Star to Rain 作:SAMT
稽古場というより、そこはレッスンルームだった。壁を覆う鏡に、ワックスの効いたピカピカな床。
決して広いと言える部屋ではなかったが、そこには13、4人ほどの男女が集っていた。小夜子はその中で、他の人たちとは少し距離を取り、扉のすぐ隣に膝を屈めて、先ほど質問した青年を見ていた。
初対面で、結構すごいこと言われた。
あの瞬間、小夜子はただ呆然としていただけだで、今でもあの瞬間を思い出すと、恐怖と恥ずかしさで胸が嫌に熱くなる。
「真白」
巌が小夜子の名を呼ぶ。防音の室内では彼の低く少しがなりの効いた声はいつもよりよく響く。「は、はいっ!」と、驚いた小夜子は立ち上がり、背筋を伸ばす。
「こっちに来い」
「は、はい」
巌に言われるがまま、彼の元へ向かう。小夜子が歩くと、集団は掃けていき、さながらモーゼのように巌までに道ができる。
「これからお前には即興劇をしてもらう、一人でな」
「えっ…!」
即興劇。それはアドリブ。頭の回転と感情の整理、そしてそれについて来れる表現力と体が要求される、演技の中の演技。
「世界観、ストーリー、登場人物、そういうのは気にしないでいい。好きなようにやれ。時間も無制限だ」
「ちょっと待ってください!私そんなのできません!」
「できるかできないかなんて聞いてない。やれ」
その一言に萎縮してしまう。
そうだ、ここはもう稽古場。既に役者の仕事と義務は始まっている。そして、演出家である巌の要求に応えるということも。
「何でもいい。好きなようにやるんだ」
その一言は、小夜子を悩ませるには充分すぎる一言だった。
ああ、もう!
なんて勝手なのよ。そんなの無理よ!
困惑と怒りを心の中で爆発させるが、しかし目の前で腕を組んで待つ巌には通じない。
定まらない決意のまま、やりきれない戸惑いを捨てて纏まらない意識を鷲掴みするように一つにする。
深呼吸をして、息を整えて、くしゃくしゃに小さくなった新聞紙を広げるように、イメージを描き出す。
そう、私の頭上に広がるのは––––––青空。
「––––––あなたが逝ってから、もう二週間ね」
その台詞は、突然小夜子の頭の中に浮かんだ。景色も、音も、匂いも、何も感じれていない。
「私はまだ、引きずってるわ、あなたのこと」
言葉ちぐはぐで、文法もなっていなかった。その言葉たちは、振り絞るというよりも、ただ乱暴に投げつけているだけに近かった。
そっと、何かを取るように手を動かす。何かを掴んで、それを胸に抱き寄せる。
「どうして…」
そして次の台詞を言おうとしかけたその時、巌の咳払いが稽古場にこだました。
「わかった。もういい」
巌の突然の中断に、小夜子は驚きと恥辱の感情が胸に渦巻いている感触を覚えた。
耳まで真っ赤になっているに違いない。身体中が熱い。
巌は小夜子に近づき、その目をじっと見つめる。まるで眼の奥の、ブラックボックスの鍵穴に鍵を差し込まれるような、そんな目だった。
「おまえに台本を渡す。家で読んだりして覚えておけ」
渡された台本を受け取る。
そこには『リア王』と記されていた。
「今日は見学だ。明日から本格的に参加してもらう」
小夜子は何も言えずに、ただ巌の言葉に頷くだけだった。
「七生、亀」
「はい」
「ウッス」
「おまえら真白の教育係だ。色々と教えてやれ」
「ええっ!?」
「別にいいでしょ。実際問題、右も左もわからないんだから」
七緒、そう呼ばれたそばかすの少女は小夜子の元へと歩き、親指でクイッ、と壁の方へ行くのを促す。
「とりあえず、そこで見ててください。まあ読み合わせも終わってないし、今日は簡単な動きの合わせですから」
すっかり自信と感情を喪失した小夜子は、本日何度目かの促しに静かに応じるしかなかった。
みんなが少しの動きを入れながら台詞を言い合っているのを、小夜子はいわゆる体育座りでずっと見ていた。
さっきの私のとそう変わりはないんだけどなぁ、なんだろう、この魅力の違いは。たぶん、さっきの私のアドリブ、全然こんな感じじゃなかったんだろうなぁ。
そんなことを思いながら、観察していた。
「大丈夫ですか、色々と」
七生がペットボトルのミネラルウォーターを小夜子の足元に置き、左隣に腰を下ろす。
「あ、ありがとうございます…」
「そんな畏まらなくて大丈夫ですよ。歳は私の方が下だし、芸歴なんて天と地ほどの差なんですから」
「な、なら、私の方も敬語は無しでいいですよ。この環境だと、私の方が後輩だから」
「……なら、そうさせてもらおうかな。その方がやりやすいし」
少し小夜子の方に身を寄せる。
「私、
「あ、私、真白小夜子。今日からご迷惑をおかけします…」
「迷惑というより世話ね、この場合」
七生は少し微笑む。意外と、素直な娘だなぁ、と小夜子は呑気に思う。
「真白さんは…」
「あ、下の名前でいいよ」
「…サヨはさ、どうして天球に来たの?」
『天球』。それはここにいる役者が所属する劇団名であり、日本でも有数の知名度と評価を受ける劇団である。
「どうして……これ、言っちゃったら怒られるのかな…」
「どんな理由であれ、ここにいることを巌さんが認めたんだから大丈夫よ。とある奴なんて、ここに来てから寝てるだけなんてのもあったし」
