雪解けの少女 作:龍河 神音
針で刺すような凍えも、すべてを飲み込むような闇も、何も気にならない。この飢餓も一時のもの、この苦痛も一時のもの、どうせすぐに消えるもの。永遠という倦怠は消えてなくならないけれど、別にそれで構わない。何をしても死ぬことはなく、何もしなくても死ぬことはないのだから、倦怠感で時間を無為にしても問題ない。
日が登った。日が落ちた。吹雪いて、止んで、晴れて、曇って、また吹雪いて。目まぐるしく天気が変わっても藤原妹紅の生活は変わらなかった。起きているのか眠っているのか分からないまま陋屋(ろうおく)で時を貪り食らうだけの生活だった。雨風凌げるだけのあばら家は既に屋根が剥がれ壁が剥がれてその役割を満たしていない。それでも直す気力すら湧かないのは生きるのに飽いたからか。直さずとも死ねないことは知っていて、直す意義は微塵も感じられなかった。
何も考えない日々が続いている。惰眠を貪るだけの日々、或いは死んだ日々とでも言うべきか。不死の存在が死んだ生活を送るなどなんと皮肉なことか、そう思う感情すら持ち合わせてはいなかった。ただただ空虚、誰とも話さぬ日々は妹紅からあらゆる彩りを奪っていた。
「おい」
軋む身体がわずかに妹紅に思考を思い出させた。過去に思いを馳せるのは何度目か、しかし最後に思いを馳せたのはいつ頃か。どちらも思い出せなかった。妹紅の思考はかつての無垢な少女時代に飛んでいった。優しかった父、父を奪った傾国の美姫、調岩笠(つきのいわかさ)との交流、そして少女の起こした過ち。思考に耽る間だけ妹紅は生きていた。何も感じぬ死体にかつての記憶がわずかに息を吹き込んだ。
「おい、おい!」
しかしそれも一瞬だった。妹紅はすぐに亡霊へと逆戻りする。かつての過ち――不老不死という言葉に惑わされ蓬莱の薬を口にした瞬間から、妹紅は死んでしまったのだ。死なずの薬は妹紅から生きることを奪ったのだ。
最初こそ永遠の生に悦び、大いに楽しんだ。すぐに悦びは消えた。憎しみを生き甲斐としたこともあった。しかし憎む対象は既に月へと去ってしまっていた。憎悪はすぐに萎れた。あとに残ったのはただの虚だった。
「……ああ、もう! 起きろと言っているだろう!」
不意に身体が揺れ動いた。仕事をせぬ感覚器が音を立てて色を取り戻し――はしなかった。目を開けようとも動かず、耳を欹てようとも何も聞こえない。何かを口にしようとして、しかし喉は潰れて役に立たない。
少し待て。妹紅は嗄れた声を口にする。音になったかどうかは分からない。しかし身体の揺れは収まり、何者かの気配が僅かにずれたと思った。気のせいか、いや、分からない。でもどうでもいい。しかし、ああ、気まぐれだ。妹紅はこの何者かと話してみようかと思った。灰色の身体に僅かに残っていた色だった。
『リザレクション』
自らの身体を燃やす。自殺行為でしかないそれは不死の彼女の場合は再生の術となる。身体を完膚なきまでに焼失させることで蓬莱の薬による再生力により無傷の状態に戻す力わざ。自らの身体を省みないからこその技であり、最大級の自傷行為である。
「……誰だ――ああ、なんだったか、かみしら、なんだっけ」
「上白沢慧音だ、馬鹿者。毎年会っているのに覚えていないと言うのか」
「何を……、ああいや、確かに会っていた、か。すまない、朧にしか覚えていない」
「……まあそうだろうな。毎度のことだから分かっていたさ。だが、ああ、なんだこの生活は。もう少しまともな……」
「こんな死人みたいな生活は止めろ、だったか。ああ思い出したよ。まったく飽きないな、お前は。こんな亡霊に構っても意味は無いし」
「すぐに忘れるし、か。何度目のやり取りだと思っているんだ、馬鹿者」
目の前で眦(まなじり)を上げる雪のような銀髪の女性、上白沢慧音とのこのやり取りは何度目だったか。確かにこんなやり取りをやっていた記憶がわずかにある。あれは昨日だったか、一昨日だったか。
「どうせお前のことだ、この一年何も口にしてはいないのだろう。去年のように、一昨年のように。そこのおんぼろの厨(くりや)を借りるぞ。ご飯を食べて、このあばら家を人が棲めるだけのものに直して、話はそれからだ」
