しかし日が沈み、賑わい出す少し手前の時間に、近くでまたしても暴動が起きた。そのため辺りに人通りは無く、ただ小さな看板が煌々と軒を連ねるだけで、往来は虚しくひっそりと静まり返っていた。
雪龍は今夜だけ早仕舞いをすると言って、店を閉めた。
そういえば、ここには定休日が無い。彼は毎日ここを開けていた。
私たちのような者が、安らぎと救いを求めてここを訪れるのを、彼は分かっているからだ。
彼の優しさはいつも我々の意識の片隅に有る。
ひかりに吸い寄せられる羽虫のように、雪龍の顔を見にいき、そしていつもと変わらぬ優しさに触れ、安堵する。
店内の明かりを落とし、奥の階段を上がると、2階が居住部分になっていた。
下の店と同じ広さだが、客席でない分ずいぶんと広く見えた。なおかつ片付いていて、質素な部屋だ。
私たちはこの2日で、ずいぶんと近づいた。
「夕ご飯、簡単なものしか出来ませんが、よかったら召し上がっていってください。」
ソファーに腰掛け、コーヒーを貰う。
ラジオをつけ、適当な周波数に合わせる。
キッチンに立つレオの背中を眺め、また夢を見そうだと思った。
私はもう、相当に理性と葛藤している。
たまらなく彼が欲しい。
彼をこの胸で抱けたなら、どんなに満たされるであろう。
そんなことをもやもやと考える。
料理をする後ろ姿というのは、特にそういう気分を増長させる。
するとそのとき、ふと後ろを向いた彼と、目が合った。
いかんと思いつつ、誤魔化すようにタバコを取り出し火をつける。
しかし雪龍は中華包丁を置くと、手を洗い、私のもとへ歩み寄ってきて、ソファーに並んで腰掛けた。
「喪六さん、もしもこの町から居なくなるときは、出来たら僕に教えてください。」
鍋を火にかけたまま。どうやらあれが煮えるのを待っているらしい。
「…私の身元を知りたがってくれるのはありがたいが、約束はできない。」
「それならば、必ず僕の元へ来てください。」
「…わかった。」
「喪六さん、私は貴方のことが、好きなんです。」
「……。」
近付いたら壊れてしまう。あの穏やかな時間。私の生活には欠かせない、午後の安らぎ……
「貴方とどうにかなりたいなどと考えているわけではありません。ただ、私の日常に…あの席に貴方が座っている光景が、私には欠かせないのです。」
レオの声は、空間に柔らかくなじむが、淀まない。
おかわりはいかがです、というのと同じ調子で、しかし彼の言葉はいま私の脳天を貫き、何かをガラガラと打ち砕いた。
「近付こうとしてはいけないと分かっています。」
タバコを指先で弄びながら下を向いていた私は、そこでようやく思い切って真横の雪龍を見た。すると彼も私の方を向き、至近距離で視線が合わさり、結局ほとんど吸わなかったタバコを揉み消すと、ようやく彼を引き寄せ胸に抱くことができた。
…こんなときにも、あの夢の数々の記憶がちらつく。
しかしきっとこの瞬間、あれらは気化したように霧散して、恐らく私の脳内から消え去った。
私は、彼に触れるより、彼の心情を知りたかった。
決して触れることのできないもので、触れようとしてはいけないものであった。
それをいま、私は知り、また知ることを許された。私は夢の中と同じように彼を強く抱いた。
「私はお前になら、心の内を見せられる。」
耳元でささやかれる。雪龍はその瞬間、あの罪悪感のかたまりのような夢が、気化するように浄化していくのを感じた。
もしかしたらいまこの瞬間から、もうあんな夢は見なくて済むかもしれない。
なぜなら彼の心に、ようやく少しだけ近づくことが出来たのだから。
欲しかったのは、あの穏やかな時間や、秘めるしかなかった、病のような甘いときめきだけでは無い。
もっと生々しいものに触れたかったのに、現実には起こり得ないと思っていたから、眠りの中で幻想を作り出したのだ。
雪龍の髪を撫で、頬に触れ、唇を重ねる。
出会ってから昨日までのことを考えれば、この数時間はあまりにも性急である。
しかし互いに待ちわびていたことをいまようやく成せたという喜びが、ふたりの気恥ずかしさを塗りつぶしている。
その晩、喪六はこの部屋に泊まった。
顔色には出ていなかったが、よほど疲れていたのだろう、シャワーを浴びると喪六はすぐに落ちるように眠ってしまった。
寝顔まで見ることになるとは、昨日までのふたりなら信じ難い状況だ。
ラジオを消し、雪龍はしばらく彼の寝顔を見つめていた。
…この人は、これから自分のもとに帰ってきてくれるだろうか。
誰かと寄り添って生きていくことはもう諦めていたけれど、毎日は会えなくても、まったく顔を見られない日々がこの先何度訪れてもいいから、もう一度好きな人と長く繋がっていたい。
この広い大陸をさまよい続け、少しずつ消えていったり別れることになった同胞たちを思う。ひとつの場所にとどまることが出来れば、それを許される環境であったのならば、と何度も悔やんできた。
喪六もきっと、自分と似たような生き方をしてきたのだろう。いずれはこの町を去るような気もする。
そのときに、彼は自分を連れて行ってくれるだろうか。
もう誰かを失うのは嫌だ。
だからひとりでいいと割り切っていたけれど、沸き起こる気持ちを抑えることは、やはりできなかった。
喪六は、雪龍の希望である。
ひとり静かに茶を飲みながら、本を読んでいくだけの客。
ただそれだけなのに、どうしてこんなにも惹かれたのだろう。
理由は分からない。しかし勝手なことを言えば、あの夢にとらわれた所為でもある。
彼を起こさぬよう、そっとベッドに潜り込む。自分よりもずっと大柄な男なのに、なぜかベッドが狭いとは感じなかった。
同じ布団をかけて、彼の方を向いて目を閉じる。
もしも明日の朝、彼が忽然とこの部屋から姿を消したら。
或いは明日の夜、どちらかが死んだとしたら。
…そのときはまた、あの夢で逢いましょう。