅くなった事を考えながら、今夜の夕飯について悩み始める。既に玄斗の頭の中にあるのは冷蔵庫に残っているベーコンを使った料理に関する事。
「……パスタ…………パスタ食べたい。ミートソースは作るんならしっかりと仕込みからやりたいし、カルボナーラでも作るか」
そう呟きながら、その足を帰路の途中にあるコンビニへと向ける。その様はさながらプツリと吹き上がってきてしまったモノを何とか押し込めようと、別の事に集中しようとしているようにも思えた。
過去を押し止め、今目の前の事を集中する。
それは確かに辛い過去を見続けるのを辞め、前へ顔を上げて進む立派なものなのだろう。だが、それは未練があるという表れでしかなく、だからこそそんな玄斗にはとりわけそれがよく目立った。
「──────」
視界の端、住宅街の外へ続く路地の影から玄斗を覗く人影が。
白いシャツ姿の玄斗がまったく知らない何某。誰かは分からない。ちょうど影であるからか容姿の詳細までは分からないがおおよその見た目からして玄斗と大して変わらない年齢であるのを玄斗は察して、同時に言い知れぬ感覚を抱いた。
それはさながら地獄に伸びた蜘蛛の糸か何かのようで、それを掴まねば前にも後ろにも行けぬという何か漠然とした感覚。そんなものを前にして玄斗には無視をするという選択肢はどこにもなかった。
路地に消えていく誰かを気がつけば玄斗は追いかけていた。
薄暗い路地を暫く歩いていくと不意に前方で人影がその足を止めて待っていた。
そこで漸く玄斗はその人影、少年の格好がよく見てとれた。ワイシャツとズボンが玄斗のよく知るそれであったのだ。嘗て通っていた陵空高校の制服。
「お前、いったい───」
その少年を問いただそうと一歩前へ、出て玄斗はその表情を強ばらせた。少年の背後からずい、と現れた存在があまりにも常軌を逸するものだった為に。
見てくれはドーベルマンだ。
だが、ただの犬というにはそのサイズがおかしい。その四肢は普通のどの犬種のそれよりも太く、その瞳に光はなくどこか非生物的ですらある。体高は平均的な身長であろう少年の方ほどまであり、ドーベルマンのスラリとした体型と言うよりもより筋肉を多くしたようなスタイルと言えよう。
涎を垂らしながら、唸るその姿は明らかに友好的な要素は何処にもなく、あるのは敵意のみだ。
逃げねばならない。
玄斗の本能が高らかにそう警鐘をけたたましく鳴らしている。事実そうだろう。逃げねば死ぬ────
少なくともこの場において、玄斗の自分の意思を曲げたくないという信条は枷にならない。何せ、別段いまそういう状況でもないのだから。
故に玄斗は逃げる。
逃げる……逃げたいが…………。
「(あの筋肉量相手に俺が逃げる?曲がり角無しの一本道、障害物なんてもんはない。背を向けた瞬間に殺されて終わりだ)」
アポプスという明らかに異質な存在と二ヶ月もの間同じ部屋で暮らしている玄斗はこの状況下でも冷静に思考を回すことが出来た。出来てしまった。
その結果として自分がこの場から五体満足で逃げる事は到底不可能であると理解してしまった。
故にその表情は引き攣り、どう生き延びるかについてその思考を回していく。
「(持ち物を投げた、としてそれで気をそらせるか?……よしんば上手くいったとしてこの路地を抜けるにはあまりにも短すぎる。じゃあどうする?だがまあ…………一番生存率が高いのがそれか。少なくとも後ろを向いて走り出すっていう一番危ない所を出来るんだから………………)」
せめて上半身は残って欲しいな、と思いつつ玄斗は肩に引っ掛けていたバックをドーベルマンもどきへと投げつける。
─────筈だった。
「ァ」
ぐじゅり、と音が聴こえた。
次に何か無くなった感覚がした。
そして、漸く痛みが走ってきた。
「ぁぁぁああああああッッッ!!!???」
いままで感じた事すらない程の激痛が玄斗を襲った。たまらず玄斗はその場に膝をつき、激痛の走る箇所を両手で抑えそのまま蹲った。
抑えているのは顔。
いや、正確に言うならばそれは右眼だ。
何が起きたのか、こんな激痛に襲われていながらも玄斗は理解出来た。バックを投げつけようとした、その動きに反応してドーベルマンもどきがその前脚を振るったのだ。
結果として玄斗はその右眼に深々とした傷を負った。蹲っている玄斗には分からないが近くの壁には前脚の爪で抉り飛ばされた右眼周囲の肉と眼球の一部が血と共に付着している。もはや、どう足掻いたところで玄斗の右眼が肉眼として世界を見る事は無いだろう。
とめどなく顔から血を垂れ流して、玄斗は絶叫してそんな背中に勢いよくドーベルマンもどきの前脚が叩きつけられた。
「ッッッガ」
少なくとも背骨は折れては居ないだろう。
それでも勢いよくアスファルトに身体を叩きつけられ、顎を打ち付けた玄斗は口からも血を吐き出す。
意識が朦朧としていき、死を受け入れようとする。
だが、運命とは何事も一方的だけではないのだろう。薄暗かった世界は唐突に一切の明かりを失ったかのように、さながら電気を全て落としたかのように、世界は闇に染まった。
唐突なそれにドーベルマンもどきは玄斗の背に乗せていた足を退けて、僅かに後ずさる。玄斗は動く事も不可能な状態ながらも何とか身体を動かて、その視線を動かす。
ソレはそこにいた。
玄斗が来た道、路地と壁が空と大気との境を失ったかのように全てが融けて闇が広がる中、ソレはそこに佇んでいた。
金色の装飾とその瞳のみが唯一闇の中で存在していた。
ドーベルマンもどきではどう足掻いたところで天地の差すら生ぬるい程の隔絶した差が存在する何か。
闇そのものがそこにいるのではないかと思わせるそんなソレに玄斗は安堵の表情すら浮かべていた。それに対してドーベルマンもどきもそれを従える少年も、世界すらも停止した。その有様はさながら蛇に睨まれた蛙のようで───────
《 それは私のモノだ 》
闇が蠢く。
玄斗を混沌が包み込んでいく。それは暖かく人の温もりのようであった。
玄斗の身体から力が抜けていく、と同時に世界が軋み始める。金色が闇に融け始めて─────
路地にただ闇が満ちた。