慧音は何も聞かずに風呂敷包みを片手に厨房だった襤褸切れに向かう。僅かな既視感。そういえばそうだ。確かにこの女性は以前もこうして料理をしてくれた。昨日か、一昨日か。百年前か、千年前か。先ほど垣間見た幼い時代の記憶よりもおぼろ気で、でも不死になってからだから、たぶんそれよりは後のことなのだろう。
立ち上がって身体中の関節を鳴らしてみる。リザレクションした身体には一切の障りは無く、久方ぶりに動かすというのに一切の違和感が無いという違和感があった。これもまた毎度の感覚だなと小さく鼻を鳴らす。数年、或いは数十年。記憶はおぼろ気でも肉体は覚えているのだなと自らを嘲った。
慧音の作る料理はとても美味しかった。味など感じないと思っていたのだが、予想とは裏腹に快調になった味覚はその繊細な味付けに大いに喜んでいた。気がつけば目の前の皿も鍋も空っぽになっていて、死にたいと願っていてもなお食欲を忘れない自らの身体の浅ましさに反吐が出る気分だった。
妹紅が食べ終わるとほぼ同時に慧音が外から戻ってきた。何をしていたのか。そういえば家を直すと言っていたか。木の板を取って付けるだけの突貫工事だが無いよりはましだろう。これもまた毎度のことだなと妹紅は思い出した。
慧音が口を開く。
「なあ、妹紅」
「なんだ?」
「お前はいつまでこうしているつもりだ」
「死ぬまでさ」
「死ねないのにか」
「ああ。死ぬまでずっと……死ねるまでずっとだ」
慧音は嘆息した。
「何も変わらない、何も好転しないのに」
「それでも。或いは、私はもう死んでいるのかもな。死んでいるから何も変わらない。そういうもんさ」
妹紅の舌は思う以上に滑らかだった。無の一年を取り戻すかのように舌は回り続けていた。感情は一切動かないのに。
「……そうか」と慧音が言う。
「そうだ」
慧音の言葉が途切れた。毎年のことだ。生きるように諭し、頑として受け入れず、そのまま帰るという恒例の日常。慧音とて暇人ではない。寺子屋での教師としての仕事、人里の賢者として人間たちの相談に乗り、歴史の記録編纂をせねばならない。放置していても死ぬことはないのだから、自分のことなど構わなくてもいいのに。
「ほら、さっさと帰れ。私なんかに構う暇なんて殆ど無いだろう」
「そうは言ってもだな……」
「何を言われても私は変わらないさ。これまでみたいに。いくらお前の時間が人間より長いといっても有限なんだから、私みたいに無駄にする義理はないだろう」
ここまでもいつも通りだった。何度かの押し問答の末、しぶしぶ慧音が帰るという顛末だ。そしてそのまま一年間、また死んだ日々に戻る。何も変わりはしない。これまでのおぼろ気な記憶が妹紅の中で確かな形を持ち始めた。去年も、一昨年も、十年以上も前も、同じ流れだった。
だからここから先は妹紅にとっての未知だった。変わらない日常に変化が訪れた。
「……そうか、お前は死んでいると言いたいんだな」
「ああ、そうだ。毎年見ているだろう。ああして倒れて過ごす人間がいるものか」
「でもお前は死ねない。死ぬたびにもとの動ける身体に戻るんだろう」
「反吐が出るよ」
「それなら、そうだな。改めて聞くぞ。ここにいるお前は死体だと、ただの物だと言いたいんだな?」
「なんだ、その言い方? まあ確かにその通りだな。だから慧音、物なんかに構う必要なんて……」
不意に慧音は妹紅の肩を強く掴んだ。
「よし、ならこれは私が拾った物だ。私が有意義に使わせてもらおう」
「……は?」
「しかも拾った物は人間みたく動けるときている。ならば色々と手伝ってもらおうか」
「おい、慧音、何を――」
「ただの妄言だ。もう少し聞け」
咳払いして慧音は続けた。
「どうせお前は何もしないんだろう。死ねないとわかっていてなお死んだ日々を過ごすことで、あわよくば不意に死ねないかと期待するだけの日々。何も変わらない毎日だ。なら、少しだけでいいから私に時間を貸せ」
「そんなのは……」
「嫌か? それならそれでいい。嫌と思えるなら私は安心して帰るとするよ」
言われてみて、確かに嫌という感情は微塵も浮かんでこないことに気づいた。死んだ日々を過ごす中で既に感情が死んでしまったのだろうか。
「何を企んでいるんだ?」