「えっ、寝てるだけ…?」
それって大丈夫なの。今もここにいるのかな。
「……言われたから、っていうのがまず一つ」
「やっぱり、そういう感じよね」
胸が締め付けられる。もともと知名度のある小夜子である以上、突然の加入はそういう目で見られても仕方のないことだが。いざ言われると耳が痛い。
「でも、新しい自分を見つけたい、っていうのもあった。今のままだと、限界があるって感じてたから」
逃げるようにそう言う。この理由が本心かどうかは、まだ小夜子にはわからなかった。
「そういう気持ちが少しでもあるなら、たぶんできるよ」
七生は優しい声でそう言う。上辺だけの言葉かもしれなかったが、今の精神状態の小夜子を復活させるには、充分すぎた。
「七生ちゃん…」
「ちゃんね。初めて呼ばれたわ、そうやって」
目尻に涙を溜める小夜子に呆れ笑いする。と、そんな二人の間に近寄る足音。
「なーんか楽しそうだな、お二人さん」
二人の前に猫と呼ばれていた眼鏡の青年が爽やかな笑顔でいた。
「なによ亀、さっそく口説き?」
「んなまさか。いや、そっちがいいならその気にならなくもないけどよ」
七生の隣にずいっ、と強引に腰を下ろす。七生は嫌そうに小夜子に歯を見せる。
「俺、
いきなり下の名前呼び。距離感の詰めかたが自分と全く大違いだ。これが陽の人間…。
「あんた…一応年上なのよ」
「ここでは俺の方が先輩だしな」
「その内あんたなんて追い越されるわよ」
「そんなことないよ、さっきなんて見る価値もないって感じで巌さんも中断させてたし…」
その小夜子の卑下に、亀太郎は身を詰め寄って「んなことないぜ」と否定する。
「さっきのサヨ、まあ台詞とかの棒読みはエグかったけど、あの動き、さすがだったよ」
「……亀と同じ意見になるのは釈に触るけど、同感。動きは良かった、本当に」
思わぬ賛辞に、小夜子は驚く。いや、そんなことないって、と首を全力で振る。
「やっぱり、フィズのダンスって凄かったんだなって思ったわ。動きで何かを表現するっていうことだと、たぶん阿良也といい勝負できると思う」
「阿良也…?」
小夜子の疑問に、七生が動き合わせをしている役者陣に指を指す。
「あの細くて長い、目つきの悪いロン毛。さっきサヨにあれやこれやって聞いてた奴」
あの部屋で、小夜子に「役者とは何か」と聞いてきた青年だ。一人巌の居座るパイプ椅子の傍で、小夜子のようにぼーっと動き合わせを見ている。
「あの人、そんなにすごいの?」
「
「まあ、一応主演だからな。女には俺の方がモテるけどよ」
「聞いてないわよ」
亀太郎から少し距離を取る七生に小夜子は苦笑いを浮かべる。
「あ、でも、すごいとは言ってもあいつにはアドバイスとか聞きに行かない方がいいよ。よくわかんないから」
「天才故の感覚の違いってやつだな。記者からもわけわからんって顔されるし」
なるほど、よくアニメとか漫画にいるやつね。
「まあ、兎にも角にも、本番までにどうにかするしかないわな、今のサヨは」
「ウッ……はい、精進します…」
「ナハハハッ、そう気張らなくても大丈夫だって。巌さんを信じろ、な?」
亀太郎の優しい言葉と、温かい励ましに瞳が熱くなる。
「亀くん…ありがとう…!」
「お、おお。亀くん?」
「うーわっ、亀がこうやって感謝される日が来るとか。こりゃ明日は槍が降るな」
槍が降ったって別にいい。
私の知らない人たちが犇き合う、私の知らない世界。
そんな世界で私を応援してくれる人がいる。真白小夜子を、見てくれる人がいる。
「槍じゃなくて、星を降らせるよ」
「星?」
「うん。流星群みたいな、綺麗なやつ」
それはきっとこの世界で一番綺麗で、私の希望になる星たち。
先ほどと打って変わって自信に満ち溢れている小夜子に、七生は吹き出す。
「面白いね、サヨ。うん、私そういうの好きだよ」
七生は笑顔だ。少し目つきの悪い、陰気を感じる風貌だけど、笑うと可愛いじゃん。
小夜子も笑みを浮かべて頷く。
「見せてよ、星をさ」
「約束するよ」
フィズの頃、ドームをいっぱいにするほど人々が集まった。それは小夜子だけの力ではなかったが、紛れもない小夜子の実力が含まれていた結果だった。
十万人を楽しませたんだ。私ならできる––––––!
「ま、巌さんに認められてからの話だけどな」
亀太郎の何気ない一言が、小夜子の胸に突き刺さったところで、稽古は終わった。
なんとも忙しい一日だったと、帰宅後に小夜子は思った。
別に激しく体を動かしたわけでもないが、精神的と神経的な面が小夜子の疲れを最大限に引き出していた。
「あー…」
赤い牛革の鞄から、台本を取り出す。
まずは覚えなければならない。
『リア王』。
それはかの偉人、ウィリアム・シェイクスピアが描いた、とある王の悲劇。
私の役、なによ。
台本の一ページ目には役名とキャストの名が並んでいた。
後ろから数えたほうが早いか。ちょい役なんだろうし。
自嘲気味に笑いながら目で追っていくが、なかなか見つからない。追い出してから数十秒、ようやく見つけた自分の名前、そして役名に驚愕する。
「うそ…コーディリア役…?」
コーディリア。
リアの末女であり、事実上のヒロインであり、四大悲劇の中で最も救いがないとされるリア王の悲劇の象徴の一つだ。
タイトル変えました。