「何も。ちょうど今年はいつも寺子屋を手伝ってくれている女性の手が空いてなくて忙しいんだ。暇をもて余していて動ける人手が少しでもあれば助かるってだけの話だよ」
受ける理由は無い。受けたところで時の牢獄から抜け出せるわけでもなく、それ以外に妹紅にとって利益となることなど一つもない。けれども損となることも無かった。今以上に失うものは無く、仮にあったとして失うものに意義を見出だせようか。
これは戯れだ。これまでの時を思えば、これからの時を鑑みれば慧音を手伝うことはほんの僅かなものだ。ずっと働けというわけではないだろう。話に出た女性が復帰すればお役御免、瞬きするよりも早い終わりだろう。
「分かった、分かったよ。そいつの手が空くまでの間使われてやるさ。それでいつからどこに行けばいい」
「ありがとう。特に準備が無いならこのまま私の家に案内しよう。ここからだと少し遠いから、手伝いの間は私の家を使うといい。仕事自体は明後日から始まる予定だからそのつもりでいてくれ」
家とも言えぬあばら家を出たのはいつぶりだろうか。外はちらほらと綿のような雪が降っていた。防寒具一つ持ち合わせてはいなかったが、冬の寒さも雪の冷たさも感じなかった。強い風が吹こうが、雪が肌に触れようが、雲間から覗く日射しを浴びようが、妹紅の感情は平坦だった。気分が上がることも落ちることもない、悟りきった修行僧の如き無であった。
ほどなくして慧音の家に辿り着いた。家を出たときにはまだ天上にあった太陽は既に地平線に沈みかかっていた。慧音の住まう人里の人間たちも早足で帰ろうとする時間だった。
「さて妹紅。これから家に住んでもらうことになるが、いくつかルールがある。なに、難しいことではないさ」
慧音の家は多少手狭であった。いくつかの部屋は書物で埋め尽くされていて、しっかりと整頓されていてなお雑多という印象を受けた。生活空間にも侵食していて、本の無い部屋など二つ三つほどしかなかった。
「まずは食事についてだ。朝餉は卯の三つ時(午前6時頃)、夕餉は酉の四つ時(午後6時半頃)だ。お前の分もあるから気が向いたら食べにくるといい。風呂は戌の一刻(午後7時頃)くらいに沸かすから必ず入れ。人と話すこともある仕事だからな、これは絶対だ。あとは仕事だが、辰の刻(午前7時頃)には出て準備することになるからそのつもりでいてくれ。ひとまずはこれくらいだが何かあるか?」
「いいや、何も」
「何かあればいつでも聞いてくれ。それでここがお前に使ってもらう部屋だ。多少は汚くしても構わない」
「そうか」
妹紅は素っ気なく返す。どうせ散らかすようなことはしないのだ。寝るだけの宿り、雨風をしのぐためだけの宿りだから壁と屋根さえあれば十分、或いは不死の身なればそれすらも必要ない。
「さてと、今は……酉二つ(午後五時半頃)を回ったところか。簡単に雑炊と和え物を準備しておくから食べるなら二刻後に居間に来てくれ。居間の場所はさっき通ったから分かるな?」
「ああ。行かないだろうが」
「ふむ、まあ強要はしないでおくよ」
それだけ言って慧音は厨(くりや)へ向かった。
妹紅はごろんと畳に仰向けになって寝そべった。今日は過去一年で、或いは過去数十年で一番大きく変化があった日だろう。そして向こう数千年で最も変化がある数瞬に違いないだろう。すなわちここでの生活が終わればまたこれまでの何も無い生活に戻るということ。何もせず何も思わず時間のみを貪り食らい死と甦りを繰り返す日々に戻るだろうという確信があった。これまで惰眠を貪ってきた歳月を覆すことなど出来るはずもない。
瞼が落ちてくる。いつでも、どこでも、何が起きていようとも横になれば眠れてしまうのは既に身に付いてしまった癖だ。甦るたびにすべて巻き戻されるのだから身というよりは魂か。こんな他愛ないことを思ってしまうのはどうしてなのだろうか。
妹紅は微睡みに身を任せた。慧音が風呂が沸いたと伝えにくるまでの僅かな間、藺草(いぐさ)の柔らかな香りに包まれて。
一刻=30分。
子の一つを23:00にする説と0:00にする説がありますが、当作品では永夜抄に合わせて前者を採用しています。またそれに伴い時刻表記はすべて十二支で記述します。